TopNovel>指先に雨音・3




1/2/3/4/5/6/7/8

  

 ―― 何で!? 今日は予備校の特別講習だって言ったじゃない。
 あのあと、すぐにシゲルにメールを入れた。楓さまには「ちょっと教室に宿題のノートを忘れちゃって」とか言い訳してこそこそと。でもずっと「留守番電話サービスに接続します」のまんま、全然繋がらないの。よっぽど予備校の前で待ち伏せしようかと思ったけど、そこまでするのもね。遅くなるだろうからお祖母ちゃんズへの言い訳を考えるのも大変だし。
  結局、夜の十時近くなってから「ごめん、なかなか返せなくて」と連絡が入った。そのときに夕方のことを聞こうかなとも思ったわよ。だけど、シゲルの声があんまりにもいつも通りなんだもの。ついつい流されて雑談になっちゃった。何気なく話を振ってみたら、「え? もちろん予備校だったけど」とあっさり返される。だから、遠目だったし人違いだったのかなあとか考え始めたりしてね。
「でも嬉しかったよ、莉子から連絡くれるなんて。この埋め合わせは今度必ずするからな」
 なーんて言ってくれちゃって、もう胸がドキドキしすぎて破裂しそう。ああ、嬉しいのはこっちだよ。入学早々大王に目を付けられてからと言うもの、まともな恋愛なんて諦めていた。それなのに……今は怖いくらい幸せ。大好きな人から愛されるのって、こんなに素敵なことなのね。
 やっぱ、これ以上本人に探りを入れるのは止めよう。シゲルの優しさに触れて、あたしは力一杯そう思った。もしかしたら何かを隠しているのかも知れない、だけどそれはあたしを心配させないためなんだよね。うん、だったらその気持ちを大切にしてあげなくちゃ。
「えー、その言葉だけで十分だよーっ!」
 精一杯の甘え声で応えながら、頭の中では全然違うことを考えてた。
 やっぱりね、このままにしておくのもちょっと不安。もしもシゲルに危険が迫ってるなら、彼女として出来る限りのことをしたいと思う。
 だけど、あたしには一体何が出来るのだろう。シゲルの力になりたいのに、何にも思いつかない。ううーっ、どうしたらいいのっ!?

