おなかの中に、鉛が埋め込まれてるみたい。
身体中、特に下半身が重くて痛くて、たとえるならスピード違反のブルドーザーにひき逃げされた気分。あ、もしも本当にそうだったら今頃天国に行っちゃってるか。うーん、だるいよう。それでもって、全身が妙に熱っぽいよう。
さらさらさら。
ガラス窓に当たる雨の音に、ふっと意識が戻った。外はだいぶ薄暗くなってるけど今何時頃なんだろう? あたし、どれくらい寝てたのかな。そもそも、何で寝てるの……っ?
急にぶるっと身震いして、そのときにやっと今の状況が見えてきた。
あたし、ソファーに寝かされてる。身体の上にはずしっと重い毛布が掛けられていて……でもその下は何も着てない。うん、何も。何も……ってことは……。
「……っ……!」
もう一度、がくがくって震えて。だけど、大声は出てこなかった。脱力感って言うか、喪失感って言うか、そう言うのにけだるく覆われているみたい。
あたし、……あれだよな。多分、最後に感じた痛みってそういうことなんだよな。
まだ半分、眠っているみたいな気分。あれって、夢? 今のこれも、夢? だってだって、絶対に信じられない。どうして大王が、何であたしにあんなことするのっ!? 違う違う、絶対に違うっ……!
「ちょっと、待てよ! 何だ、このざまはっ……!」
次の瞬間。
あたしの混乱した思考は、耳慣れないその声に遮られた。男の人の声、でも大王のじゃないよ? 全然違う響き。
「あのな、確かに俺は言ったよ? 子猫ちゃんはすごいショックを受けているから、優しく慰めてやれって。だけど、何だってこんなこと―― 」
―― 何? この部屋に、さらに知らない人がいるのっ!?
ここは「指導室」だ。大王の住処だから、奴がいるのは当たり前。でも待って、それ以上の人はいらないからっ。っていうか、大王だっていらないから……!
大声出して叫んじゃっても良かったのに、声が喉の奥に張り付いたまんま。恐る恐る、声のする方向に首を動かす。グランドピアノの影から最初に見えたのは、安楽椅子に座る大王の姿だった。俯いて、頭を抱えてる。だから表情は全然分からない。
「おいっ、衛っ! 何か言えよっ、黙ってたって仕方ないだろっ……!」
……がたんっ!
いきなり何かの倒れる音が部屋中に響き渡る。ハッとして振り返るふたつの影。のろのろと起き上がって音のした方向を見ると、あたしの足の向こうでパイプ椅子がひとつひっくり返っていた。
「……あ……」
目も当てられないほどぼさぼさになっているであろう髪はどうにもならなかったけど、とりあえず毛布で胸元を隠した。
グランドピアノ越し、こちらを見てる長身の男子がふたり。その片っぽは詰め襟姿の大王、でももうひとりは……?
「や、やあ。莉子ちゃん、お目覚め? 気分はどうかな」
細い輪郭、その面差しには確かに見覚えがあった。
だけど、……違うよ? 髪の毛短いし。っていうか、学校指定の体操Tシャツ越しに見える胸元がぺったんこ。せわしなく動く眼差しが何かを必死に探しているみたいだけど、残念ながらなかなか見つからないようだわ。
「だ……誰?」
弟? それともお兄さん? ううん、違う。会ったこともない人から「莉子ちゃん」なんて親しげに呼ばれるはずないし。だけど、……でも。ど、どうなってるのっ!?
それまでのこと。全部全部が吹き飛んで、頭の中が真っ白になってた。
ついさっき、我が身に起こった信じられない災難のこともすでに忘却の彼方。いや、そんなじゃ駄目なんだけど。もしかしなくても白昼堂々、しかも若き学舎(まなびや)の一角で犯罪に巻き込まれたわけで、それは絶対にはっきりさせなきゃならないんだけどっ……!
「か……楓、さま?」
いや、違う。違っていて欲しい、違ってなくちゃ駄目っ!!
