「どういうことだ」
目の前で腕組みをしてふんぞり返る男を、真正面から見つめ返す勇気はとてもなかった。ただそこにいるだけで威圧的な存在なのに、わざわざポーズまで決めてこちらを威嚇しようとするのはひどい。だいたいさ、コイツは全然分かってないのよ。自分が相手に与えるダメージというものを。
「これで三日目だろう。もう言い訳は聞き飽きた、そろそろ正当な理由を聞かせてもらいたいものだが」
やっぱ、今のあたしに相応しいたとえは「ヘビに睨まれたカエル」? うーん、相手は間違いなく「蛇」だけど、自分を「蛙」と表現したくはないなあ。せめて「白ウサギ」とか、そう言う方が可愛らしくていいと思う。ね、何となく守ってあげたい気分になるでしょ?
「り、理由をと言われても……だって、今言ったことで全てだもの。これ以上の説明は出来ないわ」
うんうん、確かにそう。「歯医者に行きます」って言葉は本当、嘘ついた訳じゃない。ただ、ちょっと話を端折りすぎではあるけどね。正確には「歯医者『の近く』に行きます」なんだな。あの薄気味悪い商店街は、掛かり付け歯科の通りをふたつほど奥に入ったところにあるんだから。
「後ろめたいことがないならば、きちんと俺の目を見て話をしろ。だいたいな、その態度では誠意が感じられない。一体どこに三日続けて患者を呼び出す歯医者がいるんだ」
―― だったら、アンタだって同じでしょ?
風紀委員だかか何だか知らないけど、一生徒の放課後の予定までいちいちチェックされちゃたまらない。常識に反することじゃなかったら、自由に行動して構わないはずでしょう? 何も校則違反をしようっていうんじゃないわ。
「あ、……あたしの歯医者はそうなんですっ……」
やだなー、もう。放課後の手伝いを断るだけで、何でここまでネチネチ言われなくちゃならないの。はっきり言って今まであたしがしてきたことは時間外労働のボランティアよ。そりゃ、大王にはちょっとばっかり「恩」があるけどさー、だからといって何もかも言いなりで手伝わなくちゃならないってことはないと思うの。
「そうか」
ぼそっと呟いたその言葉は、肯定にも否定にも聞こえる響きだった。知らず、首筋がぶるぶるっと震え上がる。
「ならいい、さっさと行け。予約時間に遅れたのをこっちのせいにされちゃたまらないからな」
くるっと回転椅子が回って、シャンプーの宣伝のように美しい黒髪が翻る。やっぱ、コレって地毛なんだろうなあ。かつら(コレはどう見てもウィッグというレベルじゃない)にしては出来すぎてるもの。だとしたら、美容院で売ってる一本何千円もする特別のシャンプーやムースを使っているに違いないわ。見上げるほどの長身のほとんど腰までの長さがありながら、枝毛ひとつないなんて絶対信じられないよ。
「さっさと行けと言ったのが聞こえないのか」
ちょっと前までの執拗な尋問から一転して、今度は一刻でも早く出て行ってくれと言わんばかりの邪魔者扱い。まあね、最初の約束をきちんと守ってないあたしも悪いと思うよ。でもね、日を追うごとに目に見えて不機嫌になっていくのは気のせいかな。うん、多分そうだろう。
だって大王は元々あたしのことが大嫌いなんだもの。ふたりきりでいると思いっきり無視するか、始終ピリピリと怒ってるかどちらなんだよね。まー、公認の彼女である楓さまの前でも愛想がいいとは思えないし、そんなもんだとは思うけど。でも、あたしに対する態度はあからさまだしとにかくひどすぎるよ。
「はーい、分かりました。それでは失礼します」
絶対に振り向いてくれないなんて分かってるけど、それでもお行儀良く頭を下げる。あのね、あたしはあんたが思っているほど常識のない人間じゃないんだよ。だけど、今は大王との約束よりもずっと大切なことがあるんだもの。
