scene 7 …


 

 次の朝。
  昨日よりもさらに熱が上がったらしい。簡単には治らないという医者の診断は嘘じゃなかった。どうせ出社停止扱いになっているし、ここは無理をしない方がいいだろう。室長も上と話し合って特別休暇扱いにしてくれると言うし。
  遼介はいつもよりも遅めの出社、心配する私の言うことも聞かずにキッチンのテーブルで一頻りノーパソを叩いていた。
「もしも、何か変わったことがあったらすぐに連絡して来いよ。分かったな?」
  彼は「企画事業部」とかいう部署に所属している。
  こういう名称は会社によってまちまちだし分かりにくいんだけど、簡単に言うと店舗の経営方針とか時々開催するイベントとかのプランを立てているそうだ。学生時代からお祭り大好きで、サークルでも「宴会担当」とか言われていた遼介にはぴったりの仕事だと思う。かなり肌に合っている様子で、彼の口からは愚痴のひとつも聞いたことがなかった。
  遼介は誰かを喜ばせるのが得意だ。その場所にいるだけで、周囲の雰囲気が和んでいく。だからどこへ行っても重宝されて、あちこちから引っ張りだこになる。
「うん、……色々迷惑かけてごめんね」
  枕も上がらない状態で、私はそう答える。熱のせいか、身体のあちこちが痛かったが、それでも昨日のような心細さは感じなくなっていた。夜のうちに遼介が全て吸い取ってくれたのだろうか。朝目覚めるその時まで、遼介は私から離れなかった。

  夕方。
  うとうととうたた寝をしているうちに、彼は部屋に戻ってきた。目覚めると食欲をそそるような匂いで部屋中が満たされていて驚いてしまう。その時になって初めて、昨日から食事らしい食事もしていなかった自分に気付く。遼介の作ってくれた味噌仕立ての雑炊はことのほか美味しくて、思わずお代わりをしてしまった。
「熱もだいぶ下がってきたみたいだな……、これだけ汗をかいたら楽になっただろう」
  ひとりで出来るからと断ったのに、遼介は慣れた手つきで私の服を脱がせてしまう。そんなの、いつものことなのに今日に限ってはすごく恥ずかしい。これから何が始まる訳じゃない、私がそんな状態じゃないことを遼介だってちゃんと知っているはずだ。
  それなのに、……一枚ずつ私を包んでいる布がはがされるたびに胸が高鳴っていく。熱に浮かされて、私はかなり淫乱になってしまったのだろうか。
「ほら、これで良し。今夜、ぐっすり休めばだいぶ回復するだろう、こっちは洗濯機で回しておくからな」
  かいがいしく世話を焼いてくれる彼が、普段とはかなり違って見えた。今日は側にいても、始終身体のどこかに触れている感じ。さりげない存在感で、私を安心させてくれる。こんなに満たされた気分は久し振りだ。
  夜はやっぱりひとつのベッドで眠った。寝ぼけた振りをして遼介の胸に頬を寄せると、シャワーのあとのボディーソープの匂いがする。温かい、こんな風に自分じゃないぬくもりを側に感じられるってすごく心地いいんだな。彼の腕に抱かれて眠る夜なんてもう慣れっこだと思ってたのに、嬉しくてたまらない。
  平日なのに、本来ならばふたりきりで会う日じゃないのに。二日も続けて遼介と一緒にいられるなんて、学生時代以来だ。これも風邪に捕まったお陰かな、あまり有り難くない状況も神の恵みに思えてくる。
「起きあがれるようになったからって、無理するなよ。まだ安静にしてろ」
  三日目の朝、遼介は前日と同じように出掛けていった。
  ドアの向こうに消えていく背中を眺めながら、今夜はきっと彼はここに戻ってこないと確信する。窓の向こうでは冷たい真冬の雨がしとしとと降り続いていた。