「えー、ずるいっ! 何で莉子だけ楓さまとツーショットしているのっ!?」
 翌朝、もやもや気分のままで登校して、教室に入るなり早紀を捕まえた。こんなこと、誰彼構わず相談できる訳ないでしょう。昨日のうちに連絡すれば目の下にクマができなくて済んだけど、何故か早紀の家は「帰宅後携帯取り上げ」っていう時代錯誤なおうちルールがあるんだ。電話だって家族が集まる居間にしかないって言うんだから信じられない。
「ちょっとー、何でそっちにチェックがいくかなあ」
 こう言うのって順序立てて説明しなくちゃ駄目だろうなって話していたら、早紀ってば楓さまの名前が出た途端に目の色が変わるんだもの。うーん、気持ちは分かるんだけどね。あの方もあたしにとっては「天敵」の片割れみたいなもんだから。何でここまで羨ましがられなくちゃならないのかよく分からない。
  だけど、この至極正直な気持ちを口にした途端に自分がどんなに多くのものを失うことになるかと言うことをあたしはすでに知っている。この学園で「一番恐れられている」大王と「一番崇められている」楓さま、彼らに向けられるどう考えても異様な視線たちは有無を言わせないだけの迫力があった。
「あはは、ごめんごめん。でも未だに信じられないわよ、大王にあれだけ睨まれている莉子なのに楓さまが優しくしてくださるのが。うーん、やはりあの方は外見と同じく天使のように清らかな心をお持ちなのね! ああ、考えてみればすらりとした背中に白い羽が現れそうだわ……!」
 いや、多分それはないから。いくら神々しいお姿だからって、あの方はとりあえず普通の人間だと思う。それよりも、ちょっとっ! あたしが目で訴えたら、早紀はようやく夢見る乙女から通常モードに戻ってくれる。
「あ、……ああ。そうね、南高かーっ。うーん、確かに言っちゃあ悪いけど良い噂は聞かないわね。私の中学から進んだ連中も、手に負えない問題児が多かったような。あそこって公立でしょ? 教員の間でも流刑地とか呼ばれているんだって。あ、そうか莉子たちの中学からだと乗り換えが面倒だもんね、ほとんど行く人いないでしょ?」
 うわー、そうだったのか! 確かに早紀の言う通り、南高って名前は聞くけど全然縁のない高校だった。だって、路線が全然違う。しかも一駅で乗り換えて、また二駅で乗り換えて……とかややこしいし。去年の文化祭回りのリストにも最初から入ってなかったんだな。
  へええ、先生方の流刑地とかそんなのがあるんだっ! 多分、PTAとか教育委員会とかから睨まれちゃったら飛ばされるのかなあ。それって、どれだけよ。想像付かない。
「一説では『ヤ』のつく団体と通じてるグループもあるらしいし、関わりを持たないのが一番よ。君子危うきに近寄らず、って言うでしょ?」
 まー、言われることはもっともだけどさ。そんな話を聞いたら、ますます気になっちゃってしょうがないわ。もしも……もしもよ、シゲルが何らかのトラブルに巻き込まれているのだとしたら、それこそ大変なことになる。絶対にこのままにはしておけない、でも優しいシゲルのことだからあたしが助けようとしてることがばれたら反対されるに決まってる。
「ふうん、そうかー。教えてくれてありがとね、早紀」
 やっぱ、詳しいことは内緒にしておいた方が良さそうだな。下手に騒ぎ立てて、シゲルに対しての変な噂が立っても困るし。そう思って、昨日の夕方見たことは自分の胸の中にしまっておくことにした。
「あ、もしかして楓さまのお花って、職員玄関前の奴でしょ? さっき日誌を取りに行ったときに見たよ。昨日までと違うのになってたから、そうかもって思ってたの。やはりさすがね、血は争えないわ。どうしたらあそこまで自然に、それでいて優雅にまとめることが出来るのかしら……」
 幸い、早紀の方がすぐに話を切り替えてくれる。あー、良かった。「どうして、いきなり南高のことを聞くの?」とか訊ねられたら返答に困っちゃうもの。
 ―― あ、そうだったっ!
 早紀が何度も何度も「楓さま」を連発するから、ようやく思い出した。昨日の夕方の一件を知ってるのはあたしひとりじゃない。あそこには楓さまもいたんだっけ。えーヤバイじゃん、あの人は大王とツーカーの仲よ。もしも今回のことが奴の耳に入ったら面倒なことになりそう。
  これは大変、のんびりしている暇なんてないわ。大王の魔の手がシゲルに近づく前に、あたしが愛の力で事件を解決しなくちゃ。……あ、別に何か面倒ごとが起こっていると決まった訳じゃないんだけどね。もしもただの勘違いだったらそれでもいい、とにかくシゲルが潔白だと言うことを証明するのよ!
 そこでタイミング良く始業のチャイムが鳴って、クラスメイトたちが慌てて自分の席に戻っていく。あたしも周りのみんなと同じようにカバンの中身を取り出しつつ、頭の中では全然違うことを考えてた。

