TopNovel>高宮楓の受難・6




1/2/3/4/5/6/7/8

   

 まあ、もともと琴音はただの風邪であったわけだから、それほど気に病むこともなかったのである。
  楓の沈み込んだ心が浮上するよりもはるかに早く彼女は復活していた。そのことを週明けに実の兄である菅野から聞かされ、どんなにか安堵したことか。
  だが、「舞い上がる」という現象はどうにも恐ろしすぎるものであるということにも同時に気づかされる。いきなり目の前がバラ色になって、知らないうちに足が勝手にステップを踏みそうになっていたのには焦った。

 その後の琴音の頑張りはめざましいばかりであった。楓にとって、自分の予想を遙かに超えて成長していく彼女の姿は誇りでもあり、また同時に脅威にも感じられる。
  一月後に受けた学外模試で、いきなり合格判定がEからBに跳ね上がったのには驚いた。そんなに早く結果が出ることになるとは、楓自身もまったく想像していなかったのだ。 
「いやー、本当にホッとしたよ。これも皆、高宮さんのお陰だね。うちの両親も親戚一同も、それはそれは君に感謝している。無事、妹が合格した暁には自宅に招いて盛大におもてなししなくてはという話になっているよ」
「そ、そうなの」
  何だか、ずいぶん話が大袈裟になっている気がする。たかが週に一度勉強を見てやっているだけの身で、そこまでしてもらうのはあまりにも申し訳ない気がした。
「たぶんそのときは俺たちも卒業していると思うし、そのお祝いも兼ねることになると思う。親戚一同で大歓迎するから、是非楽しみにしていて欲しいな」
  ―― 菅野の親戚一同……ということは、このノリの老若男女が勢揃い……。
  想像しただけで恐ろしすぎる光景に、楓は心の中で滝のような冷や汗をかいていた。そんな場所に行けるわけがないじゃないか、しかも一同の前でどんな風に紹介されるやらわかったもんじゃない。
「高宮さんの私服姿がようやく拝めるのか〜。いやぁ、それって役得だなあ……」
  何も知らない菅野兄はウキウキとそのときのことを妄想しているらしい。彼の頭の中身を覗くことだけは、絶対にやめようと楓は思った。

 そんなこんなしているうちに年も改まり、さらに楓の周りは受験色が濃くなっていく。普通にセンター試験に私立入試、さらに国立の二次を予定している衛などは後ろ姿を見ても鬼気迫っていて、声を掛けるのを躊躇うほどであるが……
「う〜ん、そうだね。この頃は寝言でも物理の公式とか英単語とか呟いていたりするんだよ。あれって、かなり追い詰められてるってことだよね」
  ……まあ、そんな莉子のコメントを聞く限り、心配するほどのこともないかも知れないと思い直す。どんなにせっぱ詰まっても、やることはやっているらしいし、そのことが案外ストレス解消になっているのだろう。
  相変わらず仲の良さそうなふたりの様子を見ても、少しも胸が痛まない自分に楓はとても驚いている。衛は、趣味も性格もまったく違うのに幼い頃から不思議なほど気の合う従兄弟であった。このさきもずっと友情が続いていく幸運に今は感謝したい。
  もちろんクラスの雰囲気も殺伐としている。さすがの菅野兄も近頃ではすっかり真顔になり、気の抜けた冗談を言うこともなくなった。センターが終われば、三年生だけが一足早い学年末試験を受け、そののちは長い自宅学習期間に突入する。
  そして、緊張しているのは高校受験を控えた中学三年生も同様であった。

「ずいぶん険しい表情になっているわけど、大丈夫?」
  そう告げてしまってからも、楓の心は揺れ続けていた。
  もちろんどうやって声を掛けていいものか、思い悩んだ挙げ句のひとことである。
  受験期に落ち着かない気分になるのは当然のことであるから、上手く気持ちを逃してやるのも一案であろう。本人の表情に緊張が表れていることをはっきりと指摘したら、さらに追い詰める結果になってしまうかも知れない。
「え、ええ……すみません。ご心配をお掛けしてしまって」
  私立高校の入試時期にはそれぞれの学校によってばらつきがあるが、緑皇学園はいつも二月に入って間もなく行われることに決まっている。結果が出るのは公立高校の願書締め切りの直前であった。
  ほかの高校よりも遅い日程で行われる入学試験であるから、気持ちの持っていき方がとても難しい。楓自身もかつて経験したことであったから、そのことは理解していた。
  早い学校ではそろそろ合格発表が行われている。周囲が騒がしくなってくれば、さらに緊張が高まるのも仕方のないことだ。
  勝負事に臨むためには、適度に気を張り詰めさせるのも効果的である。著名なスポーツ選手や音楽家などもいわゆる「あがる」という現象を上手く取り入れて本番に向かうと聞いたことがあった。
  だが、琴音の今の様子はそういうものとは少し異なるようにも思える。言葉で説明するなら「落ち込んでいる」「沈んでいる」―― 答案用紙に向かう横顔からも悲痛な心の叫びが聞こえてくるようであった。
「いいえ、いいのよ。こちらのことは気にしないで」
  申し訳なさそうに答える彼女に、楓は優しく言葉を重ねた。
「でも、いったいどうしたの。先日の模試の結果もとても良かったし、もう何も心配ないでしょう。今の琴音さんならば、怖いものは何もないはずよ」
  鉛筆を握りしめる小さな手が震えている。琴音はしばらく動きを止めたまま、何かをじっと考えているように見えた。
「怖く……は、ないんです。ただ……」
「ただ?」
  どうにかして想いを伝えようとする彼女を、受け止める術を知らない自分に戸惑っている。たった三年の歳の差、ふたりの間に流れる感情の溝をどうしても埋めることができない。
「あ、……いえ」
  そこで何かにハッと気づいた琴音は、慌てて首を横に振る。それから、元の通りに答案用紙と向き合うと、淡く薄桃色に染まった頬で言った。
「高宮さん、その……。このあとお時間があったら、付き合って欲しいところがあるんです」

