scene 9 …


 

「ごめーん、待った?」
  週末の人混みをかき分けて、待ち合わせの場所へと急ぐ。煉瓦造りの古びたビルにもたれかかっていた零士が、私に気付いて姿勢を正した。その襟元にはさりげなく毛織りのマフラーが巻かれている。日が落ちたあとは、さらに冷え込みが厳しくなる季節だ。
「いや、こっちが少し早く着きすぎたんだ。別にいいよ、あちこちに連絡してたから」
  携帯を操作しているのは遠目にも分かったから、誰に送ってるのかなと少し気になった。でも私たちはお互いのことを干渉し合うような仲ではない。零士のプライバシーについて、私があれこれ問いただす権利もないのだ。
  こちらが何も訊ねてないのに、零士の方からあっさりと告げられる。「ほら、見ろよ」とわざわざ確認させられる携帯はシルバーのシンプルなデザイン。仕事用と個人用とふたつを使い分けてるんだって、再会の日に教えてくれた。もちろん私に伝えられたのは、プライベートなナンバーとメアド。
「おなか空いたでしょ、一時間半でも残業は辛いなあ〜。何か、美味しいもの食べにいこ?」
  零士の方から連絡が来たのは、のんびりと一週間後のことだった。
  そう言えばこの前、仕事にもようやく慣れてその分忙しくなったって嬉しそうにこぼしてたっけ。平日のアフターも仕事がらみの付き合いがあれこれ入ってるし、土日は市場調査に駆り出されることになる。新人研修を終えた後輩が下について、その指導にも時間を割かれているらしい。
  別に零士のことなんて卒業以来は本当に思い出すこともなかったけど、ここまでイメージが変わっちゃうなんて驚いた。何というか、昔はこんなに自信たっぷりに話さなかったよね? 軽口なんて飛び出すことは稀で、頑張ってウケを取ろうとすればかえって滑ったりして。何処までも不器用でもどかしくて、側にいるとイライラすることばかりだったっけ。
  人間って成長する生き物なんだなあと言うことを証明するためのサンプルが目の前にいるという感じ。いちいち指摘するほど私は馬鹿じゃないし、そんな自分の中の感情もさらりと流したつもり。翌日に「昨日はどうも」って短いメールを送ったら、「こちらこそ」とこれまた短い返信が来た。
  これだけで終わるんだなって思ったら、少しだけ寂しかった。何となく物足りない、せっかくおなかの底にあったものを吐き出せる相手が見つかると思ったのに、これでお終い? そう思ったけど、こちらから改めて連絡を取ろうという気にはならなかった。変な風に勘ぐられたりしたらたまらないしね。
  だけど、零士の姿を人垣の向こうに見つけたとき、自分の中のわだかまりが一瞬のうちに消し飛んでいた。外見や境遇が変わっても、こうしてふたりで向き合えばあの頃に戻れる。そんなの当たり前のことなのに、何を躊躇していたんだろう。
「ふうん、じゃあ志穂も受け身の恋愛を卒業することにしたんだ」
  都会の駅前ではお馴染みの看板。仕事帰りの若者がごった返す居酒屋のテーブルに向かい合って、まずはビールで乾杯した。こういうオープンな場所を躊躇なく選択できる辺り、構えがなくていいと思う。もしもふたり連れでいるところを知り合いに見られててあとで指摘されても「あれは、友達だから」と戸惑いもなく説明することが出来る。そんな迷いのなさがお互いの心にあるんだ。
「志穂も、って……じゃあ、零士も?」
  まあね、って小さく喉の奥で呟いて。それからポケットの中のタバコを探る。特にこちらに遠慮する素振りもなく、当たり前の仕草で火を付けた。
「この前、志穂が言ってたじゃん。相手主導だと上手くいかないとか何とか。まるっきりそれと一緒、勝手に向こうが盛り上がってそのうちに盛り下がる。こっちが何をしたわけでもないのに、最後は悪者扱いだからな。努力が足りないと言われればそこまでだけど……やっぱなあ、ほとほと懲りたって言う感じかな?」
  零士の言いたいことはまるで手に取るようによく分かった。そう、そうなんだよね。相手に合わせるばっかりだと、いつか自分の感情が悲鳴を上げ始めるの。こんなんじゃやっていけないよ、とかね。確かに最初のうちは楽しい、ただ一緒にいるだけで相手はとても嬉しそうなんだもの。こんな風に大切にしてもらえるならいいかなとか思っちゃうんだ。
