TopNovel>指先に雨音・1




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 昨日も雨、今日も雨、明日も雨、ずーっと雨。
 べたべたとまとわりつく湿気が次第に肌寒さに変わる夕暮れ。大きく開かれた窓、低く立ちこめた雨雲からまたさらさらと銀糸が落ちてきた。
「あー、やだっ! また降り出した」
 無表情な白いカーテンが大きく揺れて、あたしに戦いを挑んでくる。今日は風向きが悪い、このままだと床がどんどん濡れてしまいそう。面倒だなと思ったけれど、やっぱりここは窓際にいるあたしの仕事だろう。そう思って席を立ち、次の瞬間に微動だにしない背中をちらと睨んだ。
 ―― 全く、腹立つ……っ!
 ずるいよね、自分だけあんな立派な椅子に座って。理事長室のお下がりだって聞いたけど、風紀委員長とは言え一生徒の身の上であり得ないよ。たっぷりした背もたれからも、しっかり飛び出している後ろ頭。今日もこの部屋に入ってから小一時間、ぴんと伸びたその姿勢が一寸たりとも乱れることはない。デスクの引き出しの取っ手はお約束に金ぴかゴールド! もう、どこの成金のつもりかしら?
「だけどなー、閉めると暑いんだよな。全く、今時私立のくせにクーラーもないなんて何時代の校舎よ。ここの卒業生はお金持ちばっかりだっていうもの、みんなでこぞって寄付すればいいんだわ」
 わざと大きな音を立てて窓を閉じ、ついでに溜まりに溜まった鬱憤をぶちまける。我慢に我慢を重ねたけど、そろそろ限界。自分の言葉にやや行き過ぎの点もあるのは承知の上で、それでもしゃべり出したら止まらないのね。
「とりあえず扇風機くらい自前で用意しない? それくらいしてくれても、バチは当たらないと思うんだけどなーっ」
 全く反応のないこの現状。まるであたしがひとりで壁に向かって話し続けてるみたいだ。まあ、それも遠からずって感じ? でもなー、黙ったまんまでいると酸欠になりそうなんだもの。
「―― この軟弱者が」
 そのとき、少しだけ部屋の空気が動いた。もちろん透明な空気が目に見える訳じゃないんだけど、感覚としてね。
「口を動かす前に手を動かせ。こんなに時間をやったのに、まだたったの五頁しか進んでいないとはどういうことだ」
 思わず、びくっとあたしの肩先が跳ね上がった。でも、それは一瞬。その後は何事もなかったかのように静寂が戻る。
「わ、分かったわよっ! やりゃあいいんでしょう、やりゃあ……!!!」
  ここで、ちょっと補足。あたしに背中を向けたまんまの男は、こちらを振り返ってはいない。うん、一度も。
 曲がりなりとも人に仕事を頼んでおきながらよ、あたしが部屋に入ったそのときにもうんともすんとも言わないの。もちろん、今日の分のノルマはちゃあんと用意されていたけどね。毎日あたしが使うことになってる、各教室にあるのと変わらない生徒用の机の上に。
 げー、微かな物音だけでこちらの動きを察したとか遠回しに自慢してる訳? それってすごく性格悪い、最低最悪だよ。まあさ、敵は人間じゃないもん、「大王」だもの。今更それくらいのことじゃ驚かないよ、あたし。
 電卓の細長い液晶画面、浮かび上がる数字を目で追う。
 二桁とか三桁とかの足し算、計算としてはそれほど難しくはないのよ。でもねー、これって手書きだし、ミミズ文字で解読の難しい部分も多いし。だからこそ人力が必要となるんだろうけどね、細かい作業が大の苦手のあたしにはとんでもない拷問だわ。
