scene 5 …


 

「ほら、まりりん。ご挨拶は?」
  彼は手慣れた感じで抱き上げた女の子にそう言った。あんまりに完成された一枚絵に呆然とする。なんて言うんだろ……目前にすると更にまじまじと見比べてしまう。鼻筋とか目尻とか……口元とか。あと、カールしてるまつげとか。
「こんにちはっ!」
  ぴょこんと頭を下げたら、髪の毛のお花もそれがくっついてる一房のしっぽもふわふわと揺れる。私を見つめる笑顔があまりにも綺麗で、子供って残酷だなと改めて思った。
  真っ白な汚れのない存在は、自分の中にあるどろどろした部分を際だたせてくれる気がする。ほんとうはそばにいれば、綺麗な方に導かれて心が浄化されるものなんだろうけど、私はその辺が曲がっているのかな。
「兄貴の子供なんだ」
  ふたりと別れて歩きながら。当たり前といえば当たり前の台詞を彼が言った。
  そうなんだよね、いくら抱き上げたちっちゃな女の子が彼に似ていると言っても、そう言う理由もあるわけで。両親よりも叔父さんや叔母さんに似ている……ってパターンも多い。
  そう聞いてしまえばなんてことないから、私は自分の中に一瞬わき上がった疑惑を恥じた。
「ふうん、かわいいね。うちの兄のところは男の子だから、地味だもんな。なんか、羨ましい」
  高校時代からは色々と変化している。兄弟が結婚して、甥や姪が出来てるなんて私たちの世代なら当たり前なんだ。家にいるのは一番上のお兄さんの子のあの子だけだけど、他の兄弟も結婚していて、もう4人の子の叔父さんなんだよと笑っていた。
  でも……言えなかった。急に無口になってしまった横顔を見てると、いつもなら出てくる冗談も控えてしまう。
  ――ほんとうに、親子かと思ったよ。
  ほっそりしてキュートな奥さんと、かわいい女の子。会長が結婚して家庭を持つとしたら、あんな感じかなと思ってしまった。想像がそのまま現実になることなんてあまりないから、ちょっと当然すぎてびっくりしたけど。
「……行こうか?」
  彼の足は当たり前みたいに、路地裏のホテル街へと向かっていく。あれ、食事はどうするの、と一瞬思ったけど、よく考えればそれほどおなかもすいてない。もう……しばらくの間、私は慢性的に食欲がなかった。その理由は自分でも考えないようにしてきた。
  思い出すことが出来るのは……皮肉にもこうして別の男と会ってるときだけだった。

