「……ふうん。でもそれって、ホントにホント?」
んもう、しつこいなあ。
こんな風やりとりもいい加減慣れっこにはなったけど。今は貴重な休憩時間だもの、少しは気を遣って欲しいと思っちゃう。とはいえランチタイムっていうのは同時に情報交換の場であることも確かなんだから、悩むところよね。
「嘘付いたって仕方ないでしょ? だいたい千鶴ちゃん相手に誤魔化しなんて無理だわ」
明るい窓際、春の日差しがぽかぽかと心地よすぎるカフェテラス。この店の一等地とも言えるテーブルが丁度空いて、今日はとてもラッキーだった。同じお金を払うなら、少しでも気持ちよく食事したいでしょう? 人通りの多い通路側とじゃ一緒にならないわ。
私の目の前を陣取るのは、同期入社の顔なじみ。彼女は総務にいるからかなりの情報通でもある。週の半分くらいは休憩時間が一緒になって、そのたびにこうしてふたりでランチをとってた。勤務中はなかなか同世代の女の子とおしゃべり出来ないし、ちょっと困ったことはあったとしてもやっぱり楽しいの。普通に仕事だけしてたらなかなか耳に入らない話題をいくつも提供してくれるし。
「そうかあ、やっぱり未来が本命じゃないんだな。じゃあ、一体誰なんだろ? 本当に木暮さんって謎が多くて、ウチの部署の先輩たちも首をひねっているわ。だって、あれだけのルックスに仕事も出来るとくれば、かなりの上玉だってゲットできるはずだよ。となると、残るは社外ってことかな? そこまで範囲を広げられちゃうと、さすがにお手上げか」
千鶴ちゃんが私と一緒にランチしたがる理由の99.9%は私の直属の上司である木暮先輩の情報を聞き出すためだって分かってる。でもって、多分……残りの0.1%くらいは私本人との食事を楽しんでくれてるんだと信じたい。うーん、そこまでネガティブな思考になるのもどうかと思うけど、だって毎回毎回テーブルにつくなり質問攻めなんだもの。
当たり前って言えば当たり前なんだろうなあ、先輩は社内の女性陣からダントツの人気を誇っているみたい。実際、噂によると会社創設当初はかなりの人数が彼の特別な相手になりたいと果敢に挑戦したらしいわ。だけど何故かのらりくらりとかわされて、そのうちにみんな諦めちゃって今に至る……とか。
「でもさ、未来は一緒にいる時間が他の人と比較して絶対的に長いんだから何か気づかない? 頻繁に電話が掛かってくる相手がいるとか、決まって早く帰る曜日があるとか……あんたそういうの疎い方だとは思うけど、少なくとも私らよりは有利な立場にあると思うんだよなあ」
うーん、これってかなり馬鹿にされてるよな。当たっているだけに、言い返す気にもならないけど。
「そうは言われてもねえ……、何も思い出すことはないな。先輩の頭の中って常に複数の仕事が同時進行していて、それをきっちり間違いなくこなしていくだけで手一杯って感じだよ」
実際、先輩の日常はとても忙しい。取引先との電話連絡の最中にも何か別件で思い出したことがあるとさらさらとメモ書きして私に手渡してきたりするし。その間も、通話相手との話は滞りなく続いてるんだよ。何かもう、全てが私の想像を超えた行動なの。
「えーでも、それってあくまでも『表』の顔でしょ? 絶対に『裏』だってあると思うんだけど、木暮さんだって人間なんだから」
やっぱり何も浮かんでこない? って念押しされても、無理。少なくとも私には職場で忙しく立ち働く先輩の姿しか浮かんでこないな。だいたいあれだけ多忙を極めていて、残業だってすごくて午前様とかにもなったりするって聞くし(そう言うときは、さすがに私は先に戻らせてもらう)、どうやってプライベートな時間をやりくりするのって思っちゃう。
……まあ、だけど先輩は何につけても超人的だからな。絶対にあり得ないって保障はどこにもないか。
「何か気づいたら、そのときはすぐに千鶴ちゃんに報告するから。それでいいでしょ?」
彼女の前にあるプレートはデザート用のものを含めて全て空っぽ。かろうじて「おかわり自由」なホットコーヒーが残っているだけ。一方私の方はと言えば、何しろただですら食べるのが遅いから。こんな風にあれこれと質問に答えてると最後の方は必死にかき込まないと終わらなくなる。
「……ま、それはそうと」
そこで、千鶴ちゃんの声のトーンが変わる。今までも店内のざわめきにかき消される程度の話し方だったけど、さらに数段階ひそひそ度が上がった感じに。
「木暮さん、次の人事異動での昇級は確定みたいよ? 毎回最有力候補に挙がっていたけど、とうとうなのね。そりゃそうでしょ。いつまでも肩書きなしの平社員なんて絶対に変だし」
そこで一度、深呼吸。さらに彼女は続ける。
「でもそうなると困ったな、もう未来からこんな風に情報を聞き出すことも出来なくなるんだよね?」
……え? 今何か、言った?
