scene 9 …


 

「どうしたの? ぼんやりして」
  その瞬間、私はハッと我に返った。
  慌てて顔を上げると、そこにあったのは不機嫌そうな彼の顔。無理もない、だって同じ台詞を数時間の間に何度も聞いているのだから。抑え気味の口調ながら、内心はかなりイライラしているが見て取れる。
「ご、ごめんなさい。何だか、映像がすごすぎて……まだ船に揺られている気分がするの」
  やだ、お皿の上の料理がすっかり冷え切ってる。食事中だったことも忘れてたわ。どうなっちゃってるんだろう、もう。
「それならいいけど。今日は顔色も良くないじゃない、もしかして具合悪いのに無理してるんじゃないよね?」
  慌てて首を横に振って、それから硬くなってしまったお肉を口に放り込んだ。だけど味なんて全く分からない、底の方にこびりついた脂がざらりと舌に当たるだけ。彼の方はもうとっくに食べ終えていたから、無理矢理にでも押し込まなくちゃ。せっかくお薦めのお店を選んでくれたんだしね。
「そんなじゃないから、心配しないで。本当にどうしちゃったのかしら、私ってば」
  あーもう、最低っ!
  せっかく気合いを入れて臨んだ初デートなのに、自分でも情けなくなることばかり。あいにくの雨降りに髪型はちっとも決まらないし、ファンデーションの乗りも悪くて何度も何度もやり直した。とっておきの服もモノクロームな風景の中ではぱっとしない感じだし、おろしたての靴にはすでにいくつもの泥はねが付いちゃってる。
  多分、そんなことの積み重ねなんだと思う。それ以外に原因なんて思いつかないし。
「うん……、いつもと雰囲気違うからさ。望田さんって、職場にいるときの方が元気いいんだね。プライベートはこんな風に大人しいの?」
  どうにかして場を取り繕うとしている努力が見え隠れする言葉たち。でもその裏側にはもうひとつの感情が潜んでいる。
「面白くないなあ」――そう、彼にそう思わせている原因は私だ。並んで歩いていてもすぐに心が違うところに飛んでいってしまって、少しも会話がかみ合わない。
「そうかなー? 普段通りのつもりなんだけどな」
  さりげなく告げたはずの言葉が、私の心の中にすら自然に転がり込んでくることはなかった。

  わずかに明るさを残しただけの空から、銀の糸があとからあとから落ちてくる。
  黒く色を変えたアスファルトの上、所々に水たまり。住宅街の軒先からは夕方の団らんを思わせる笑い声が聞こえてきた。
  ―― ホント、馬鹿みたい。
  何となく予感はあった。こんなことなら、今朝起きたときに予定をキャンセルすれば良かったと思う。そうしなかったのは私自身だから、この結果は仕方ないことなんだ。
  期待が大きすぎたのかな、って気もする。仕事の合間に外回りの移動時間に、さりげない会話を交わすだけでとても楽しかった。だから職場を離れた場所でゆっくりと過ごせたら、さらに素敵な発見があるはずだって信じ切っていたのかもね。
  でも……まさか。自分からブレーキを掛けることがあるなんて。
  時折すれ違う色とりどりの傘。
  でも私の手には何もない。悪いことはさらに重なるものなんだね、シートの手すりに引っかけたまま忘れてしまったことに気付いたのは自動改札を抜けたあとだった。
  すぐに引き返して取り戻すことも出来たと思う。でもそうする気にはなれなかった。特に気に入っていたものでもないし、その気になれば代わりなんてすぐに手に入れることが出来る。でもロータリーに続くガラス張りの売店は中途半端な混み具合。立ち寄る気にもなれなくて、そのまま通り過ぎてしまった。
  傘がない、私。何も遮るものがなく、心の中まで降り注ぐ雨。
  賑やかな商店街をゆっくりと抜けていく。始めて通る道でも、そう迷うことはなかった。
  いつの間に覚えてしまったのだろう、青塗り看板のコンビニの向こうには昔ながらの円柱形のポストを従えたたばこ屋がある。その脇の細い道を通るのが近道、大通りを歩くのとは5分くらいタイム差があるんだとか。
  小さな花弁を揺らすビオラたち、凍えそうにうずくまるその姿に果たして今日は気付いたのかな。それとも足下なんて確かめる暇なんてないほど、浮き足だっていたかな。
「……あ」
  視界が開けると現れる、三階建てのアパート。最上階の左端から二番目の部屋には、すでに灯りがついていた。
  それを期待していたはずなのに、急に足が前に進まなくなる。一度携帯から連絡を入れてみようか、……でもそうすることがかえって迷惑だったりもするかも。電話口に出た声だけじゃ、本当の気持ちが伝わらない。やっぱり直接その顔を見なくちゃ、……だけど何のために?