思いっきり肩すかしを食らってしまったのが一昨日。そして昨日も、もうちょっとのところでシゲルの姿を見失ってしまった。これ以上の深追いは止めた方がいいかなとも思う。正直、あの商店街に入ると何だか嫌な胸騒ぎがするし。だけど……そうだとしたら、なおさら捨てておけない気持ちになるよ。大好きな彼が危ない目に遭いそうになってたら、助けるのが彼女の役目だ。
この数日、同じことばかりを考え続けている気がする。一緒に帰ろうというシゲルの誘いも断っていた。だって、あたしが一緒にいたら彼はどこまでも王子様。心配かけたくないんだろう、いつもと全然変わらないんだもの。
「どうしたんだ、付き合い悪いぞ」
今日も昼休みに渡り廊下ですれ違ったとき、そう言って肩を掴まれた。言葉こそはきついけど、見上げた瞳はいつも通り優しい。ああ、これでこそシゲルよ。分かってる、もうすぐよ。あなたが抱える心配事を全部取り除いたら、そのときは……ね。
でもなー。もしも何らかの「現場」を押さえたところで、あたしに出来ることはあるのだろうか。ううん、大丈夫。あたしにだってお巡りさんくらいは呼べるよ。それから、……それから、どうしよう?
階段を下りながら、はたと気付いて立ち止まる。そのとき、踊り場の下の方から控えめな足音が聞こえてきた。
「あら、莉子ちゃん」
―― げっ、また出た。
このどう見ても計画的に仕組まれたとしか思えないタイミングは何っ!? さらさらさら、絹糸の髪をなめらかに揺らしながら、楓さまはあっという間にあたしのすぐ側まで上がってきた。同じような黒髪ロングでも大王のにはシャープさが、楓さまのには柔らかさがプラスされている気がするのね。多分、イメージの問題だろうけど。
「まあ、今日も帰っちゃうの? どうりで衛がご機嫌斜めになるはずね」
彼女の視線はあたしの抱えた通学カバンに向けられている。全てを見透かされているような眼差しに身のすくむ思いがした。
「何だか、顔色も悪いみたい。風邪でもひいたのかしら、天候が落ち着かなくて体調を崩しやすい頃ですものね。良かったら、私のカーディガン貸しましょうか?」
そう言いながら、するりと細い肩から紺色のそれを外す。何というか、動きの全てが夢のようにしなやか。思わずうっとりと眺めていた私は、次の瞬間にハッとして我に返った。
「いっ、いいえっ!! あたしは頑丈ですから……! 風邪には先日に捕まってますから、もう大丈夫です。ちゃんと免疫がついてます!」
楓さまは少しだけ驚いた顔になって、それからすぐに元通りの穏やかな笑顔に戻る。
「ならいいの。でも莉子ちゃん、何か困ったことがあったらすぐに私たちに相談してね。絶対ひとりで悩んだりしないで、約束よ」
ど、どっきーーーんっ! や、ヤバイわ。こんなに至近距離にいたら、心臓の音まで聞こえちゃいそう。
「そ、そんな〜! 何言っているんですか、あたしはいつも元気ですっ! 困ったことなんて、もー全然っ! で、ではっ! お先に失礼します……!」
そうよ、思い出したわ。
この前の悪夢、担任・今井先生との一件だってそうだったじゃないの。大王や楓さまと関わると、マジでろくなことがないのよ。絶対に悟られたら駄目、今度はあたしだけの問題では済まされないわ。シゲルを巻き添えにすることだけは出来ない。
何もないなら、それが一番いい。もしも、そうじゃなかったらそのときに考えればいいこと。どっちにせよ、あたしは最後までシゲルを守るわ。だって、シゲルだけなんだもの。あたしを混沌とした生活から救ってくれる白馬の王子様は。
「ええと、……確かこの辺だった気がするけど……」
