scene 5 …


 

 愛されてみたい、そう思ったのはいつのことだろう。
  子供の頃からとにかく男っぽくて、女の子ばかりにモテていた。バレンタインにチョコレートを貰うのも当たり前のことだったし、何度かマジになった女子から、ストーカー紛いの行為をされたこともある。私にはそういう趣味はないし、相手を傷つけないように断るのが大変だった。
  クラスの男子とはほんとうに異性と意識しないつきあいをしていた。馬鹿話につきあったり、オタクっぽい話題にも乗ったり……もちろん、恋の相談も受けていた。
  いつだっただろう、高校だろうな。
  いい奴だなと思っていた男子から、いきなり呼び出されて白い封筒を渡された。今時、古風なことをするなと呆れつつも初めての経験にクラッと来る。――お決まりの通り、それは私宛ではなくて同じクラスの女子へのものであったけど。あのときは人並みに落ち込んだりもしたが、わざとおどけて振る舞ってしまった。
「結構見る目、あるじゃない。安心したわ」
  そんな風にからかいながら、照れて赤くなった頬をつついた。
「何だよ〜っ! オトコオンナにそんな風に言われたかねーやっ!」
  ……多分、相手も冗談を冗談で返したつもりだったんだろう。強い力で振り払われて指がじんと痛くなった。でも、もっともっと胸が痛かった。だけどそれを誰にも伝えることは出来ないでいた。
  進学先は女の子ばかりの女子短大。男がいなくなってある意味、せいせいした。

「こんなに早く連絡くれるとは思わなかった」
  一週間と同じあの店のカウンターで、彼が笑う。私のグラスを指で数えて、伝票を手にする。流れるようなその仕草に、黙ったまま従っていた。私にはもう意志というものが存在しなかった。
  オフィスでの私とあの人の関係は、以前と全く変化なかった。恋愛なんて御法度な職場だったから、みんな隠れて気づかれないようにつき合っていた。もちろん、男と女がいれば、そういう関係になるだろう。それが分かっているのに、公然の秘密とされていた。
  そんなカップルたちの中でも、特に巧くやっていたと思う。だから、こんな事態になっても誰一人、私に遠慮する人などいなかった。むしろ、普段抑制されているだけに、わあっと花が開いたようにそこら中でうわさ話が盛り上がった。
  ――嘘よ、嘘。みんな何も知らないんだわ。
「桜くん、これ。10部ずつコピー頼むよ」
  あの人はいつも通りに私をデスクに呼びつけて、仕事を渡してくる。直属の上司なのだから、当たり前のことだ。その関係を疑う人なんて存在しなかった。
  書類を受け取ろうとして、どきりとする。誰にも気づかれない角度で、しっかりと指先が触れ合っていた。
  思わず、顔を上げた。瞳の奥が揺れている。何かを訴えるような、そんな視線だった。
「分かりました、それではすぐに」
  指先を振り切って、きびすを返す。私の痛みはいつも間接的だ。直接身体に受けた傷よりも、もっと深く心に入り込んでいく。