  ぐるぐると色々な想いが心を渦巻いていく。やっぱり止めようか、でもせっかくここまで来たんだし。
  自問自答を繰り返しながら上っていく外階段。途中まで来て振り返れば、頼りない常夜灯に照らし出されたひとり分の影が頼りなくあとに続いている。本当にどういうつもりなんだろう、私。今更、こんなことをして何が変わるわけでもないのに。
  すぐ脇の大通りには色とりどりのライトが連なって流れている。明るい場所も暗がりも同じように濡らしていく雨。全ての感情を洗い流していくように降り続ける。
  落とし物の心を、どうにかして取り戻しに行かなくちゃ。
「……え、どうして?」
  震える指がようやく届いたインターフォン。少しの時間をおいて、中からごとごとと物音が聞こえてきた。躊躇いがちに開くドア。ほの暗い通路から見上げているせいかな、まるで夢の続きのようにその表情が心許ない。
「ごめん、……その」
  そこまで言いかけて、耐えきれず視線をそらしていた。
  だって、まさかお風呂上がりだとは思っていなかったよ。確かにアポも取らずにやって来た私も悪いけど ……でも。
「お……取り込み中だったね、ごめん出直すわ。じゃ、また――」
  さすがにバスタオル一枚とかそんなきわどい姿じゃない。多分部屋着なのだろう、モスグリーンのスウェット上下、胸元にはスポーツブランドのロゴが見える。
  ほんの一瞬だったのに、そこまでの情報をしっかりと目に焼き付けて。私は慌てて後ずさりした。
「ちょ、ちょっと待てよっ!? 志穂っ、……おいってば……!」
  こういう反応を実は期待していたのかも知れない。今上がってきたばかりの階段を下りかけて、もうひとりの私がそう呟いた。
「―― 待てって!」
  後ろから腕を掴まれる。振りほどくことが出来ないほどの力強さ、どうしたってこれ以上は前に進むことが出来ない。
「何だよ、いきなりやってきて。人の顔を見るなり逃げることないだろ? いいから、ちょっと上がれ。どうしてそんな風に濡れ鼠になってるんだよ」
  俯いたまま、首を横に振る。冗談じゃない、そんなこと出来るわけないじゃない。半開きになったままのドア、そこが彼の帰りを待っている。
「別に……ちょっと通りかかっただけだから。いきなりごめんね、気にしないで部屋に帰って」
  これ以外になんて言うことが出来る? 寒さのせいじゃなくて震えている身体、自分でも上手にしゃべれているか分からなかった。
「え、でも――」
  もう一度振りほどこうと思った腕、予想を超える力で掴み返された。
「ばっ……、何考えているんだよ! 上がれって言ったら、上がれ。遠慮するような仲じゃないだろうがっ!」 
  そのまま半ば強制的に引きずられる。あっという間に私は玄関の中に引っ張り込まれていた。
「―― ほら見ろ、誰もいないだろう」
  ドアのない靴箱には革靴とスニーカーが二足ずつ。そのほかには今彼がつっかけているサンダルだけ。その状況を私が確認するだけの間合いを置いてから、さらに呆れた口調で付け足した。
「それだけ考える余裕があるなら、もう少し気を利かせろよ? 誰だって驚くだろうが、そんな登場の仕方したら」
  手放したら逃げるとでも思っているのだろうか、未だに私の腕は強く掴まれたまま。どう見てもこのまま靴を脱いで部屋に上がれるような状態じゃないのに、それでも無理矢理引きずり上げられそうになる。
「……ま、待って」
  別に怒っている訳じゃない、それは分かってる。こんな風に苛立ってるのも、こちらを心配してのこと。その想いが遮るものが何もなくてストレートに伝わってくるだけだ。
  小さくかぶりを振って、また唇を噛む。開かれたままのドアからふわりと降り込んでくる雨。感覚をなくしたはずのふくらはぎに当たっていく。
「ごめん、……本当に」
  嫌だな、もう。私が考えてることまで、手に取るように分かっちゃうんだね。そうだよ、こんな中途半端な時間にシャワーなんて浴びちゃって。それって……そういうことなのかなって思っちゃったんだもの。