  どうしてなのかは分からない。でも、妙な胸騒ぎがした。
  シャワーを浴びて髪を乾かすと、病み上がりでこけた頬もそれなりに見られる感じ。出社停止は今日までだけど、明日は土曜日。カレンダー通りに休みの部署で、思いがけずに連休が続いてしまった。
  カーテンをめくって確認すると、先ほどよりもさらに雨脚が強くなったみたいだ。コートの上からさらにレインコートを羽織るとかなりきついけど仕方ないか。二日ぶりのヒールに私は足を突っ込んだ。
「え……、トワ。どうして……」
  ドアを開ける音に目が覚めたのだろうか、ベッドの上に横たわったままで遼介は呻いた。自分ではきちんとしゃべっているつもりなのかも知れないけど、口から出てくるのはほとんどが息でよく聞き取れない。
「もう、……嫌だ。こんなことだろうと思った」
  勝手知ったる他人の部屋、でもいつになく散らかっているような気がする。脱ぎっぱなしの服や、読んだままの新聞、キッチンのシンクにはいつのものかも分からない洗い物が山となっていた。
  朝、出掛けていく遼介の足下がふらついてる気がした。身支度を整えたあと、ベッドまで戻って私を確認したときも決して身体に触れなかったし。何か行動が少しずつ変だなと思っていた。そして恵里に連絡を入れてみて、確信。午前中に外回りを二件済ませたあとは午後年休を取ったって言うじゃない。
  全く……人の忠告を無視するからこんなことになるんだわ。
「熱、かなり高いんでしょ? この前の水枕もちゃんと持ってきたから。……ちょっと待っててね」
  役割分担がタッチ交代って感じかな。見事に私の風邪がうつって動けなくなってしまった遼介。たぶん、朝はかなり無理をしてたんだと思う。私に心配をかけたくなかったのかな。
「すげー、情けねえ。俺、スーパーマンにはなれなかったなあ……格好悪いの、この上ないよ」
  額に「冷えピタ」を貼ってあげたら、いつもよりも子供っぽく見える。
「でもさ、トワは大丈夫なのかよ。余り無理すると、また倒れるぞ」
  熱のせいか頬は真っ赤。そんな状態なのにこちらを気遣ってくれるのが嬉しくて申し訳ない。自然に笑みがこぼれてきて、素直に応えることが出来た。
「もう、全然平気。だって、看病が良かったから。何だか、前よりもっと元気になっちゃったみたいよ?」
  そっと頬に触れてみると、離れろ離れろって言うみたいに顔を横に振る。そう言う仕草が駄々っ子みたい。何かこんな遼介、今までで初めて見た。
  それにしても、いつの間にこんなに散らかったんだろう。日曜日にこの部屋を出るまでは、モデルルームみたいに綺麗だったのに。足の踏み場もない程に散らかった床を、適当に片づける。本当は断りもなくこんなことをしちゃ駄目な気がするけど、仕方ないよね。