  ……伝えたいことがある、問いただしたいことがある。だけど……、それをして、どうなるの? あの人は戻ってきてくれるの?
  欲しかったのはわびる言葉じゃない。同情を含んだ瞳でもない。ただ、私を愛してくれる、当たり前のあの人がいればいい。
「……好きなのっ、好きっ……! 行かないでっ、離さないでっ……っ!」
  必死にすがりつく腕。絶え間ない波が行き来する白い海の上で、私は目の前にいるはずのあの人に訴え続ける。大好きな笑顔がふわっと湧いてきて、遠ざかっていく。
  ここにいるから、安心してと言うみたいに。しっとりと吸い付いてくる手のひらが、私にいくつもの熱を落としていく。ひとつの返事もくれなかった。でも無言のままでも、優しさは十分に伝わってくる。
「愛してるのっ、誰よりも何よりも好きっ……! だから、捨てないで、置いていかないでっ……!」
  こんなに必死で、誰かに感情をぶつけたことがあっただろうか。さっぱりした性格だと言われていた。「当たり前の女みたいに面倒くさくなくていいよ」という言葉は、最大のほめ言葉だと信じていた。
「へえ、意外と女らしいんだな」
  残業で残っていたとき、あの人がそう言ってくれた。カッターナイフで指先を切ってしまったあの人に絆創膏を差し出した。いつでも鞄に忍ばせてあったものを、ただ取り出しただけのことだった。
「桜くんはみんなが言ってるように、がさつな性格じゃないよね。仕事のやり方を見ていても、よく心配りがなされているし、きめ細やかだよ。君がいてくれると、とても助かるな」
  髪をまとめていないで垂らしたらどうかと言われて、その通りにした。パンツスーツよりもスカートの方が似合うと言われて、慌ててワードローブに加えてみた。爪を磨いてきれいに色づけて、淡い香りのコロンを付けるようになる。
  ふつうで考えたら、当たり前すぎる行為だったかもしれない。だけど……私にしてみれば、最大限の背伸びだったんだ。
「桜、綺麗になったな」
  そう言って、あの人が抱きしめてくれる腕の強さが、好きだった。甘えてもいいのかな、もう強がらなくてもいいのだろうか。当たり前に、身体の緊張感を抜けば、私もただの女になる。
  ……愛される女になれる。
「行かないでっ、嘘よ、嘘でしょっ! どうしてっ……っ!?」
  何故だろう、私。こうして、そばにいてくれるのに、何を嘆いているんだろう。あの人の腕の中で漂いながら、私は胸の中のすべての言葉を吐き出していた。
  かすれた喘ぎ声が、空調の効いた室内に溶けていく。身体の中心から湧き上がってくる愛情が、私のすべてを覆い尽くしてしまう。飲まれてしまいたい、引きずり込まれて、戻れないところまで行きたい。愛される私だけを残して、後は全部消えてしまえばいい。
  激しすぎる逢瀬の後、疲れ切った身体を抱き留められて意識をふわっと宙に溶かしていく。漂っていく想いが一時の安らぎを連れてきてくれる。落ちていくその瞬間まで、髪をなでてくれる柔らかいぬくもりに包まれていた。

