scene 7 …


 

 

「ねえ、ちょっとぉ! 十和子(とわこ)、十和子ってば……!」
  壁掛けの時計は正午を少し回ったところ。廊下に敷き詰められた消音効果のあるフロアマット材にも負けないヒールの音が部屋に駆け込んでくる。ぜいぜいと肩で息をしている気配を暖房に不自然に温められた室温を通して感じ取りながら、それでも私はパソコンの画面から目を離さなかった。
「何よ、騒々しいわね。一体何事よ?」
  キーを叩き続けながらも、仕方なく答える。そうしないと相手はこちらが全く聞いていないと思って、さらに声を高くするからだ。
  出来る限り仕切りを少なくしてオープンに設計された本社ビルは、その一方で周囲の雑音が遮ることもなく流れ込んで来るという欠点を抱えている。そのために社員たちはイヤホンで音楽を聴きながら仕事をすることが許可されていると言うから呆れてしまった。
「んもう、何よぉ! こんなときに落ち着いちゃってさ、あんたは……」
  よし、ここまで来れば一区切り。ぱちっと確定して保存する。
  そこで初めて顔を上げると、最初に視界が捉えたのは白いコートだった。腕に吸い付くような細い袖だから、半袖の上にしか重ねられないと言う。いかにも造られた顔風のメイクにふんわりとラフに見えながら実は計算し尽くされたバランスの髪。私と違ってデスクワークに従事していない彼女の指先は、手の込んだネイルアートが施されていた。
  たぶん、今日は早番でランチに出たのだろう。受付嬢の昼休憩は三交代制だ。外から帰ってその足でここまで上がってきたことを証明する姿で、彼女はつんと胸を張った。
「全く〜、すかしこんじゃってさ。そんなだから、馬鹿な女に男を寝取られるのよ。ちょっと、耳の穴かっぽじって良く聞きなさいよ? 昨日遼介(りょうすけ)と歩いてた女、先週からウチに来てる派遣社員だったじゃないの。人事の子に聞いたんだから間違いないからね……!」――ああ、そんなことか。
  一瞬、腹の中でそう思ったのが、表情に出てしまったらしい。人情深い古なじみの友は、ぴくりと右眉を上げた。でも、こんなやりとりもいつものこと。私は首をすくめると、何食わぬ顔で机の上に広げた書類を片づけ始めた。背中半分までのストレートヘアは仕事中バレッタでひとまとめにしている。いかにも仕事が出来る女風なのが気に入っていた。
「あのね〜、ウチの後輩ちゃんの情報だと、ふたりがいたのはぴっかぴっかのネオン街! それも時間的に言って、絶対アフターだって話よ? ねえ、落ち着いてる場合じゃないでしょ、どうにかしなさいよ。あんたがちゃんと手綱を握ってないからこんなことになるんだから。今に、浮気が本気になって泣きを見ることになるんだからね……!」
  あーあ、もう。そんな風に眉間に皺を寄せたら、せっかくの美人が台無しだよ? まあ、その顔で見事玉の輿の座を射止めたんだから、今更他に媚びを売る必要はないけどさ。
  でもなー、やっぱりああいったお金持ちのボンボンには、肝っ玉母さん風の女性が新鮮に映るのかしらね?
「そんなん、いちいち腹を立ててどうするの? 遼介にとってはね、セックスなんてスポーツよ、スポーツ。ただ、いい汗を流したいだけなの。全部相手してたらこっちの身が保たないもの、適当に外で片づけてくれた方が助かるわ」
「……十和子〜っ!」
  私なんかよりもよっぽど華やかな男性遍歴を経てきているはずなのに、こう言うところだけ妙に貞操を気にするからおかしい。相手との相性を見るにはまず寝てみろって教えてくれたのは、他ならぬ彼女だったのに。
「んもう、知らないから、知らないから。あんたになんて、花嫁のブーケ、絶対に投げてやんない! いつまでもあんなスケコマシに付き合って、最後は身を滅ぼせばいいんだわ!」いくら他の社員が出払ってるからって、ここまで人の個人情報を暴露してくれなくてもいいのに。そう切り返したい気持ちをぐっとこらえる。ああ、私って大人。偉いなあと自画自賛しちゃう。
「――まあまあ。そんな急いでたなら、食後のコーヒーも飲まないで出て来ちゃったんじゃない? いいでしょう、十和子さんがいれてあげる。まあ、その辺に座って待っててよ」経理の部屋を空っぽにすることは出来ないという上からのお達しで、私の今日の昼休憩は外回りの室長が戻ってくる1時過ぎからだ。ちょうど小腹もすいてきたところ。朝イチから頑張ってた仕事も片が付いたしコーヒーブレイクだと、私は席を立った。
 
