TopNovelヴィーナス・扉>シンデレラの赤い靴・1

それぞれのヴィーナス◇初代の未来

  

  

   
 どんよりグレーな寒空に、突如飛び立った白い鳥。

 切れそうなくらい薄い羽を大きく広げた美しい姿に、思わず足を止めて見惚れてしまった。すごいなあ、大都会の真ん中でこんな光景に遭遇するなんて。もしかして、今日の私ってラッキーだったりする……!?

 

「あれ」

 ようやくそこで我に返る。あれ、あれれ、どうしたんだろ。ついさっきまでは大事に抱えていたはずの書類が一枚消えている。そう言えば、ずり下がったから持ち直したそのときにちょっと何かが指にかすった気がしたけど―― 。

「えっ、えええっ! ちょ、ちょっと待ってっ、待って〜!」

 ほとんど徹夜に近かったとはいえ、何ボケてるの。あれ、鳥なんかじゃない。今日、絶対に提出しなくちゃアウトの大切な大切な書類だわ。しかも、朝一で受付に持って行かなくちゃならない必須の。だから昨日の晩は絶対に仕上げなくちゃって必死で頑張ってたんじゃないの……っ!

 始業時間を中途半端に過ぎたオフィス街には私の情けない叫び声を聞きつけてくれる人もなく、しかも着慣れないリクルートスーツにこれまた履き慣れてないパンプスでは走りにくさ天下一品。こんなじゃ、いつまで経っても追いつけないわ。
  それにしてもどういうことなの。細い路地を抜けてきたビル風の悪戯か、たった一枚の頼りない紙切れがシャボン玉みたいにふわふわと舞い上がっていく。だけど、どうしても諦めるわけにはいかないの。コピーだって取ってないし、今更描き直しなんて無理。そう思いつつ首が痛くなるほど付きっきりで見上げていたら、しばらくしてようやっと標的は下降に転じてきた。

 でも、それを幸運と思ったのは間違い。

 今は一時的に上がっているものの、昨夜から降り続いていた冷たい雨はアスファルトの路面をしっとりと濡らし、そこここに水たまりまで作っている。何せ、指定された用紙は向こうが透けそうなくらい薄いもので、その扱いにくさと言ったら消しゴムをかけるにも気を遣ったほどだった。ちょっとでも湿ったところに着地したらさあ大変、どうにかしてこの手に受け止めなくちゃ。
  とはいえ、漫画やドラマの中ではよく見かけるそんなシーンも、実際にやろうと思って上手くいくことは稀。そりゃ、WBCの代表メンバーとかそういう恵まれた身体能力を持ってすれば何とかなるかも。でもでも、私は平均的かそれ以下な運動神経だし、何かもう足下ふらついてるし……。

 ―― と。

 大きな交差点にぶつかってふと横を振り向いたら、そこに久しぶりに見る自分以外の人影があった。今の私に対しては斜め後ろ向き。だからこっちの存在にはまだ気づいてない。そして、その人の頭上にふわふわしてる私の大切な書類のことにも。

「す、すみませんっ! お願いします、それっ、……その紙を受け止めてください!」

 いきなり叫ばれたって、一体何のことかも分からないよね。でも、そのときの私はとにかく必死だったから、相手のことを考えてる余裕もなかった。
  後ろ姿でも分かる、身体にぴったりフィットした上質のスーツ。綺麗に整えられた、だけど決して堅苦しくないヘアスタイル。彼は一瞬こちらを振り返ってすぐに向き直り、長い腕を空へと伸ばした。すると、まるでその指先に吸い寄せられるみたいに、私の大切な大切な白い紙がひらひらと落ちてくる。

「ナイス・キャッチ」

 ようやく私がその背中にたどり着いたのとほぼ同時に、その人はゆっくりとこちらに向き直った。近くで見ると、自分とそう年齢が変わらない感じでびっくり。遠目に見たときには、すごく落ち着いたイメージがあったから、父親くらいの年代の人かと思ってた。そう言えば、すらりと長身だし無駄な贅肉とかもなさげだし、どこから見ても「中年」のカテゴリには当てはまらないわ。

「どうしたの、とても慌てているみたいだけど」

 そう訊ねられても、すぐには返事が出来ない。ずっと走り通しだったし、もう何が何だか分からない状態。とにかくは呼吸を整えなくちゃ。そしたら、お礼を言って書類を受け取らなくちゃ。けど、緊張が一気に解けたせいだろうか。落ち着かなくちゃって焦ると、尚更上手くいかなくなって。ああん、どうしよう。見ず知らずの親切な方をいつまでもお待たせしちゃいけないわ。