「……」
完璧にかたち取られた唇の動きをぼんやりと見つめてしまった。そうなると、また手も口もお留守。だけど今となってはもう、食事に集中するなんて絶対に無理。
「あはは、やだっ! 何驚いた顔してるのよ。決まってるでしょ、肩書きを背負う立場ともなれば今までみたいに外回り中心でやっていけるわけないじゃない。とうとう未来も独り立ちのときが来たってことかな、今から心しておいた方がいいよ」
いくら、未確認情報とはいえ。いったん耳に入れてしまえば、その後はどうしても気になってしまうもの。どうでもいい相手ならいざ知らず、他でもない先輩の話だし。
「どうしたの? 未来」
優しい響きの中にも確かに苛立ちを感じ取れる声に弾かれて、私はハッと我に返った。ああ、駄目。こんなんじゃ、先輩もいい加減呆れてしまうよな。千鶴ちゃんとのランチから戻ってから、ずっとこんなだもん。
「あ、…ああっ、すみません! すぐにやり直します!」
嫌だ、もうっ! 何やってるんだろ。前年度のデータを基準にして計算し直すようにって言われたのに、全然違ってるじゃない。だいたい、桁数からしてあり得ない。何で途中で気づかずに続けちゃったんだろう。
「いや、そんなに慌てなくても大丈夫だから。でも、どうしたの? もしかして、どこか具合でも悪い?」
男の人なのに、憎らしいほど綺麗な長い指が私の額にそっと触れる。突然で一瞬の出来事に息を呑む暇もなく、わずかな余韻にようやく我が身に起こったことに気づいた。
「熱はないみたいだね」
そう言って微笑む口元が安堵のかたち。先輩はいつも自然体で、慌てたり驚いたりすることがない。……ううん、たまにはそう言うこともあるんだけど、他の人と比較したら絶対的に少ないよね。だからそんな人と一緒にいると、自分がますますうっかり者に思えてくる。
「はっ、はい! 大丈夫です!」
駄目駄目、気持ちを切り替えなくちゃって思ってるのに。ちょっと気を抜くと、またすぐに千鶴ちゃんの問題発言を思い出しちゃう。
―― 本当に、今度こそ……なのかな?
こういう不安も、二度三度と繰り返されればいい加減慣れっこになりそうなもの。だけど、先輩の場合はそのたびにだんだん話が信憑性を増してきて、今回は絶対って思えて来ちゃう。
そりゃあね、会社の人事なんて一筋縄ではいかないってことは知ってる。いくら有能な人材であっても、そこは人情とかわだかまりとかが混在する摩訶不思議な世界。同じくらい仕事が出来るなら、絶対に上層部にウケがいい方がお得なのね。
だけど先輩に限っては、対人関係のトラブルとかあり得ないし。それどころか社長を初め重役クラスからの覚えもめでたくて、当然のこととはいえすごいなあと絶えず感服するばかりよ。だからこそ、ここまでずっと昇進なしで来たことが信じられない。
「みーく?」
……はっ、いけない!
またもやボーッとしてしまった私は、すごい間近で名前を呼ばれてどきっとする。うわわ、本当に息が掛かるくらい近くに先輩の顔があるよ。どっ、どうしよう……!?
