驚いた、何で今日はこんなに静まりかえっているの。
文化祭当日を明日に控えた準備の最終日だと言うのに、体育館エリアは人っ子ひとりいないようなひっそりした雰囲気。いつもみたいな騒がしさがないと物足りないな。そうか、バレー部とバスケ部は練習試合だ。このあと、メインの第一体育館では四時から最終ステージ練習のスケジュールが組まれてる。まだ一時間以上あるわ。
―― ううん、それより今は早くコースケ先輩のところへ行かなくちゃ!
第二体育館の前を通り過ぎて、突き当たりの小体育館へとひた進む。部活中だとばかり思ってたのに、こっちの通りもしーんとしてるのね。本当、どうなってるのかしら?
「……あのーっ」
ぎょぎょ、ちょっとびっくり。だって、急に背後に人の気配がしたんだもの。何となく黒っぽい雰囲気、振り向くと防具姿の剣道部員が立っていた。
「す、すみません! 急に呼び止めたりして……、ええと自分っ、剣道部二年の菅野(かんの)と言いますっ! そ、苑田さんにちょっとお話が」
あ、名乗ってくれなくても大丈夫。だって防具の前にばっちり名前が入ってるよ? 他にも仲間がいたりするのかなときょろきょろしてみたけど、どうもここには彼ひとりみたい。
「ええと……何か?」
せめて面を取ってくれたらいいのに、縞々越しに見つめられてもだまし絵みたいで表情も良く分からない。彼は小手を付けたままの熊の手で私のブラウスを掴むと、そのままずるずると格技館への通路へと引っ張っていった。
「そ、そのっ……あのですね……」
面を付けたまんまの頭が上下に動いて、どうにもコミカルなイメージになってしまう。本人はすごく真面目な様子なので気の毒。
「ですから、何でしょう? 早く本題に入ってください」
せっかくコースケ先輩と待ち合わせなのに、こんなところで油を売ってるなんてまっぴら。だからちょっと凄んでみたのよ、あたしは目鼻立ちがはっきりした印象だけにマジな顔をすると結構怖いらしいよ。
「はっ、はい! ……すみません」
うわわ、何もそんなにのけぞらなくていいから! 無駄な動きの多い人だなあ、ホントに大丈夫? 武道なんて出来るのかな。
「あのっ、苑田さん! 自分、これだけはどうしてもお伝えしたくて、そのっ……ダンス部の砂原にはっ、どうか、くれぐれも気をつけてください……っ!」
な、何っ!? いきなり前に九十度のお辞儀して。そんなにしたら、おなかがつかえて痛いでしょう? しかも後ろ頭のりぼん結びがばっちり見えて、何だか可愛い。その上、手ぬぐいは紺地に赤とんぼ模様だし。
「……は……?」
それでも、いくらプリティーな外見(あくまでもあたしの個人的見解)をしてるからといっても、その発言内容には頷けない。だからすごく迷惑そうに言い返しちゃった。そしたら、菅野という名の彼は困ったように小手のついたまんまの手で頭をかく。
「い、いきなりこんな話をスミマセン! でも……自分は苑田さんのことが心配で。近頃の彼ら、少し前から何かがらりと印象が変わってておかしいんです。だから―― 」
ごにょごにょと口の中に押しとどめた部分が、実は彼の本音なのかしら。でもそんなのあたしには聞こえないし、だから耳に入らないことは理解できないの。
「大丈夫です」
あたしはうろたえ続ける彼に対し、余裕の微笑みで応えていた。あ、ちょっとコースケ先輩に仕草が似てきたかな? そんな気もしたりして。
「ご心配お掛けして、すみません。でも、あたしは大丈夫です。だから、ご心配なく」
ぽかんと見つめ返している(で、あろう)菅野さん、二年生だから菅野先輩と呼んだ方がいいかな? とにかくそんな彼に対して、ちょっと小生意気すぎるかと思えるほどの「にっこり」だ。
「……え、でも」
まだ何か言い足りなそう、でもこっちはもう十分なの。
「じゃ、そう言うことで! ありがとうございました」
強引に話を切り上げて、回れ右。ああん、思わぬところでタイム・ロス。こんなの、想定外だよ〜っ!
