部屋を真っ暗にして眠るのがとても怖かった。
前の部屋の時は、部屋の真ん中にパーティション代わりに水槽を置いていた。それには照明が付いていたから、寝る時もスイッチを入れたままにする。こぽこぽと湧きあがってくる泡。それが光りに反射して、幻想的な空間を作り上げる。その中を群れなして泳ぐ虹色の小さな魚たち。揺れる水草、見え隠れするオブジェ。
世話をするのも大変なら、電気代も馬鹿にならない。引っ越す時に業者に任せて二束三文で引き取って貰った。
この部屋に越してくる時、私はひとりになった。ひとり分の空間の空いたベッドの上で横たわっていても、眠気なんて訪れない。昼となく夜となく、相手の気が向いた時に行われていた営みは、私の安眠のためにも必要不可欠なものだったのだと気付いた。
失って初めて気付くことはとても多いと言うが、その男に対して懐かしむのは肌の感触だけだ。あとのことは、良く覚えていない。気がついたら、肩に付くくらいだった髪が背中を覆うほどに伸びていたと言うことだけだ。思いがけず、長いつき合いだった。
引っ越したこの部屋のライトスイッチには、オンとオフしかなかった。徐々に暗くなるとか、明るくなるとかそんな洒落たこともない。ぱちっと付ければ、真昼のように明るくなり、またぱちっと切れば、そこは深海のような暗さになる。ナツメ球のオレンジ色の小さな灯りすらなかった。ここを設計した建築家は潔い性格だったのだろうか。
冷蔵庫のウィーンと鳴く音が時折聞こえる。それから、主電源を切ってない電化製品から、何となく電気質なものが発せられてる気がする。でも、それだけ。待機用の赤いランプなんて、心許ない。
「……退屈だな」
思わず、口をついてそんな言葉が出ていた。
昼間は部屋にいてもつまらないので、カルチャースクールに通ってみる。パソコンには強かったはず。なのに空白の時間に世界は回り続け、私はすっかり浦島太郎になってしまったようだ。以前所得した資格では就職に有利にならない。ならば、なまった頭をどうにか社会生活に復活させようと思った。
お金なら、多少の蓄えがあった。これでも元は真面目なOLだったのだ。しかも証券会社だったから、財テクにはもってこい。男と暮らしていた時のような贅沢は出来なかったけど、ま、それなりにつましく生きて行けそうだ。
――人間は裏切るけど、金は裏切らない。
だけど、退屈なのだ。もう、男なんてうんざりだと思ったけど、やはりひとりきりの生活は寂しい。仕事でも始めれば忙しくなるし出逢いもあるが、当座は―― 。
そう思ったら、今回の引っ越しで唯一手放さなかった男からのプレゼントの前に座っていた。
一年前の機種だったけど、新品同然のパソコン。平べったい液晶画面は、TV画面と見まがうほどに美しかった。電源を入れて立ち上げると、そこにどこかの海辺の情景が映し出される。引っ越し業者のお兄さんが、「サービスです」と接続していってくれたので、すぐネットに繋ぐことが出来た。
灯りを落とした部屋で。今夜も四角く切り取られた画面から、揺らめき立つ青い光り。面倒なので、パソコンは終日繋ぎっぱなしだった。ポーンとメールの着信音が部屋に響く。
私はのそのそとベッドから抜け出した。すぐにメールソフトの画面を出して、受信ボックスを見る。
―― 彼だ。
私はすがりつくように、そのメールにカーソルを合わせた。
◇◇◇
「いつもいきなりなんだから」
二時間後、私は指定されたホテルの一室にいた。先に着いて、勝手にボトルを開けている彼が窓辺で振り向く。
「そう言う関係がいいんだろ、茜は」
ホテルの間接照明は、足元からほんのりと照らし出す。まるで、秘められた逢瀬を意味するように。ぼんやりとした影が、壁を伝ってこちらに進んでくる。私の影と彼の影。それが重なり合ったところで、指先が触れた。
黙ったまま、腕を絡め口付け合う。それが始まりの合図。彼のメールが届いた時に、こうなることは分かっていた。
『Kホテル・2305室・午後十一時』
メールの本文はそれだけ。そして、タイトルに『陽』とひとこと。
「……あっ、んっ……っ!」
