TopNovel>指先に雨音・7




1/2/3/4/5/6/7/8

  

 暗い空模様に視界がぼやけた夕暮れ。突き当たりの小さな窓は、絶え間なく打ち付ける雨粒で向こうが見えないほどになっていた。
  このままだとガラスが割れちゃうんじゃないかしら、なんか年代物っぽい木枠だしなあ……冷静に冷静にそう考えを巡らしたはずなのに。すぐにまた、目の前がぼーっと霞んでくる。
「もう、莉子ちゃん。いい加減に泣き止みなさい」
 そう言いつつ何度目かの蒸しタオルを差し出してくれるのは、言わずと知れた楓さま。言葉こそはきっぱりと厳しいけど、その響きにはとても柔らかく深い慈悲の心が溢れている。
「う……う、……すみません……」
 ぐしぐしっと顔をぬぐって、それでも溢れてくる涙が止まらない。もう一時間近くこんな感じ。それなのにしびれを切らすことなく付き合ってくれる楓さまはやっぱり学園の全生徒の評判通りの「清らかな天使」なのかな? ここは素直に感謝するべきなんだと思う。
「困ったわねえ、そんなお顔で戻ったらお家の方がとても心配するわ」
 楓さまは小さく溜息をついた後にちらっと腕時計を見る。そうか、クリーニングの仕上がりの時間を待っているんだ。
  あたしの制服、湿った地面の上でブラウスもスカートもどろどろになっちゃって、再起不能の状態だったのね。近所に一時間で仕上がるお店があるそうで、そこに持って行かれちゃった。もちろんお断りしたんだよ、でも楓さまは聞き入れてくれなかったの。そろそろ受け取りに行く時間だ。
 いい思い出がひとつもない華道部の部室。あたしはその奥にある畳敷きの作法室で目を覚ました。
 意識のなかったのはほんの数分のことだったみたい。だから寝かされてすぐに我に返った感じだったと思う。重い瞼を開いたら、一番最初に見えたのは心配そうにあたしを見つめる楓さまの瞳だった。
  誰がここまで運んでくれたのか、それは怖くて聞けなかったよ。いくら放課後で校舎内の生徒の数は減ってるといっても、人目に付かずに移動するのはとても大変だったと思う。
  それから学校指定のジャージに着替えて、ずっとここに座っているというわけ。横になっていてもいいわよって言ってもらったけど、別に疲れているとか眠いとかそう言うんじゃないし。それに……目を閉じるといろいろ思い出しちゃうんだもの。すごく怖くて、怖くて、こうしている間も身体の震えが止まらないの。
 そりゃあ、あたしが馬鹿だったと思うよ。楓さまにもはっきりそう言われた。
「どうして本居君のこと、話してくれなかったの? 彼に良い噂がないことくらい、同級生だったら誰でも知ってるわ。分かっていたら、こんな危険な目に遭わせることもなかったのに」
 そうよ、そうよ。どうせ、あたしが考えなしだって言いたいんでしょ? でも、そんなの分かるわけないじゃない。あたしはまだ、この学園に入学して二ヶ月ちょっとなんだよ? 一緒に入学した仲間のことだって全然分かってないのに、上級生のことまでアンテナを張れるわけないじゃない。
 そして、シゲルも。そんなあたしだからこそ、格好の獲物だと思ったんだろうなあ……。
 前回の今井先生と同じく大王に「御用」されてしまったシゲルとその仲間たち。白馬の王子様よろしく颯爽と現れてあたしを泥沼から救ってくれたと思った彼には、実はとんでもない裏の顔があったのだ。
「使用済み下着売買」―― 本当の名称は分からないけど、何だか信じられないマニアックな世界がどこかにあるらしい。シゲルたちは親しくなった女子高生と契約を結んで、数え切れないほどの小遣い稼ぎをしてたんだとか。
  ほら、あたしが雨宿りをさせてもらった曰くありげなショップがあったでしょ? あそこがどうもその現場だったらしいのね。女の子のスナップ写真を見て、気に入った子の下着を買うんだとか。ぱんつとかストッキングとか……ブラとか。
「……そんなもの手に入れて、何が楽しいんですか?」
 一応、訊ねてみたけど、楓さまは困ったように小首をかしげるだけだった。そりゃそうだよね、きっと女のあたしたちには絶対に分からない領域なんだと思う。かと言って、あたしが男性モノの下着に萌えるかというと……そう言う趣味はないよなあ。
「どうも莉子ちゃんは、ショップのオーナーとか言う人にひどく気に入られちゃったみたいね。あの子のなら絶対に高く売れるから早くモノにしろとかせっつかれて、本居君たちも焦ったみたい。何しろ、こっちとしてはいい金蔓であるのと同時に弱みも握られている訳じゃない。遊びで始めただけなのに、いつの間にか相手の思惑通りに動かされていたみたいね」
 そうか、……そうだったのか。
 でもっ、やっぱひどいよ、シゲルのことをあたしはずっと信じてたのに。シゲルが危険な目に遭っているんだとばかり思って、どうにか助けなくちゃと必死になってたのに。そういう気持ちも利用されてたの? あんなに優しかったのに、それってあたしからぱんつを巻き上げるための演技だったってこと?
 
