TopNovel>高宮楓の受難・4




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 かつて、これほどまでに週末が待ち遠しかったことがあっただろうか。
  おあつらえ向きの秋晴れまでもが自分に味方をしてくれているような錯覚を覚えてしまう。堅苦しい平日から解き放たれた人々が色とりどりの服装で行き交う駅の構内を、足早に待ち合わせ場所へと急ぐ。
  涼やかな足取りが奏でるのはいつも通りの靴音。スレンダーな身体を包むのは伝統ある私立緑皇学園の制服だ。いささか堅苦しくも思うが、女物はこれしか持ち合わせていないのだから仕方ない。
「少し……早く到着してしまったかな」
  雑踏の真ん中で一度足を止めて、楓は腕時計を確認する。自分自身では落ち着いているつもりだったが、やはり気が競ってしまっていたらしい。昨夜はあまりよく眠れなかったし、そのくせ朝の五時から目がランランと冴えていた。
「あっ、高宮さん!」
  刹那、清らかな声がどこからか聞こえてくる。再び歩き始めた足を一度止めて視線を巡らすと、声の主はちょうど自分が今過ぎてきたばかりの改札口を通り抜けるところだった。
「すみません、少し遅れてしまいましたか」
  申し訳なさそうに駆け寄ってくる彼女の顔の周りで、柔らかな髪がふわふわと揺れる。楓と同じ黒髪であっても、こちらは多少柔らかさのある髪質らしい。従妹の高宮葵などは、胡散臭いほどのキューティクルに守られている艶々の髪だが、あれよりもずっと好感が持てると思う。
「こんにちは。大丈夫よ、待ち合わせた時間までにはまだ間があるわ」
  しばらくぼんやりと琴音の姿に見惚れていた自分に気づき、楓は慌てて気持ちを切り替えた。こういうときに咄嗟に「学園随一の才媛」モードになれるのも、日頃の鍛錬のたまものである。
  ―― それにしても、可愛いなあ。
  今日の琴音は私服姿だった。それがまた新鮮すぎて、感激してしまう。レース素材のブラウスに膝丈のスカート。そこから覗いているすらりと細い足が眩しいほどだ。手にはニット素材の上着がある。たぶん、電車の中が温かかったので一度脱いだのだろう。
「とりあえず先を急ぎましょうか、このような場所で立ち話していても始まらないから」
  さりげなく促したつもりではあるが、やはり口元が緩んでしまう気がする。
  とにかく、ここまでたどり着くのが大変だった。待ち合わせの日時と場所を決めるだけでも一苦労、何しろ自分とこの子の間には常に「伝書鳩」状態の菅野静音が立ちはだかり、なかなか話が進まない。本人はどこまでも善意で動いているつもりらしいのだが、楓にとってはその行動がいちいち妨害のように思えて仕方なかった。
「良かったら、妹さんのケータイアドレス教えてもらえないかしら。直接やりとりした方が話が早いと思うの」
  あまりに苛ついたため、一度はそう提案をしてみたが駄目だった。
「え〜、別に俺が好きでやってるんだから気にしないでいいから。もともとこっちが頼んだことなんだし、これくらい何の苦労でもないよ」
  そこまで言われてしまっては、こちらも引き下がるほかない。
  結局、「土曜日の午後一時に待ち合わせ、場所はこの前の駅を出てすぐのビルに入っている市営の学習ルーム」と決めるだけで、平日のほとんどを要してしまった。
「無理なお願いをしてしまって、本当に申し訳ありません。高宮さんにもいろいろとご都合がおありだったでしょう、それなのに兄が……」
  彼女はまだ今回のことに気乗りしていない様子。ふたりで連れ立って歩いている間にも、何度もすまなそうに頭を下げる。
「いいのよ、私も皆よりも早く暇になってしまって途方に暮れていたの」
  それはほとんど本音から出た言葉だった。予備校も今日一日は公開模試の会場となっていて、館内すべてが殺気立っている。あんな中にいたら、他人のストレスまで吸い取って疲れ果ててしまうだろう。
  ひとこと返すたびに、ふわっとした羨望の眼差しを向けられるのがたまらなくこそばゆい。周囲から注目されることには慣れっこになっていたつもりだったが、何だか彼女の眼差しは他の誰とも違うような気がするのだ。

