scene 9 …


 

 週中の水曜日、メールの着信に気付いたときは正直とても戸惑ってしまった。
  色々迷惑を掛けたんだしね、こちらから連絡を入れてもいいかと考えていたくらいだったのに。思うだけでなかなか実行に移せない辺り、私の中に言葉にならない「迷い」があったのだと思う。
  実際、メールを選択して本文を確認するまでのわずかな間合い、心拍数が倍近くに跳ね上がった気がした。
『今夜、空いてるか?』
  タイトルも前置きもなくて、ただひと言だけ。それなのに、まるで目の前に零士が立っていて、私に向かって話しかけてるみたいに思えた。
『大丈夫だよ』
  さりげなく返信を終えた瞬間に、びっくりするくらい大きな溜息が出る。同じようなやりとり、当たり前みたいに何度も何度もしてきたはずなのに。どうして私、こんなに緊張しているんだろ。本当に変だよ、おかしいよ。今更なんだって言うの。
  熱を帯びた耳の付け根を、冷えた指先でそっと温めてみた。何度も何度も言い訳ばかりを心の中で繰り返す自分こそが何より滑稽であることは、もう十分に承知している。普段通りに仕事をしているつもりでも、気付くと手元がおろそかになっていた。
  すでに日の落ちた駅前広場。少しでも見つけやすくなるようにと考えたのだろうか、零士は街灯の真下に立って待っている。先週までとは違う黒いコート、どこにでもあるようなデザインだけど見覚えのないものだった。襟元にはベージュのマフラーが巻かれている。
「急に呼び出して悪かったな」
  第一声からこんな風に言われたら、こちらも身構えてしまうじゃないの。今夜この場所にたどり着くまで、一体何通りのシチュエーションを頭に描いてみただろう。こんな風に切り出されたら、こうやって応えようとその組み合わせは膨大な数になっていた。
「ううん、そんなことない。週末は全部埋まってたし、かえって良かったよ」
  無難に返答すると、彼の方もホッとした表情になる。「まあ、時期的にそんな感じだよな」とか呟いて、さっさと歩き出した。慌てて後を追いながら訊ねると、ビル街を抜けたところのレストランを予約してあるんだという。
「俺の方も大きなプレゼンを抱えててさ、この先予定がびっちりなんだ。週末からは大阪支社に応援に呼ばれてるし、進み具合によっては長居になるかも知れない。年明けまではずっとそんな感じだろうな」
  ようやく追いつくと、零士は首をすくめてそんな風に話し出す。畑違いで私にはよく分からない単語をいくつも並べながら、今進めている新しい企画のことをかいつまんで説明してくれた。そうなってしまうと、こっちはもう頷くしか出来ない。気の利いた質問とかしてみたくても、付け焼き刃な知識すらもない状態では無理。とりあえず頑張って仕事していることだけは分かったけど。
「そうかー、やっぱりみんな忙しいんだね」
  いつまでも新米気分じゃいられない、若葉マークを盾に甘えていられる時期はとっくに過ぎているんだ。それは私も零士も同じこと、今の職場で生き残っていくためには自分自身で目標を決めてモチベーションを上げていくしかない。ぼんやりしていたら、あっという間に取り残されてしまうんだ。
  最悪の事態も考えていただけに、全然変わってない零士に拍子抜け。思い切り肩すかしにあってしまったみたい、でもこちらから切り出すことも出来ずに話の流れに乗っている。ホッと胸をなで下ろした私は、その瞬間から大切なことを忘れていた。
  身の凍るようなビル風に首をすくめながらようやく辿り着いた店で、食事と共に楽しんだのはグラスワインを一杯ずつだった。渋みの聞いた重めの味で十分に満足する量だったけど、やはりどこか不思議な気がする。今までの私たちって、アルコールで憂さ晴らしをするために会っているようなものだったのに。その歯車が外れて、何となく中途半端な感じがしてならない。
「こういう店は、ひとりでは入りにくいからな」
  柔らかな照明に静かに流れる音楽、豆やポテトが多めの北欧風のメニュー。土っぽい食器がほっこりと温かく、家庭的な雰囲気に満たされていた。確かにカウンター席のない店内には、同伴者がいないと足が向きにくいかな。通りに面した窓はかなり大きく取られていて、外から見ると店全体が巨大な水槽の中みたい。そうなるとお客は否応なしに暖かな風景の一部になってしまうんだ。
「言われてみれば、そうかもね」