「今回のことはとてもショックだったと思うわ、でも莉子ちゃんはもうちょっと大人にならないとね。私も驚いたんだから、衛から連絡を受けたときはまさかと思ったわ。ともあれ、何事もなくて良かった。不幸中の幸いってところかしら?」
 楓さまの綺麗な指が、あたしの髪を撫でてくれる。こう言うのも、早紀とかに言わせると「役得」ってことになるのかなあ? だけど、そのために毎度大変な目に遭うなんて冗談じゃないわ。
「……ね、もう泣かないで。制服を取りに行って着替えたら、私がお家まで送ってあげる」
 新しい蒸しタオルを渡してくれてから、楓さまはもう一度腕時計を見る。ひとつ頷いてから立ち上がる姿を見て、あたしは意を決して口を開いた。
「あの、……楓先輩。大王は、……江川先輩は今どこにいるんですか?」

 雨がまた強くなってきたみたいだ。ふたつの校舎を繋ぐ中央通路を進みながら、あたしは水煙に曇る中庭を見下ろした。
 あのまま。
 もしもあのまま、大王が来てくれなかったら。あたしは今頃どうなっていたんだろう。シゲルやその仲間たちに好き放題やられていたのかな?
  そんなのって、ある? 大好きだって思っていた人から裏切られるだけで十分辛いのに、その上の仕打ちなんていらない。ひどいよ、ひどいよシゲル。あたし、本当に信じていたのに。
 楓さまに言われたからじゃないけど。今回のことでは本当に懲りた。男子なんて汚くて卑劣。もう絶対に信じたりしない。人のこと利用して、自分だけ甘い汁を吸おうなんて……そんなの、人間のすることじゃないよ。
「……うっ……」
 前触れもなく起こる身震いに、あたしは学校指定ジャージの上から自分の身体を抱きしめた。楓さまのジャージだから、ちょっとどころじゃなく大きい。はっきり言ってぶかぶか、認めたくないけど特に胸回りが。しかも学年が違うからカラーも違って、なんか不思議な気分。
 これから先、あたしは何度思い出すんだろう。絶体絶命のあのシーン、腕や足を押さえつけられて身動きも取れなくなって。それに……それに。ふくらはぎに感じたひげ面のほっぺ。太ももに一瞬掛かった生臭い息。嫌だ、本当に嫌だ。男なんて、最低。気持ち悪いだけ。
 ぺたぺたぺた。
 上履きの音が誰もいない廊下に響き渡る。楓さまは時間が来たからと言ってクリーニングを取りに行ってしまった。だから今はひとり。
 