 琴音に案内されてたどり着いたのは、ゲームセンターの片隅。およそ受験生にはふさわしくない場所であった。
「す、すみませんっ。……驚かれたでしょう」
  あとに続く楓の戸惑いに、彼女自身も気づいているのであろう。申し訳なさそうに首を振る初々しい姿にも、騒々しい雑音がまったく似合っていなかった。
「いいえ、大丈夫よ。私だって、ゲームセンターくらい入ったことはあるわ」
  これでも中学時代は、仲間たちと一緒にかなり遊んでいた方だと思う。とはいえ、ただ周囲にノリで付き合っていただけで、楓自身はそれほど楽しい空間だとも思っていなかった。画面に次々と浮かび出される映像は、数分後には跡形もなく消えてしまう。あとには何も残らない空虚な闇。
  若くして「わびさび」の世界に精通している彼から見ると、お決まりの若者文化はどこまでも奇異なものとして映っていた。
  ……でも、どうして琴音がこんな場所に。もしや、彼女には楓のまったく知らない一面があるのだろうか。
  実はかなり動揺しつつ、でもその感情はおくびにも出さずに装っていた。そして、連れてこられたのは、一番奥のスペース。
「え、ええとっ。よろしかったら、ご一緒いただけませんか?」
  壁に添っていくつも並んでいるのは、ビニールののれんで仕切られた小部屋。―― とは言っても、決していかがわしい場所ではない。そう、これはいわゆる「プリクラ」。何故か女子というものは、出掛けた先で必ずここに入る。もちろん、普通に女子高生をしている楓にとってもお馴染みのスペースではあった。
「私と? 琴音さんが……?」
  あまりの衝撃に、返事の声がみっともなく裏返ってしまった。女装のときに用いているのは裏声まではいかない微妙なトーン、これを上手くコントロールするのはかなり難しいのである。
「はいっ、是非お願いします!」
  まさかこんな、……嬉しすぎることがあっていいのだろうか。
  ほとんど夢心地のままの数分間を過ごし、出来上がった写真を備え付けのはさみで二等分する。四パターンのショットで映ったふたりの顔。少し自分の笑顔がぎこちないが、なかなかの仕上がりだ。
「ありがとうございます、とても嬉しいです!」
  自分たちの写真を大切そうに鞄にしまう琴音を、何とも不思議な気分で見つめていた。普段はさりげなさを装うために、あまり凝視しないように気をつけている。だが、今ならばそれも許されるだろう。
  そして、何よりも嬉しかったのは、ゲームセンターを出たときの彼女の表情が何かを吹っ切ったように爽やかなものに変わっていたことだ。
  休日で歩行者天国になっている駅前は、色とりどりに着飾った若者たちでごった返していた。何がそんなに楽しいのだろう、みんな悩みなんて欠片もないように笑っている。
「まあ、これでは駅まで戻るのが大変そうね」
  人混みの中を並んで歩くと、自然とお互いの身体が寄り添っていく。一瞬腕に触れた彼女の肩先に、楓の胸は高鳴っていく。
  自分たちは周囲からどのような間柄に見えているのだろう。「クラスメイト」としては無理かも知れないが、それならば「先輩と後輩」? さもなくば、仲の良い「姉妹」になるのか。
「あの、……こういうのって、すごくおかしなことだと思うのですけど」
  すると、お互いの心に引っかかった細い糸をたぐり寄せるように、琴音が口を開く。
「私、受験が終わったら高宮さんにお目にかかれなくなるのがとても残念で仕方ないんです。だって、高宮さんって本当のお姉さんみたいで……ええと、だから」
  まるでそれは、たった今の楓の心の中を映し出したかのような言葉だった。彼の心拍数はさらに上がっていく。
「この時間が、ずっと続けばいいなと思ってました。……そんなの無理ってわかっているのに」
  出来ることなら、今この場所で。それは自分もまったく同じだ、と叫んでしまいたかった。だけど、それはできない。何故なら、彼女と自分とでは完全に気持ちがすれ違っているのだから。
  琴音は自分のことを「女」だと信じている。同性として心から慕ってくれているのに、どうして自分の感情を露わにすることができよう。
「そんな顔しないで。……私にとっても、琴音さんはとても可愛い妹だわ」
  自分の言葉にふんわりと微笑む彼女が、とても切なかった。このまま、何も知らせずに終わりにするしかないのか。
「嬉しい! じゃあ、本当のお姉さんだと思って、もうひとつだけお願いを聞いていただけますか?」
  琴音は疑うことなど知らぬ無邪気な笑顔でそう言うと、鞄の中からピンク色の携帯を取りだした。

 

つづく♪ (101111)

<< Back     Next >>

TopNovel>高宮楓の受難・6