彼の口内を味わうことに夢中になっていた私の身体が、突然跳ねた。背中に回されて、そのまま強く抱きしめられると思ったのに、右手はするっと下に下がっていったのだ。
「あっ、はぁっ……、ああ……っ!」
後ろから手のひらを入れて、下着をずらしながら、指がどんどん這ってくる。衣擦れの微かな音を立てながら進み、やがて私の中心をするっと撫でた。
「ふふっ、ぐしょぐしょ。ここに来るまで、何考えてたの? 俺のコトで気もそぞろだったんだろ」
耳たぶをなぞる舌。熱い吐息がかけられて、それだけでのぼりつめてしまいそうになる。それを押しとどめているのが、さらなる快感だというのが恐ろしい。シンプルに作られた一室の床が抜けて、あっという間に底なし沼に変わる。
「だっ、駄目ぇ……っ! 私っ、シャワーを浴びないと……っ!」
そう言いながら、身体がのけぞっていく。彼を受け入れたくてたまらなくなる。髪が背中を流れていく。気がついたら、薄い素材のブラウスは床に落ちていた。
「やだなあ……だって、ここに来る前に浴びてるだろ? 茜、石鹸の香りがするもの」
壁際まで追いつめられて、あとがなくなる。すっかりと光りに晒された肌に、彼の薄い唇が吸い付いた。首筋、鎖骨…、そして胸の頂を。
「やっ……やああっ、だって……っ!」
立ってるのも苦しくなって、彼の腕にしがみついた。いきなりのスコールのように、私の身体は彼の落とす熱で沸き立っていく。
「……っふうっ、陽っ……!」
唇で上半身、指で下半身。ひとりしかいないはずの彼が、私の全てを翻弄していく。巻き込まれていく、大きな渦に。もう、逃れられない。逃れたくない。早急で、甘美で…女の全てを知り尽くしている愛撫。
最初は、この身体で溺れさせてやろうと思った。
私だって、ただ都会で生きてきた訳じゃない。男を虜にする技も身につけて来たつもりだ。そう言うのを教え込ませることに喜びを感じる、熟年と呼ばれる世代の相手もいたし。同世代の若い男なら、イチコロだと思っていた。
……でも。
「ふふふ、その顔、いいねぇ。そそられるよ、もっともっといじめて、壊したくなる。たまらないなぁ……」
カチリカチリ、ベルトを外す音。すぐそこにキングサイズのベッドが待っているのに、彼は私をそこまで運ぼうとはしない。自分自身を取り出すと、私の入り口に押し当てた。
「はっ、あああああんっ……!」
私は自分の身体中に鳥肌が沸き立つのを感じていた。だって、……もう駄目。この先のことを考えたら、無駄なことは何も考えられなくなる。
それなのに、彼は。なかなか入ってきてくれない。浅いところで私をかき混ぜる。ふたりの愛し合った雫が股を伝って落ちていく。ぬるりとした感触。
「よっ、……陽っ! 陽ってば……っ、ねええっ!!」
今の私の体勢。背中を壁に押し当てられ、片足を大きく抱えられている。もう一方もつま先立ち。とてもバランスを保てる状況ではなくて、前のめりになった彼にしっかりとしがみついていた。
「……何、呼んだ?」
私が何を言わんとしてるかなんて、知り尽くしていて。それなのに、陽は淡く微笑む。
柔らかい輪郭。最初はずっと年下かと思った。今も正確な年齢は知らない。ただ、話の感じから実は思っていたよりもかなり年上らしいと言うことを確信してる。明るく染めた猫っ毛を緩く流して。青光りする漆黒の瞳で私を貫く。
「俺の名前、そんなふうに呼んでくれるなんて嬉しいな。茜は最初、本当にお高くとまってる女だったもんな。まあ、それくらいの方が崩し甲斐があるってもんだけど……」
気の遠くなる意識の中でその声を聞いていた私は、次の瞬間にうっと呻いていた。彼は私の胸元に入り込み、抱きかかえると赤ん坊のように胸を吸い上げた。
「んああああ……っ! やあっ、そ、そんなっ……!」
全身に痺れが走る。その瞬間も彼のそそり立ったものが私の泉の入り口をさすっている。その先端が敏感な場所に当たって、つうっと意識が消えそうになる。そして、次の瞬間、ずずっと引き戻されていく。
「陽……っ! 駄目ぇ……っ! お願い、意地悪しないでっ……!」
涙ながらに訴えてしまう。このままだったら、気が狂いそう。分かっているんでしょう、私がどうしたいのか。それを分かり切っていて、こんなふうに……どうしてなの?
