TopNovel>高宮楓の受難・5




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「えっ、……嘘。どうして満点が取れてしまうのでしょう?」
  翌週、同じ学習ルームにて。
  予想以上の反応に、楓は内心ほくそ笑んでいた。もちろんそんな態度をおくびにも出さないことは当然である。
「そこまで驚くことはないでしょう、これは当然の結果よ」
  確かに多少時間が掛かりすぎた気もする。だが、最初から何もかもが満点に上手く行くことなどないのだ。量を取るか質を取るかでいくぶん悩んだが、結果が出せてホッとしている。実は今日の問題はすべて楓の手作りだった。
「琴音さんには底力があると思うの。今の努力が成果となって現れるのは何ヶ月かあと。だから、受験本番に焦点を合わせてそこで実力を発揮できるようにしましょう」
  自分の言葉に嬉しそうにはにかむ姿にじーんとする。でも次の瞬間、その感動は嘘のようにすっと冷めてしまうのだ。
  ―― だけどこれも、すべて兄貴のためにやっていることなんだよな。
  先週の別れ際に直接連絡できる方法を教えて欲しいと切り出したら、「兄を通してください」とばっさり言われてしまった。そのときのショックが、未だに胸の奥にしぶとくくすぶっている。
「伝書鳩」な生活を続ける菅野兄はすこぶるご機嫌であった。彼はおぞましいことに楓に友情以上の好意を寄せている。そんな相手と個人的に話す機会が増えたのだから、喜ぶのも無理はない。できる限りいいところを見せようと必死に努力している姿もうかがえた。
  だが、しかしである。
  もしも天と地がひっくり返ったところで、菅野兄の気持ちに応えるわけにはいかない。もしかすると彼は仮に楓が男だったとしてもゴーサインを出すかも知れないが、こちらとしては全力でお断りしたいところ。あくまでもノーマルで生きていきたい所存だ。
  ―― でも彼を介してコンタクトを取らなければ、この子に会うことも叶わないのだ。
  菅野琴音という自分よりも三歳年下の少女は、会うごとに愛らしさの増す不思議な存在である。あどけなさを残した顔立ち、ほとんど人の手を加えられていない髪や肌、どれもこれもが天然記念物モノに貴重に思えてくる。
  嬉しさを全身で伝えてくれている笑顔。でもその夢のようなひとときはすぐに終わりを告げてしまう。
「じゃあ、気になるところをおさらいしていきましょうか」
  解答用紙をざっと見直せばすぐにわかる。とりあえず正解となっていても、それが自信を持って書かれたものなのかそうでないのか。手書きの文字からは、彼女の得意や苦手がはっきり見えてくるのだ。ささやかな筆圧の差までを見極められる距離にいることだけでも今は感謝しなければ。
「まずは電流のところにしましょう」
  そう話しかけながら、あらかじめ用意してきた問題集の該当ページを開く。
  楓にとって三年前の高校受験のときの記憶はすでに忘却の彼方であったが、今はそれを必死にたぐり寄せているところである。まあ、その努力を表に出すようなヘマはしないつもりだが水面下ではかなり大変なことになっていた。
  最近では自分が白鳥になった夢を見ることすらある。そのときの楓は湖を涼しげに漂いながら、必死に足を動かしているのだ。未だかつて、ここまで頑張ったことがあっただろうか。
「さあ、まずは基本問題のおさらいね。この頁の一番と二番をやってみて」
  頁が閉じないように片端を押さえながらそう告げると、指先に何やら視線を感じた。最初は気のせいかと思ったのだが、どうも違うようである。
「……どうしたの?」
  そっと話しかけてみると、そこで琴音はようやくハッと我に返った。刹那、ポッと頬が赤くなる。
「え、ええと……高宮さんって」
  そこで一度言葉を止めて。彼女はもう一度、楓の手を見つめた。
「その、……とても手が大きな方だなと思って。ええと、これは悪い意味ではないんです! 私、自分が手が小さくてピアノとかも上手く弾けなかったので羨ましいなあと……」
  耳に届いたのは、とても意外な言葉だった。自分では今までとくに意識したことはない。綺麗な手だと言われることは多かったが、その大きさまでは気にしていなかった。
「そうかしら?」
  何気なさを装いながら、楓は改めて自分の手のひらを見つめてみる。
「ええ、私と比べてみてください。まるで大人の手と子供の手みたいです」
  琴音はそう言うと、いきなり楓の手を取って自分の手のひらと合わせた。本人としては何気ない行為だったのだと思うが、こちらとしてはたまったものじゃない。
「そっ、……そうね」
  確かに琴音の手は楓のそれに比べるとかなり小さかった。手のひらも控えめで指も短い。だけどふんわりと厚みがあり、とても柔らかかった。
「ふふ、高宮さんの手はとてもすべすべしてますね。本当に綺麗、憧れちゃいます」
  ふわり、とぬくもりが消える。
  名残惜しそうに解かれる手のひらを追いかけて、握りしめてしまいたい衝動に駆られた。しかし、そのようなことができるはずもない。楓はかすかに残る体温を、そっと指で覆った。
「さあ、そろそろ始めないと時間がなくなるわ」
  そっと首を動かすと、自分の周りで偽物の髪がさらさらと揺れる。その音が、楓の耳に未だかつてないほど鬱陶しいものとして響いてきた。