  某百貨店が数年前に撤退したあと残ったビルを市が買い上げ、今ではそこに様々なテナントが入っている。「学習ルーム」はその最上階にあった。楓自身もはじめて入室したが、ちょうど図書館の自習室のような雰囲気。がらんどうなスペースに長机とパイプ椅子がずらりと並んでいる。多少の雑談は可能らしく、分からない問題を教え合っている者たちもいた。
  すぐ上の屋上では、夏季限定で夕方からビアホールが開店するというからあまり良い環境とは言えないが、それでも週末の今日は半分以上の席が埋まっている。
「え、ええと……これが先日の模試の結果です」
  窓際の席に座ると、琴音はあまり気が進まない様子で鞄の中からプリントアウトされた資料を取りだした。
「あ、兄が、これを見せないことには話が進まないだろうと言うので……」
  赤の他人に自分の成績を公表するなど、あまり楽しいことではない。でも、素直な性格の彼女は言われたとおりに行動するのが当然と思っているのだろう。
「そう。では、拝見させていただくわ」
  手渡されたモノを一瞥して、楓はふっと表情を曇らせた。
「まあ……これは確かに楽観できるような結果ではないわね」
  彼女の兄である菅野静音からも、再三にわたり「模試での結果が残せない」との情報を聞いていた。だがそのときにも「口ではそう言っていても、実際はそれなりに取れているだろう」と高をくくっていたのだ。兄の方は、あれでいてクラスでも上位の成績を維持しているのである。彼が今苦しんでいるのは、かなりの上位校を目指しているためだ。
「ええ、そうなんです……担任の先生からは単願でも危ないから志望校を考え直せと言われています」
  その辛そうな表情からは「でも、簡単にそうするわけにはいかないんです」という悲痛な叫びが聞こえてくるようだった。
「解答欄の方も見せてもらっていいかしら」
  琴音の様子を見て見ぬ振りをしながら、楓は用紙の裏を返した。
  彼女の置かれている状況は、何となくわかる。伝統ある私立緑皇学園では、親子二代祖父から三代、中には曾祖父の時代から四代続けて門をくぐっているという強者がいたりする。そのような一族の中にあって、いまさら本人の意思で違う高校を選ぶのはかなりの勇気がいることだ。
  下手をしたら、一族の恥さらしの烙印を押されてしまうかも知れない。そうならないために小学校どころか幼稚園の頃から塾で勉強漬けの毎日を送っていたという同級生が実際に存在するのだ。
  あのおちゃらけた兄の姿からは到底想像もつかないが、菅野兄妹の実家もそのような道理が未だにまかり通る場所なのだろう。
「……あら」
  模試結果の裏側には、答案用紙の縮小コピーされたものが全教科分プリントアウトされている。真面目そうな性格のうかがえる文字を目で追っていた楓は、やがてひとつの場所で目を止めた。
「この問題も、……この問題も。途中までは合っているのね。どうしてここで解くのをやめてしまったのかしら」
  数学の文章問題は、その手の残念な解答がいくつもあった。さらに国語や社会、理科などでも四択問題のふたつで迷い選ばなかった方が正解となっている箇所が多い。
「え、ええと……途中で時間が足りなくなって、焦ってしまったんです」
  もしかしたら、かなりの基礎学力は持っているのかも知れない。ただ、模試形式の問題に慣れていないだけのことで。そう予想して訊ねてみると案の定、学校での内申点は校内でも上位クラスだという。
「学校のテストでは上手く行くのですけど……それ以外では思ったような結果が残せなくて。だから、とにかくたくさん受けて慣れろと言われて今はそうしてますが、何度受けても結果はまったく変わりません」
  近頃では月に二度は何かしらのテストを受けている状態だという。それでは受験勉強を落ち着いて進めていくゆとりもないだろう。彼女はおっとりした性格だから見た目はあまり深刻そうに見えないが、内心はかなり焦っているように思える。これがもしも莉子だったら、とっくに大爆発を起こしているところである。
  ―― どっちにせよ、放っておけないタイプではあるんだけどな……。
  自分がお節介焼きであるという確信はある。不器用で上手く行かないでいる人間が近くにいると、ついつい手を貸してやりたくなるのだ。しかし、それをやり過ぎたことで過去にはいくつもの失敗をしている。だから、今回も安易に話に乗るのはまずいと言うことは承知していた。
「そんなに思い詰めることもないわ。本番まではまだ何ヶ月もあるのだから、十分に間に合うはずよ」
  塾や予備校が作るテスト問題はやたらと意地悪くひねってあることが多い。素直な人間ほど、その技に引っかかってしまうのだ。とはいえ、私立の入試には概してそのような問題の出題が多いため、対策を立てるに越したことはない。
「ほ、本当ですか」
  今にも泣き出しそうだった琴音の顔が、その瞬間に淡く輝いた気がした。
「ええ、テストなんて怖がることはないの。きちんと攻略法を身につければ、必ず上手く行くわ」
  自分でも驚くほどの自信たっぷりな言葉が飛び出してきた。
「そんな風に言っていただけるなんて……本当に嬉しいです」
  この子もだいぶ苦労を重ねているのだろうなと、楓は哀れに思っていた。
  何しろあの「兄」がいる。彼はやることなすこといちいち強烈な印象を周囲に与えていく。話がうまく運ぶときは良いが、いつもそうばかりは行かない。「不安定」に疲れすぎた身内たちは、揺るぎない「安定」をその妹である彼女に求めてくるだろう。そして本人もまた、その期待を叶えるべく必死に努力してきた。「私もできる限りの協力をさせてもらうわ」
  まず、必要なのは彼女自身が自信を回復することだと思う。
  度重なる模試での失敗により、今は完全な自己不信に陥っている。何ごとも気の持ちよう、「出来る」と信じれば予想以上の結果が出ることも少なくない。
「嬉しいです。高宮さんは本当に素敵な方ですね、兄が憧れてしまうのも無理はありません」
  楓を見つめる琴音の瞳は、期待と羨望でキラキラと輝いていた。あまりの目映さに吸い込まれそうになっていると、手元がふわっと温かくなる。
「わ、私、頑張ります」
  一瞬何が起こったのかわからなかった。気づけば、楓の右手は、隣に座る少女の両手でしっかりと包まれている。
「もう絶対に無理だって諦めていたんですけど、高宮さんの言葉を聞いて思い直しました。もう一度、緑皇学園を目指してみます。そうすればきっと兄も喜んでくれると思うんです!」
「え……?」
  せっかくツーショットを楽しんでいるのに、やたらと菅野(兄)の存在が気になる。どういうことかと思っていたが、今のひとことで何となく察しが付いた。
「あのような兄ですが、私にとってはとても大切な人です。ですから、高宮さんも兄のことを是非前向きに考えてください!」
  何故、このような展開になるのかわからない。しかし、今日またひとつ確信したのは目の前の純情可憐な少女が完璧なブラコンであったという事実であった。

 

つづく♪ (101029)

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