  ようやく辿り着いたのは、「指導室」の前。どうしようかと一瞬ひるんだけど、ええいままよと引き戸をノックした。
「何だ」
 中から、とても不機嫌な声がする。ううん、不機嫌なんてもんじゃない、滅茶苦茶に怒ってる声だ。だけどあたし、今日はもっとすごい修羅場をくぐり抜けてきたんだもの。もう大王のことなんて、全然怖くなんてないんだから。
「……失礼します」
 袖に半分埋もれた手で引き戸を開けて、あたしは戸口で礼儀正しく頭を下げた。
「何だ、お前か」
 大王は、いつも通りに自分の机に向かって仕事をしている。今日は何をやっているんだろう。そろばんを使っていないと言うことは、お金の計算じゃないんだよな。
  一瞬だけこちらを見たけど、またすぐに書類に目を落としてしまう。とっとと出て行けってことなのかな、何とも説明のしようがない「近づくな」オーラが漂っている。
 でも駄目、ここでひるんでは駄目。
 あたしは後ろ手に戸を閉めると、一歩だけ前に進んだ。ほんの少しの勇気。雨音が遠く近く聞こえる。くるんくるんの癖毛はちゃんと整えたからそれほど見苦しくないと思う。
「その……先ほどはありがとうございました。ええと、……その。ご迷惑をお掛けして申し訳ございませんでした」
 あたし、きちんと謝ってるよね? どこか変なところはないよね? 祈る気持ちでもう一度頭を下げて、そして向き直る。
 それに合わせたように、大王も顔を上げた。ついでに椅子もこちらに向けてくれる。
「本当に馬鹿な奴だ、これで少しは懲りたか」
 容赦ない鋼鉄の眼差しがあたしを貫く。
 そりゃあね、怒られたって仕方ないと思う。あたしも浅はかだったんだし。大王に無駄な仕事を増やしたんだから、それは申し訳ないと思ってる。あのあと、どうしたんだろ。しかるべき場所にシゲルたちを突きだしたんだろうな。
「はい」
 あたし、今度は目をそらさなかった。真っ直ぐな視線に負けないように、じーっと見つめ返す。唇がぶるぶる震えて、だけど負けちゃいけないと思った。ごくりと息を呑んで、それから切り出す。足の底の床がなくなるほどに心細かった。
「その……、返してください」
 大王は片方の眉をぴくりと上げた。だけど、そこまで。また地獄の門番の顔になる。
「何を返すんだ」
 腕組みをして、椅子の背もたれにふんぞり返って。それでもって、上から目線で言い放つ。怖い、とてつもなく怖い。だけど駄目、負けない。
「返してください、……その、あたしのぱ、ぱんつ」
 もう、顔からは火が噴き出しそう。
 凄い恥ずかしい、どうしてコイツにこんなこと言わなくちゃならないの。予想通り、大王は顔色ひとつ変えない。あたしが赤くなったり青くなったり信号機みたいになってるのに、そんなの全然関係ないんだね。
「―― これか?」
 夏なのに、鎧の如く着込んだ学生服。その胸の小さなポケットから、奴はあたしの大切なものを造作なく取り出した。どこまでも絵にならない光景だけど、この際そんなことはどうでもいい。
「そ、そうですっ! それがないと帰れませんっ、返してくださいっ!」
 石ころをつまみ上げるみたいな手つきの指先に絡みつく水玉パンツ。あたしは、必死で両手を伸ばしてみた。
 だって、これから制服に着替えるんだよ? さすがにぱんつなしじゃ帰れないよ。さっき着替えるときにはどうにか楓さまに気付かれずに済んだ。だけど、これから外に出るとなると……かなり辛いし。
 まさか、こればっかりは楓さまに借りるわけにもいかないしなあ……。
「じゃ、ここまで取りに来い」
 大王はじっとこちらを睨み付けたまま、さらに信じられないことを言う。てっきり投げて返してくれるかとばかり思ったのに、どういうこと? そんな、いつまでも持ってないでよっ! は、恥ずかしいじゃない……!
「なかなか高値で売れるらしいからな。貴重品を手荒に扱っては罰が当たるというものだ」