  もともと外食なんて、私も誰かと一緒じゃなかったらしないしな。だから素敵なお店を見つければ、すぐさま一緒に来る相手を思い浮かべていた。雰囲気も良くて料理がおいしいなら申し分ない、だけどそのどちらもがそこそこであったとしても気の合う相手と一緒なら心は十分に満腹になれると思う。
  だったら今夜のこの状態も「満腹」って言っていいんだろうな。やっぱり零士って、一緒にいるととても安心できるもの。気負わなくていいと思える相手だから、羽を伸ばしてくつろぐことが出来るんだね。
  忙しいという話は本当なのだろう、店にいた二時間近い間に彼の携帯は四度も震えた。マナーモードになっているそれをカバンから引っ張り出して相手を確認したあとに、「ちょっとゴメン」と席を立つ。待ったなしの連絡だったのだろう。店員に断って店の外に出ると、白い息を吐き出しながら相手先にかけ直していた。
  左手には小さな赤い点滅が見える。それがタバコの火であることにしばらくしてから気付いた。改めてテーブルの上を見れば、置かれた灰皿は空のまま。禁煙席ではないはずなのに、考えてみれば不思議だ。
  しばらくはぼんやりと硝子越しの姿を目で追って、そのあと遅れがちの食事をどうにかしなくてはとナイフとフォークを手にする。どちらかというと零士が話している時間の方が長いのに、何故こんなに差が付いてしまうんだろう。
  気付けばまた自問自答ばかりを繰り返している、今夜はずっとこんな感じだ。
  何かが違う。ようやくその答えに辿り着いたときはもう別れ際。いつも通りに私が乗る路線の改札の前に立った時だった。
  ―― 今夜は一度も「彼女」の話を聞いてない。
  それは私の方も同じだった。零士が話し出さないから、何となくこちらも話題を避けていた気がする。そうか、もう「同盟」は解散したんだもんね。互いの恋を応援する必要なんてなくなったんだから、当然か。もちろんこちらから話を振ることだって出来たはずなのに、そうする気にはなれなかった。
「じゃあ、またな。そのうちに」
  そう言って背を向ける零士。当たり前の情景。私の中に滞るわだかまり以外は、普段と何も変わるものはなかった。

『今朝、戻ってきた。お土産があるけど、今夜はどう?』
  何だかんだ言って、それからも週に一度は連絡を取り合う関係が続いていた。
「どうしているのかな?」と何となく思い浮かんだときに、こちらから声を掛ける前にメールが入る。そんな位置関係も全く変わらない。待ち合わせ場所に出向けば、普段通りの笑顔で迎えてくれた。
「もうすっかりクリスマスムードだなあ……」
  ショッピングモールの中央に据え付けられた巨大なツリーを前に、零士が感慨深げに呟く。私もつられてきらびやかなイルミネーションに視線を向けた。幾重にも交差して絡みついた光のリボンが、立体的な輝きを次から次から角度を掛けて展開している。その根元の辺りではサンタクロースの衣装に身を包んだ人たちが笑顔でチラシを配っていた。
  ―― 今年の予定はどうなってるの?
  何気なく訊ねてしまえばいいのに、それが出来ない。あれきり、一度も話題に上がらない「彼女」。だからその後の進展についてはとうとう訊けずじまいだ。それに、もしも話がそっちの方向に行けば私の近況も話さなくてはならなくなるし。
  糸田くんとはあれきり何の進展もなく、だけど気まずくなることもなくどうにか過ごしている。元々の気の合う職場仲間という位置関係を崩すことなく、互いに一歩踏み出すつもりもないという感じだ。ちょっとがっかりする反面、心のどこかではホッと胸をなで下ろす私がいた。
  背伸びをする恋、頑張る恋。少し前までの私にはそれがたまらなく魅力的に思えていた。どんなに困難だろうとも負けずに乗り越えるからこそ得られる幸せ。ぬるま湯に浸かってただ何となくやり過ごしているだけじゃ見られない素敵な夢を叶えることが出来そうだった。楽な方に流れていたら、いつまで経っても変わらないもの。
  それなのに、……慣れてなかったからかな。出だしから全然上手くいかないなんて、本当に情けないよ。自分を良く見せよう彼の話のペースに頑張って乗っていこうと思うと、かえって上手くいかないんだもの。力みすぎたのかな、……それともここ一番の踏ん張りが足りなかったのかな。