「……うん? 意地悪なんてしてないだろ。茜のこと、こんなに可愛がってるのに……どうしてそんなこというのかなあ……」
微笑みながら、ねっとりと追いつめられる。……もう駄目、いつもそう。彼との力関係は最初から見えている。呼ばれて、会いに行く。そんな娼婦のような女に成り果ててしまった。
「だってっ、だってっ……、ねえっ……!」
思わず、自分から腰をくねらせていた。コレじゃあ誘っていることが見え見えじゃないの。こんなの私じゃない、私はこんな風にしなくても愛して貰える存在だったはず。今までの男は、まるで私を女王様のようにかしづいてくれた。こちらが思い切り満足するくらいに。
それが今。まるで床に這いつくばり許しを請うような情けなさで、彼を求めている。彼がこのまま私の欲求を満たしてくれなかったら、きっと狂ってしまう。そう思うほどに。
「いいねえ」
ふふふ、と鼻で笑われて。もったいぶったように口づけられて。馬鹿にされてるって分かっていても、もう駄目なんだ。
「俺は素直な女が好きなんだ。だから、茜は合格。ついでに花丸だって、付けてあげようかな……?」
その次の瞬間。身体中を突き抜ける快感に、私は絶叫していた。繰り返し繰り返し彼のくれる波に、身体を投げ出して、ただただ翻弄された。
四角い空間の中から飛び出してきた彼。何処の誰でもいいから、一時、楽しませて貰おうと思ったのに。こんな風にしてくれる人、今までいなかったから。過去の男たちなんてみんな霞んで消し飛んでしまうように、陽はすごい。
最初から、分かっていた。彼は特別なんだ。
◇◇◇
ありきたりな出会い系サイトだった。
自分のプロフィールに小さな画像を添付して、送ると、それを見た人がメールで連絡してくれるというもの。後腐れなくていいなと思った。顔には自信があったし、二十三歳という年齢は偽らなくても男たちを誘うのには十分。男に捨てられたばかりで悲しいので、話を聞いて欲しいというメッセージに、一晩でメールボックスに収まりきれないほどのメールが届いた。
優しい男を気取ってる。でも、実は下心見え見え。そんなヤバイメールの中に、ひとつだけ違ったものがあった。
『とりあえず、会わない? 木曜日の夜はどうかな』
他のメールが、まずは自己紹介から始まっていて。どんな会社に勤めていて、云々。自分も彼女から一方的に別れを告げられた時は、とても落ち込んだとか。えんえんと書いてある中で、その単刀直入なメールは目立っていた。携帯から送られてることも分かったけど、私はそのままパソコンから返信した。
『空いてるけど。どうすればいいの?』
すぐに戻ってきたメールに、呆れてしまった。どう言うつもりだろう、ふざけてるのかしら。そんな尻軽な女に見られてるのかしら。
『じゃあ、K駅の噴水の前で。7時丁度にね』
まるで、一方的に命令されたみたいな言い方が気に障った。他の男たちは私の古傷を優しく撫でるように、メールをくれるのに、一体コイツは何? だいたい、いきなり場所と時間を指定してどうするのよ。私はあんたのこと何て、何も知らないのよ。噴水前なんて、人がいっぱいいるじゃない。会えるわけない。
掃いて捨てるほどのメールの中から、めぼしそうなものを拾って、二、三通だけ返信した。そのほかのものはそのまま削除して、登録も抹消。その夜は愚痴を延々と書き綴ったメールを送るのに明け暮れて、その短いメールのことはすっかりと忘れていた。
◇◇◇
どうして、そのことを思いだしたのかは分からない。カルチャースクールで知り合った女性たちとおしゃべりしていて帰りがいつもより遅くなった。この就職難だ、なんと言ってもコネの力は大きい。面倒くさいつき合いは苦手だったけど、何だか就職に有利そうな話の流れだったので輪に加わったのだ。