そう強く心で念じながらも、ついに口を割って出てきてしまった言葉。その瞬間、あたしの目の前で止まった眼差しが観念したようにふっと細くなった。
「―― とうとうバレちゃったね。ああ、残念。もう少し、お姉様ごっこを楽しみたかったんだけどなー。あ、莉子ちゃん、制服取ってきたよ? 後ろ向いててあげるから、早く着替えて」
グランドピアノの蓋の上、ビニール袋に入った制服が乗せられる。そしてその上に、ちょんと水玉パンツがトッピングされた。
その後に聞かされた「告白」に、またまたびっくり。
「え……じゃあ、何もかもが初めから仕組まれたことだったってこと?」
本当は男のはずの楓さまが見目麗しきお姉様キャラとして君臨してるのも、大王が時代錯誤な姿で風紀委員なんてことをしてるのも、そのどちらもが本人たちの意向とは全く別の場所で取り決められたことだっていうのだ。
そんなの、信じられる? 絶対に自分たちの趣味だと思うじゃない。というか、すごい悪趣味。
「そ。信じる信じないは莉子ちゃんの自由だけどね。俺たちって高宮の爺には絶対に服従なんだ、あの人が白と言ったらカラスの羽だって白く染めなくちゃならないんだよ」
大王は相変わらずあたしの方を見ないし、その上ひとこともしゃべらない。だから、状況説明をしてくれるのは楓さまのジャージを着た男の人だ。
えええ、本当に? この人が本当に楓さま?
あたしがあんまり怪訝な顔をしていたからだろう、彼(彼女?)はようやく見つけ出したウイッグを一度被って声色を変えてくれた。そうされてしまえば、もう信じるほかにないでしょ?
「高宮の爺曰くね、この由緒正しき伝統ある緑皇学園が空前の危機に見舞われている。それを救うのが学園創立に関わった高宮一族の役目だって言うんだよ。だけど、あまりあからさまなことをしたら世間やマスコミが黙っていないだろ? だから、出来るだけ穏便に済ませようってことでこうなったんだ
」
―― あの、どうみても「あからさま」なやり方だと思いますけど。
「もちろんね、莉子ちゃんを巻き込んだのは申し訳ないと思ってるよ。だけどね、君は俺たちが気をつけていてもいつの間にか事件の中核に飛び込んでいるんだから。本当にどうにかしてくれよって感じだった、君が現れてから俺たちはいいように振り回されっぱなしだよ」
大袈裟に首をすくめてカラカラ笑うその姿からは、学園中のアイドルであるその人の面影を探すことは出来ない。でも本物なんだもんなあー、この目できちんと確かめたもの。うーん、だけどまだ信じられないー!
「ふ、振り回されてたのは、あたしの方ですっ!」
でしょ? そうだよね? 夢の高校生ライフも何もかも、出鼻からくじかれて散々。さらにたった今、とんでもない災害に見舞われて。
それなのに「どうにかしろよ」って、絶対に違うから。あたし、悪くないもの。
「ふふ、そうやってムキになるのか可愛いんだよなー。莉子ちゃんって、本当に俺の好みなんだ。どう? これから秘密の恋人にならない? 君のためなら春月堂の期間限定スイーツだって、デラックスミルフィーユだって命がけで手に入れるよ?」
すっと頬に伸びてきた指先はやっぱり「楓さま」のもの。それなのに、すごく力強く男らしく見える。だけどそれがあたしに触れるその直前に、横から飛び出してきた黒い袖にぱしっと叩かれた。
「―― そろそろ帰らないと遅くなるぞ」
目覚めてから、初めて聞いたその声。ハッとして顔を上げる。だけど、立ち上がって支度を始めたその横顔は鋼鉄の如く固まっていて、何の感情も伝わって来なかった。
「えー、じゃあ俺も。莉子ちゃんは俺が家までお届けするよ」
楓さまもぱぱっと支度を始める。私の場合と違って「後ろ向いてて」なんて一切なしね、だからその変貌していく詳細がばっちりと確認できた。
あらかじめ胸パットの入ってるブラを付けて制服を着ると、そこにいるのはスレンダーなのに出るところはちゃんと出ている完璧なスタイル。その後にウイッグを装着すれば、本物の楓さまの出来上がりだ。
「いや、俺が送る」
肩掛けカバンを手にすると、大王はあたしの方を向き直った。
「行くぞ、莉子」
一瞬だけ、本当に一瞬だけ絡み合った視線。たったひとことの中に、色んな感情がぎゅっと詰まっているのが分かる。ううん、分かるって言うのはあたしの思い込みかな? だけど、あたしにはちゃんと聞こえたよ。大王の心の声。
「はっ、はいっ!」
何で、言うことを聞いちゃうのかな、あたし。と言うか、いいのかなこれで。
絶対に駄目だよ、あり得ないよって思うのに。それなのに、カバンを持って大王の後に続く。色んなことありすぎて、そしてこれからも色んなことがありそう。だけど、きっとこれからやっと素敵な高校生ライフが始まる気がする。
外は雨、まだまだ続くじめじめの空模様。でもあたしの心の中では、雲間から太陽が少しずつ顔を出し始めていた。
ひとまず、おしまい♪ (080221)
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