「似てるって、思ったでしょう?」
  バスルームから髪を拭きながら出てくると、先にシャワーを済ませていた彼はベッドの上でこちらに微笑みかけた。その淡い輪郭がぼんやりと金色の照明に溶けていきそうになって、思わず瞬きした。
「そう……かな?」
  わざと素っ気ない感じで答えると、私も少し離れて座った。彼が腕を伸ばしても抱き取れない場所に。二人きりで空間に閉ざされても、行為に及ぶまではぎりぎり「同窓生」を貫いてた。
「思ったはずだよ、桜さん、驚いた顔してた」
  長い指。細長いボトルを持つと、グラスに注ぐ。透明なピンク色のお酒が、なみなみと満たされていった。
「よく言われるんだ。兄貴よりも俺の子供みたいだって。高校の頃の奴らでも誤解しているのとか多いし。まあ、面倒だからそのままにしているけどね」
  笑い顔が妙に切なく胸に突き刺さる。会長はいつも楽しそうにしてるけど、本当に心から楽しんでいるのだろうかとふと考えてしまう。……考えすぎだといいけど。
「乾杯しようか?」
  恋人同士みたいに二つ並んだグラスの片方を私に差し出してくる。そして、もう片方を自分の手に納めた。
「……どうして?」
  何となく、聞き返してしまった。その行為にそれほどの深い理由なんて必要ないのに。身体を重ね合わせることには抵抗がないのに、ただグラスを合わせることにためらいを感じる。そんな自分が滑稽だ。
「二人の、再会に」
  どこかで聞いたことのあるような台詞を彼は言う。
「何よ、今更」
  差し出されたグラスが音を立てることはなかった。私は一気にピンク色の夢を飲み干していた。
「今更、かあ……」
  空のグラスを受け取りながら、彼がぽつんと言う。そして自分の分はそのまま口を付けずに、元のようにサイドテーブルに置いた。
「あのさ、……桜さん」
  また、しばらくの沈黙が続いた。何となく話題も出尽くした感じで。思い出話ばかりを語り合うのには時間が長すぎた。お互いの「今」や「未来」よりも共有する「過去」ばかりで構成された会話たち。
「俺、もしも桜さんに会えたら、お願いしたいなと思っていたことがあったんだ」
「……え?」
  思わず声の主を振り向いた。かすかにベッドがきしむ。こんなにあからさまに「直前」を過ごしているのに、そこにあるはずの恥じらいがない自分がちょっと情けない。同じ色のバスローブ。一枚を剥ぎ取るだけで、男と女に変わってしまう私たち。
  ――何よ、いきなり。
  そう言いかけた言葉が喉の奥にへばりつく。今までに見たことのない瞳の色がそこにあった。レンズが少しだけ反射してる。でも、彼の表情は全部感じ取れた。
「『ちーちゃん』って、呼んでくれない……?」
  今度の今度は、言葉というものを忘れてしまった。否定も出来なければ、問いかけも出来ない。ただ、あんまりにも突飛で不可解な彼の言葉を頭の中で繰り返していた。
  私の沈黙があまりに長かったんだろう。彼は、静かに視線をそらすと、膝の上で組んだ自分の両手を見た。
「ごめん、いきなり。でもっ……ずっとお願いしたかったんだよ。本当は高校の頃から。でも、こんなこといきなり頼んだら、変だろ?」
「そりゃ……、でも」
  確かに。彼のファーストネームの愛称だったら「ちーちゃん」になるかも知れない。でも、なんで急にこんなことを言い出すんだろう、訳が分からない。
「別に私に頼まなくたって、良かったじゃない。会長はいつでもかわいい女の子と一緒にいたでしょ? 彼女たちに頼めば、喜んで呼んでくれたと思うけど……?」
  当然のことだと思う。ただの顔なじみの私なんかよりも、気心の知れた彼女の方がずっといいはずだ。なのに彼はうつむいたまま、静かに首を振った。
「……違うんだ」
  辛そうな、絞り出すような声。今日の会長はなんだか変だ。ううん……、さっきのあのシーンからおかしくなったと言った方が正確かな? あの素敵なママと女の子に会ったときから、彼のどこかが崩れていた。
「俺っ……、今まで、自分からお願いしてでもそう呼んで欲しいって思った人はこの世に二人しかいないんだよ。でも、ひとりは頼めない。もしも頼んだら……壊れてしまうから」
  彼は膝の上で両手を開いて、そこをぼんやりと眺めた。それからまた元の通りに長い指を組む。重ね合わせたそこが小刻みに震えていた。それから、まるで独り言みたいに、話し出していた。
「好き……なんだと思う。でもっ……、あの人は兄貴のものだから。永遠に封印しなくちゃならないんだ。なのに、向こうはそんなことお構いなしだから。全くの弟扱いをしてくれていて」
  彼は言った。
  ある日突然、家にやってきた年上の女性。最初から、お兄さんの恋人だと知っていた。まだその姿を見る前に、いきなり前触れもなく宝石店に連れて行かれたことがある。今までにないような照れた顔でお兄さんが、一緒に選んでくれと言ったリング。それが彼女の指にはちゃんとはめられていた。
「…………」
  言葉が出てこなかった。綺麗な輪郭が震えて、痛々しくて。そのときまで、私はただ、自分のことだけに精一杯だったんだなって、ちょっと口惜しかった。
  会長だって、人間なんだから。そりゃ、色気のない私に比べたらとても華々しい道を歩いてきたと思う。彼女は途切れなしだったし、そのどれもが素敵な子ばかりだったから。恵まれた、幸せな人だと認識していた。カメラのフィルターをのぞいても、それ以上のものは浮かんでこなかったから。
  もちろん、今だって私の失恋の傷は深い。でも、会長がいてくれたから、ここまでふつうにしてこられた。あの人はもう少しで大阪の本社に行くことになっていて、そのときに結婚相手も連れて行く。そうなるまでの間、もう少しだけは頑張れそうな気がしていた。本当に彼のお陰なんだ。
「『ちーちゃん』って……呼べばいいの?」
  それくらいのこと、何でもない。会長が私にしてくれたことの大きさから考えたら。本当に些細なこと。だけど。私が、ひとことそう言っただけで、彼はうっと呻いて顔を両手で覆ってしまった。
  何が、そんなに悲しいんだろう。分からない。だけど、今までに見たことのない小さな子供のような彼が痛々しくて愛おしかった。
  そっと後ろに回って、背後から広い背中を抱きしめる。ごわついた布が二人を二重に隔てているけど、それでもお互いの距離を縮めたことで、少し分かり合える気がする。
「ちーちゃん、ちーちゃん……泣かないで。そんな風に、泣かないで……」
  そう言ったら、私まで涙があふれてきた。別に悲しくなんてなかったのに、ぽろぽろとこぼれてくるものが止まらない。でも、こんな風に泣ける自分がすごく嬉しかった。ようやく人として生きていけるまでに復活できたのかも知れない。
  この人も、強がっていたんだ。
  すんなりと生きているように見えたけど、色々なものを抱えて、辛い思いだってしてきたんだ。でも、あまりにあっさりとこなしているように見えたから、誰にも気づかれなくて。優しい人だから、他人の痛みはすごくよく分かる。先回りして手を差しのべる。その微笑みの裏にあるものは誰も知らなかった。
  本当の彼は……こんな風に、ずっとうずくまったまま、たったひとつの声を待っていたんだ。