駅まで戻って、時計を見る。午後七時十分。その日が木曜日なこともその瞬間まで忘れていた。
待ち合わせは何故か定時か、三十分刻みでされることが多い。七時を過ぎて、七時半までは二十分の間があるその場所に人影はまばらだった。MDのイヤホンを耳に差したままの若い男性が、猫背で携帯をいじっている。その周辺には人待ち顔のサラリーマンしかいなかったから、何だか不思議だなと思った。
目の前を通り過ぎようとしたら、ふっと顔を上げた。視線が、絡み合う。彼の方が先に微笑みかけてきた。怪訝そうにその顔をのぞき込む。すると、静かにイヤホンを取って、もう一度こちらをしっかりと見つめた。
「茜、さん、でしょ?」
「え……?」
人違いです、と言って逃げることも出来たはず。
彼は私の顔を知ってるけど、あんなの小さな顔写真。似てるだけの別人だと言い逃れることも出来る。
なのに、立ち去ることが出来なかった。何より、想像していたよりも、ずっとずっと彼は格好良かったから。隣を歩くにも、ふたりで寄り添って微笑みを交わすにも、理想的な人だった。
「陽さん、ですか?」
私はその瞬間、何かを踏み外していたんだと思う。
陽のセックスは完ぺきだった。私が言うんだから間違いない。私はかつて愛人のような立場にいたこともあるし、同世代の女性の中でも男性経験は豊富な方だったと思う。それなのに、陽にはあっという間に陥落していた。
初めて会った夜。食事にでも行くのかなと思ったら、さっさとホテルに連れ込まれた。何、コイツと思った。ヤらせる女だと思って、呼び出したのかしら? いい加減にしなさいよね。そんな闘争心が、逆に私の心に火を付けていた。
シャワーの音を遠くに聞きながら、昼間のスーツ姿のままでベッドに腰掛けていた。その時にも、私には選択権があったはずだ。
しかも陽は自分のセカンドバッグも置きっぱなし。さっき、フロントでお金を払った時にちらと見たけど、かなりの万札が入っていた。あれを取り出して逃げることも出来たんだ。メルアドなんて、無料のもので、すぐに解約しちゃえばいいし、引っ越す前の住所のものだし。警察沙汰になったって、逃げてやるわ。
そんなことを考えているうちに、シャワーが止まった。真っ白なバスローブに身を包んで出てきた陽は、またにっこりと微笑んで私を見た。
「……意外、逃げなかったんだ」
まるで、こちらの考えてることを全て読まれているようで、さらにムッとした。
「私は、話を聞いてくれって言ったのよ? 付き合ってくれるんでしょうね」
じろっと睨んでやった。結構すごみをきかせて。なのに、陽の方は余裕の微笑み。甘い表情を崩さないままに私の隣に座った。
「何なりと、聞くよ。ただし、ベッドの上でね」
◇◇◇
「ああんっ、いやっ、駄目っ……! ああん、んっ……! あぅ……んっ!」
真っ白なシーツの波。その中を泳ぐ自分。あれから、何度も何度も肌を合わせてきた。いつも連絡は陽の方から。短いメールで場所と時間を指定してくる。そして、会えばすぐにふたりだけの親密な時間が始まるのだ。
自分の嬌声が、クリーム色の天井に吸い込まれていく。この手のホテルは防音設備が売りだ。まあ、あんまりそれが優れている為に、時々は隣りの部屋の人間も知らないままに殺人事件が起こってしまったりもするのだが。
――次にそうなるのは、私かも知れないわ。
たまに快楽の海から意識が浮かび上がる。一瞬、正気に戻ったその時に、ふと考える。私は、陽のこと何にも知らない。もちろん、陽も私のことを何も知らない。もともと、何を望んで出会った関係ではないんだ。寂しい心を埋めるため。とっくに男を知ってしまった自分の独り寝の渇きを潤すため。私にとってはそうだった。
―― でも、陽は? 陽の方はどうなんだろう?