「5回だけ」
  何故、彼がそう言ったのか、よく分からなかった。何の得があって、こんなことをしてくれるのか、それも分からない。振られたての女とは言っても、昔なじみは扱いにくい。共通の知り合いも多いし、またいつか出会うこともあるだろう。
  ただのゲームにつき合わされるのも、たくさんだと思ったりもした。まだ、学生の彼にとって、これは暇つぶしのひとつなのかも。
  でも……徐々に降り積もっていく寂しさ。同じフロアにいながら、当たり前に、でも他人行儀なあの人。同僚たちの下世話なうわさ話。私は聞きたくもないのに、あの人の相手が妊娠3ヶ月だと言うことも、もしも結婚してくれなくても一人で産むからと詰め寄ったことも知ってしまった。
「私さ、二股をかけられてたんだよ。多分、向こうもそのことは知らないはず」
  彼が急にバイトが休みになったと言って、明るい時間に落ち合った。とてもすぐに……という気持ちにはなれないし、正直、ちょっと恥ずかしかった。
  クリスマスの晩、サンタクロースのプレゼントを待っていた子供時代のようだ。とっくにサンタクロースは両親だと知っていたのに、それでも信じている振りをした。枕元に知らないうちにプレゼントが置かれている、そのわくわくした気分を味わいたかったから。お互いに分かっているのに、知らない振りをする。そんなくすぐったい気持ちが、知らずに思い出された。
  赤い服も白いお髭もないけど。私の目の前に、今もサンタクロースが座っている。柔らかく額にかかった髪、眼鏡の奥の優しい瞳。変わってないなと驚いてしまう。そりゃ、あのころに比べたらあか抜けてる。でも……彼の中にある一番奥の部分が昔のままだ。
  二人っきりの空間に閉ざされるまでは、私と彼は全くの同窓生。クラスは同じになったことはなかったけど、お互いに顔はよく知っている仲だった。男友達はたくさんいたし、そのうちの一人として認識していた。彼は私たちの学年の生徒会長だったのだ。新聞部の女部長として、カメラを片手に飛び回っていた私。ワイドショーのレポーターよろしく、彼を追いかける企画をやったこともあった。
「ふうん、そうなんだ。器用なんだね」
  変なところに感心している。自分だってそうでしょうに。高校の頃に噂はたくさん聞いたよ。現場だって目撃してる。手当たり次第に女の子に手を付けてるとか、別れても翌日には他の子と並んで歩いてるとか。会長はそんな風に女の子の中を蝶のように飛び回っていた。はっきり言って、男子の間では評判は良くなかったし。
  目の前の指はストローをくるくると回している。カクテルじゃなくて、クリームソーダ。男の人がこんなものを喜んで頼むなんて、意外だった。自分の前にはレモンの飾られたアイスティーが置かれている。今日は冬の初めなのに暖かで、ガラス越しの日差しに温かい飲み物を頼む気がしなかった。申し合わせた訳でもないのに、ふたりとも氷の入った飲み物を注文していた。
  あの指が……私に触れるんだ。
  頭では分かっていた。でも、気づかないふりをしている。もう3回も彼に抱かれていたのに、私たちの間には何の感情もなかった。そして……4回目。折り返し地点をすぎて、残りの回数の方が少なくなったのに、また呼び出してしまった。彼の方から連絡は来ない。いつでも私の意志が尊重された。
  どんなことでもそうなんだけど。物事はちょうど真ん中をすぎると、後は転がり落ちるように進んでいく。上り坂と下り坂。距離は同じはずなのに、感覚としてはだいぶ違って見えてくる。
  前回の3回目までは、彼に連絡を取ることにあまり躊躇はなかった。そりゃ、自分でも馬鹿げたことをやってるとは思う。こんなことをして何の得になるんだろ。でも……「あの人」に会うにはこうするしかなかった。まだ、伝えきれないことがある。この想いをしっかりとぶつけていたら、と何度も後悔した。でも、遅いんだもの。すべてが終わってしまったんだもの。
  ――私の、どこがいけなかったの……?
  会長はどうしてそんなに暖かく微笑んでるんだろう。親しみをたたえた表情が、回を重ねるごとに切なく感じられてしまう。やっぱり終わってしまうんだ。それがだんだん現実に近づいてくる。
「休みだし、何も都心までわざわざ別々に出て行くこともないでしょう?」
  私の今日の誘いに、携帯電話の向こうで彼は当たり前のようにそう言った。
「えっ……、でも」
  どこで誰とすれ違うか分からない地元で、どうして会えるだろう。後からあらぬ噂を立てられるのはたくさんだった。きっと私の方が悪者になる。そんな風な思考が頭の中を巡っていたら、彼は笑う。
「何言ってるの? 『灯台もと暗し』というでしょう、結構見つからないものなんだよ。それに高校の頃の奴らって、みんな家を出て行ってるし、会おうと思っても会えるもんじゃないから。だからおいでよ、こっちだったら桜さんも心配ないでしょ?」
  同じ高校だったけど。会長と私の家は、高校を挟んで正反対の学区はずれに位置していた。小学校も中学校も接点がなくて、部活の大会の地区予選でも対戦ブロックが一緒にならないくらいの。
  私の家は都心に近い交通の便利な場所、対して会長の家はそれに比べるとずっと奥まっていた。まあ、新興住宅地のひとつだし、東京都心まで自宅通勤してる人はたくさんいる。会長だって、都内の大学に通ってるんだし。
  それでもなじみのない景色はどこか他人顔で、駅を降りたとき、あまりの建物の低さと空の広さに驚かされた。
  窓の外が夕暮れ色に染まっていく。私の落としたため息の色に枯れ草色の風景が色づいていくのだ。
  私たちはいくつかの会話をしていたはず。でもそのひとつひとつが頭の中に残らない。思い出の中の住人とは、新しい記憶を辿れない。ともに過ごしたいくつかの季節が私たちを過去に押しとどめる。
「……行こうか?」
  どこかで、食事しよう。彼はそう言って、席を立った。