 でもそれも、今までに幾度となく訴えたこと。何度もやりあっては玉砕して、ついには口を開くのも嫌になった。
「あーっ、もうやだ! 数字なんて見たくないっ……!」
 電卓の打ち込みを再開してから一分足らずで、早くもグロッキーしていた。堪え性がないのにも程がある? まー、そんなとこかもね。だけど、誰だってこの場面にいたらそう思うはず。何もあたしだけが異常じゃないもの。
「騒がしいぞ、少しは黙ったらどうなんだ」
 相変わらず涼しい背中、振り返らず悪態だけをつく。
「元はと言えば、お前が悪いんだろう。自分の立場が分かっているんだろうな、全く馬鹿な女は騒々しいばかりで困る。こっちは助けてやったんだから、感謝されて当然だ」
 ―― ……ぎゅう。
 五寸釘を力任せに打ち込まれてしまえば、あとは押し黙るしかない。それを完全に把握しているからこそ、こんな風に威圧的な態度に出てくるんだろうね。
 本当にコイツときたらとんでもない悪党だわ。そりゃ、見た目も完全に胡散臭いよ? 男のくせに長髪で、しかもブレザーが制服の学校でひとり旧式の詰め襟を着てたりしてさ。またその姿が気色悪いほど似合ってるのが腹立つのよね。顔立ちも少しばかり古めかしいものの、凛とした和風美男子ってとこかな。周囲を見下ろすほどの長身で、肩幅もがしっとしてる割りに無駄な肉とか全然なくて。
 否、それは分からないか。衣替えを終えた六月も半ばなのに、学ランを脱いだ姿って一度も見たことないもの。実はぽっこりお腹の中年太りだったら面白いんだけどなあ〜。
「おい、何が可笑しい」
 ―― やばやば。
 あんまし怒らすと、あとが面倒だしね。ここは大人しく、言われた通りにしましょうか。はー、それにしてもむかつく。むかつくけど仕方ない。奴の言うとおり、元々の原因を作ったのはあたし自身だもんなあ……。
 と。もう一度静かになったところで、コンコンと控えめなノックの音。
「こんにちは、入ってもいいかしら?」
 ガラガラと立て付けの悪い引き戸が開くと同時に、鈴の鳴るような美しい声がした。あたしが顔を上げてそちらを見ると、声の主はにっこりと微笑んでくれる。
「大王」と同じくさらさらの黒髪ストレートを長く伸ばしてて、だけどこっちのがずっと似合ってる。大和撫子を絵に描いたようなこの方こそ、我が校の全生徒の憧れの的、華道部次期部長候補筆頭の高宮楓(たかみや・かえで)さまだ。
「集計、お疲れ様。……あらあら、ふたりして背中を向け合って作業しなくてもいいのに。ふふ、そろそろ一休みしてお茶は如何?」
 憎たらしいのは、あたしの呼びかけにはうんともすんとも言わない大王が、楓さまの言葉には即座に椅子を回して向き直ることだ。そうなのよ、あのご大層なふかふか椅子は回転式、それなのにあたしには無視を決め込むんだものね。
「もう、衛(まもる)に今朝言付けたでしょう? せっかく美味しいお茶を用意して部室で待っていたのに、ふたりともいつまで経っても来てくれないんだから。とうとうこちらから押しかけちゃったわ」
 仏頂面の大王にじろりと睨まれても、相変わらずの神々しい笑顔。知る人ぞ知る、というか学園の全生徒が恐れおののいている「風紀委員長」またの名を「閻魔大王」。楓さまはその男のことをファーストネームで呼び捨てに出来る唯一の人だ。