「……なあ、トワ。ひとつ、聞いていいか?」
  どれくらい時間が経ったんだろう。ようやく納得の行く程度片づいた部屋になった頃に、遼介が探るような口調で問いかけてきた。振り向くと、捨てられた子犬みたいに心細そうな瞳がそこにある。
「タカヤ、って……誰なんだ?」
「……え……」
  その瞬間、私の頭の中は真っ白になった。何で、……何で遼介が「高也」を知ってるの? そんなはずないのに。
「ずっと、……聞きたかったんだ。誰なんだよ、俺には教えられない奴なのか? あの男は、そんな名前じゃなかったよな」
  鼓動が激しくなって、心臓が胸から突き出してきそうになる。「何故」「どうして」と疑問符ばかりが頭に浮かんで、身体の震えが止まらない。ああ、嫌だ。またあの夢が蘇る、夕暮れの河原、ふたりだけの時間。視界を埋め尽くすほどの赤とんぼ。……そして、失ったもの。
「あ、……ごめん。いいんだ、答えたくないなら」
  私の片腕を、熱い手のひらが掴む。その瞬間、がくっと脱力していた。私の手のひらにはじっとりと冷たい汗が滲んでいる。
「ごめん……なさい」
  どうにか体勢を整えてそう答えると、遼介は「いいから」って消えそうな微笑みをくれる。すごく、すごく辛いはずなのに、それでも私を気遣ってくれる。そんな彼の全てが愛おしくて悲しい。また、ぼろぼろと涙がこぼれてくる。いきなり不意打ちのように訊ねられて、私の精神状態も普通じゃなくなっていた。
「……あのさ、トワ」
  遼介の声が変わる。遠くを眺めるような、ぼんやりとした口調。それでも私の片腕を掴んだまま離さない。
「覚えてる? つきあい始めた頃のこと。俺さ、とにかくトワに夢中になって、どこに行くのもべったりで離れなかっただろ。今思うと、情けねえよな。……若気の至りってやつか」
  そう言えば、そうだった。喉の奥で自嘲気味に笑う声を聞きながら、私もゆっくりと回想する。
  何度か顔を合わせているうちに意気投合して、自然な成り行きで私たちは付き合いだした。お互い学生同士で暇だったし、講義の空き時間もいつも部室に入り浸って。それでも足りなくて、夜はどちらかの部屋に落ち着く感じで一時は半同棲状態になっていた。
  でも、……いつの頃からか遼介は憑き物が落ちたみたいにそっけなくなって。
  私以外の女の子と遊びに行ったり、どう考えても浮気としか思えないような現場まで目撃するようになってしまった。最初は落ち込んだり捨てられるんじゃないかと思ったりしたけど、ずるずるとふたりの関係だけが続いて、端から見たら不自然すぎるふたりに落ち着いていた。
「俺、トワにどんどんのめり込んでいくのが怖かったんだ。トワが他の奴と話をしてるだけでむかついたし、いつでもどこでも俺ひとりのものでなくちゃ駄目だと思っていた。だけど、……だけど、トワはそうじゃなかったんだよな。それに気付いたとき、愕然としてさ。もう、自分でも何が何だか分からなくなっていた」
  遼介の腕が震えていた、大きく大きく震えていた。何かを必死で抑え込もうとしているギリギリの感じで、私のために初めての話をしてくれる。目の前の全てが思いがけないばかりで、一度は乱れた私の心は次第に穏やかに戻っていた。
「あの頃、……一度知らないうちに寝ているトワの首を絞めようとしたことがある。トワの中にある全ての想いすら封印したかった。永遠に、トワを俺だけのものにしたいってそれだけを願って。寸前のところで我に返って、……もうそのあとは自分が恐ろしくて仕方なかった。どうしたんだろう、俺。今頃、何でこんな話をするんだろうなあ……」
  そこまで途切れ途切れに告げたあと、遼介は熱い息を吐き出した。
  私にとっては何もかもが信じられないばかりの出来事。そんなはずはない、離れられなかったのは私の方。どんなにひどい仕打ちをされても、たくさんの女の中のひとりに位置づけられても、それでも遼介が諦めきれなかった。
「もう、いいよ。何も言わないで、遼介」
  抑えきれないものが私の中から溢れてくる。どうしよう、今ここで吐き出してしまっていいのだろうか。追いかけてくる不安から救ってくれるのは、遼介しかいない。
  ゆっくりと、ベッドの上に這い上がる。薄い毛布の上からしっかりと身体を重ねて、私は遼介を抱きしめていた。
  そう、これでいい。こうしているのが一番いい。甘い言葉も確かな約束もいらない。ただ、こんな風に遼介のぬくもりが欲しい。