  英田遼介(あいだ・りょうすけ)――奴の女癖の悪さは、昨日今日に始まったことじゃない。
  あいつとは大学に入学してすぐにサークルで知り合って、それからの腐れ縁。一応、私は恋人というポジションにいるらしいが、そうしたところで何の権利も義務もあるわけはないだろう。
  顔はそこそこ、背も高い。さらに世話好きで話し上手と来れば、初対面でもほとんどの女が好感を抱いてしまうらしい。
  そして、問題はそのあと。普通なら何かの理由を付けて誘いを断るもんなのに、あいつときたらその辺の堪え性がないのだ。「据え膳食わぬは男の恥」とか何とか、大義名分を掲げて突っ走ってしまう。ひどいときには曜日ごとに違う彼女とツーショットしてるっていうから、どうしようもない。
「だけど、土日はトワのためにあるんだから。やっぱ、特等席に座ってもらわなくちゃな」
  馬鹿馬鹿しいにもほどがある。そんな説得に笑顔で頷く女がいるなら会ってみたいものだ。少なくとも、私はそれほどに出来た人間ではない。ただ、色々考えるのが面倒くさいだけ。あんな男の彼女を5年以上も続けていれば、すでに悟りの境地に入りつつある。だいたい、休日だけ共に過ごすなんて何十年も連れ添った古女房みたいじゃないか。
  恵里が今日みたいに怒り沸騰で飛び込んでくるのも慣れっこになってしまった。「都合のいい女」という称号は私のためにあるのかも知れない。