  その晩は、本当に長い時間をかけて、あの人に抱かれた。ぎゅっと閉じたまぶたの裏で、優しかった思い出がいくつもいくつも浮かんでくる。だけどそれを思い出すことは、もう辛いことではなかった。
  あの人に捨てられて、すべてが終わったと思っていた。
  でも、そうじゃない。愛した分、愛された分、私は満たされていた。この恋が終わったからと言って、思い出までがなくなる訳じゃないんだ。私のことを好きになってくれたあの人の存在は、本当にたくさんのことを与えてくれた。
  かすれた吐息が、頬に髪にかかる。絶え間なく繰り返される波の中で、私は何度もあの人の名前を呼んだ。
  次の朝、明るい日差しにふうっと意識の水面に上がってくると、視界の先に白いシャツが見えた。かすかな衣擦れの音。身支度をしている彼。シャワーを浴びて、私が目覚める前に部屋を出る。最初の夜から決まっていた彼のやり方だった。
  私があの人に愛されていたことを認識するために、彼が選んだ方法。そのお芝居に上手に乗っかってあげることも、友情だと思っていた。
  シャツの上に、セーターを着て、髪を整えると振り返る。眠ったふりをしたままの私にそっと近づいて、指先が髪に触れた。
  ぱたん、とドアが閉まる。その瞬間に、私は起きあがった。そして、鞄の中から携帯を取り出す。一番最初に出てきたナンバーをためらうことなくダイヤルした。