  だけどそのうちに心がすれ違い始めて、やっと気付く。自分たちは「恋愛」をしていたわけじゃないんだって。ただ、自分の理想に相手を当てはめて「同じ同じ」って喜んでいただけだったんだなって。その後はあとからあとから「ここが違う、ここが許せない」ばかりが目について、そうなるともう駄目。「こんなはずじゃなかった」へのカウントダウンが始まってしまう。
  だって、一事が万事そうじゃないかな。仕事だったら成果を上げれば職場での待遇も良くなるし周囲の見る目も変わる。上手くいけばサラリーのアップに結びつくことだってあるでしょ? きちんとご褒美がもらえるって分かってれば、それだけ頑張り甲斐もあるというもの。
  でも「恋愛」ってどう? そりゃ、これだけイベント産業ばかりが溢れているご時世だったら、彼氏彼女のいない立場だとやりにくいことも多いわ。バレンタインもクリスマスはもちろん夏のバカンスに出掛けたって、女だらけの集団に身を置いてると「イケテナイ」って自分をマイナス評価してしまう。だからそう言う場所に一緒に連れ立って出掛ける相手がいることは大切ではあるわね。
  確かにそのときは重宝するわ、優越感には浸れるし自分たちもそれなりに楽しいし。乗り遅れなくて済んで良かったなとか、相手に対して素直に感謝できる。でも……そのあとは、ただずるずると惰性が続くだけなのね。次のイベントまではキープしておきたいけどそこまで保つかなとか。冷え切った関係をどうにか修復したいと必死になってると、だんだん虚しくなってくるのね。
  何度も何度もそんなことを繰り返して、本当に情けないなと思った。自分も相手も嫌な思いをして後味悪く終わる恋愛。それって、心の糧になることは絶対ないんだよね。もしも同じ別離だったとしても、そこに確かな愛情があればあとに残るものが全く違ってくるはずよ。
  本当の気持ちを告げることなく終わってしまった片思い。だけど、それが私に与えた影響はとてつもなく大きい。沖田くんに気に入られたくて精一杯背伸びをしていた頃の私は、今とは比べものにならないくらい輝いてた。もう一度、あんな純粋な気持ちで恋愛できないだろうか。もしもそれが叶うとしたら、そろそろタイムリミットだと思う。別に何を焦る気持ちはないんだけど、ひとつ歳を重ねるごとに想像以上に動きづらくなっていく自分に気付くんだ。数年前なら何の躊躇いもなく行動に移せたことが、驚くほどにやりにくくなっている。あと何年かしたら、本当にがんじがらめになっちゃうんじゃないかしら。
「二十五歳」――少し前まで世間では結婚年齢をクリスマスケーキに例えて、イヴ(二十四歳)を越えたことから「売れ残り」とか言われたみたい。未だにそんなことをまことしやかに語っているのは年配の上司くらいのものだけど、やっぱ面白くない気はするのね。
  四捨五入するといよいよ三十になっちゃうし、もうここまで来たら自分の責任で「実」のある人生を切り拓いて行かなくてはならないのかなって思う。「みんながやってるから」って大衆意見に身を任せるのは、そろそろマズイかなとか考え始めたのね。
「そうかー、でも零士の口からそんな言葉を聞くことになるなんて意外。何だかしみじみと時の流れを感じちゃうね」
  あの頃はこんな風に穏やかな心で零士を見ることは出来なかった。ふたりはいつでも共犯者で色々情報を取り合ったりしていたつもりだったけど、実際は自分の目標を達成するために必要な「駒」としか見ていなかったと思う。私、零士に幸せになって欲しいとか全然考えてなかったもの。すごく嫌な奴だったよね。
「年寄りじみた言い方するなよ、急に老け込んだ気分になるだろ?」
  零士は大袈裟に首をすくめると、目を細めて笑った。昔はもうちょっと丸顔だったのに、頬の辺りが引き締まってすっきりしたね。気ままな学生時代とはやはり違う「企業戦士」の輪郭がくっきり表れてる。
  通りかかった店員さんに飲み物の追加を頼む。メニューを広げて「どれがオススメなの?」なんて気軽に質問しているのも新鮮だった。
「冷酒でいいかな? グラスよりもボトルで頼んじゃった方が割安だってことだから、そうしようか」
  訊ねられた言葉には反射的に頷きながら、頭の中では全然別のことを考えていた。四人で行動していた頃。こんな風にオーダーをするのはいつでも沖田くんの役目だった。みんなの注文内容を間違いなくすらすらと告げるその姿に「格好いいなあ」とか思ったのね。
  それに引き替え零士は何を決めるときでも「みんなと同じでいいよ」とか「みんなに合わせるよ」ってそればかり。自分の意見なんて持ち合わせてない感じだった。