「でもさー、考えてみれば十和子も因果よね。いくら遼介があんなスカポンタンだって、同じ会社にいなければ知らなくて済むことも多いのにさ……」
  ふわふわのコートの下は、やはり薄手の半袖ニットだった。タートルの胸元にいっぱいスパンコールが付いている。受付カウンターに座るときにはきちんと制服着用なのに、わざわざランチのために着替えるというのがすごい。ネイルに埋め込まれたパールビーズを確認しながら、恵里はいれたてのコーヒーをすすった。
「別に好きで一緒になった訳じゃないわよ。こればっかりは不可抗力だもの」
  ――その通りである。誰が好きこのんで彼氏と同じ会社なんて選ぶものか。
  ようやく縁が切れると思って、必死に内定をもらった小さな会計事務所。学生時代に余暇を利用して取りまくった資格を駆使して、必死に頑張った。だが悲しいかな、この不景気。個人事務所の経営は立ち行かなくなり、とうとう吸収合併されることに。
  それで、行き着いたのが今の会社。初めは小さな居酒屋から始まったらしいが、今では都内にいくつものチェーン店を持ち、さらにブックストアやスーパー経営にまで乗り出している。この辺りでは名前を知らない人がいないほどの有名所だ。私を始め会計事務所時代の5人のメンバーはビルの片隅の部屋に押し込められて、各店舗から上がってくる伝票管理を一気に引き受けることになった。
  で。さらに言えば、ここは遼介の就職先だったと言うわけ。それを知ったからといって、逃げ出すわけにも行かず、渋々と新天地を訪れてみれば受付に恵里がいた。これも何たる偶然。田舎で高校までの腐れ縁だった級友との劇的な再会だった。
  それからというもの、借りてきた猫状態で過ごす私に、彼女はあれこれと世話を焼いてくれる。時には若手社員の飲み会にも誘ってくれるが、そこで出てくるのも遼介の色めいた噂ばかりだった。
「でもさぁ、あんたも物好きよね。確かに遼介はちょっといい男ではあるけど、あんなに腰軽じゃいただけないわ。やっぱ、男は誠実が一番よね〜!」言葉の端々に惚気が滲み出るのも許してあげなくちゃいけない。恵里の左手薬指に燦然と輝くダイヤリング。ジューンブライド目指して、今まさに突き進んでいる最中なのだから。
  絵に描いたようなおぼっちゃまなフィアンセは、今まで彼女が付き合ってきた男のどれよりも地味で存在が薄かった。最初に紹介されたときは大丈夫かと不安になったが、本人たちが幸せならそれでいいと思う。
「いいわよ、別に。イロコイなんてうざったくてやってられないわ。いいの、私は自分の好きにやってくから。さあ、そろそろ交代の時間だよ。私も空き時間にちょっと勉強したいしね」
  紙袋からがさがさと取り出した参考書を積み重ねると、恵里は分かりやすい呆れ顔になる。私の趣味は資格所得。司法試験なんてどえらいものは無理でも、一般人が持っていて得する資格って結構多い。学生時代に独学で取った簿記の2級や行政書士なんてそのまま就職に結びついたし、パソコン関係の資格は若者の専売特許だ。カラーコーディネーターなんていうのも、やってみると面白かったし。
  ただ、こう言うのは一夜漬けじゃ無理。それなりに時間をかけてみっちりと知識を付けないと太刀打ち出来ないのだ。スケジュール帳が真っ黒になるほど書き込まれた試験日をクリアしていくためにも、自分のために使える時間はたくさん欲しい。とはいえ、私だって初めからこんなにすれていたわけじゃなかった。
  今よりずっと純粋で傷つきやすかった頃、一度遼介以外の男と付き合ったことがある。でも、すぐにその関係に飽きてしまった。どんな風に説明したらいいのだろうか。とにかく、相手に必死で合わせようとする自分に疲れてしまったのだ。こちらから切り出した別れはだいぶこじれたが、ようやく吹っ切ったときに遼介から連絡があった。
「まあねえ、あんたの人生にとやかく言わないけど。……そんなところだからさ」
  コーヒーごちそうさま、と言って恵里は席を立つ。ふわんと漂うコロンに甘い幸せの残り香を感じて、私はひとりきりの部屋で大きな溜息をついた。
 