雨が近いのだろう、生暖かい風が頬をくすぐっていく。いつもの寂れた商店街の真ん中にあたしは突っ立っていた。楓さまとのやりとりが余計だったのだろう、昇降口に辿り着いたときにはもうシゲルの外靴が消えていた。しばらくはどうするべきかと悩んでいたけど、もうここは行動するしかないわと思い直す。それで、昨日にシゲルが消えた辺りまでやって来たってわけ。
何しろ、どこもかしこもシャッターが閉まっていて通りは静まりかえっている。その脇に古ぼけたドアが付いている店もあったけど、板張りのそれを押して中にはいるのは気が引けた。だけど、確かにシゲルはこの辺で忽然と消えたんだよ。だとしたら、どこかに入り口らしきものが存在するはず。まさかそれが非現実的にブラックホールとか四次元への入り口とかいうことはあるまい。
車二台がようやくすれ違えるほどの細道で、いくらも行かないうちに向こう側の大通りとぶつかってしまう。うーん、このままうろうろしていても埒があかないかなあ。一昨日と昨日と同じことをしていても仕方ないし。そうよね、もしかしたら全部があたしの思い過ごしだったのかも。だとしたら、誘いを断って悪かったかなあ……。
そんな風に後悔しつつ、来た道を戻り始めたところだった。
突然、すぐ脇にあったシャッターがいきなりガラガラと大きな音を立てて上がり始める。えええっ、何っ!? と思ったけど、すぐにそれが自動シャッターであることに気付いた。そう言えば、ボタン操作で開け閉めできるのがあるんだよね、この頃は。
「あれー? どうしたの」
シャッターの向こうに現れたのは、四枚続きのアルミサッシ引き戸。その真ん中ががらりと開いて、中から人の良さそうなおじさんが顔を出した。短めのおかっぱ頭に口ひげでチェックシャツにGパンという格好。つぶらな瞳という表現がぴったりの目をキラキラさせてあたしを見てる。
「道に迷ったのかな、大丈夫。……あ、雨が降ってきたよ!」
その声に後ろを振り向くと、白っぽく乾いていたアスファルトの上にいくつもの大きな水玉が出来ている。かなり大粒の雨、すぐにあたしの制服のシャツの背中や袖がしっとりしてきた。
「通り雨だと思うから、すぐやむよ。良かったら中で休んでいけば? 遠慮なんていらないよ」
どうぞどうぞと招き入れられた屋内は、何だか薄暗い場所だった。それもそのはず、表通りに面したガラス戸は一面に黒い塗料が塗られて、外の明るさが入ってこないようになってる。同じように奥の壁も天井も床も全部真っ黒だった。どうしてここまで全部黒ずくめ? もしかして、このおじさんは黒が好きなの?
「アイスティーでいいかな?」
入ってすぐのカウンタ脇に椅子を出してもらってそこに座らせてもらった。その上お茶まで出してもらって、至れり尽くせり。何か申し訳ないなあ。
壁には一面黒い布が掛けられていて、おじさんはせっせとそれを外している。ここって何かのお店なのかな? そう思いつつ眺めていると、黒布の下から現れたのはたくさんのピンナップ写真だった。それぞれに手書きのナンバーが書き込まれていて、ところどころ抜き取られて空になっている場所もある。手前にあるのは女の子ばかりだけど、奥には男性のもあるのかな? アイドル? それにしては普通っぽい。
「その制服、緑皇学園でしょう? お嬢ちゃん、頭いいんだねえ……紺のリボンだと一年生かな」
ハンドモップを手におじさんは陽気に話しかけてくる。お世話になっている手前無視するのも良くないし、にこにこと愛想良く適当に受け答えした。どうしてこんなに色々詳しいんだろう、妹さんとか娘さんとかいるのかな。ちょっとなれなれしすぎるなとも思ったけど、まあお店屋さんならこれくらいは当然かな。
「あ、……そろそろ行きます。ありがとうございました!」
おじさんの予想通り、程なくして雨が上がった。だけどもう西の方から新しい黒雲が近づいてきている。次は本降りになるかも、今のうちに駅まで戻らなくちゃ!
