別に後について歩きたい訳じゃない。だけど仕方ないんだよ、目的の方向が一緒なんだから。
誰に言い訳する必要もないのに、あたしは頭の中でそう繰り返していた。話を聞いてくれるのは道ばたの紫陽花たち。彼女たちはさわさわと生暖かい風に花びらを揺らしながら、不思議なふたり連れを興味深く見守っている。うん、何となくだけど「花」って女性名詞のような気がしない?
「お前は駅からバスだったな」
振り向きもせず、大王が言う。何よ、それじゃ誰に向かって話しかけているか分からないじゃないの。まあ、前後左右見渡す限り他に人影もないから、やっぱりあたしに向けての問いかけなんだろうな。
「そ、そうですっ!」
どもった訳じゃないよ、急ぎ足になりすぎて息が切れてるだけ。口惜しいけど、コンパスの差が半端じゃないんだよね。あーしんど。やっぱりコイツの傍若無人さって半端じゃない。
「あの路線はあまり本数がないだろう、時間は大丈夫か」
相変わらず進行方向を向いたまま、だから黒い吹き流しの向こうから声がする。あんなに長いのに、これだけ風に吹かれて絡んだりしないのかしら? うーん、謎だ。
「平気ですっ、朝夕の通勤通学時間帯は二十分に一本出てますから」
気を抜くと遠のいてしまう背中。何であたしはこんなに必死についていこうとしているんだろ。こんな奴、普段だったら頼まれたって一緒にいるのは嫌なのに。……どうして?
「そうか」
短い返答が風に乗ってあたしの耳まで届く。その次の瞬間、びっくりするくらいふたりの距離が縮まった。どうしてなのか一呼吸してから気付く。そうか、大王の歩くスピードがちょっとだけ遅くなったんだわ。その後は、再びお互いに無言。端から見たら、およそ知り合い同士とは思えないふたりだと思う。
そうしているうちに、あっという間に学園の前まで戻ってきて、そのまま校門を素通りして駅前通りへと向かった。大王もそのまま帰宅するつもりだったんだな、あの山のような報告書のチェックは予定通りに進んでいるのかしら。
……いやいや、そんなのあたしが心配することじゃないわ。もともと関係ないことだもの。
目の前を歩いている男は、今のあたしにとってものすごく大嫌いな奴だ。もしも願いが叶うなら、今後一生顔も見たくない。それでいいよって言われたら、どんなに嬉しいだろう。
そして、それは奴にとっても同じことだと思う。なのに融通の利かない男だから職務責任というかそういうものにがんじがらめになって、あたしに関わらなくちゃいけないんだとかいらない使命感に駆られているんだ。あー、よく考えたら可哀想な人ね。
……とと。
嫌でも視界に入ってくるから、気付けば頭の中が世界一気に入らない男のことでいっぱいになってる。雨待ちの薄暗い夕暮れに、さらに気持ちが暗くなってしまうわ。
そんな風にしてたからかな、カバンの中で鳴り響く携帯の着信音にしばらくの間気付かなかった。
「おい、鳴ってるぞ。お前のじゃないのか?」
遙か前方から後ろ向きのまま指摘されて、ハッとする。あー、そうだ、携帯携帯。今朝、着うたを変えたばかりだったから、ついうっかりしちゃった。
「はい、もしもしっ!」
慌ててたからね、相手を確認する暇もなく受けちゃったよ。だって、だいぶ長い時間待たせちゃったし。早くしないと切れちゃいそうだったから。
「莉子?」
すぐに明るい声が戻ってきて、心臓の音が跳ね上がる。ひゃあ! ちょ、ちょっと待ってっ! シゲル? シゲル……!? わー、よりによってこんな時にっ!