  だって、……遼介は生きてるから。
「いつだったかな、つきあい始めて少し経った頃。夜中にトワがうわごとで「タカヤ」って言ったんだ。すごくうなされていて、とても普通じゃなかった。だけど、そこから救い出してやることよりも、トワの口から別の男の名前が出たことの方がショックで。あれから、……ずっと囚われていた気がする……」遼介も私の背中に片腕を回す。しっかりと引き寄せながら、もう一方の腕でふたりを隔てている毛布を取り去った。そうしてから、あの晩のように強く抱きしめてくれる。
「馬鹿だよな、俺。何やってたんだろう、長いこと。別の女じゃ、絶対にトワの代わりにならないのに。だけどもういい加減ヤケになってたから。間違いさえ起こさなけりゃ、どうなってもいいって。トワの一番になれないなら、お終いなんだからって……馬鹿だよ、本当に」あの晩、私は必死で遼介を呼んでいたのだと言う。
  そしてその時に、彼はようやく解放された。長い長いトンネルを抜けて、明るい場所に出られたんだと。週末だけ、時間を区切った逢瀬は彼にとって精一杯の思いやりだった。部屋を片づけて、ふたりのための空間を作り上げて、その中で完成された時を過ごそうとしたのだ。いつもはあんなにマメでもきれい好きでもないって、その言葉は実感を持って素直に信じられた。
「……あのね、遼介」
  自分の鼓動が、変わらないことを確かめながらゆっくりと話し出す。怖いけど、……ここを乗り越えないと私たちは先に進めない。そう思った。
「高也は……私の弟。でもね、年子だったし、ほとんど双子みたいに育ったの。どこに行くのも一緒で、本当に仲が良かったんだ……」
  静かに開かれていく記憶の扉。
  長い間、こんな風に誰かに小さな頃の話をすることもなかった。田舎にもあまり戻らない私を遼介は不思議に思っていたみたいだったけど、そう出来なかった理由がある。私も、長い間囚われていた。
「小学校に上がった年の秋、ふたりでいつものように河原で遊んでいてね。私の投げたボールが川に落ちて、高也はそれを拾いに行ったの。でも……思いがけずに流れが速くて……」
  乱れ飛ぶ赤とんぼ、遠ざかっていく小さな背中、野球帽。どうしてあの時に止めなかったんだろう、私が一声「やめなよ」って言えれば、高也は死なずに済んだのに。
  自分を責めて、責めて、とうとう精神的にも異常を来して。私の心は無意識のうちに高也を忘れた。周囲のみんなも私を気遣って、二度と高也の話をしなくなった。それなのに、あの夢を見る。それが怖くて、高校に上がる年までひとりの部屋では眠れなかった。
「呼吸が苦しくなって、息が出来なくなるの。必死で呼び止めるのに、私の声は届かない。ひとりになるのが怖くて、怖くて……だから、私」
  自分の気持ちを押し込めていた、ずっと長い間。
  遼介を失うのが怖かった、今度こそ本当にひとりになってしまいそうで。私の心も身体も隙間なく埋めてくれる存在、遼介は誰も代わりになれないほど特別だった。
「私のこと、『トワ』って呼ぶのは遼介だけなの。それは高也だけの呼び方だったから、他の人に呼ばれると呼吸が苦しくなった。恵里に言われたことない? ……禁句だったんだよ、私の周りでは。それなのに、遼介だけは大丈夫だった。どうしてなのか、分からなかったけど」
「……そうか」
  遼介の腕が緩む。そっと見上げると、涙で潤んだ瞳で見つめられていた。
「俺はもう、とっくの昔に選ばれていたんだな。何で、それなのに……」
  それ以上は言わなくていいよって、唇に人差し指を当てる。もう、いいから。本当に、いいんだから。
「最後に、間に合ったんだからそれでいいよ。だから、……あの、約束してくれる?」
  少し髭の伸びた頬に口づける。しょっぱい汗と涙の味、命の匂いがした。
「風邪が治ったら、高也のお墓参りに行きたいの。……私、ずっと行けなかったから、きっと待ってる」
  返事の代わりに、強く強く抱きしめられた。
  焼け落ちそうな熱さの中で、私は願う。この出逢いを、どうか永遠のものに出来ますようにと。最後に残るささやかな望みと共に。

了(060119)
あとがき(別窓) >>

 

 

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