「何が食べたい? たまにはきちんと飯を食わないとね」
  今まで、こうして会うときはいつもあのカクテルの店。だから、色とりどりのアルコールが私を別の世界に導いてくれた。迷う気持ちもなくなった頃、会長が店に来る。まるでその時間を知ってるかのように。
  だから、返事がすぐには出来なかった。想像つかないんだ、会長と食事をしてる自分が。何を食べたらいいかなんて、彼との間で迷う必要もない。……それなのに。
  夕暮れの時間は短くて、すぐに闇が注ぎ込んでくる。ぽつんぽつんと、店の看板に灯りがついて、いつかきらきらと輝く風景に様変わりした。
  ――夜は、嫌い。だって、誰かに会いたくなる。
  ひとり残されたオフィスで、山積みの書類を片づけていた。上司たちの殴り書きをひとつひとつ解読してデーターに打ち込む。簡単な数字ですら癖があるから、何度も目を細めて確認していた。
「大変でしょう? みんなも桜くんひとりに押しつけなくたっていいのにね」
  そんなこと、期待もしてなかったのに。あの人は外回りの帰りだとわざわざ差し入れを持って社に戻ってきてくれた。別にそのまま帰宅しても大丈夫だったのに。
  簡単な単純な作業だった。ただ、時間がかかるだけ。家に持ち帰ると、ソフトの種類が違っちゃうし、面倒だから電車の時間ぎりぎりまで頑張った方が良かった。同僚たちはデートだ待ち合わせだと言って、そわそわと引き上げていく。残りの仕事を押しつけられても、差し迫った用事もない私には断る理由がなかった。
「よし、俺も手伝おうか……早く終わったら、何か食べに行こう」
  いつでも。あの人は私をひとりの女性として扱ってくれた。だから、嬉しかったんだ。
  二度三度と同じような場面に出くわすと、だんだん待ち望んでいる自分に気づいた。いつの間にか、恋をしている。年上のあの人に追いつきたくて背伸びして、そして気に入られたくて望まれたことは何でもしようと思った。
  愛されたかった。ひとりで強がるのはもうたくさんだったから。あの人の隣で女になっていく自分がまぶしくて、そして怖かった。
「あーっ! ちゃーちゃんだっ!!」
  そのとき、私の過去への思考を吹き飛ばす声がした。小さな子供の声。振り向いてそれを確認する。
  どれくらいぼんやりとしていたんだろう。彼もそれを指摘してくれなかったから、私はいつの間にか自分が見たこともない商店街を歩いていることに初めて気づいた。
「ちゃーちゃんっ!」
  明るい駅前のスーパーマーケット。自動ドアの中から飛び出してきたピンク色の固まり。どれくらいだろう、兄のところの甥っ子と同じくらいかな? ……だったら、1歳半か2歳くらい……? こっちを見て、一生懸命に手を振ってる。
  くるくるのカールした薄茶の髪に丁寧にお花の髪飾りを付けてる。ピンク色のギンガムのワンピースの上に同じ色のモヘアのボレロを着込んで。
「あれ……? どうしたんだろ、こんな時間に」
『ちゃーちゃん』と呼ばれた彼が、慌てて道の向こう側の店先に走っていく。存在を忘れられてしまった鉢植えのように、私はその場にぽつんと取り残された。
  私たちの間を何台かの車が通っていく。女の子のすぐ後ろには髪の長い綺麗な女性。何か話をしてる、でも……聞こえない。
「桜さーん!」
  こっちにおいでよ、という感じで彼が手招きする。髪型だけが私に似てる女性が、こちらを見てにっこりと微笑んだ。小さく会釈する。
  すぐにそちらに渡ればいいのに、私の足は歩道に吸い付いたまま固定されてしまった。いろんな女の子と並んでいる彼を知っていたはずだ。あのころには慣れっこだった情景が、再び目の前に繰り広げられてる。それだけのこと、私と彼は当たり前の同窓生なんだから。
  ……でも。
  彼が抱き上げたピンク色の女の子は……とても、彼に似ていた。

 

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