お正月の特番で、不思議な家族を見た。
この頃TVに良く出てくるアフリカ出身のタレント。彼の父親には8人の妻と31人の子供がいるという。その全てが一つ屋根の下で生活をするという、日本人の感覚からは信じられない情景であった。
もしも「一夫多妻制」という考え方が根付いた地域でそれを当然のものとして受け入れられる意識を持っていたら、今の自分の立場にも納得出来たのだろうか。複数の「妻」が存在する場合、やはり一番先に嫁いだ「第一夫人」の権力は絶対だという。その地位は揺らぐことはなく、第二夫人以下の妻をも支配する権限を持つと聞く。
ただひとりの女性になりたいと思うから、歪みが生まれるのだ。あるべきことをあるべきままに受け入れることが出来たとき、永遠の自由を手に入れることが出来る。だけど……果たしてそれでいいのだろうか。自分が真から願っていることが何なのかすら、もう分からなくなっている。
ふたりが出会うのは週末だけ。
ほとんどは遼介の部屋でDVDを観たり、音楽を聴いたり。その時間の密度が高ければ高いほどに、あとに訪れるウィークデーはあっさりと他人に戻れた。
付き合っている女性に身の回りの世話をさせる男も多いと聞くが、遼介に限ってはそんなこともない。彼の部屋はいつ訪ねてもこざっぱりと片づいていて、余計なものは何もない。雑誌も新聞も読み終えるとすぐに処分してしまうらしく、ゴミ箱の中すら昨日までの残骸は見当たらなかった。
週末のたびに泊まりに行くことが分かっているのに、私は毎回着替えと洗面用具を持参した。旅行用の歯磨きセットをかばんから出す私を見るたびに、遼介は「そのまま置いていけばいいのに」と言う。笑顔でその言葉だけは受け取って、部屋を引き上げるときは自分の気配をひとつも取りこぼさないようにした。
自分がされたら嫌なことを、わざわざ人にする趣味はない。もしも他の「彼女」が遼介の部屋を訪れたときに、私の存在が残っていたらどう思うだろう。そんな風に見えない影に怯え続けていた。
遼介は普段は全く連絡をしてこない。上手く気持ちを切り替えることで、複数の女性を愛することが出来るのだろう。
「……ああ、失敗したな」
まだ外は明るい。ふらふらと部屋まで帰り着いて、そのままベッドに横になる。全身を覆う気だるさ。身体の節々が堪えきれないほど痛くて息苦しい。週半ばの今朝。目覚めると、額の辺りが重かった。
夜更かしをしたわけではないのに、なかなか起きあがれない。ようやく上体を起こしたとき、ぐらりとした目眩と共に激しい吐き気を覚えた。それでも気合いだけで出社したのだが、すぐに恵里に見つかってしまう。会社の近くにある内科を診察するようにと言い渡され、さらに上司にまで連絡をいれられた。
インフルエンザではないがウイルス性の風邪につかまったらしい。伝染する危険性があるので3日間は出社停止だと医師にも診断された。紙切れ一枚の診断書を書いてもらう。丁度決算が終わって仕事が暇な時期だったこともあり、気兼ねなく休めるのが幸いだった。
何か栄養のあるものを摂るようにと言われたが、戻りに買い物に寄る元気もない。ぼんやりと枕元の携帯に目をやると、やはり今日は水曜日。週のど真ん中、オフィス街は忙しく機能してる時間だ。
「これなら、週末までには良くなるのかな……」
そんな風に考えてしまう自分が情けなかった。
結局、どんな言い訳をしようとも遼介にとって自分は「都合の良い女」でしかない。セックスの相性が良くて、うるさいことも言わないし何をしても許してくれる。だからこそ、こんなにも長い間一緒にいることが出来たのだろう。遼介が付き合う他の「彼女」は季節ごとにその顔ぶれが変わる。
そっと目を閉じてみる。瞼の裏に残る眩しさが、心の中に空白を運んできた。
こんなひどい風邪をひいたのは、上京して初めてだ。もともと身体は丈夫な方だったし、薬なんて飲まなくてもちょっとくらいの微熱なら一晩寝るだけで復活する。社会人としてめったやたらに仕事を休むわけにはいかないから、インフルエンザの予防接種だけは毎年欠かさなかった。