 半袖の夏服からすらりとした細腕のどこにそんな力があるんだろう、彼女はお茶道具一式の乗ったお盆を片手で軽々と運んでいる。やっぱ、生粋のお嬢様って立ち姿からして違うよなー。……いやいや、そんなことに感心してる場合じゃないし。
「あ、あたしは結構ですから……! まだ片付けなくちゃならない集計もてんこ盛りだし、お茶はおふたりだけでお楽しみください」
 そこまで言い終えた後、私は机と椅子を一緒に引きずって、そう広くない元物置教室の隅っこに遠のいた。鼻をくすぐる特上緑茶のいい香り、だけどそんなもので釣られたりしないんだから。
 正直言って、あたしは楓さまのことも苦手なの。人前で明言するのはさすがに憚られるけど、大嫌いなの。だって、どんなに可憐に美しくたって結局は大王の手先なんだよ? どうして親しくなんてする必要があるのよ、冗談じゃない。なんでこいつらとお茶なんてしなくちゃならないの。
「あら、嫌だ。莉子ちゃんてば、拗ねちゃって」
 あたしの精一杯のトゲトゲ光線を見事にかわして、楓さまは余裕の微笑み。うん、絶対にこっちの気持ちは通じてると思うのね。それなのに、全然動じないの。
「せっかくふたりだけでいたのに、私が来てお邪魔虫かしら? もう、そんな風に仲間はずれにしないで。私、莉子ちゃんのことが大好きなのよ。冷たくされたら、とても悲しいわ」
 ―― ふん、どの口が言ってるんだか。
 完全無視して電卓を叩いてるのに、楓さまはちゃんとあたしのを含めた三人分のお茶を湯飲みに注ぐ。その手つきの美しいこと、見たくもないのに視界の端にばっちりと入ってくる。ついでに早速そのお茶をすすってる大王の姿もね。ああ、本当に胸糞悪い。お下品な言葉も飛び出しちゃうほど、あたしは苛ついてるの。
「莉子ちゃんが衛の仕事を手伝ってるって聞いて、私奮発したのよ? ほら、春月堂期間限定の水菓子。とても綺麗でしょ、本物の花びらが寒天寄せになってるわ。食べてしまうのがもったいないくらい」
「……えっ!!」
 あ、やば。思い切り反応しちゃったわ。
「ね、莉子ちゃん。手を休めて、お茶にしましょう。大変だったのよ、一週間先まで予約でいっぱいで。でも私、莉子ちゃんのために頑張ったの。早朝からキャンセル待ちの列に二時間も並んだのよ」
 言葉だけ聞くと、この上なく恩着せがましい。だけど、楓さまの控えめな微笑みと共に紡ぎ出される調べは、ふわりと極上のメレンゲ菓子のように胸に染みこんでいく。
「で、でもっ。今朝って、横殴りの大雨でしたよっ……!?」
 頑なな決心はどこへやら、結局は食べ物につられているあたし。ああ、情けない。この上なく自己嫌悪だわ。
「ええ、そうだったわ。制服が濡れちゃって、一度自宅まで着替えに戻った程だったもの。だからこそ是非召し上がって、お願い」
 見ると、紫陽花の水菓子はあたしの分のひとつだけ。大王と楓さまのお皿には違う種類のが乗っていた。うわわ、春月堂って「デラックス・ミルフィーユ」だけじゃなくて全てが超人気商品なんだよなー。しかも期間限定と来たら、ほとんど幻。今日のこの機会を逃したら、次に拝めるのは何年後か何十年後か分からない。
「ま、まあ……楓先輩がそこまで仰るなら……」
 ああ、馬鹿。あたしの大馬鹿。
 心ではそう叫びながらも、添えられた竹楊枝を手にしているあたし。へええ、本当に宝石みたい。淡い紫から次第に濃い色への層になっていて、最後にもちもちっとした白い部分がある。縦にほんのちょっとだけすくい取って全部の味を一気に口に入れた。うわわ、すごい! 滅茶苦茶、美味しい……!!