  他の部署の女の子が彼に近づいてきているのを察しながらも、それならそれでいいやと思ってしまう。嫌だな、私の気持ちってそんなに軽いものだったのかしら。「隅に置けないわね〜」なんて明るくちゃかしたりして、どうかしてるわ。かといって、新たに別のターゲットを探す気にはなれないんだな。
  当たって砕けるはずだった。もしも派手に失敗しても、そのときは零士が慰めてくれる。どんなにボロボロになっても大丈夫、躊躇う必要なんてなかった。けど、もう駄目。これ以上のことを話す気にはならない。逃げ場をなくした心じゃ、全力を出し切るのが怖すぎる。
「じゃ、そろそろ行くか」
  大きな住宅地に隣接した場所だから、様々な世代の客層が入り乱れて歩いている感じだ。ひときわ目を引くツリーの前では携帯で写真を撮ったり記念撮影をしたりする人たちもたくさんいてとても賑やか。ひとときのお祭り騒ぎに湧く集団を、私たちは静かにやりすごしていた。
  みんなと一緒になってはしゃぐことの出来ない自分が情けない反面、今年は知らず知らずのうちに踊らされることがなくていいかなと思ってる。ずらりと並んだショップはどこも赤と緑と金銀のクリスマスカラーで彩られて、お馴染みの商品も普段よりもかしこまって見えたりして。赤いケトルにゴールドのリボンが巻かれてるのって、とても不思議な気がした。
  少し前を歩く零士、遅れてあとを追う私。早めの夕食をすでに終えた時間帯でも、アーケードの中は溢れんばかりの人波。ちょっと気を抜くと、どんどん置いて行かれてしまう。私は零士のコートの色を必死に目で追っていた。
  ―― 何で、振り向いてくれないのかな。
  そりゃ、私が道に迷うことがないことは分かってるだろうし。アパートから歩いて十分足らずのこの場所は、私にとっては毎日のように利用する「庭」のようなもの。もしもこのままはぐれたとしても、少しも困ることはない。それよりも初めての場所で迷うことなく歩いていく零士の方がすごいなと思う。仕事柄色々な土地を歩いているって言ってたけど、それで自然と土地勘が養われたのかな。
  再会からの短い間に、私は以前は全く知らなかった零士の一面をいくつもいくつも確認していた。人に合わせてばかりで情けないばかりの奴だって思ってたのに、全然そんなことなかったんだね。ちゃんと自分の意見を持っていて状況に合わせてはっきり言えるし、場合によってはきっちりと主導権を握ってくれる。四人組が空中分解してからあと、彼の周りに見え隠れしていた女の子たちの心境がようやく分かってきた。
  沖田くんに対する私の煮え切らない気持ち、そのままイコール零士の美春に対する気持ちになるんだと信じてた。けど、そんなのは単なる思いこみでしかなかったんだね。くよくよしていじいじする自分と一緒にされて、零士もかなり迷惑だったことだろう。
  それでも優しかったから、私のこと考えてくれてたから。だから同じような振りをしていてくれたんだ。どろどろな心を全部吐き出しても、それでも呆れずに側にいてくれたんだね。
  そして、再会のあのときも―― 私が新しい道にすんなりと進めるようにと見守っていてくれたんだ。
  物言わぬ背中を眺めていると、色々な想いが次から次へと湧いてくる。零士は優しい、だから今でも私に付き合ってくれてる。けど、……ホントのホントは迷惑なんじゃないかな。遠慮して切り出せないだけで、本当はもうこうやって会うことを終わりにしたいと思ってるんじゃないかしら。だとしたら、私はそんな彼に対してどう接するべきなんだろう。
  恋愛の話題を避けてしまうと、私たちには驚くくらい共通の話題がなかった。仕事も畑違いだから、どちらかがしゃべり出すともう一方は聞き役に徹するしかない。それでも聞いてくれるからいいかなとも思うけど、あんまり楽しくもないのよね。
  誘いのメールが来れば、断る理由もないし待ち合わせの場所に出向いてしまう。一緒にご飯を食べてる間はまだいい、それなりに場が保てるから。うん、……何というか。互いに必死で取り繕ってる感じ。自分の心を言葉にして吐き出すのにも疲れて、次第に無口になっていく。そんなときでも零士は私の目の前で静かに微笑んでいて、だけど私としてはどうにもやり切れない状況だった。
  零士の気持ちが分からない。私たち、何のために会ってるの……?
「あー、だいぶ降ってたんだね」
  アーケードが切れて、その先まだ五分ほど歩かないとアパートにたどり着かない。零士の手には紳士物の長傘があった。それを大きく広げる。
  ―― 部屋まで送ってくれるつもりなのかな?