 放課後だというのに、どうしてこの場所は水を打ったように静まりかえっているのかしら?
 そう言えば指導室の前の廊下って、例の「矢文」が飛ばされるとき以外は全然人通りがないのよね。突き当たりには書道室があるから選択している生徒たちや部活の部員たちの往来があってもいいはずなのに。うーん、きっとみんな「鬼門」を通るのが嫌でわざわざ遠回りしているのね。
「何? 今日は用事がある?」
 意を決して戸を開けると、もうあたしの指定席には山積みの書類が置かれていた。何だか普段の倍くらいありそう、もしかして昨日出来なかった分も一緒にやれってことかしら。
 ひんやりとした空気を真っ二つに突き進んでくる声は、耳にした人間全てをたちどころにショック死させてしまうほどの冷ややかなものだった。何で十五六の男子が会社の重役みたいな威厳を持てるのよ、やっぱりコイツは化け物だわ。
 いやいや、ここで倒れてしまう訳にはいかない。大昔の少女マンガのヒロインじゃあるまいし。
「は、はいっ。突然で申し訳ありませんっ! 実は……歯医者の予約を入れていたことをすっかり忘れていて……」
 両手で握りしめたカバンの取っ手がじんわりと汗ばんでくる。色々な理由を考えてみたけど、まあこの辺が一番妥当だろうと結論が出た。同じ医者関連でも「ちょっと悪寒がするので……」とかだとかなりの演技力が必要だもの。皮膚科とか耳鼻咽喉科とか、そう言うのも難しそう。
「歯医者?」
 いつものことだけど、大王はこうしてあたしと会話をするときも視線は書類に向けたまま。しかも突風のようなスピードでそろばんをはじいている。あれだけの腕前があれば、暗算も得意なんだろうなあ。きっと頭の中にコンピューターが埋め込まれているんだわ。そうとしか思えない。
「だが、お前は先日の検診で全て治療済み・再検査不要になったはずだ」
 ―― えっ……!? そんな馬鹿なっ、どうしてコイツがあたしの歯科検診の結果を知ってるのっ? 
 思いも寄らぬ反撃に一瞬たじろいでしまう。でもここで負けてなるものですか、それに無駄に時間を掛けていることは出来ないの。どうにかしてあっさり切り抜けなくちゃ。
  じーっと凝視する後ろ頭、相変わらず、憎らしいほどの黒髪ストレート。一体どんな手入れをしているのか、キラキラキューティクルが輝いてる。そして机の向こうの窓脇には、昨日あたしが置いた生け花。今日は一日涼しい陽気だったこともあり、全く姿勢を変えないピンとした枝がそこにある。
「あ……ああ、それはそうだけど……その。歯医者の方でも定期的に検診を受けることにしているんです、ちょうど今月で半年たったので」
 ああ、我ながら苦しい言い訳だわ。でもでも、そういうことなのっ、絶対にそうなのっ! あたしは強い意志で自らにまで暗示を掛けていく。
「そうか」
 ここまできて、初めて大王が手と止めて向き直った。計算が一区切り付いたのかな、そんな感じ。
 物差しを背中に入れているようにピンと伸びた姿勢、短い言葉を口にすることすら億劫で仕方ないというような不機嫌な眼差し。ギロリと真っ直ぐに向けられたら、さすがにたじろいでしまう。ああ、どうしよう。もしかして「確認のために診察券を出せ」とか言われちゃうのかな? 背筋をつーっと冷たい汗が流れていくのをブラウスの下で感じていた。
「医者に行くなら仕方ないだろう。今日は特別だ、明日は必ず来い」
 それだけ言い終えると、彼はくるんと椅子を回した。そして元通りにそろばんを弾き始める。鋭い視線が書類の数字と手元との間を行き来し、一瞬前まで話をしていたあたしのことなんてすっかり忘れ去られていた。
 
 ―― よし、準備完了。
 何か、呆気なく簡単に片付いてびっくり。もっと色々と理由を聞かれたりするのかと思ったのに、ずいぶんあっさりしたものね。もしかして、最初からこんな風に断っていれば良かったのかしら。嫌だなあ、あたしって馬鹿みたいに真面目で。
 お行儀良く指導室の引き戸を閉めて、小さくガッツポーズ。えへへ、これくらい大丈夫よね。だってここは誰もが避けて通る場所だもの……と思ってたら、上り階段から思わぬ伏兵が登場した。
「あらあら、莉子ちゃんどうしたの? 今日はもう帰っちゃうのね」
 うわーっ、また出たよ。どうしてこの人って会いたくないときばかりに現れるのかしら。そしてあたしは過去のいくつかの経験ですでに悟っている。偶然を装って姿を見せるこの人と関わってるとロクなことがないんだってことを。
「はいー、歯医者なんです」
 大王に告げたのと同じ理由を口にする。胸の中で「そうよ、本当に歯医者さんに行くの!」と自分に暗示を掛けながら。そしたら、楓さまはちょっと小首をかしげて眉間に皺を寄せる。ええっ、見透かされてるっ!? と内心ひやりとしたわよ。
「そうなの、今も痛む? どうぞお大事にね。虫歯で頬が腫れた莉子ちゃんなんて可哀想で見ていられないわ」
 さらさらさら。笹の葉の調べのように流れ落ちる髪の毛。柔らかくてすべすべしていて、思わず触ってみたくなる。同じ黒髪ストレートでも違うのね、大王のは内部に針金を仕込んでいるみたいなのに。
「あっ、ありがとうございます! それでは、急ぎますので……」
 ふうん、また大王のところに逢い引きに来たんだ。白昼堂々良くやるよなあ、今日はあたしというお邪魔虫がいないんだからやりたい放題楽しめるってこと? ……いやいや。そんなシーンは想像もしたくないけど。
「―― あ、そうだわ」
 ばたばたと渡り廊下を走り出したら、楓さまの声が後ろから追いかけてくる。今度こそ、ぎくりとして立ち止まる。ええと……まさか。シゲルの話を切り出されるとか……!?
「衛、莉子ちゃんの贈り物のお礼をちゃんと言ったかしら? 朝、念を押しておいたんだけど……」
 三秒ほど思考がストップして、ようやく楓さまの言ってるのが昨日の生け花のことだと気付いた。思い切り首を横に振ると、市松人形のように整った顔が少し歪む。
「まあ……駄目ねえ。ごめんなさいね、私からよく言っておくから」
 ひーっ、心臓に悪いったら! もう一度一礼すると、あたしはぐるんと向き直った。