「……あれ」

 私がぜーぜーいってる間に、手持ち無沙汰だったのであろう彼が、自分の受け止めた書類を確認したみたい。そしたら急に「合点がいった」って風に、顔をほころばせた。

「そんなに急がなくても大丈夫、面接は十時からだったでしょう? それにここからなら近道が使えるし、ゆっくり歩いても余裕で到着できるよ」

 最初は「若い」「男性」としか認識できなかった相手。その人が一般的基準から見てもかなり整った顔立ちをしていて、しかも笑顔がとても魅力的で、一度出会ったら絶対に忘れられないような人物だって分かるまでに、そう時間はかからなかった。

「……」

 それにしても。

 いきなり何を言い出すんだろう。この人って特殊は能力の持ち主? 何で全てを分かっているような話し方をするの……?

 私はきっと、かなり間の抜けた顔をしていたんだろう。彼はどこまでも柔らかな口調で説明してくれる。それは、たとえどんなに頭に血が上った相手であっても瞬時に落ち着かせてしまうような、不思議な響きだった。

「まさか、ウチの会社を受ける子とこんなところで遭遇するとは思わなかった。本当に、世の中には不思議なこともあるものだね。でも大丈夫だよ、君は絶対に採用になるから。春になったらまた、再会することになるだろうね。そのときはよろしく」

 これから外回りに出かける途中だったというその人は、私が落ち着くのを待ってから目的地までの道のりを詳しく教えてくれた。それでようやく気づいたんだけど、今までとんでもなく遠回りをしていたみたい。初心者でもそこまでは間違わないって言われて、かなり恥ずかしかった。

 落ち込んじゃうよなあ、全くもう。こうやっていつも、一番大切なところでネジが一本抜けてるんだもの。大勝負を控えた場面でまたもや痛恨のミス。今回も「誠に残念ながら」ってことになっちゃう予感。
  そしたら、そんな私の落ち込みまで見て取ったのだろうか。彼は騒ぎの発端となった書類を私に手渡しながら、こう付け加えてくれた。

「ふふ、でも懐かしいな。これ、我が社の新しいマークを考えようって課題だね。僕のときも同じのがあったから、すぐに分かった。ウチの出版社は創業間もないから、採用試験の内容もかなり個性的でしょう。君もこれまでだいぶ戸惑って来たんじゃないかな?」

 すごい、内部の人間なら当然のことかも知れないけど、私が今日最終面接を受けるってことも分かっちゃうんだ。うわーホント、エスパーみたい。

「じゃあ頑張ってね、未来の後輩くん」

 

 ほんの五分足らずのやりとりの間に、私はすっかりその人に魅了されてしまった。

 この人に本当に再び出会うために、是が非でも内定もらわなくちゃ―― 何とも不謹慎な決意を胸に試験会場へと向かい、その強い意志が功を奏したのか今までで一番落ち着いて自分らしい面接が出来ちゃったみたい。

 


「未来(みく)、そろそろ時間だけど準備は出来てる?」

 昨日のうちに揃えてあった封筒とサンプルの入った紙袋の中身を最終チェックしていたら、背後から声が掛かった。やっぱり「念には念を入れ」って言うじゃない、先方に到着して説明を始めてから「あれ、忘れちゃいました」じゃ駄目なのよ。それでまとまりかけた商談がフイになったりしたら、自分ひとりの責任では済まされないでしょう。

「はい、大丈夫です。木暮先輩」

 よし、オッケーだ。最新のパンフレットも紙見本も全部入ってる。前回あと一押しってところまで来ていたもの、先方が提示したいくつかの不明点をきっちりと説明してクロージングに入りたい。……って、もっとも直接その交渉を行うのは私ではないんだけど。

「うん、未来もなかなか使えるようになったな。これなら安心して準備を任せられるよ」

 今日の資料一式を確認のために手渡すと、先輩はすぐにその中身を調べてからとっておきの笑顔になる。もう、それだけで幸せな気分になれちゃって、私って何てお手軽なんだろう。……いやいや、これからが今日の本番なのよ。いい加減頭の中お花畑にしてないで、しっかり補佐役を務めなくちゃ!