「すごい、中が熱くて、とろとろしてるっ! 茜に包まれてるのは最高だな。温かいよ……!」
ぐるりと体勢が入れ替わる。自分が上になり、陽の身体をまたいで中心を貫かれた格好。男たちが望むそんな姿も、陽の前では当たり前に出来た。乱れ喘ぐ姿を、見られてもいい。私のこと、全部知って欲しい。こんな風に、互いの身体がぴったり来る。最高だよ、陽は。
「あっ……っ、ふ……っ!!」
背中がのけぞるけど、陽が腕を押さえて支えてくれるから大丈夫。私は膝を使って、思い切り腰を上下に振った。陽の悩ましく歪む表情がとても愛おしい。この男を、私は愛し始めてる。そんな気がした。
◇◇◇
「なかなか、就職もないのよ。カルチャーの講義はそろそろ終わりだし、焦っちゃう。今日も面接に言ったんだけど、面接官のオヤジは私の胸ばっかり見てるの」
「ふうん」
陽はタバコは吸わない。その代わりに、いつでもグラスを手にしてる。琥珀色のその液体、私はあまり好きじゃない。でも、陽の身体からいつでも薫っているから、味は嫌いでも、匂いは好きになった。
「もしかして、セクハラ候補を探してるのかもよ? 茜、ちょっと誘ってみれば、一発で合格じゃないの?」
……信じられない。すっきりとした顔でそんなことを言うなんて。
「やだあ、オヤジなんて。もしも間違いでもあったら、どうしてくれるのよ。密室で襲われないとも限らないわ」
慌てて切り返していた。何でなの、私、もう他の男なんていらないよ。陽だけいればいいよ。別にお金なんて仕事なんて、欲しくもない。それよりも欲しいものがあるの。
それでも。陽は、私の言葉を転がすようにグラスを揺らす。ころんころんと、ロックアイスが中で踊る。
「そーゆうのも、目先が変わっていいじゃん。熟年男性はすごいよ、きっと。体力がないぶん、技術で勝負するからな。気がついたら、茜、脂ぎとぎとのオヤジの上で、さっきみたいに腰を振ってたりするんだろうな」
ころんころん。心が転がる音。
どうしてそんなこと言うの? 私と同じ目をした人。初めて会った時、あの潤んだ瞳に釘付けになった。この人も寂しい心を抱えている。だから、挑発的な態度を取ったんだ。私が食らいついたから、本当は嬉しかったんだ。
自分の過去を話さないから、多分、誰にも言いたくないような傷を抱えているんだろうなと想像出来た。私も異性関係は派手だったから、しょっちゅうドンパチやってた。友達の彼と寝ちゃったこともあるし、逆に後輩に寝取られたり。それが嫌になって、上司に走って不倫関係。どろどろ続いた上に、捨てられて。
――もう、いいじゃない。ふたりで、幸せになろうよ。傷ついた心を寄せ合えば、幸せになれるよ。私、陽の隣で生きてみたい。
「就職、したくないなあ。……面倒くさい」
ぽつんと、言葉がこぼれていた。
傍らの陽が起きあがる。何か答えてくれるのかと思ったけど、そのままバスルームに消えていった。シャワーを浴びて帰るんだ。陽は一度も泊まらない。いつも、どんなに遅くなっても家に帰る。もしや……という思いが頭をかすめることもあるけど、まさか、陽に限ってそんな馬鹿な。
何度か、私の部屋に誘ったことがある。毎回、ホテルを使っていたら陽は大変だろう。ホテル代はみんな陽が払ってくれてる。私が持ってもいいんだけど、そうはさせてくれない。
このごろ、連絡が来るまでに時間が掛かるようになった。お金、大丈夫なんだろうか。でも、陽は困ったように微笑んで「茜に悪いから」と言う。それ以上、無理強いは出来なかった。
陽が連絡をくれて、それで会いに行かなかったらどうなるんだろうとも考えた。ただ単に、メールで繋がっている仲。私が比較的自由な立場にいて、すっぽかすこともなかった。一応メルアドは携帯に登録してあったけど、お互いの携帯のナンバーは知らなかった。
私が、行かなかったら、陽はどうするだろう。びっくりして、問いただすだろうか? どうして来なかったのと嘆くだろうか? ――でも、出来なかった。それによって捨てられてしまうのが怖かったんだ。
陽がくれる、特上な時間。壊したくなかった、永遠に手に入れたかった。でも真正面から突き進んだら、するっと逃げられそうで。陽はこれ以上傷つくことを恐れているんだ。愛情のあとには別れがある。それが悲しいから、曖昧になってしまう。
最初は、どうでも良かったことなのに。陽とは共有するその時間だけ心と身体を重ね合わせることが出来ればそれで十分だと思っていた。それなのに、どうして欲張りになるんだろう。陽の隣は心地よくて、ずっと一緒にいられたら、それだけで幸せに手が届きそうな気がする。そうだよ、平べったい画面から立体化出来る関係もあるはず。
たとえ、陽にどんな過去があっても。私はきっと大丈夫。あのパソコンの大海原、硝子の海を越えて、陽は私の元に辿り着いた。それだけでいいじゃない。そこから始めようよ。いつかTVで観た無人島。あの椰子の木の下で、愛し合おう。何もないところから始めればいい。
陽の態度は少しも変わらないけど。とうとう「仕事が忙しい」と一ヶ月待たされた。そんなにしてまで、先に進みたくないの? どうして? 私は陽と一緒に生きたいよ。
そして、とうとう。私はやってはいけないことをしてしまった。
◇◇◇
「何だか、すっきりしてるね?」
いつものようにシャワーを浴びた陽は、私にゆっくり寄り添ってきた。私もそのぬくもりに素直にしがみつく。私だけの、陽。もう離さない、何があっても。
「就職が、決まりそうなの。パートなんだけど、まあこのご時世に仕方ないわ」
私はそっと陽を見つめて、ゆっくりと微笑んだ。彼の瞳に映る私は少女のように無邪気な表情だった。
「へえ……それはそれは。それで、今日はすごかったんだ。あんなにイキまくる茜は初めて見たよ。正直ちょっと怖かったけど」
陽の偉いところは、思ったことを素直に言ってくれることだ。余分なことを言わない代わりに、嘘は付かない。だから安心。私の腰に回した腕に力がこもる。
「あまり、乱れる女は嫌? 嫌いになった……?」
拗ねるように囁く。そんなことないよ、と言う代わりに、陽が強く抱きしめてくれた。そのまま、もう一度ベッドに倒れ込む。
――あの熱帯魚たちは、いまごろ何処を泳いでいるんだろう…?