  彼女と一緒にいる部屋に第三者を上げるなんて、いくら何でもそこまで無粋なことを零士がするわけないって知ってる。でも……やっぱり、ね。もしかして、とか考えちゃったよ。
「別に謝ることなんてないから、少しは素直に人の言うことを聞けよ。……ってか、本当にどうしたんだよ。まさか、その――」
  今日が私にとってどんな一日なのか、それは零士だってよく分かってるはず。彼の頭の中でひとつの答えが出たときに、私はまた首を横に振っていた。
「違う、……そんなんじゃないから」
  どうにか気持ちを落ち着けて、しっかりと話したい。そう思う自分の気持ちとは裏腹に、心が雫になってあとからあとから頬を流れていく。
  そう、全部。全部が私の中に滞っている。それが辛くて仕方ない。
「ごめっ、……ごめん。あのね、今日はね……お願いがあってきたんだ」
  こぼれる涙を空いた方の手で拭いつつ、途切れ途切れに話し出す。うん、……そうだね。やっぱりここまで来ちゃったんだし、もう後戻りは出来ないよ。思った通りのことを言わなくちゃ。
「その、……昨日の続き、してもらえないかな?」
  まだ顔を上げる勇気がない。だから、こちらの言葉がちゃんと伝わったかも確認できなかった。
「……な……?」
  理解したのかしてないのか、あやふやな応え方。一度、吸って吐いて。私は胸のドキドキを必死に押しとどめようとした。
「昨日が、終わらないの。このままじゃ、前に進めない。私だけ、ずっとあの場所に取り残されているみたいで……」
  自分でも馬鹿なこと言ってるって分かってる。
  だってあのときに、途中で止めたのは私の方。零士に非はない。自分で中断したことを今更蒸し返すなんてどうかしてるね。だけど、駄目。あのときの気持ちがずっとずっと続いて、歩き出せなくなってる。
  言い表すことも出来ない、あやふやな気持ち。どうにかして打ち崩したい。
「お、おいっ、待てよ。そんなことでベソかいてるのか? 何なんだよ、いい加減にしてくれ。志穂、お前は自分で言ってることが分かってるんだろうなっ!?」
  あー、やっぱりね。泣いてること、ばれてたか。まあ、そうだよね。これだけ側にいて、気付かない方がおかしいもの。
「……駄目……?」
  もう一度、念入りに拭ってから顔を上げたけど。残ったひとしずくが頬をゆっくりとこぼれ落ちていく。
  自分ではね、上手く切り抜けたと思ってたんだよ。
  あの状況で零士の行為を受け入れるのは、絶対に間違ってるって思ったし。なのに、……どうしてなの。そんな私の努力を嘲笑うかのように、あれきり「昨日」が止まってしまった。
  泣いたり笑ったり、本当に忙しい一日だったね。信じられないくらい楽しかったよ、零士と過ごす時間なんて慣れすぎていて今更目新しいことなんて起こることもないだろうなって思ってたのに。
  今までの私たちって、互いの心にわだかまっている想いを吐き出すばかりだった。言いたいだけ言ってすっきりして、それぞれの生活に戻っていく。いつの間にかそんなパターンが定着してた。
  転がり出すはずがないと思ってから、油断してたのかも。本当に馬鹿だな、私。
「駄目って、言われてもなあ……」
  零士、かなり困ってるみたい。そりゃそうだよね、何となく勢いでとかならどうにかなるだろうけど。こんな風に改まってお願いできることじゃないし。
  だけど、私はこれに賭けてみたい。もう一度、しっかりと自分の足で歩き出すために。
  髪も服もぐしょぐしょ、零士に改めて言われるまでもなくかなり悲惨な姿の私だ。同じように空から降ってくる雨なのにね、昨日と今日じゃ全然違うの。ふたりで見た雨の糸は、宝石みたいに綺麗だったのに。
  ―― お願い、零士。私にかけた魔法を解いて。
「……っかた、ねえな……」
  上着の裾で手のひらを拭って、零士は小さく吐息を落とす。
「あんまり期待すんなよ、それほど上手いってわけじゃあないんだからな」
  震える指が、頬に掛かる。言葉通りのぎこちない仕草。そうなんだね、零士はいつもこんな風に誰かを愛するんだ。
