TopNovel>高宮楓の受難・7




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 携帯の画面は、楓にとってカオスだった。ありきたりの文面を打ち込んでは消し、また新たに打ち込んでは首を捻る。そんな端から見たら「何なんだ、コイツは」と思われるような不可解な行動を、もう数時間繰り返していた。
  ―― 受験当日の朝に、高宮さんから「頑張って」ってエールがいただけたら嬉しいなって。
  真珠のきらめきにも似た響きが彼女の口元からこぼれ落ちたとき、楓はまたもしばらくの間「思考停止」状態を続けてしまった。以前はこちらから申し出て断られてしまったアドレスの交換なのに、彼女の中でどんな心境の変化があったのだろうか。
  はやる気持ちを抑えつつ学年末テストを終えれば、あっという間に彼女の受験は明日が本番。先週、最後の勉強会をやったとき、一番映りの良かったプリクラが琴音の携帯に貼り付けられているのを発見した。
「実は、こっそり待ち受けにもさせてもらってるんです」
  そんな風に説明されて実物を目の前に突きつけられたら、一気に頭に血が昇ってしまう。その日の楓は自分自身でもはっきり認識できるほど「挙動不審」に陥っていた。
『必ず桜は咲くわ、私がついているから安心して』
  そこに花吹雪の桜画像を添えようとして、やはりそれはやめた。

 私立緑皇学園一般受験当日、楓は学校側からの要請で試験監督の補助をすることになっていた。具体的には校内の案内係や試験中の敷地内の見回りなど。この仕事は主に生徒会役員が引き受けるのだが、元生徒会副会長である楓は彼らのまとめ役のような立場になる。
  それでも、やはり気に掛かるのはこの会場のどこかにいる琴音のこと。朝、約束通りに送ったメールには明るい返信が戻ってきていたが、それでもやはり不安であった。
  回収した試験用紙をちらりと確認すれば、それほどひねった問題も多くないようである。さすがに名門私立高校だけあって例年と同じくかなりの難易度であるが、それくらいのことは事前に承知していて準備を重ねていたのだ。それほど気に病むこともないと思う。
  ―― ただ、試験には何が起こるかわからない恐ろしい一面がある。
  ひやりと冷たいものが胸を過ぎり、そこでまた制服のポケットに忍ばせた携帯電話を握りしめる。そこには琴音のものと同様、ふたりで撮ったプリクラがこっそりと貼り付けられていた。

 そして、あっという間に一週間後の合格発表を迎える。
「高宮さんっ……!」
  琴音は母親らしき女性と共に学園を訪れていた。何かの手続きが終わったところなのだろうか、楓の姿を見つけて嬉しそうに駆け寄ってくる。
「おめでとう、琴音さん。本当に良かったわね」
  これで、自分の役目はすべて終わったのだ。そう思うと、喜びよりも悲しみの方が胸に色濃く広がり、何とも縁起の悪いことである。
「はい、今まで本当にありがとうございました」
  少し離れた場所にいる女性が、楓に静かに頭を下げている。琴音の母親は彼女によく似た奥ゆかしい性格らしい。となると、賑やかなのは父親の方なのだろうか。
「でも、本当に大変なのはこれからよ。入学までに済ませなければならない課題もたくさんあるし、実際に授業が始まればかなりのスピードになるわ。この先も気を抜かないで頑張ってね」
  我ながら、先輩らしい完璧なアドバイスだったと思う。よくもまあ、心とは裏腹な言葉がこのようにすらすらと出てくるものだ。人間はどん底まで落ち込んでしまうと、かえって楽になれるものなのかも知れない。
「はい、もちろんです」
  そこで一度言葉を止めた琴音は、次の瞬間にふっと顔を曇らせた。
「これで……本当におしまいなんですね。こちらの卒業式の日には私も中学がありますから、お祝いに来ることはできませんし……」
  今こそが、潮時なのだ。そう、……そうに決まっている。
  最初からわかっていたことだった。むしろ、予定よりも深く関わりすぎてしまったと言ってもいい。ここが限界点なことは楓自身もよくわかっている。自分は琴音にとって、「兄のクラスメイト」という位置づけ。それ以上でもそれ以下でもない。
「高宮さんが兄と上手くいってくれれば、と思うこともありました。だって、そうしたらこれからもお目に掛かる機会があるでしょう。でも、今ではそれもちょっと違うかなと考えています」
  そのときまで俯いていた顔を上げて、琴音は泣き笑いのような表情を楓に向けた。
「私が、私自身が、誰よりも高宮さんの近くにいたいなと思ってしまうんです。こんなの……おかしいですよね?」
  その瞬間、楓の身体中の血液が、すべて頭に昇っていた。
  なんと言うことだ、これはもしかして「告白」……!? まさか、彼女の方からこんな風に申し出られるとは信じられない。
「……あっ、違います! こんなの、冗談ですから! ……そのっ、忘れてください……!」
  あまり驚きすぎた態度を取ってしまったからだろうか、琴音は慌てて首を横に振る。その顔は、誰にでもはっきりわかるくらい真っ赤になっていた。
  これはいったい、どうしたことか。自分は今ここで、どんな言葉で応じればいいのだろう。自分も彼女と同じ気持ちだと、正直に告白する? いや、それは良くない。ふたりして、そっちの道に突っ走ってどうするのだ。
「嬉しいわ、そんな風に言ってもらえるなんて。……そう、それなら私の方からも琴音さんに提案があるの」
  それは咄嗟な思いつきであった。だが、我ながら素晴らしく名案だと思う。
「自宅で父が華道教室を開いているの、良かったらそこに入門してみない? 大丈夫、琴音さんと同じくらいの年頃の子も何人か通ってきているわよ。私もそこを手伝っているから、いつでも会うことが出来るわ」
「……え、でも……いいのですか?」
  楓はゆっくりと頷いた。
「卒業式の日に、菅野くんに入門のための手続き書類を預けるわ。それを琴音さんの中学の卒業式当日に受け取りに行ってもいいかしら」
  さりげなさを装いながらも、楓の胸は未だかつてないほど激しく高鳴っていた。自分でもいったい何を言っているのかよくわからなくなっている。とにかく、このまま琴音との関係を終わりにすることはできない。自分たちに明確な接点を残したいとの強い思いが今の楓を突き動かしていた。
「ゆっくり考えてから答えを出してもらえればいいわ。でも、良い答えを待っているから」
  そのとき、彼女を呼ぶ声が聞こえた。
「あっ、これから説明会があるそうなんです。忘れていました」
  ハッと我に返った琴音は、一度頭を下げてからそう告げる。
「お誘い、とても嬉しいです。今夜にでも両親に相談してみます。きっと、良い返事ができると思いますから……!」
  母親の元へと足早に戻っていく彼女の背中に、楓は一足早い薄桃の花吹雪を見た気がした。 