「な、何? 急にどうしたの?」
思わず立ち止まったわよ、前を歩く男に会話を聞かれたくないもの。別に後ろ暗いことがある訳じゃないけど、やっぱ身構えちゃう。
「……どうしたの、って。用がなくちゃ、電話しちゃ駄目なのかよ?」
うわあ、シゲル怒ってるよ。こんなに機嫌悪い声、初めて聞いた。だけどだけど、タイミングが悪すぎるんだもの。……ねえ。
「そ、そんなことないっ! 全然オッケーだよっ!」
焦ってそう答えつつ、あたしの視線は前を行く男を確認していた。やだーっ、さっさと歩いていってくれればいいのに、何立ち止まってるのよ。これじゃ、込み入った内容を話せないじゃない。全く、プライバシーの侵害も甚だしいわ。
「ならいいけどさ。お前、なんかいつもと違わないか? 取り込み中とか?」
ううん、違わないよと言いたいけど。これってどう考えても不自然よね、何しろ微妙な距離に大王がいるから、シゲルを名前で呼べないし。
「ま、いいや。―― そうそう、莉子って明日の放課後空いてるか? ちょっと付き合って欲しいんだけど」
上手く会話を繋げられないままのあたしなのに、シゲルはいつも通りの明るさで話を続けてくれる。ホント、優しいよなあ。こんな風にされていると、内緒で後をつけたりしている自分が申し訳なくなっちゃう。でもでも、それもシゲルのためだもの。
「え? 明日……放課後でいいんだね? 大丈夫だよ、空いてるーっ!」
あ、やば。思いがけないお誘いだったから、嬉しくてついつい声が大きくなっちゃった。慌てて確認すると、大王はさっきと同じ場所にまだいる。だけど、進行方向を向いたままだから何も聞こえていないんだろう。
「良かった。莉子は何かと忙しいからな、前もってアポとっとかないと。じゃあ、明日。楽しみにしてるよ」
シゲルの軽い笑い声の後ろで、何かの止まる音がした。……オートバイ、かな? 独特のエンジン音とそれに覆い被さる叫び声。もう一度はっきり確認したい、と思ったときにいきなり通話が途切れた。
「すみません、お待たせしました」
終わり方が唐突だったから、ちょっとびっくりしたけどね。それと同じくらいホッとしたのが正直なところ。このまま延々と話し続けられたら、いつかボロが出てしまいそうだったもの。あたしはカバンに携帯を放り込んだあと、大王のところまで駆けつけた。別に謝る必要もないかなと思ったけどね、とりあえず礼儀はわきまえないと、だし。
「別に、お前を待っていた訳じゃない」
それなのに。大王ときたら、そんな風に言うんだよ。次の瞬間には元の通りに大股で歩きながら、呆然としたあたしを置き去りにあっという間に遠のいていく。
―― なっ、何よっ! 馬鹿っ!
あー、腹立つっ! どうして駅までの道ってひとつしかないの? 他に脇道とかあれば、すぐにそっちに進路を変更するのに。奴が前を歩いていく以上は、後についていくしかないじゃないの。
生暖かくて湿った風。だから梅雨は嫌いなのよ。何というか必要以上にいろいろ考えたりしちゃうから。雨空も嫌い、そして大王のことも大嫌い。だから放っておいてよ、あたしになんて関わらないで。ひどい言葉ばかり聞かされるんだったら、いっそのこと完全無視された方がマシだよ。
「明日も予定があるのか」
別れ際、と言うのかな。駅のロータリーのところまで辿り着いたところで、大王がぽつりと呟いた。
「あ、……はい」
高架下の通路に向いていた足を止めて、あたしは小さく頷く。
あ、やっぱり聞こえてたんだな。でも、盗み聞きされたことには不思議なくらい腹が立たなかった。それよりも―― ただ返事をしただけなのにね、何だかすごく申し訳ないことをしちゃったようなそんな気分になる。
あたしがちょっとばかり手伝ったとしても、この人の仕事が楽になるはずもないのに。あたしなんて、いてもいなくても変わりないのに。だから、……気にする必要なんて少しもないのに。
刹那、駅から溢れ出してきた人波にあたしたちは引き離された。それでも大王の後ろ姿は、たくさんの人垣の向こうにちゃんと確認できる。
だから、あたしは。
彼が商店街の角を曲がってすっかり見えなくなるまで、ずっとずっと見送ってしまった。
……なーんだ、鍵が掛かってるのか。
翌朝。
あたしは普段よりも一時間も早く登校した。まだ人気もまばらな校舎をぐるりと進み、やって来たのは「天敵」の住処。でも、のっぺりとした無表情な引き戸には時代錯誤なダイヤル式の鍵がはめられていた。そう、数字を合わせると留め金が外れる奴。確か「南京錠」とか言うんだよね?