「え……? あのっ、何か忘れ物かな?」
  オートロックのドアは、外側からは開かない。シーツを巻き付けただけの私が、そっと中からドアを開くと、彼は驚きを隠せない様子で滑り込んできた。廊下を歩き出したとたんに携帯が鳴ったら、誰だって驚くだろう。着信ボタンを押すより早く、彼は戻ってきていた。
「わ、忘れ物とはちょっと違うんだけど……」
  しっかりと着込んでいる彼に対して、私はあまりにも恥ずかしい格好だ。昨日のままの熱を残した肌を出来る限り隠しながら、愛し合った場所に戻っていった。ベッドの上に腰を下ろすと、ドアの前に立ったままの彼を見つめる。お互いに、ちょっと気まずい感じ。
  それでも私は、何度か深呼吸して気持ちを落ち着けて、それから一気に言った。
「昨日のじゃ、足りないの。こんなままじゃ、来週一週間が保たない。だから……もう一度、お願いしていい?」
「え……、でも」
  思った通りの、表情。当惑した顔がこちらを訝しげに眺めてる。
  絶対に駄目だよって言われたら、諦めるつもりだった。私だって大人なんだから、それくらい出来る。でも――、今日も何の予定もない彼だ。私のわがままにつき合ってくれるかも知れない。
「お願い、……もう一度、夢を見せて」
  彼の腕が私を抱きすくめてくれるまでの時間が、とてつもなく長く感じられた。途方もない時空を超えて、そのぬくもりの中に堕ちたとき、私は促されるまでもなく、きつく瞼を閉じていた。
  ぱらり、と音を立てて、二人を隔てていた布が落ちた。