「へえ、恵里ちゃん、式の日取りが決まったんだ」
  そう言いながら缶ビールを開ける遼介はシャワーのあとの火照った身体に首からタオルを引っかけてる。スエットの下ははいてるけど、上半身はむき出しのまま。ぽたぽたと髪から落ちるしずくが、程よく日に焼けた腕を流れていく。
「うん、6月なんて日本じゃ梅雨なのにね。何かこだわりたいみたいよ、でも場所は彼の実家の近くなんだって」
  私が恵里と再会するまで、ふたりが顔なじみだったと言うことを遼介は知らなかった。そして恵里も遼介が私の恋人だとは知るはずもない。それでもふたりが間違った関係にならなかったことは、幸いだった。何か虫の知らせがあったのだろうか。
  今でも廊下ですれ違う女性社員が、全て遼介の「お手つき」に思えて気が休まることがないのだ。特に私が気にすることもないのに、なんとなく面白くない。
「ふうん、恵里ちゃんスタイルいいしな。ドレスが似合うだろうなあ〜、やっぱああいうのはドンピシャな人間が着るのが一番だからな。馬子にも衣装って、あれは嘘だね」
  こんなふうに友人の結婚の話をすれば、男は「何か期待しているのでは?」と勘ぐるのが普通だと思う。でも、遼介に限ってはそんなことはない。ただの世間話として聞き流してくれる。だから、構えることもなく何でも話が出来るのだ。
  恵里と私は高校の同級生だから、同い年。
  昔なら「売れ残りのクリスマスケーキ」などと言われる年頃になってしまったが、今時そんな馬鹿げた「たとえ」は流行らない。恵里だって、半年前までは「結婚は30過ぎで子供はひとり」とか言ってたはずだ。今日日の女性は男におんぶしなくたって、自分のやりたいことを存分に楽しむことが出来る。
「何か、そのことでも彼の実家とやりあってるみたい。どうもね、向こうのお義母さんが自分の着たドレスをぜひ、って言ってるんだって。冗談じゃないって、恵里は息巻いてたわよ」
  遼介が声を立てて笑った。見慣れてるはずの横顔。大口を開けるから綺麗に覗く白い歯とか、目尻のしわとか、そういうのがいいなと思ってしまう。
  一緒にいるのが当たり前すぎて、お互いが空気みたいになってると思うのに、こんな瞬間に私は彼に恋をしてるんだと実感する。すごく口惜しい、どうしてなんだろう。まだ、私の中に「女」の部分が残っているなんて。
「ま、いいや。恵里ちゃんの晴れ姿を想像したところで……」
  おもむろに腕を掴まれる。指先に力が籠もるのが遼介の「合図」だった。
「今度はトワの思い切り乱れる姿が見たくなった。……な、いいだろ?」
抱き寄せられて、首筋に感じる吐息。そのたびに「ああ、駄目だ」と確信する。
   私はこの男から逃れることが出来ない。分かってる、どんな女に対しても遼介は同じようにするんだ。私を抱きしめた腕は、次の晩には違う女の肩を抱く。それが分かっているのに、私は何て愚かなんだろう。
  他の男とベッドを共にして気付いた。遼介はセックスがとても上手い。何というか……身体の出っ張りやくぼみにお互いがしっくりと重なり合い、密度の濃い時間を与えてくれる。男は突っ込んで出せば終わりだという意見もあるが、それは何も知らない馬鹿な奴らの言い分だ。
「ああっ……、はぁん、……りょ、りょうす……け……!」
  私を貫く遼介自身に、肉襞がねっとりとまとわりつく。ただ一度奥を突かれるだけで、昇天してしまいそうになった。苦しくて愛おしくて、気が狂いそうになる。
  今でも思い出す、あの男の「モノ」は私の中で泳いだ。「入っている」のかを疑いたくなるような存在感のなさ。それでも男に合わせて私は必死に「演技」した。何もかもが遼介と違う。肌を合わせるたびにそのことばかりが気になった。
「いい顔だ、トワ。イキたくなったら、無理するな。俺が導いてやる、思う存分感じてみろ」
  耳元で囁かれるかすれた声が、さらに私をたかみに押しやる。怖くて心細くて、ひとりの力では越えられない河をふたりで泳いでいく。ああ、そうだ、私の側には遼介がいる。だから何も心配いらない、どこまでもどこまでも羽ばたくことが出来る。
「ああん、遼介っ! 遼介、……遼介……っ!」
  後頭部を突き抜ける衝撃が何度も襲いかかってきて、私を深い場所に突き落とそうとする。大切なモノから引きちぎられて、ひとりぼっちに戻りそうな不安。たまらないほどの渇きを感じて手を伸ばせば、遼介がしっかりと抱きしめてくれる。そう、遼介を失った時間、私は絶えずこの渇きを感じていた。
「……トワ……!」
  この瞬間のためだけに、私は生まれてきたんだと思う。
  今更、恵里に諭されるまでもない。
  私は本当にろくでなしだ。ただ一時の快楽を失いたくなくて、全てに目を瞑って知らない振りを続けている。いつかこの関係に終わりが来ることすら、忘れてしまいたかった。

 

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