 ―― なっ、何でっ……!
 ひどい、何でこんな仕打ちするの。ああ、やっぱ楓さまが戻ってから一緒に来てもらえば良かった。コイツだってまさか大切な彼女の前でこんな恥ずかしいことしないよ。だけど、ちゃんと取りに行かないとやっぱ返してくれないんだろうなあ……。
 ええい、ままよっ!
 あたしは大股ですたすたと机や椅子の間をすり抜けて、あっという間に大王の前まで辿り着いた。そしてようやく念願のぱんつに手を伸ばす。でも、指が届くかというそのときに強引に腕を掴まれていた。
「……なっ……!」
 それは、にわかには信じられない状況だった。え? 何でっ!? 何で、あたしは大王にこんなことされてるのっ……!
「……はっ、離してくださいっ! 何してるんですかっ……!」
 慌ててもがいてみたけれど、力の差は歴然としている。ものすごい強さで締め付けられて、窒息しそう。苦しいよっ、首を左右に動かしたら頬に金ボタンがこすれて痛い。
「静かにしろ、騒いだところでここには誰も来ない」
 耳元に地獄を這うように低い、威圧的な声がする。次の瞬間には、楓さまのジャージの上着と体操服と、二枚一緒に脱がされていた。そうなるとあたしの上半身に身につけているのはブラだけ。その申し訳程度のふくらみに、大王の視線が向けられた。
「行儀の悪い猫には、仕置きが必要だ。何故、お前はいつもいつも……っ!」
 前触れもなく立ち上がった大王にそのまま抱えられて、あたしはグランドピアノの奥にあるソファーまで米俵のように運ばれた。
  そのときにもうちょっと抵抗するべきだったんだと思う。けど、……もうあまりのことに頭の中が真っ白になって、自分が今どうするべきかも分からない状態だった。
 古い皮の匂い、背中に感じた次の瞬間には大王の黒い身体がのしかかってくる。
「……っ、嫌っ! ちょっ、ちょっと待ってっ……! やめて……っ!」
 あたし、もう必死で抵抗したんだよ。足でけりつけたり、爪で引っ掻いたり。だけど、全然駄目。そんなの効果の欠片もないの。どうして突然、大王がこんな風にするのか。今日のシゲルの裏切りよりもずっとずっと理解できなかった。
 ……でも。
「暴れるな、……ひどくはしない」
 こんな言い訳したくはないよ。だけどね、途中から。何だか途中から、ちょっとだけ違う感覚が生まれてきた。自分でも説明のしようがない。だけど、……なんて言ったらいいんだろう。
 大王のは、全然嫌じゃない。
「ちょっとぉ……、いやぁっ!」
 もちろん、そうは言ってもやっぱり気持ちいいものじゃないよ。
  大王の骨張った手のひらがあたしの身体を我が物顔に触りまくって、それでもって絶対に触れて欲しくないとんでもない部分にまで進入してくる。けど、その頃には、あたしは抵抗するどころか同調すらし始めていた。不思議な感覚がおなかの奥を中心に身体中に広がっていく。
 荒っぽい行為を続けながら、大王はほとんど何もしゃべらない。聞こえてくるのは、動物みたいなうめき声だけ。ピアノの奥の暗がりではその表情すらうかがえない。あたし、どうなっちゃうの? ねえっ、一体どうしちゃうの……!?
「……んっ、ぎっ……っ!」
 そのとき、下腹部にものすごい威圧感を覚えた。慌てて腰を引こうとするのに、がっちりと掴まれていて全然動けない。すでに自分のモノじゃなくなっている両足を力なく動かしてはみたけど、その痛みはさらにさらに強く激しいものになっていった。
「……莉子……」
 かすれた声が私の上を過ぎり、次の瞬間にはさらなる衝撃が加わった。
 
 ―― こんなの、絶対に我慢できないっ……!!
 
 無我夢中で手を伸ばした先にあった大王の髪を指に絡めて必死で引っ張る。だけど、あたしが覚えているのはそこまでだった。

 

つづく♪ (080209)

<< Back     Next >>

TopNovel>指先に雨音・7