こぽこぽととポンプの音が今でも耳に残っている。私が手放してしまったものたち。とても気に入っていたものもあったけど、あの男との思い出なんて、ひとつも残しておけないと粋がった。私は、若かったんだ。今だったら、絶対に手放したりしないのに。
もう一度、目を閉じると違う映像が見えてくる。私と陽。裸のままのふたりが、海の中を泳いでいく。どこまでもどこまでも、果てしなく。そこが作られた空間であると知っているのに。何のしがらみもなく、出会ったふたり。それだからこそ、純粋に愛を重ねられたんだ。
でも、これからは違う。私はあの海を出て、本当の陽のそばに行く。もう二度と離れない。何があっても、陽と一緒にいる。そう決めた。私の中には陽しかいない。そのためには、傷つくことは怖くない。
「私にも、注いでくれる?」
火照った肌を冷やすように、琥珀色の夢を一気に飲み干した。ふたりの未来に、永遠の未来に乾杯するように。
◇◇◇
「まあ、それじゃあ、学生さんの頃、販売の経験があるのね?」
現れたのは、若い女性だった。私と同年代だろうか。髪を後ろでひとつにまとめて、仕事着の白い白衣を着ている。薄化粧した肌はとてもみずみずしい。いかにも若奥様、と言った感じ。
「ええ……でも、洋菓子のお店だったので。こんな本格的なところで、本当に大丈夫でしょうか?」
私は大袈裟なくらいかしこまって、その女性を上目遣いに見つめた。
多分、この人が女主人だ。百年以上続いている老舗の和菓子屋、そこの一人娘。数年前に出入り業者だった男を婿に迎えて、今は赤ん坊を抱えている。絵に描いたようなお嬢様、と言った感じだ。
――そう、何も知らない人。自分の夫と信じている人が、次々と店の女の子に手を付けて、どうしようもなくて。でもそんな不祥事を、先代であるこの人の両親は全部内々に収めてきた。箱入り娘、とは言うが、本当に幸せだと言えるのだろうか。
「前の子が、急に辞めちゃって、本当に困っていたの。ええ、もう今日から是非お願いしますね。綺麗な方に来ていただけて、本当に嬉しいわ。パート代もこんなに安くて……宜しいのかしら?」
それから、くるりと振り返って作業場の方に叫んだ。
「あなたぁ、ちょっといいかしら? こちら、新しいパートさん。ええと……大原、茜さんと仰るんですって」
奥から出てきた若い男性に、私は深々と頭を下げた。
「何も分かりませんが、頑張ります。どうぞ宜しくお願いします」
そして、にっこりと微笑みかける。可哀想なくらいに、顔色の白くなった彼を。
―― ほら、辿り着いたわよ、あなたの元まで。
ネット恋愛も、甘くないんだから。調べようとすれば、何だって大丈夫なの。ちょっと出費は痛かったけど、そんなの、どうでもいいこと。これからは、ずっと一緒よ。奥様にだって気に入られちゃうから。あなたを離してあげない。
私の部屋にある、四角く切り取られた硝子の海。静かに波音を立てながら、そこに佇んでいる。愛する人の声を届ける鳥を待って。
……暗闇も、もう怖くない。
了(031022)