あたしは慌てて椅子から飛び降りると、引き留めてくれるおじさんにお礼を言って外に出た。
来た道をを少し戻りかけると、一昨日や昨日とは違った場面に出くわすことになる。
まるで申し合わせたかのように、通りの両脇にずらりと並んだシャッターが、あちらこちらで開き始めたのだ。時計を見たら、もうすぐ五時半。そうか、いつもよりも遅くなっちゃったんだ。えー、何で? 今頃、どういうこと!?
見上げると暮れかかった曇天の空。そのせいか、何もかもが薄気味悪くて現実味に乏しい気がする。どうしてそんな風に思ってしまうのだろう。だって、ここは学校から十分ちょっとしか離れていない場所だよ。それなのに……何でこんな気分になるの?
スカートを翻しながら、ばたばたと駆け抜けていく。そんなあたしの背中を、いつまでもいつまでも見つめている視線があることなんて少しも気付いていなかった。
「……うわっ!」
ようやく大通りまで戻り付いたところで、私は何かにぶつかって止まった。ううん、正確にはぶつかった反動で少し跳ね返ったって感じ? 一瞬片足立ちになったらバランスが崩れて、そのまま舗道の上に尻餅をついていた。
「あいたたた……」
不幸中の幸い? あたしのおしりが落下したのは投げ出した自分のカバンの上だった。それでもかなりの衝撃だったから、すぐには状況が飲み込めない。そうしているうちに、頭の上から声がした。
「歯医者は終わったのか?」
ぎょっとして、顔を上げる。そこに立っていたのは、全身黒ずくめの男。そう、もう衣替えが済んでいるというのに未だに学ランを着込み、その上腰までの長髪をたらした……
「ぎゃあっ! だっ、大王っ……!?」
そんな馬鹿な、何でコイツがここにいるの? というか、もしかして? もしかしなくても……今あたしがぶつかった物体ってこの人っ!?
「質問に答えろ、歯医者は終わったのかと聞いている」
脇に手をついてよろよろと立ち上がりかけたら、目の前にぬーっと腕が伸びてきた。何だろうこれはと思っていたら、そのまま二の腕を掴まれる。次の瞬間にふわっと上半身が軽くなって、気がついたらすっかり立ち上がっていた。それと同時に黒い腕も引っ込む。
「は、はいっ。もう終わりました」
制服をぱたぱたと叩いて、それから振り返ってぺっちゃんこになったカバンを拾い上げる。そうしてから恐る恐る見上げた大王の顔は、信じられないほどの無表情だった。
「ならば、帰るぞ。急がないとまた降り出す」
あたしの返事も待たずに、大王はくるっと背中を向けた。そのまま大股でどんどん遠ざかる。その後を黒い髪が吹き流しのように追いかけていく。その早いこと早いこと。どう考えても自分のコンパスの長さを自慢しているとしか思えない。
「あっ、……あのー」
別に呼び止めるつもりはなかった。それどころか、こんな奴他人の振りをしちゃっても良かったくらい。なのに、あたしは気がつくとその黒い背中に向かって声を掛けていた。
「何でこんなところにいるんですか?」
だって、あたしは知ってるもの。大王はいつも学校帰りは駅の向こうに歩いていく。あっちにあるのは昔ながらの立派な住宅街。その一角に大王の家もあるんだと思う。彼のプライベートなことは何も知らないし、噂にもならないけど。
大王は音もなく立ち止まる。肩から後ろ手に持ったカバンが少しだけ揺れた。
「通学路の見回りだ。たまに馬鹿な奴が用もなくほっつき歩いていたりする。それをつまみ出すのも仕事のひとつだからな」
それだけ言い終えると、奴はまた歩き出した。色彩の消えたモノクロームの風景にこの上なく良く似合う背中。あたしは金ボタンにぶつかってすりむいた鼻の頭をさすりながら、必死に彼の後を追いかけていった。
つづく♪ (071019)
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