「あ、あと。先ほど、編集の小池さんから連絡がありました。辻本先生との打ち合わせが四時半からに変更になったそうです。場所は変わりません」

 いけない、いけない、また忘れるところだった。連絡事項をメモした付箋は、いつも一番目立つパソコン脇に貼り付けることにしてるのに。
  でもこういうときにまるで「初めから承知してたよ」っていう風に穏やかに反応してくれるのが先輩のすごいところだ。その余裕の表情の素敵なこと、またまたうっとり。

「そう。確かその時間は未来も他の予定は入っていなかったよね、紹介してあげるから一緒にお出で。辻本先生はお忙しい方だからね、こういう機会でもないとなかなかお目にかかれないよ」

 うわ、そんな風に言ってる間に、先輩はすっかり出かける支度が終わってるし。私も急いでロッカーからコートを出してこなくちゃ。それに今朝準備しておいたお持たせの銘菓も。先方の社長さんの大のお気に入りだって聞いたから、三十分も並んで買ってきたんだ。

「大丈夫、そんなに慌てなくても余裕で間に合うよ。ゆっくり支度しておいで」

 

 誰にその名を告げても微妙な表情を返されてしまう、まだまだ駆け出しの我が出版社。それが私の勤務するこの会社。年号が平成に改まってからの創業で、今年で三年目。だから私は四月入社の二期生ってことになる。それ以上のキャリアがある先輩方はもれなく転職組、もちろん木暮先輩もそのひとりだったって話。

 会社によって少しずつ違ってくるのかも知れないけど、ウチの場合は大きく分けて「編集」「製作」「販売」と三つの部署に分かれてる。私は国文出身で本が好きだったから、何となく出版に携わる仕事に就きたいなあと思っていたの。それで色々就活した結果、縁あってこちらに落ち着いたって訳。……実を言うと他は全て玉砕だったんだけど。
  一冊の本を作り上げるまでには気が遠くなるほどのたくさんの行程があるってことも、ここに入るまでは全く知らなかった。まずは文章があって、それを校正して一冊の本というかたちにしていくのかなーとか簡単に考えてたんだけど、どうもそうじゃないみたい。そうか、作ったら売らなくちゃならないんだなって、ここに配属されてやっと分かったわ。

 我が販売部は一定の見習い期間を終えたあと、個々がそれぞれに仕事を与えられ基本的に単独行動になる。それなのに入社丸一年経とうとする今も、未だにこんな風にペアで動いている先輩と私。でもこれは誰かに言われたからとかこちらから申し出たからって言うんじゃなくて、不思議なほど自然な成り行きだったのね。

 何しろ先輩は常にいくつもの仕事を平行していて、多忙きわまりない。どう見ても他の社員の二倍、ううん三倍四倍は働いていると思うわ。少し暇なメンバーに回せばいいと思うのに、一度着手してしまったものは最後まで見届けたいって考えてしまう性分みたい。
  それにね、我が販売部の中でも群を抜いて有能なのは誰の目からも明らかだから「是非木暮さんを担当に」って指名してくるお得意様も少なくないの。仕事は早いし間違いないし的確だし、もしも私が商談相手だったとしても「是非に」って言っちゃうだろうな。

 他の同期入社の人たちは皆それなりの実績を積みつつあるのにいつまでも下っ端でいるのも辛いんじゃないかなって? うーん、それがそうでもないのね。結構やり甲斐があるし、先輩の仕事を間近で体感できるのはすごく勉強になる。

「やあ、また会えたね。今日から君は僕の下で働いてもらうことになるよ、どうぞよろしく」

 新人研修を終えて、配属先を告げられて。だけど、どうしてこの人がここにいるのって狐につままれたような気持ちになった。まさかあのときの「恩人」である彼が直属の上司って言うのかな、私に仕事のことを一から教えてくれる先輩になるなんて。そんなの、絶対信じられない。かなり運命感じちゃったりもしたけど、そこは仕事上の関係。進展なんてあるはずもなく。

 

「すみません、お待たせしました」

 絶対に怒られないって分かっていても、ついつい低姿勢になっちゃう。そういう私のことを先輩はいつも「体育会系だな」って笑う。

「さ、今日は地下鉄を使った方がいいかな。行こうか、未来」

 先輩は私のことをファーストネームで呼ぶ。それだけで特別な関係っぽいんだけど、違うんだよ。私が「鈴木」なんて姓だから、同じ部署にも同姓が三人、50人もいない社内全体で七人。さらに社長まで「鈴木さん」なの。すごく紛らわしいから、ってことでいつの間にかこうなっちゃったのね。

「はい、分かりました」

 雑居ビルの自動ドアを抜けて、春爛漫な通りに出る。そんなとき、自然と半歩下がって後ろを歩く感じになっちゃう私。「これじゃ、話がしづらいでしょう」といつも言われるけど、何かな、先輩の隣に並ぶなんてすごくおこがましい気がしてどうしても出来ないの。

「信号が変わってしまうよ、少し急ごうか」

 振り向いてそう言ってから、早足になる先輩。小さく頷いて慌てて後を追う私。周囲の人たちからは、一体どんなふたりだって思われているのかな……?


 

2009年4月24日更新

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