「あっ……、あふっ……」
  一晩おいたのに、そんなことが信じられないほど、愛し合った痕跡が私の身体に残されている。手のひらの導きに合わせて、言葉よりも早く湧き上がってくる欲求。気づくと、自分から求めるように腰を押しつけていた。
  髪をかき上げて、耳の付け根から裏側、首筋を丁寧に舐めあげていく。そうしながら、胸の先を摘みとられ、指の腹で転がされる。
「うっふ……、はぁっ……!」
  耐えきれずに、高い声が上がった。すると私を愛していた唇が満足そうに、堅くなった頂を含む。ちゅるっとわざと音を立てて、唾液とともにすすり上げた。
  こんな風に身体が好き勝手にたかめられていくことを、恥じる一方で渇望していた。私の中の相反する欲求が交錯する。それだけで脳の中が泡立っていく。
  抱えていた手のひらが身体の側面をなで上げながら、下へ下へと辿っていく。その行き先にある部分は、もう恥ずかしいくらいに潤って待ち望んでいた。長い指がそれを敏感に感じ取る。入り口を指でかき混ぜられただけで、私は悲鳴を上げた。
「くっ……、ふっ!」
  溺れかけた人間が、ようやく水面に辿り着いたみたいに苦しげに息を吐く。ぴりぴりと直接突き刺さる快感。肩を震わせながら、何度も大きく呼吸して、私はふっと薄目を開けた。
「……え……?」
  視界のすぐ先で、驚きを放った顔がこちらを見ていた。
「どうして……」
  眼鏡を外した顔、久しぶりに見た。正確には再会を果たしてからは一度も見たことがなかった。
  いつも私が目を閉じるまで、彼は決して取ることがなかったから。ノンフレームの枠でも、あるのとないのとでは全然顔向きが変わるね。私を愛して、少し濡れた唇。色っぽい輝きが、かすれた声を上げていた。
  私は、自分でも驚くくらい静かに微笑んだ。身体はたぎりそうに燃え上がり、ただひとつの彼の行為を待ち望んでいたけど、その前に、どうしても今日だけは伝えたいことがあった。
  そっと右腕を伸ばす。少し紅潮した頬に指を当てた。思った以上に柔らかくて、しっとりと指先に吸い付いてくる。
「……千春」
  目の前の存在を確認するために、その名前を呼んだ。もしかしたら、きちんと意志を持ってこの人をこう呼んだのは生まれて初めてかも知れない。
「だっ……、駄目じゃないか。魔法が解けちゃうだろっ!? 目は開けるなって、あんなにっ……」
  必死に「あの人」を演じてくれていた。そのために、自分の声も上げずに。ただただ、私の心をあの人に向けるために頑張ってくれていた。
  彼は彼なりの必死の方法で、崩れかけた私を引き上げようとしてくれたのだ。普通に考えたら、ちょっと納得できない倫理に反した行為だったかも知れない。それでも……私がこうして救われたのだから、これで良かったのだと思う。慌てて、身を剥がそうとした身体を追いかけて、上半身を起こす。湿った胸にぎゅっとしがみついた。
「いいの……、だって、もうあの人はいなくなったんだもん。昨日の晩、ちゃんとさよならしたの」
「え……」
  不安定な姿勢の私を支えてくれるために背中に回った腕が、一瞬揺れた。
「それって……、……どういう……」
  どくどくどくと、心臓から血液の送り出される音。こんなに近くで感じ取ったのは初めてだった。細く見える身体なのに、脱ぐとそれなりにきちんと筋肉がついている。逞しい男の人になったんだなと不思議な気がした。
「あなたのお陰で、きちんとお別れできたんだと思う。だから、もう大丈夫。今日は初めから、自分はあなたに抱かれていると思っていたわ」
  それは本当だった。
  最初はあの人のことを思い出すだけで、信じられなくて口惜しかった。何故選ばれなかったのか、私のどこが悪かったのか、それをきっちりと教えて欲しいと思った。……ううん、間違いを正して、私を選んで欲しかった。「やっぱり、桜の方がいい」って、告げて貰いたかった。
  あの人が、私を認めてくれないと、私は生きていけないと思っていたから。
  だけど……、昨日、あの人の笑顔を思い浮かべたら、もう感謝の心しか浮かんでこなかった。愛されていたあの瞬間のきらめきだけが残って、あの人は思い出の中の住人に戻っていった。
「昨日はあなたのお願いを聞いたわ。だから、今朝は私のお願いを聞いて。一度だけ、きちんと愛して。あなたのすべてを……刻みつけて……」
  ……最後だから、と小さく付け足した。今抱かれてしまえば5回目を消化してしまう。私たちは二度と会わない他人に戻るのだ。それを知っていた。それでも……欲しいと思った。
「桜……」
  静かに、ベッドに横たえられる。すぐに彼が上に覆い被さってきて、切ない声で私を呼んだ。たまらずに首に腕を回してしがみつくと、自然な角度で初めて唇が重なり合った。
「これは、新しい契約だからね」
  彼は私をまっすぐに見て、そう言った。燃えるような瞳って、こんなのを言うんだろうか。見つめられた部分が熱を帯びていく。
「桜が、ずっとこれからもそばにいてくれるなら、いいよ。でも……これきりなら嫌だな。俺は桜の思い出にはなりたくないんだ」
「千春……?」
  何で、そんな風に言うんだろう。訳が分からない。だけど……目覚めたくないのは私も一緒。いつまでも漂っていたいと思う。なんだかこの人の隣は心地よくて、全部包んでくれそうな気がするから。でも……私でいいの?
  心がまだ怯えている。そんな私に気づいて、彼が優しく微笑む。
「こんな風に、何度でも抱きたいと思えたのは桜だけだから。桜はいつまでたっても、俺の中から出て行ってくれなかった。やっぱり、特別なんだなと思ったよ」
  遠すぎる季節の中で、何度私たちはすれ違ったのだろう。私のどこが彼を捉えたのか分からない。でも……このままがいい。恋なんてこりごりだったのに、また試してみたくなる。
「ちーちゃん……」
  そう言ってもう一度抱きついたら、彼が恥ずかしそうに身体を震わせた。
「そうやって呼ぶの、今はよしてくれる? 普通の時はいくらでも呼んでいいからさ」
  彼の中に存在する人が何となく分かった気がする。一番大切な人、その人にもう一度巡り会いたかったんだ。そう思ってくれたなら、いいかも知れない。もう……面倒くさいことは考えなくて。