「……分かってる」
  軽く上向きにされて、一段高いところにいる零士の顔がゆっくり降りてくる。戸惑いを揺らした瞳を確かめてから、静かに瞼を閉じた。そして、重なり合う鼓動。
  身体の中で唯一熱いその部分に神経を集中させながら、その一方で耳元には雨音が絶えず注ぎ込んでくる。
  ほら、やっぱり。
  こんな風に「昨日」と繋がっていた。もう何も、心配しなくていい。すぐに私の心は新しい空へと羽ばたくことが出来る。そして零士も――そう、零士も。私の知らない場所で幸せになっていくんだ。
「……これで……」
  気の遠くなるくらい長い、だけど本当は一瞬だったかも知れない時間が過ぎて。湿った唇が、かすれた声を落とす。その刹那、私は彼の胸に顔を押しつけていた。
「志穂?」
  さらに背中に腕を回して、しっかりとしがみつく。速くなった鼓動がさらに一度跳ね上がって、すごく驚いてるんだなって分かった。
「……ごめん。少しだけ、このままでいて」
  シャワーを浴びてすぐあとなのに、ほんのり薫るタバコの匂い。零士に染みついた、零士だけの香りがここにある。今、この瞬間にこんなに近くに。
「うん」
  なだめるように、髪を撫でてくれる。分かってるんだね、涙がまだ止まらないでいること。自分でもどうしてなのかよく分からないんだ。悲しいわけでもないのに、ただただ泣きたい気分なの。想いの全てを全部身体の外に流し出してしまいたい。
「……ありがとう」
  温かくて、そこから離れるのは辛かった。でも、どうにか腕をほどくことに成功する。それから、笑顔も。上手に笑えてるかどうかは分からないけど、とりあえずベソかき顔からは解放されたはず。
「もう平気、心配しなくていいよ」
  不安げな瞳には、そう伝えるしかない。全ての想いを込めて、私は精一杯の笑みを浮かべた。
「――零士、これでお終いだよ。同盟も解散しよう、私たち元通り別々に戻らなくちゃ」
  分かっていたはずだよ、頼り過ぎちゃ駄目だってこと。
  愚痴でも弱音でも不安でも何でも全部受け止めてくれる零士が側にいると、ついつい安心しすぎてしまうのが私だった。懐かしさから、つい昔のように付き合ってしまったけど、それも今日で終わりにしよう。
  私の存在は、零士に重すぎる。あまりもたれかかっては、疲れさせてしまうね。
「……」
  そんなに呆然とした顔しないで、だって零士には素敵な未来が待っているんだよ。
「じゃあね、私これで帰るから」
  軽く手を振って、最後はとびきりの笑顔で。ドアをしっかりと閉めたあと、一気に階段を駆け下りた。

  冷たい冬の雨に打たれてるのに、心はホカホカ暖かい。歩いて帰れる距離じゃないのに、どうしようかな。タクシーをつかまえても、きっと変な顔をされてしまいそうだ。
  水たまりを大きく波打たせながら、傍らを車が通りすぎていく。遠ざかっていくライトをゆっくりと見送ったあと、また歩き始めた。
「――志穂っ!」
  闇の向こうから、聞き慣れた声がする。そんなはずはないと思いつつも振り返ると、土砂降りの中をこちらに向かって走ってくる人影を見つけた。一歩進むごとに、大袈裟に水しぶきが上がる。
  ……どうして? 何で追いかけてくるの……?
「ほら、傘。駄目だろ、これ以上濡れて風邪でもひいたら」
  差し出す腕はびしょ濡れ。とても人のことを言えるような感じじゃない。それが分かってるのか分かってないのか、零士は真顔のままだ。無意識のうちに手が伸びて差し出された柄を掴んだのに、まだ向こう側から引っ張られてる。どうして手を放してくれないんだろう、不思議に思って顔を上げた。
「同盟、やめるんだろ? だったら、いいじゃないか」
  何が「いい」のかよく分からない。それにあまりに長い間雨に打たれ続けていたから、いつの間にか現実と幻想の区別も曖昧になっていく。
「とりあえず、部屋に戻ろう。話はそれからだ」
  その言葉に、ただ黙って頷くことしかできなかった。

 

TopNovel短篇集Top>ひとつ向こうの扉・5