「わー、可愛い! 光に透かしてみると瓶全体に桜の花びらが散ってるよ」
  運ばれてきたハーフボトルは、磨りガラス仕様にになっていた。ラベルもすごく可愛くて、このまま飾っておきたいくらい。キャップの部分がピンク色なのもいいな。
  すでにふたりでビールを二本くらい空けてたから、頭がほわんとしてほろ酔い気分になっていた。気を遣わずに遣われずにお酒が飲めるのってすごく気楽。やっぱさ、ぐてんぐてんに酔うのには抵抗があるのよね、だからいつも「もうちょっと」ってところで自分にストップかけてた。
  私の手からボトルを取り上げて、零士はふたつのグラスに同じくらいの分量を注いでいく。透明なお酒は顔を寄せるとどこか花の香り。試しに一口含んでみると、さらっと喉を通り抜けていった。
「……どうしたの?」
  何となく視線を感じて、私は零士の方を向き直った。彼はこちらを見つめていたことすら自分で気付いていなかったみたい、私の言葉で固まっていた表情をふっと崩す。
「あ、……いや何でもない」
  取り繕うように注いだばかりのグラスを一気に飲み干して、零士はまた自分の中の何かを探るように動きを止めた。
「志穂って、こんなだったかなとか思って。もっと、……何て言うかな。大人しくて誰かの後ろに隠れているような印象があったから。だいぶイメージ変わったな、前と」
  そ、そうなのかな? 何だかいきなり指摘されると焦っちゃう。自分では今も昔も自然体でいるつもりなのに、やっぱりどこか違っているんだろうか。
「いや、別に。変だって言ってる訳じゃないから、気にするなよ」
  驚く私の顔がそんなにおかしかったのかしら。零士は二杯目の冷酒を手酌で注ぐと、美味しそうに飲み干す。ピッチ早いなあ、やっぱり接待とかで日夜鍛えてるのかしら。お得意様と呑んだときはちゃんと自宅まで送り届けるまでが仕事だって職場の同僚が言ってたけど、そうなんだろうな。自分が先に潰れちゃったら、まとまるはずの商談もまとまらなくなる。
「そんなこと言ったって、気にしちゃうわよ。失礼しちゃうわ、もうっ!」
  ちょっとふくれてみせるのも、女友達に対して見せている自分に近い姿だった。零士は生物学的には「男性」なんだけど、全然そんなことを意識せずに付き合える存在。異性間の友情って成り立たないって言われるけど、私たちに限ってはそんな心配もないわ。昔もそう思っていたけど、再会した今も変わらない。
「違うよ、魅力的になったなってこと。今の志穂だったら、悠介だって放っておかなかったと思う。きっと直球ど真ん中でストライクだったと思うな」
  その言葉を聞いて、今度は私の表情が固まった。
「い……今更、そんなこと言われたって。嬉しくも何ともないわよ……」
  禁句、だと思ってたのに。だから、こうして再会してからも極力その話題を避けていた。結局のところ私たちにとっての学生時代って、美春と沖田くんの存在なくしては語れないのね。やっぱ仕方ないんだろうなあ、だけどな……。
  零士はそれ以上は話を追わずに、タバコの箱を振って最後の一本を取り出した。火を付けたあと、空っぽになったそれをぎゅうっと握りしめる。アルミの中袋と一緒に、それは瞬く間にねじれた残骸になった。
「――連絡、来たんだ?」
  短い言葉だった。だから、私も一息で返す。
「うん、ハガキだったけどね」
  明るくさざめく店内、カウンターの中の厨房では絶えず何かを炒めたり焼いたりする賑やかな音が聞こえてくる。その音に紛れるように、零士は「俺も同じ」と低く呟いた。

  美春と距離を置いて、新しい仲間と忙しく過ごす毎日。三年生となって専門課程に移ったことから、四人組の解消もそう違和感なく周囲にとけ込んでいた。もちろん旧知の仲である彼らのことは気にはなっていたけど、あまり意識しすぎるとまた前に進めなくなる。
  気の合う友達と優しい彼と楽しく毎日を送っていくことで、私は過去の自分を綺麗さっぱり吹っ切ってしまいたかったのかも知れない。
  沖田くんの両親の経営する会社が傾き始めたのは丁度その頃のこと。
  大口の取引先が突然の倒産、それに追い打ちを掛けるかのように他の取引先からも次々と手を切られる。悪いことは続くと言うけれど、彼にとっても彼の家族にとっても全く予期せぬ出来事だったのだろう。数ヶ月後には、あの大きなお屋敷が売りに出された。