「……寒い……」
布団は十分掛けているはずなのに、まだ悪寒がしてくる。思わず自分の肩を自分で抱きしめると、ほろりと涙がこぼれた。
ああ、ひとりなんだと思う。ひとりぼっちだ、こんな風にしていても世の中は自分を省みることはなく当たり前のように動いていく。もしかすると、私はもう必要のない存在なのかも知れない。このまま心がひからびてしまっても、悲しむ人なんていないんだ。
どうしてなのだろう、こうして横になっていると悪いことばかり想像してしまう。枕が涙でぐっしょりになる頃、ようやく意識がぼんやりとしてきた。
どこかで私を呼ぶ声がする。懐かしい声、懐かしい風景。ここは家の近くの河原。目の前が覆われるほどの赤とんぼ。
「トワ」
柔らかい声、ぼんやりとぼやけた向こうから何度も何度も繰り返す。必死で腕を伸ばすのに届かない、身体が重くて前に進まない。
「トワ」
影がどんどん大きくなる。強い風が辺りを吹き抜けて、現れたその人は私のよく知っている人だった。
「……りょ、遼介。どうして……」
そんなはずはない、これは何かの間違いだ。何度も何度もそう思い直して確認するのに、遼介の影は悲しげな瞳で私を見下ろしている。
「……トワ……」
何もかもが白く霞んで見えなくなる刹那、私は声にならない悲鳴を上げていた。
瞼を開いた先にあったのは、いつもと同じ自分の部屋の天井だった。
白くてぼこぼこした素材に、貼り付いている照明。いつの間にか窓の外は暗くなっていて、それでも部屋にはちゃんと灯りが点いていた。
「どうした、かなりうなされていたぞ」
突然、そんな声がして横たえたままの身体が跳ね上がる。そんな馬鹿な、この部屋には私しかいないはずなのに。それでも空耳じゃない、これはすぐに耳元で聞こえる声。ゆっくりと首を回して、その存在を確認した。
「りょ……すけ」
かすれた声でそう呼ぶと、彼は少し顔を歪めた。そして、私の額に手を当てる。
「かなり熱いな、薬はちゃんと飲んだのか? もらってきたんだろ」
質問には答えずに、私はただ遼介の動く口元を見つめていた。どうして、ここに彼がいるのだろう。それが不思議でたまらない。
「……なんで……」
今日は土曜日じゃないよ、遼介と会える日じゃない。そう言いたかったのに、上手くしゃべれなかった。
「無理するな、何か食べたいものはあるか? 少しは材料を買ってきたんだ」
必死に起きあがろうとしたのに、強い力で制される。ドア越しに見える玄関に、駅前のスーパーの袋がふたつ転がっていた。そして、慌てて脱ぎ捨てられた遼介の靴。
「ううん、……いらない。何も欲しくない」
必死にこらえていないと、また涙が溢れてきそうだ。今日の私はたくさん泣いたと思う。目だって腫れ上がって真っ赤になっているだろう。身体中が熱くて、喉の奥がかさかさに乾いているのに、それでもまだこみあげてくるものがある。
「そうか、……じゃ、これでも飲んどけ。少しはマシだろ?」
ビタミンゼリーのチューブが頬に押し当てられる。肌に貼り付くほどの冷たさが、この瞬間が夢でないことを教えてくれた。
少しだけ、ゼリーをすすって。そのあと、錠剤を必死に飲み込んで。遼介が作ってくれた昔ながらのゴム製の水枕に頭を沈めた。ごろりと氷同士がぶつかり合う音がリアルに響いて、改めて自分が病人なんだと言うことを思い知らされる。
「も……いいから。帰って」遼介は片時もベッドの側から離れなかった。
私が咳き込むたびに背中をさすってくれて、片手を握りしめてくれる。だけど、そんな優しさが申し訳なくて仕方ない。聞けば、いつも通りに会社の女の子とアフターに食事に行こうとしたところを恵里に呼び止められたんだという。その時に初めて私の病状を知って、慌てて駆けつけてくれた。
「何言ってるんだ、こんなに苦しんでる病人を置いて帰れるかよ」
こんな風に言ってくれるのが遼介なんだなと思う。だからもう、十分だ。
「ううん、……でも、うつるから……」