 事件は突然起こった。
  いや、正確にはそれは「事件」と呼ぶような出来事ではなかったのだが、少なくとも楓にとっては天地を揺るがすほどの一大事だった。
「……え、琴音さんが?」
  自分の声がみっともないほど震えていることに少し遅れて気づく。
  今日は金曜日。明日あの子にようやく会えると思うとついつい浮き足立ってしまい、思考回路が上手く働かなくなっている。この頃では知らない間に顔がにやけていることもあり、細心の注意が必要なのだ。
  しかし、その朝に菅野(兄)が放った言葉は、そんな甘やかな気分など一気に吹き飛ばすのに十分すぎる威力を持っていた。
「そうなんだ、昨夜から急に発熱してね。とりあえずかかりつけの医師に診てもらってインフルエンザではないとわかったけど、この週末はゆっくり休んでいた方がいいとのことなんだ」
「そ、そう。それは大変ね」
  琴音との勉強会が始まって、早一月が過ぎている。ずっと順調に週一ペースでやってきて、いつの間にかそれが当たり前のようになっていた。そのことに今更ながら気づかされる。
「それでどうなの? 琴音さんの病状は」
  彼女が病の床にいる、そう聞かされてはもういてもたってもいられない。すぐにでも枕元に駆けつけて苦しむ彼女を励ましてやりたいが、あいにくこれから授業が始まるところだ。
「うーん、医者から処方された薬を飲んでるからずいぶんいいみたいだよ。平気平気、うちの家族は頑丈にできてるからさ」
「でも、急に病状が悪化することもあるし……」
  誰かが始終そばについていてくれる状態なのだろうか。菅野の家は商売をやっていると聞いている。武道の用具を販売している店だといい、それなりに繁盛しているらしい。
「な〜に、そんなに心配することないって。高宮さんも見た目に似合わず気が小さいなあ〜!」
  そういう問題じゃないだろう、しかもこの非常事態にどうしてヘラヘラ笑っていられるんだ。自分の妹が病に苦しんでいるんだぞ、もう少し神妙にしたらどうなんだ。
  ふつふつと怒りがこみ上げてくるが、どうすることもできない。
「そんなことを言わないで、次の休み時間にでもご自宅に連絡を取ってみて」
  最後は拝み倒す気持ちになって、どうにか約束を取り付けることに成功した。それでもその日一日はまったく授業に身が入らない状態。受験勉強からも早々と解放された身であり、毎日予習復習は欠かさずにこなしているのだが、それでも教科担任からの質問に一瞬言葉が詰まってしまう。すでに答えが書かれたノートを手にしながらも、質問の内容がどうしても理解できないのだ。
  ―― ああ、こうしている瞬間にも彼女はひとり苦しんでいるというのに……!
  しかしその病状を知るにも、いちいち菅野(兄)の手を借りなければならない。直接、言葉を伝える手段を与えられていない身ではそれが楓にできる最大限のことであった。
  だが、その方法ではあまりにもまどろっこしい。イライラが高じて、今にも爆発しそうな気持ちになる。
  実は苛立ちの原因の一端が、普段よりも多く自分の苦手な「超お気楽人間」と接触することにあるということすら理解できず、その日一日をただ悶々と過ごすことになった。

 そして迎える週末。
  楓はぽっかりと穴が開いてしまった心を持てあましながら、自宅でぼんやりと過ごしていた。家元の跡取りである彼はすでに弟子を抱える身であり、彼らに稽古をつけなければならない。しかしその時間が迫っても、気乗りがせずにただ携帯を操作する。もちろん送信先は菅野(兄)である。
『琴音さんの具合はその後いかがですか?』
  程なくして戻ってくる返信。
『平気平気、熱も下がって食欲も出てきたから心配ないって』
  調子のいい言葉ばかりが並べてあり、さらに語尾には動く画像が添えられている。妙にチャラチャラした文面が彼特有のものであった。
  ―― 本当に、無事でいるのだろうか。
  すでに夜の部の稽古に合わせて和装に着替えていた。少しでも気持ちを鎮めようと、胸元から取り出したのは琴音の答案用紙。このような接点しかないことが悲しすぎる。しかも、彼女にとって自分は「お兄さんの想い人」という存在でしかないのだ。
  そっとふすまを開けて縁に出れば、庭には散り遅れた白菊が悲しげに揺れている。
  人々の心を凍らせる季節は、もうすぐそこまで訪れていた。そして、大地の沈黙が終わり再び水がぬるむ頃、悲しい別れが待っていることに楓はすでに気づいている。
  ―― やっぱり、堅物風紀委員の方を選んでおけば良かったよなあ……。
  今更、どうにもならないことをぽつりと呟いたあと、彼はそっとふすまを閉じた。

 

つづく♪ (101104)

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