「まっ、待って! まだ話が……」
次第に遠ざかる叫び声。ほんのちょっと良心が痛んだけど、何とか振り切ることが出来た。ごめん、先輩! この埋め合わせはいつかするから、……たぶん。
そんなこんなで。
多少のアクシデントはあったものの、どうやら辿り着いた小体育館。静かすぎる雰囲気が不気味だけど、まあいいか。うるさい外野がいるより、百倍嬉しいわ。
「こんにちは、コースケ先輩?」
がらがらがら。年代物の引き戸が、ときめきの逢瀬に水を差す感じ。でもいいの、ムードなんてあたしの卓越した想像力でどうにでもでっち上げられるんだから。
「やあ、莉子ちゃん! 待ってたよ」
うわっ、いきなり目の前! すごい、これって「待ちに待っていた」って雰囲気ばりばりだ。今までで一番決まって見える前髪のカール、くるんくるんと毛先が四方八方に踊る。意外なことに先輩は制服姿のままだった、レッスン用の衣装に着替えているものだとばかり思ってたのに。
「もう、ひどいな! 三十秒も遅刻するなんて、信じられない。ボクはもう少しで悲しみの海に沈んでしまうところだったよ!」
いや〜、そこまで熱烈歓迎? かなり恥ずかしいけど、やっぱ嬉しいなあ。……それにしても、この部屋っていつもよりもちょっとばかり薄暗くないかしら? と思ったら、窓という窓に黒いカーテンが掛かっている。そりゃ、完全に光が遮断されている訳じゃないけど……。
「え、ええと、先輩? あのっ、今日はダンスの練習じゃないんですか」
何だか違和感あったのは、この異様なまでの落ち着き方。しかも、どこからかフワ〜ンと不思議な香りもしてくる。う〜ん、そう言えばね、ここに来るとあたしは何故かいつもぼんやりした気分になるんだ。最初のうちは先輩を始めダンス部の皆さんの熱気にやられてしまってるのかな〜って考えてたけど、何だかそれも違う感じ。
「え〜、そんなこと言ったっけ? それは莉子ちゃん、ユーの思い違いだよ。今日はね、ボクたちがもっともっと仲良くなることをしようと思っているんだ」
あれ、何で壁際に体操用のマットが? しかも三段重ねで鎮座しているって変だよ。かなり厚みのある品物で、腰掛けるのにちょうどの高さだ。
「部活の方もね、明日がいよいよ本番だし、今日は軽く流すだけにしたんだ。メンバーの女の子たちもステージ練習の時間まではクラスに戻るなり何なり出払ってもらったし、だから誰にも邪魔されることなくふたりっきりで過ごせるよ?」
さあどうぞ、って促されるままマットに並んで座る。長身の先輩とはこの姿勢でも視線の高さが全然合わないのね、背筋がぴーんと伸びているのもあるんだろうな。うーん、それでも存在感という点では大王には負けるわね。……って、ここで比較する必要もないか。
「ふ、ふたりっきりって……そのぉ……」
ちょっと、待って。これって、かなりヤバい感じではない? 何故か周囲には人っ子ひとりいない状況、そして薄暗くて物々しい雰囲気。その上、身体には力が入らなくて、何かものを考えること自体が面倒くさくなってきてる。
「ふふ、緊張してるの? 心配なんていらないんだよ、すぐにとっても気持ち良くしてあげる。そのための特効薬だって用意してあるんだから」
そう言いながら、先輩は胸のポケットから何かを取り出す。ぽやんと焦点の合わなくなりかけた目で確認すると、それは何かの錠剤。そう、風邪をひいたときとかに薬局で処方されるみたいに一粒ずつぷちぷちに個包装されている奴だ。
「何ですか? これ」
うわわ、肩に置かれた手がなまめかしい。最初はゆっくりと腕の付け根の辺りを撫で回して、次第に二の腕から肘へ降りていく。夏服だから、ブラウスは半袖。先輩の綺麗な指先が素肌に直接触れる。
「それはね、使ってみてのお楽しみ♪ 大丈夫、効果はばっちり保証済みだから。今まで試した彼女たちも本当に満足してくれてるよ? まあ……一度使うとやみつきになっちゃってコレなしじゃいられなくなるのが難点かな〜結構なお値段するからタダで分けてあげるって訳にはいかないし……」
ひゃあ、あっという間に上体がマットの上に倒れ込んじゃったよ。
そんなあたしを上から見下ろして、先輩が妖艶に笑う。襟元のネクタイを少しずつ緩めて、やがて一本の紐に戻ったそれを抜き取る。次にワイシャツのボタンをひとつひとつ外し始めて―― 。
「あ、あのっ……先輩! あたし、こういうことは」
まだ早すぎると思うのですけどって続けたかったのに、言葉がそこで途切れた。だって、いきなり先輩の胸元に現れた薔薇模様のタトゥー。これって、シールとかじゃないよね? えーっ、コースケ先輩ってあっちの世界の人だったの!? やだ〜っ、イメージが違うっ。
「何言ってるの、誤魔化したって駄目だからね。本当は最初からボクとこういうことしたくてたまらなかったんでしょう? 女の子って、みんなそう。ちょっと優しくしてあげると、すっかり舞い上がっちゃってね〜自分だけは特別って信じ込んじゃうんだ。でもそう言う思い込み、実は嫌いじゃないんだよね」
さわさわさわって、太ももを伝ってスカートの中に入り込んでいく手。残念ながら、ロマンチックなムードは欠片もなかった。だって、コースケ先輩の目は死んだ魚みたい。全然あたしに恋してないの、それどころかあたしに欲情しているって風でもない。だけど、……それでもこの先に進もうとしているのは何故?