  今日のお店は私が決めた。最近、地元にオープンしたイタリアンレストラン。洒落た外装に惹かれて、一度入ってみたいと思ってたんだ。だけど職場の友人をわざわざここまで誘うのも気が引けて、どんどん先延ばしになってたのね。思い切って提案すると、零士は快諾してくれた。そして路線の違う駅までわざわざ足を伸ばしてくれる。それだけのことがとても嬉しくて、だけどその倍くらい申し訳ないなと思ってた。
  バッグの底を探っていた手を止める。そして何も告げないまま、黒い傘の中に潜り込んだ。その瞬間に零士は驚いた顔で振り向く。午後からは本降りになると天気予報が告げていたのに傘を持ってこなかったのかと言わんばかりの様子で。だけど言葉で直接それを伝えることはせずに、また向き直る。私の肩先がコートの二の腕の辺りに軽く当たった。
  ふたりの視界を染める白い息、頻繁に行き交うカーライト。歩道のない道を端に寄りながら歩く。ふと見れば零士の左肩には雨粒がびっちり付いていた。もう少し寄り添えば濡れずに済むのに、彼はそうはせずに私の方ばかりに傘を傾ける。くっつきそうでくっつかないふたつの影が長く長く伸びていた。
  封印していた話題は、互いの想い人のことだけではない。「あの」夜のことも、二度と零士の口から語られることはなかった。もちろん、謝って欲しいとかそういう気持ちは毛頭ない。あれは互いの合意の上で行われたこと、側に行きたくて寄り添いたくて、だから我慢することなんて出来なかった。
  でも、きっと零士はその後ずっと後悔し続けているんじゃないかな。何でも話し合える気の置けない関係だったのに、一夜限りのことでそれが脆くも崩れてしまったんだと思っている。そうじゃないよ違うよって言って欲しいけど、確信はないし訊ねることも出来ない。ただただ、無駄な時間だけが過ぎていく。
  同じことなら、あのまま音信不通になってしまったなら良かったのに。そしたら、私は「遊ばれた女」として自分を嘆くことが出来た。何食わぬ顔で過ごしている零士はずるい。自らが悪者になる気すらないのかしら。
「ここ、曲がったところだから」
  一度言葉を切って俯く。アスファルトを打ち付ける雨音だけが妙に大きく耳に届いた。
「まだ時間早いし、寄っていかない? お茶くらいいれるよ」
  さりげなくさりげなくと自分に言い聞かせながらそう言い終えて、そこで再び顔を上げる。しかし私の視界に飛び込んできたのは、静かに首を横に振る零士の姿だった。
「いいよ、明日の朝も早いから」
  もう少し強く押せば良かったのかな、だけど私にはそれが出来なかった。そして軒先まで送ってくれた零士を角を曲がって見えなくなるまで見送る。痛いくらい分かっていた、自分の本当の気持ちは。分かっていたけど、どうすることも出来ない。私が一歩踏み出すことは、そのまま彼を傷つけることになる。
  ―― やはり、開けてはならない扉だったのだ。間違えて向こう側を覗いてしまっただけだから、もう一度しっかりと閉じるしかない。

  いつもと同じ時間に目覚まし時計のアラームが鳴る。その瞬間から、すでに「おかしいな」とは思っていた。
  それでもどうにか起き上がり、支度を済ませる。頭全体に広がっていた耐え難い偏頭痛には買い置きの市販薬で対処した。TVのCMと同じで、わずかの時間に痛みは遠のいていく。それでもやはり、体調の悪さは続いていた。
「顔色、悪いよ」
  職場に着いてからも、違う人から何度も何度も同じことを言われた。幸い外回りの入っていない日程だったこともあり、どうにか一日やり過ごす。でも終業のベルが鳴る頃には、再び耐え難い激痛が頭を打ち付けていた。身体全体がだるい、もしかしたら熱が上がってきたのかも知れない。心配する同僚の声に歪んだ頬で対応しながら、早々に帰り支度をした。
『ごめん、今日行けなくなった』――戻りの電車の中からそう連絡すると、すぐに『どうして?』と返事が来た。ただそれだけのことなのに、弱った心で涙が溢れそうになる。『風邪、ひいたみたい。戻って寝るから』自分の打っていたメールの本文がぼんやりと霞んできた。
  何で、待ち合わせをした今日に限って。
  そう思いかけてから、でもこれで良かったんだとすぐに考え直す。ずるずるとこのまま関係を続けていてはいけない、ピリオドを打つきっかけを神様が与えてくれたんだ。
  ひとつ分空いたシートに座り込んで、そっと目を閉じる。思い浮かんでくるのは、幻のような二日間。いくつものシーンが走馬燈のように回る。当たり前のようにさしのべられる手のひら、私のために用意された笑顔。忘れられないぬくもり、うわごとのように繰り返し名前を呼ぶ声。何故、忘れられないのだろう。全部心の中から追い出すことが出来たら、楽になれるのに。
  火照った身体がそれでも求め続ける、ただひとつ辿り着きたいそのぬくもりを。

 

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