  地方出身者の私や美春にとって、気軽にお邪魔できるその家は憩いの場所だった。気さくでお客を呼ぶのが大好きなご両親は、いつでも嫌な顔ひとつせずどうぞどうぞと招き入れてくれる。ほんのお茶を一杯のつもりが、気が付くと夕食までご馳走になってしまうこともしばしばだった。
「東京にはウサギ小屋のような家しかない、どうしてそんなところに出て行くのか」――都内の大学に進みたいと告げたとき、田舎の祖母はそう言って眉をひそめた。だけど、彼女の言葉が正しくなかったことを私は身をもって知ることになる。
  きらびやかなデパートが建ち並ぶ駅前を少し山の手に上がれば、我が目を疑うほどの閑静な住宅地が忽然と現れた。シャッターの付いたガレージには家族の人数よりも多い高級車が並び、広い庭は綺麗に芝生が植えられてゴルフの練習も出来るようになっている。隅の方には本物と同じ高さに設置されたバスケットゴールもあった。
  玄関を一歩入ると、何とも言えない開放感がある。それはどうしてかと辺りを見回せば、まずはとにかく天井が高い。廊下も両手を伸ばしても壁に手が届かないくらいにゆったりと造られ、案内された客間に至っては一体どれくらいの広さがあるのか見当も付かないほどであった。
  地方の農村に育った私だから、大きな家にも広い庭にも慣れ親しんでいるつもりだった。でも、やはり世界は広い。自分の価値観なんて楽に飛び越えてしまうくらいのものすごいお金持ちが存在する。そして彼らは自分たちの財力をひけらかすこともせずに、実にすがすがしく日々の全てを楽しんでいる様子なのだ。
「気にすることないよ、金は天下の回りものって言うじゃない。変に遠慮される方がやりにくいな」
  沖田くんや彼の両親の好意は少しも押しつけがましいところがなくて、そこがすごいなと思った。本当のお金持ちってこんななんだって思い知らされた感じで。
  たとえば旅行に出掛けるとすごくランクの高いホテルに泊まれたりするのね、しかも破格値で。何故だろうと思ってると「このホテルグループの会員だから、家族料金で泊まれるんだ」って説明された。避暑地には当然別荘があったし、近くに浮かぶ湖には専用のクルーザーも用意されている。何もかもが信じられなくて、まるで夢の中の出来事のようだった。
  自由に使えるお金がたくさんある、でもそれを特別なことだとは思わずに当たり前のように過ごしている。無理のない楽しみ方を知っている人たち、一緒にいるとこちらまで「余裕のある生き方」が出来るような気がしてきた。
  何もないところから一代で事業を叩き上げてきたご両親に対して、沖田くんは生まれながらのいわゆる「お坊ちゃま 」育ち。家業のいきなりの転落に、しばらくは放心状態で何もかもが手に付かない状態だったらしい。大学でも姿を見なくなったし、このまま退学してしまうんじゃないかという噂もちらちら聞こえてきた。
  そりゃ私だって、全く心配じゃなかったと言えば嘘になる。でも一体この期に及んで何と言葉を掛けたらいいものか、それが分からない。他の仲間たちと同じように事態の推移を遠巻きに見守りながら、その一方で変わらず彼のそばにいる美春に強い嫉妬を覚えていた。
  ――そんなに尽くしたところでどうなるの、いい加減に見切りをつければいいのに。
  自分が何も出来ないままでいるというのに、そんな風に考えるなんてお門違いもいいところだ。分かってる、そんなことは分かり切ってる。でも、やっぱり許せなかった。それと同じくらいに許せなかったのは、どろどろな感情を抱く自分自身だ。だから見て見ぬふりをした、彼らの存在を自分の視界から排除する以外に方法はなかったのである。
  沖田くんの両親は地方に住む親戚の家に身を寄せることになった。美春はそれまでよりももっと安く借りられる古いアパートに移って、そこで彼とふたりで暮らし始める。
  彼らの両肩にもまた、多額の借金が負わされた。それを破棄する方法もあったのに、わざわざ大変な道を選ぶなんて。ギリギリの出席日数をキープしてバイトをいくつもはしごして働いて、卒業式当日にさえふたりは多忙を理由に皆の前に姿を見せなかった。
  美春にも将来の夢はあった、でも彼女はそれを捨てて沖田くんと共に生きる道を選んだ。実家からも勘当を言い渡され、何の援助もないままそれでも弱音を吐くこともなく頑張り続けたのだろう。想像するにもあまりあるような大変さ、しかし私には「同情する」という行為すら許されてはいない。