「ボクのオンリー・ワンだと信じて疑わない彼女たちは、本当に良く言うことを聞いてくれるんだ。どんなことでもしてくれるから、助かるよ。ふふふ、どうしたのかな、莉子ちゃん? 自分はそうじゃないって顔しているね。でも君だって、彼女たちと同じ。すぐにボクの虜になって逃れられなくなる。これからはボクの意のままに立ち振る舞ってくれるはずだ」
―― う、嘘でしょうっ! どういうことなの、これって。やだ、ちょっといい加減にして! 冗談じゃないわよ!!
けど、変。だって、こういう場合って普通なら手足をばたばたして思い切り抵抗するはずでしょう。なのに、どうして? 悲しいくらいの脱力感、手足が痺れて全然言うこと聞かないの。まるで夢の中にいるみたいに意識がぼんやりしている。
「ごめんね〜、何も君を疑っていた訳じゃないんだけど」
先輩には、あたしの心の叫びが届いているかのよう。わざとじらすみたいに首筋から顎にかけて撫でながら、冷え切った眼差しであたしを見つめる。
「君が閻魔の飼い犬じゃないって保証はどこにもなかったから、念には念を入れさせてもらったよ。とにかくは完全にボクのものになってもらわないと安心できないしね、今日の香りはちょっと効き目の強いものを使ってみたよ。ま、ボクはもう免疫がついてるから、これくらいじゃなんてことないけど」
上半身裸になった先輩、思ったよりも貧弱な腹筋だ。あんなに鍛えているのに、全然なのね。うーん、これってやっぱり比べる対象が悪すぎ? でもこんなんじゃ、楓さまにすら遠く及ばないよ。何もかもが見せかけのメッキみたいな人だったんだな。
「……っ……」
軟弱な肩越しに、向こうの壁に掛かった時計を確認する。薄暗くてぼんやりはしているけど、見やすい文字盤で良かったわ。三時半、思ったよりも時間は経ってない。……ふうん、そんなもんか。
「莉子ちゃん、そろそろコレの威力を借りようか? そうすればもう、難しいこと何も考えられなくなるからね〜っ……」
ぷちっと音がして、白い錠剤が取り出される。アレ、絶対にヤバいものだよね? でも顎をがっちり固定されちゃったら、もう逃れる術もないじゃないのっ! どうするっ、どうするの、あたし!!
―― がちゃんっ!
突然、どこかでガラスが割れるような音がした。次の瞬間には、真っ黒なカーテンがぶわんと大きく舞い上がる。何が起こったのかと、慌ててあたしから身を剥がした先輩がそちらを確認したとき。今度は入り口の引き戸ががたんがたんと尋常じゃない音を立てた。
―― ばーんっ!
ええとね、さすがに効果音だけじゃ説明がつかないから解説するね。その、引き戸って普通は左右に動くものだよね? そのはずなんだけど……今回は何故か違っていて、扉が一枚外れてそのまま前に倒れてきたのだ。もちろん、のぞき窓は粉々に割れて、床にはそこらじゅうガラスの破片が飛び散ってる。
「莉子ちゃんっ!」
「莉子っ!」
ふたつの方向から、同時に名前を呼ばれる。ようやく吹き込んできた新鮮な空気を、あたしは胸一杯に吸い込んだ。はー良かった、こういうのを危機一髪っていうのね。それにしてもタイミングばっちり、あたしの段取りもたいしたものだわ。
「砂原」
野太い声で名前を呼ばれて、振り向くコースケ先輩。そこに眩しく光るフラッシュ。
「御用だ」
動かぬ証拠を納めるのは、いつもの年代物一眼レフ。あたしの顔は写さないように気をつけてくれた……と信じたい。信じられない成り行きに呆然としていたコースケ先輩は、窓の鍵を壊して飛び込んできた楓さまに後ろ手に捕らえられる。
「今までずいぶん逃げ回ってくれたわね? でも今度という今度は言い逃れできないわ、あなたの可愛い彼女たちにもしっかりと証言していただきましょう」
それから、先輩の腕はしっかり拘束したまま、楓さまは床に転がる錠剤を拾い上げる。
「あら、これってただの胃薬じゃない。こんなもので今まで女の子たちを騙してきたの? 全くいい根性しているわね。もちろん、騙される方も騙される方だけど。高価な薬だとか言って、だいぶ巻き上げてたみたじゃない。そのお金がどこに流れていたのかも、ゆっくり話してもらいましょうか」
ひとつ、大きく溜め息。そして彼女は、入り口付近で腕組みをしたまま突っ立ってる大王の方をくるりと振り向く。
「今回は、後のこと私が全部引き受けるわ。衛は莉子ちゃんとゆっくり話し合った方が良さそうね、あとで詳細は報告するから」
そう言いつつ、蹴り飛ばされた引き戸を器用に避けながら出て行く楓さま。きっと行き先は学園長室だな。そんな彼女にみっともなく引きずられている哀れなコースケ先輩は、ようやく情けない声を上げる。
「莉子ちゃん、どういうことだよ! ユーは言ったじゃないか、今日はこっちに閻魔の巡回は来ないって。話が違うよ……!」
あたしは何も答えなかった。でもその代わりに、とびきりの「にっこり」で微笑んであげたんだ。大サービスだよ、これって。
つづく♪ (090928)
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