 水温む三月。
  ほんのりと白く霞みがかったそらに絵筆でなぞったような薄い雲が流れていく。自分の足下に伸びた影、楓は落ち着かない気持ちのままで何度も同じ場所を踏みしめていた。
  ―― 大丈夫かな、どこかおかしいところはないだろうか。
  この日のために準備した新品の装い、欲張りすぎて予定よりもかなり大きくなってしまった花束がかなり目立つらしく、先ほどから道行く人に何度も振り返られている。柔らかい風が通りすぎるたび、セロファンと薄い紙に包まれた花たちが芳しい匂いをあたりにまき散らしていた。
「……そろそろ、時間かな?」
  この中学では卒業生は在校生たちに通路の両脇で見送られながら校門を出てくる趣向となっていると聞いている。そのだいたいの時間は前もって確認しておいたが、いざそのときが迫ってくると何とも落ち着かない気分になっていた。
  今、立っている校門付近には多くの父兄が集まって来ている。その賑わいに紛れて、楓はもう一度大きく深呼吸した。
  ―― さあ、いよいよだ。
  ぞろぞろと卒業生たちが校門から出てくる。泣いている者、笑っている者、それぞれなのはどこでも同じ光景である。少し前の自分たちの卒業式でもまったく同じようなシーンが繰り広げられていた。
  琴音は最後のクラスだと聞いている。胸に「卒業おめでとう」と書かれた花を揺らす制服たちを必死で目で追っていた。
「……あ……」
  背中の半分を覆うほどに伸ばした黒い髪、陶器のように白い肌。黒目がちの眼はしっとりと潤んで、今日の感激を伝えている。やはり可愛らしい、同じ制服を着込んだ同級生たちと並んで歩いていても彼女の姿だけが眩しく楓の目に映っていた。
  校門を出た卒業生たちは、おのおのを待つ家族や知り合いの元へと進んでいく。部活動の後輩らしい集団に取り囲まれてしまった者もいた。仲間同士集まって記念写真を撮ったり思い出話に興じたりととても賑やかである。そんな中、琴音はひとり、きょろきょろとあたりを見回していた。
  自分を探しているのだと気づきながら、どうしても足が前に出ない。もどかしい気持ちのままで電信柱の影に隠れた楓は、自分がこの上なく怪しい行動を取っていることにも気づかないでいた。こんな風にしていても始まらない、それはわかっているのに震える身体が言うことを聞いてくれないのだ。
  そうしているうちに、少し遠い場所で立ち止まった彼女が不安そうな面持ちで鞄から携帯電話を取り出した。
「―― 琴音、ちゃん」
  自分の名前が呼ばれたことに気づいた彼女は、当然のことながら声のした方を確認する。しかし、楓の姿を確認したときに、その愛らしい表情から微笑みが消えた。
「その……どなたですか?」
  見たこともない相手にいきなり話しかけられたのだから、その反応はもっともである。楓はジャケットに包まれた背中に一筋の汗が流れていくのを感じていた。
「ええと、もしかして……高宮さんのお兄様、ですか?」
  淡くほころばせた口元のままで見つめ続けていると、琴音はようやくハッと気づいたらしい。驚きのままに見開いた目を二度三度と瞬きさせてから、ようやくそう訊ねてきた。
「卒業おめでとう。これは俺からのお祝い、どうか受け取って欲しいな」
  淡いピンクの花をたっぷりと束ねた花束をそっと渡したあと、楓はゆっくりと右手を差しだした。硬い表情を崩さないままの琴音もそれに応えるようにやはり右手を差し出す。そしてふたつの手が柔らかく結ばれたとき、彼女の顔色がすっと変わった。

 

つづく♪ (101117)

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