  嫌いになった訳ではなかった、でもふたりを見ているのが辛くて仕方なかった。彼らが仲良く寄り添っているのを見れば、自分の中に嫌な感情がふつふつと湧いてくる。だから離れただけだったのに、どうして事態は思わぬ方向に進んでしまったのだろう。
  窮地に立たされた友人たちを見限った薄情な存在――誰に言われたわけではなくても、心のどこかで私は自分自身を責め続けていた。
  彼らはもう、自分とは全く縁のない人間。そう思わなかったら、とてもやり切れない。唯一残ったのは年賀状のやりとりだけ。そのほかにもぽつぽつと季節の便りが絵ハガキで届くことはあったけど、それらについては一度も返信をしたことはない。私にも今の暮らしがある、いつまでも過去に囚われてはいられないのだから。
  そして、つい先日に届いた写真入りの便り。懐かしい文字の添え書きで、ようやく全ての借金を返し終えたこととそれを期に正式に籍を入れたことを報告された。

  気が付けば、卒業から何年もの時間が過ぎている。その間に確実に愛を育んできたふたりが眩しすぎて、ツーショットの写真を直視することが出来なかった。一体自分は今まで何をしてきたのだろう、結局はこの手の中に何ひとつ確かなものは残っていない。
  もう嫌だ、こんな自分は。今度こそ、今度こそは迷わない。必ず大切なものを手に入れてみせる。
「そうなんだ、零士にも……?」
  何か意外だった。私とは違って、彼らとの付き合いは続いているように見えたから、結婚式には呼ばれただろうと思っていたのに。私の表情の中に何かを汲み取ったのだろう、零士はまた一本新しいタバコに火を付けた。
「本当に入籍だけで、たいしたことはやってないらしいよ。まだそんな余裕もないだろうしな。俺も奴と付き合いがなくなって久しいし、まあそのうちに新居にでも顔を見に行こうと思っていたけど……」
  言葉が途切れるたびに、赤い色がぼんやりと点滅する。零士を取り巻いていく白い煙、彼の心もまたその中に静かに巻き取られていく。
「その前に、こっちもそれなりの『報告』を準備できないと格好悪いかなと思ってさ」
  そろそろ出ようか、半分くらいになったタバコを静かにもみ消すと零士は伝票を手に席を立った。
「……これから、どうするんだ?」
  この前と同じ分かれ道、互いの使っている路線が違うから駅の中までは一緒に入れない。ずるずるといつまでも一緒にいると余計なことを色々考えてしまうから、丁度いいなと思っていた。
「え?」
  薄手のスカーフを巻いただけの襟元が心細い。やっぱり明日からはきちんとマフラーを持参しようと考えていたところだった。
「せっかく告ってくれた相手を断って、勝算はあるのかなと思って」
  零士の首には夕方に出会ったときと同じように短めのマフラーが巻かれていた。ずるいなあ、自分ばっかり。お互いに白い息を吐き出しながらも、こちらばかりが凍えているような気がしてくる。
「何よ、馬鹿にしないで。ちゃんとターゲットくらい決まってるわよ、そうじゃなくちゃ踏み切れるわけないじゃない」
  そう、誘いの言葉をきっぱりと振り切れたのは自分の気持ちがしっかりしていたからだ。
  本社から出向してきている彼。初めて出会ったときから特別の気持ちを感じていた。顔合わせからそろそろ二ヶ月で親しく雑談などは出来るようになったけど、まだふたりきりで出掛けたことはない。でもこちらから誘えば絶対に断られない自信はあった。
  こんな風にときめきを感じるのは本当に久しぶり、恋愛ってやっぱりこんな風に始まらないと駄目だなと痛感してる。彼のことを思い浮かべるたびに、きゅっと胸が痛くなるのがこそばゆくて楽しい。
「ふうん、そうか。やっぱそんなところだろうな」
  ざわざわと賑やかに通り過ぎる人波、零士は私の言葉をゆっくりと噛みしめるようにそう呟くと、そのあとふっと表情を崩した。ポケットから出した右手を真っ直ぐに私の方へと差し出してくる。
「だったら、提案があるんだけど。俺たち、また『同盟』を結ばないか? お互いの恋をお互いで応援するんだ、あの頃みたいにさ。そういうのも楽しいと思うんだ、ひとりだとすぐにくじけそうだしな。志穂に見張っててもらえば、鬼に金棒だ」
  導かれるように私も右手を差し出して、固い握手が結ばれる。私たちの頭上には藍色の都会の夜空が広がっていた。

 

TopNovel短篇集Top>ひとつ向こうの扉・2