ただ引っかけているだけなんじゃないかなとか何度か引っ張ってみて、それから思いついた三桁の数字をいくつか入れてみた。だけど、全然駄目、びくともしない。まあねー、いくら奴がここを我が城のように使っているからと言って、寝泊まりしている訳もないし。そうよね、こういうパターンも十分考えられたんだ。ああ、がっかり。
すぐに教室に戻っても良かったんだけど、何となくそんな気にならなくて開かない戸を背に座り込んでしまった。だって息が詰まるだけだもの、自分のクラスにいても。早紀がいてくれればまだいいけど、あの子は始業十分前にやってくるのが普通だし。どうしようかなあ、シゲルにでもメールしようかな?
カバンからごそごそと携帯を取り出して、開く。マーガレットみたいな花が次々に開く待ち受け画面が、妙に白々しく思えた。ううー、今日も梅雨空。ちょっと突いたら、ざーっと一気に降り出しそうな雲模様。
「あら、莉子ちゃん」
―― また、コイツか。何だか、ワンパターンだよなあ。
いつも同じ構図だわ、階段をゆったりと上ってくる楓さま。すらりと長身で細身、嫉妬しちゃうほど完璧。きっと「ダイエット」なんて言葉とは一生無縁で過ごすんだろうな。その上相変わらず綺麗な髪だこと、不快指数マックスでそこら中が湿気でべとついてる今も彼女の髪はしっとりとその美しさを保っている。
神様って、本当に不公平。あたしなんてね、今朝は一段とくるくるがひどくて、失敗パーマのおばさんみたいになっちゃってるのに。
「嬉しいわ、朝から莉子ちゃんに会えるなんて。でも、どうしたの? 衛は今日、予定があって遅れるのよ」
知らなかった? って、付け足すみたいにあたしの顔を覗き込む。その瞬間に、どうしてかな。ちょっとだけ、本当にちょっとだけ「いらっ」とした。
「べっ、別にっ! 何でもありません、失礼しますっ!」
せっかく声を掛けてもらったのに、不機嫌な態度を取るのも申し訳ないもの。あたしは慌てて立ち上がると、わざとらしくスカートを叩いた。んで、さっさと立ち去ろうとしたのに、何故か進行方向をすっぽりと塞がれているの。
「まあ、そんな風につれなくしないで。良かったら、寄っていかない? すぐに鍵を開けるわ」
長くて綺麗な指がすっと伸びて、風のようなスピードで数字が揃う。ふうん、そうかあ。やっぱ、彼女だしね。そう言う情報も全部知っているんだ。なんかずるいな。
楓さまこそ、何でここに来たのよ。大王がいないなら、用事もないんじゃないの?