「莉子ちゃん、気に入ってくれた? ふふ、本当に可愛いお顔。嬉しいわ」
 満面の微笑みの楓さま、その隣で仏頂面のままの大王。ああ、何て対照的だなあ。どうしてこんなに違うふたりが恋人同士なんだろう?  信じたくないけど、ここまで仲が良ければ間違いないよなあ。
「おい、さっさと食え。今日のノルマが終わらなくなるぞ? 全く、何をやってものろまな奴だ」
 がっと湯飲みをあおって、それから和菓子を一口に飲み込んで。大王はさっさと自分の席に戻る。
「せっかく人が情けをかけてやったのに、この始末か。いいんだぞ、嫌ならここで辞めても」
 げ、何たる言いよう。至福の瞬間が、みるみるうちに暗闇に浸食されていく。
「あらあ、衛。そこまで言っちゃ可哀想よ。だって、莉子ちゃんも頑張ったのよね? そりゃ、少しヤマが外れたかも知れないけど……」
 どうにかフォローしようとする楓さま。でも、その努力むなしくまるで傷口に練り辛子をすり込まれてる心地になってくる。
 
 そう、全ての根源はあたし。
 五月下旬に行われた初めての定期テスト。もともとそんなに頭の出来が良くない上に、直前に季節外れの大風邪で寝込んでしまった。さらにギリギリになって絞り込んだヤマが全教科で大外れ。気がつけば、後ろに誰ひとりいないぶっちぎりな順位を取ってしまった。
 これでは今や大王の手先となってしまった担任の今井先生も真っ青。何しろ、あたしって「特別枠」の入学生でしょ? このままだと来年度からの受験に影響が出ることになっちゃう。いや、その前に。あたし自身がどうなることか。期末テストの出来いかんで、学園に在籍できなくなっちゃうかも。
 そんな個人的な事情が、何故か大王の耳に入っちゃったのね。
 まあ、それまでもコイツとは色々あったのよ。だって、最初の事件以来もあれやこれやと人の行動に難癖をつけてくるんだから。校内放送で呼び出されるのも、もう慣れっこ。そのせいか、入学して二月半ですっかり有名人になっちゃったわよ。ああ、面倒。正直、転校するならそれでもいいって感じ。
 そんなとき、「指導室」への呼び出しが来たのだ。
「馬鹿か、お前は」
 口を開くのも忌々しいと言った態度でそう吐き捨てると、大王は私の目の前に数字のたくさん書き込まれた書類と電卓を付き出した。聞くと昨年度の部活動の収支報告書の束だという。さらに文化祭とか予餞会とかそういうのも後に続々と控えていた。
「学校側とは話を付けてきた、少しは感謝しろ。感謝したなら手伝え。ま、お前に大したことは出来ないだろうから、俺のやった集計の数字を確かめればそれでいい」
 一体、大王がどんな風に「話を付けてきた」のかは分からない。何ひとつ聞かされてはいない。
 だけど、それまでは首の皮一枚でかろうじて繋がっていただけのあたしの立場が「期末テストで盛り返せばOK」って感じに変わっていた。教科担任の先生方も何かと気に掛けてくれて、授業で分かりにくかった箇所の補習をしてくれたり特別課題を出してくれたりする。ちょっと待遇が変わりすぎて気持ち悪いけど、ここは我慢だろうなあ。
 
「でも、莉子ちゃん可哀想。放課後を毎日潰されちゃ、素敵な彼とデートも出来ないわ。知ってるわよ、莉子ちゃんってモテモテなのね。こんなに可愛いんだから、当然と言えば当然だけど」
 一瞬、ぴくんと大王の肩が上がる。だけどそれ以上は何も起こらず、またすぐに静かになった。もー、そういう誉め言葉もこの人に言われると全く説得力ない。どう考えても楓さまの方があたしよりも何十倍も綺麗だよ、きっと通りすがりの百人に聞いたら百人ともそう言うと思う。
 ……と。
「そ、そんなことないですっ! 嫌だな、楓先輩ってば。全然、そんなじゃありませんって……!」
 そそくさと後ずさりするあたしの後ろ。学校指定のカバンの中で、マナーモードの携帯が震えていた。
 楓さまはこっちを向いてるけど、絶対に気付いてないよね? 優しい微笑みに変化がないのをチェックしながら、あたしはホッと胸をなで下ろしてた。

 

つづく♪ (070826)

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