遼介にだって任された仕事がある、そう簡単に休むわけにはいかない。これ以上私の側にいたら、絶対にうつしてしまう。辛そうな遼介を見るのは嫌だ。
「……トワ」
それなのに。遼介は、ゆっくりと首を横に振って私を見つめる。その瞳の奥が悲しげに揺れていた。
「トワは、もしも俺が風邪をひいて倒れてたら見捨てて帰れるのか? ……そうなのか?」
熱のせいか頭は朦朧として上手く考えがまとまらない。だけど、押し殺したような遼介の想いだけが胸の中に注ぎ込んでくる。身体が繋がってないのに、ひとつになれたみたいな不思議な感覚。黙ったまま、ただ見つめ返す。私にはそれしかできなかった。
「じゃ、隣の部屋にいる。何かあったら、すぐに呼べよ?」
クローゼットを勝手に開けて毛布を取り出すと、遼介はそのままキッチンの方へ行ってしまった。
そして、また夢の続きが始まる。
何度も何度も、数え切れないほど見てきたはずなのに、今日の場面は少し違っている。だって、目の前にいるのは遼介。そう、私から遠ざかっていこうとするのは遼介なのだ。
――駄目だよ、そっちは駄目、行っちゃ駄目……!声にならない叫び、それはいつも同じ。目の前の人はどんどん遠くなる。追いかけなくちゃ駄目なのに、足がすくんで動かない。夢の中の私は、ただ泣くことしか出来なかった。
もうすぐ夕暮れ、視界を染める紅。そう、あの瞬間が来る。それだけは嫌だ、絶対に嫌だ。どうにかして引き留めたい、私がどんなに願っても聞き届けられないのだろうか。
――戻って、遼介。そっちは駄目……! 遼介、行かないで、駄目、行かないで……!
「――トワ!」
無理矢理引きずり上げられるように、意識が戻る。額をだらりと流れる汗、凍り付くほど冷たかった。
「……あ……」
再び視界が滲んでいく。ああ、良かった。遼介はちゃんとここにいる。どこにも行かなかった。心配そうに私を見下ろす瞳、必死に想いを伝えようとして何度も唇が空を切る。
「……りょ……すけ……」
見慣れた顔がぐにゃりと歪んで、次の瞬間強く強く抱きしめられていた。
「トワ……トワ、トワ……」
骨がきしむほどの力で私をしっかりと捕らえながら、遼介は何度も何度も名前を呼んだ。鼻をすすり上げる音、熱く漏れ出る吐息。
……もしかして、泣いてるの? でも……どうして。
「えっ……、駄目だよ。そんな……」
しばらくして、遼介は私を抱えたままベッドに倒れ込む。めくれ上がった掛け布団や毛布をお互いにきちんと掛け直して、それからもういちど私をしっかりと抱きしめた。
何と表現したらいいんだろう、ぴっちりと隙間のない安定感。ようやく私はあるべき場所にたどり着いた、そんな気がしてしまう。
「りょ、すけ? ……言ったでしょう、うつすといけないから。だから、離れて。お願いだから……!」
必死にもがいてみたけれど、遼介の腕は全然緩まらない。それどころか、無駄な抵抗はよせと言わんばかりに束縛の力がさらに強くなる。胸が圧迫されて息苦しい。でも、遼介の腕の中なら大丈夫。酸欠になったって、平気。だけど、……今は駄目だよ。
「馬鹿、誰がそんなこと聞くか。俺は、自分がやりたいようにする。トワが嫌がったって、絶対に離れない。今夜はずっとトワの側にいる」
遼介は震えていた、大きく身体を震わせて、何かと必死に戦っているみたいだった。
何がそんなに恐ろしいのだろう、遼介は何でも持っているのに。充実した仕事、頼りになる先輩や仲のいい同僚。……そして可愛い後輩たち。眩しくて、遠くて、とても私には手に届かないものに思えて、心のどこかではとっくに諦めていた。
私は、遼介の生活の百分の一くらいの部分しか知らない。それでもその場所を与え続けてくれるなら、それだけで満足した振りをしなくちゃいけない。我が儘なんて言ったら、すぐに捨てられる。必要以上に求めちゃ駄目なんだ。そう……思ってた。
「……遼介……」
自分が今出せる全ての力を込めて、遼介にしがみつく。二度とないこのときを、身体に刻みつけたくて。そして、遼介も私の気持ちが伝わったみたいに優しく抱きしめ返してくれた。