がらがらと開く引き戸を眺めながら、それでもまだ立ち去ることが出来なかった。何故なら、さり気なく、でもしっかりと、楓さまにブラウスの袖を掴まれていたからなのね。
「どうぞ、莉子ちゃん。ここじゃお茶の支度も出来ないけど、……そうそうこれでも飲んで」
あっという間に誘い込まれて、目の前に紅茶のミニペットを差し出される。あー、これって新製品だ。フルーツティーシリーズのオレンジ・フレーバー、飲んでみたかったんだよな。
「そ、そんなっ! いただけませんってば!」
慌てて突き返そうとしたのに、そのときには楓さまはもう次の行動に出ている。一晩の湿気が籠もって空気が止まっていた部屋を換気するために、ガラガラと表の窓を開けていた。
「なんかね、調べ物があるから始業に間に合わないかも知れないのですって。衛も間が悪いわね、せっかく莉子ちゃんが来てくれたのに。後で聞いたらとてもがっかりすると思うわ」
別にこちらが訊ねた訳でもないのに、楓さまはあたしが知りたくもない大王の情報をいろいろ披露してくれる。何なんだろ、あたしが喜ぶとでも思ってるのかな? 全然そんなじゃないのに、馬鹿みたい。
「ふふ、莉子ちゃんも残念そうね」
違いますってば、むしろホッとしているんだから。そう答えたかったけど、声にならなかった。
何というかな、自分でもよく分からないの。
どうして苦手な早起きまでして、ここに来たのか。だって、……何でなんだろう。昨日はあのあとも奴のことが頭にこびりついたまま離れなくて変な気分だったのよ。
いつも通りに機嫌が悪くて、優しい言葉ひとつかけてくれなかった大王。あたしの方だって、そんなこと期待してなかった。だから、何とも思ってなかったのよ。……それなのに。
あたしの指定席だったボロ机には、やっぱり一日分のノルマが置かれている。大王は昨日のうちにこれを準備していたんだ。あたしが、今日こそはちゃんと約束を守ると信じて。
「ほら見て、莉子ちゃんの花たちは驚くほど元気なのよ。私が活けた分は、もうしおれかかってるのにね。衛、毎日欠かさずに水を換えているみたい。何だか、絵にならない姿だけど」
しなやかに伸びた葉っぱに手を添えて、楓さまは「鈴の転がるような」と表現するに相応しい美しい声で笑った。そんな話聞いても、全然面白くなんかないよ。だから、あたしは無表情のまんま。それなのに楓さまは優しい瞳で言うの。
「じゃあ、私はそろそろ生徒会室に行かなくちゃ。莉子ちゃん、部屋を出るときはただ鍵を差し込むだけで大丈夫よ。始業には遅れないように教室に戻ってね」
背後で静かに閉じた引き戸。その瞬間に、あたしはこの部屋にただひとりになった。
変なの。
何度も何度も数えるのが億劫になるくらいこの部屋に来てるのに、こんな風にひとりで取り残されるのは初めてだ。だって、いつも大王がいる。奴に呼び出されるから、だから仕方なく訪れていただけのこと。用がなかったら、絶対に来ないわよ。うん、それだけは保証できる。
ひとつの教室をベニヤの薄い壁で無理矢理ふたつに区切った「元」物置。雑然と並んだ机や椅子、埃を被ったグランドピアノに理事長室お下がりのデスクと安楽椅子。色んなものが適当に置かれてまとまりが付かないのはいつものことなのに、なんか今朝はとても広く見えるのはどうして?
そして、窓。
中庭に向いた突き当たりの壁一面をほとんど天井から床まで覆ったガラスは、鬱陶しい今日の空模様をこれでもかと見せつけてくれる。このところ、あたしにまとわりついているイライラはこの天候が原因ね。爽やかなシゲルとのラブラブライフまでが、立ちこめた雲の向こうに隠れてしまってるみたい。
―― 大王なんて。いない方がせいせいするんだから。
ノルマの計算、少しでも進めておこうかと一枚手に取る。ずらりと並んだ数字の右下にはもうすっかり見慣れた書き文字、ちょっと右上がりの大王の字だ。たった四桁の数字を眺めていると、胸の奥が痛くなる。そうよ、会いたくなんてなかった。なのに……どうしてこんなにがっかりしてるんだろう?
窓から忍び込んでくる生暖かい風。だけど、薄暗い部屋の奥にはまだどこか大王の匂いが残っている気がした。
つづく♪ (070117)
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