「桜……、桜、綺麗だよ。こんな風に君を独り占めするのが夢だったんだ。でも……夢は夢のまま終わるのかと思っていたから、嬉しかったよ」
「あっ……、はぁんっ……! 千春っ……っ!」
  名前を呼び合うと、それだけ親密に重なり合える気がする。彼が私の中にゆっくりと入ってきたときは、その二人の間に隔てられた薄い膜があるのも忘れて、しっかりと絡み合っている気がした。ぐっと中まで貫かれる。すぐに動こうとはせずに、彼は呼吸を整えながら、何度も私にキスした。それだけが想いを伝える行為のように。
「やんっ……っ、ああんっ! 駄目っ……そんなぁっ……、やっ……!」
  いきなり彼が動き出す。私は信じられないほどの快感の中で、何度も沈んでいきそうになった。頭で考えるよりも、もっと深く、彼を求めていた。難しく考えるよりも、ただただ、ものをねだる子供のように、彼を彼に愛されることを私は望んだ。
  全てを取り払った彼は、私が思っていた以上に激しかった。今までの彼は何だったんだろう。私を探るようなたどたどしい扱い方だったのに。仮面を取り去ると、こんなに変わるものなの?
  そりゃ、彼はこういうことが上手なんだと思う。多分、私には想像もつかないほど、場数を踏んでいるに違いない。だからといって、それを責める気にはならなかった。だって……、今の瞬間、愛されているんだもの。愛されているのは私自身なんだから。
「ああっ……! 桜っ……、このまま……っ!」
  身を起こして、更に激しく腰を打ち付けていた彼が、切なげに呻いた。どくっと、二つの動きが重なる。
「うんっ……、来てっ!」
  受け止めたかった、全てを。たくさんの想いを全部ひとつに押し上げて、彼を彼と私の「今」をひとつにしてしまいたかった。
  愛される果てにある想像のつかないほどのたかみを、私は押し寄せる切なさとともに受け入れていた。

「……桜……」
  まどろみの中から抜け出せない。彼の腕の中で、何度も何度も唇の感触を確かめ合った。
「桜はあたたかいんだ、そばに行きたいな、包まれたいなと思うんだよな。多分、そう思ってる奴は多かったと思うよ?」
「え……?」
  意外な一言に、思わず聞き返してしまう。
「私、そんな女らしくないもん。母性本能のかけらもないって、いつも言われていたよ? ……そんなこといわれたの、初めて」
「えー、そう? それならそれでいいや。桜を独り占め出来るから」
  彼は私を抱き寄せると、くすくすと笑った。
  ああ、どうしよう。もう日が高いなあ……今何時だろう。貴重な日曜日が終わっちゃう。そう思いながらも、また身体が重くなる。うとうとともうちょっとだけ、そう言うのもたまにはいいかな。途切れる意識の片隅で、彼の寝息を感じた。
  私はこれから、新しい夢を見るのだろう。
  だけどそれは覚めることのない、永遠の夢。そう願いながら……。

了(031119>

 

 

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TopNovel短篇集Top>覚めるまで・3

 

……あとがきのような、言い訳のような……
「会長」が誰なのか、おわかりいただけましたでしょうか? 「本家・夏色図鑑」のシリーズものに出てくる5人兄弟の「彼」です。この難しいテーマを最初はシリーズの番外編としてやろうと思っていたんですよね。なんて無謀な私。
元ネタの分からない方には「???」な感じでしょう。まあ、いつも通り、雰囲気で流してください。ちなみに答えは……「さかなシリーズ」の「こうちゃんの弟・大泉千春」くんです(思わず、反転にしちゃったよ)。

※この話にはちょっとした後日談があります。こちらから(短編です)