 空は泣きそうで泣かない微妙な雲行き。
 校門前の大きな銀杏の木の陰。ふさふさと葉の茂った枝の隙間から、下校してくる制服たちを眺めていた。あたしが昇降口に辿り着いたとき、まだシゲルの外靴は残っていた。と言うことは、これから出てくるってことでしょ? そうなの、とても原始的な方法ではあるけれど、あたしシゲルを尾行することにしたんだ。
 そりゃ、誉められた行為じゃないってことは分かってる。でもシゲルはあたしが心配すると思って、何も教えてくれないんだもの。というか、正直言ってシゲルのことって実は何も知らないのね。サッカー部に所属しているって話だったけど、あんまり真面目な部員じゃないようだし。週の半分は何らかの理由を付けてさぼっちゃうんだって。
  そのほかの日は友達と遊んだり、予備校で講習を受けたり。最後の彼女とは半年前に別れて、その後面倒になったから何度かあった誘いも全部断っていたって聞いた。
「何やってもパッと来なくてさー、でも莉子と出会ってから俺変わったよ。やっぱ、可愛い彼女いたら格好悪い男にはなりたくないじゃん」
 あたしの頭の中には、シゲルがくれた素敵言葉がこれでもかってくらい詰まってる。学園の異端児として肩身の狭い思いをしつつ日々を暮らしていたのに、落ちぶれたあたしにシゲルは溢れんばかりの気持ちを伝えてくれる。甘くて優しい笑顔と一緒に。
 ―― あ、来た!
 ぽややーんと回想してたら、見覚えのある姿が歩いてきた。良かった、シゲルはあたしに全然気付いてないみたいだわ。大股に真っ直ぐ校門を抜けていく。じゃあ、後を……と思って。彼が曲がっていく方向にあたしはちょっと驚いた。
 あれ……? どうしていつもの通学路じゃないの?
 シゲルとは下校途中に初めて出会ったの。「君もこっちに帰るんだ、だったら途中まで一緒にどう?」って声を掛けられて。ええ、まあそんなのいいわよ。別にどの道を通ろうとシゲルの自由だし! もしかしたら、誰か他校の友達と約束してるかもだし、行きつけのショップがこの先にでもあるのかも……。
 後を追い始めて、わずか五分。あたしはすでに窮地に立たされていた。だって、駅と反対側に徒歩で向かう人数が極端に少ない。そして彼らはすぐ側に自宅があるのか、次々と横道に入って消えていく。あっという間にシゲルとの間に視界を遮る人影がひとつもなくなって、近づきすぎることが出来なくなった。
  かといって、あまり離れすぎると信号待ちの間とかに見失いそう。住宅地も途切れてきてだんだん薄気味悪い町並みに変わってきたし……。何だかね、道沿いにお店みたいな建物はたくさんあるの、でもそれのどれもがシャッターをぴっちり下ろしたまま。もしかして、寂れちゃった商店街なのかなあ。みんな売り上げ不振で撤退しちゃったとか?
  シゲルの背中が電信柱の向こうに見え隠れする。大丈夫よ、あたしはひとりじゃないもの。それに何も悪いことをしているんじゃないわ、これはシゲルを守るための行為なのよ!
 必死に勇気を奮い立たせながら、あたしはずんずん奥に進んでいった。どこまで行けば、この通りは終わるんだろう。シゲル、こんな場所に何の用があるの? やっぱり、……何か困ったことに巻き込まれているんじゃないかしら?
 と、そのとき。
 何だろう、目の前を黒いものがふーっと横切った。たとえるなら、カラスが低空飛行をしている感じ? とにかく突然のことだったから慌てて数回瞬きする。
「えーっ……?」
 もう一度目をこらして辺りを見渡したそのときには、幻の黒い影だけじゃなくて追い求めていたシゲルの背中までが跡形もなく消えていた。そんな馬鹿な、だって一瞬前までには確かに―― !
 気がついたときには、あたしは見知らぬ町の真ん中にたったひとりで取り残されていた。

 

つづく♪ (070928)

<< Back     Next >>

TopNovel>指先に雨音・3