「すっ、すすす、すみません……!」
と、とにかくは仕事仕事。必死に雑念を振り払って、気持ちも新たにパソコン画面と向き合う。なのに、先輩はまだ私の傍らに立っていて。
「それ、夕方までには片づくよね?」
念押しされて、また顔を上げてしまった。まあ、普通にやってれば夕方とは言わず、三時とかそのくらいには上がると思う。そう思ったから、頷いた。
「じゃあ、今夜は空けといてもらえる? 久しぶりにごちそうするよ」
え、それって……って、確認しようとしたら、もういないし。分不相応な期待は絶対に駄目って分かってるけど、やっぱり、その、……何となくね。
「この頃、とみに忙しかったからね。ようやく一山越えた感じだし、今日は慰労会ってことで」
ま、そんなところだろうとは思ったけど。
言われるがままにくっついてきたその先は、雑誌の取材が来そうな洒落たレストラン。ええと、他に何か呼び名があるのかな? 私、そう言うの疎くて駄目だわ。ガラス越しに見下ろす夜景も素敵で、何だかとっても緊張してしまう。ぴっちりしわひとつないテーブルクロス、ピカピカに磨かれたカトラリーたち。
「も、申し訳ありません。こんなにしていただいて」
先輩を狙っている女性陣に知られたら、それこそつるし上げになっちゃうんだろうな。物騒な想像までしちゃうくらい、私は緊張していた。テーブルの向こうには非の打ち所なく完璧に微笑む特上な男性。「身の程知らず」って言われたら、「その通りです」って瞬時に頷けちゃうよ。
「何を言ってるの、そんなにかしこまらなくていいから」
いやいや、そんなこと言われても絶対に無理。さすが先輩だよなー、こんな素敵なお店をぱぱっと選んじゃうんだもの。従業員の対応も完璧で店内の装飾も申し分なく、客層はエレガントで運ばれてくる料理も例外なく美味しくて。
「たまにはご褒美あげないとね。未来に愛想を尽かされてしまったら、僕は何も出来なくなってしまうから。本当にいつもいつも助かってるよ、心から感謝しているんだ」
うわー、またまたすごい発言。普通の人が口にしたら白々しく聞こえてしまうに決まっている台詞も、先輩なら大丈夫。グラスを傾ける角度も完璧だわ。
「そっ、そんな。私なんて、その、まだまだで……」
確かに一生懸命、いつもいつも必死で頑張ってはいる。だって、先輩の仕事をサポートするには私ごときの能力では背伸びしたってしきれないくらいだもの。だけどそれも辛いなんて思えない。先輩のそばにいるためなら、私は何だってしちゃうよ。
「もう、そんな風に自分をみくびるのは良くないよ」
不毛に続いていたやりとりを軽く諫めて、先輩はさらりと話題を変えた。学生時代のこととか、そんな感じの軽い話題。話を振られても、構えずに答えられる内容だ。こういう席では現在関わっている仕事の内容を口にしない辺り、本当にすごいなあと思う。TPOをわきまえてるって言うか、何というか。
「そうか、テニスサークルに所属してたって言ってたよね。未来がゲームしているところ、見てみたいな」
ええと、……その、球拾い専門でしたから。
気を遣ってあれこれ話しかけてくれる先輩に、短い受け答えしか出来ない自分が悲しい。もっともっと、気の利いた会話が出来たら良かったのに。そうしたら、こんな素敵なひとときに花を添えることが出来るはず。分かってはいるんだけど、どうしても堅くなっちゃって。……だけど、それは先輩がすごすぎるのがいけないんだと思う。
―― もしかしたら、直接話してくれるのかと期待したのに。
タイミング良く一席設けてもらったことで、昇進のことを告げられるのかなとばかり考えていた。だけど違ったみたい、先輩はそんなことをおくびに出すこともなく過ごしている。やっぱ、そう言うことなのかな? 私なんかには話す必要もないって、そんな風に思っているんだろうか。
後ろ向き思考は止めようって思っても、駄目だな。先輩が優しければ優しいほど、自分との間に深い溝があることを痛感してしまう。舌の上でとろんととろけるデザートも、無味無臭なものに感じられるくらいに。
「本当に美味しいね。男のくせにって言われそうだけど、僕はチョコレートが大好きなんだ」
……私は、そんな風に仰る先輩の笑顔の方がもっと好きです。
慌てて飲み込んだ大きめの一口が、舌先にほんのりとした苦みだけを残していく。チョコレート、って言えばバレンタイン。あのときも先輩用に特別なものを用意したのにどうしても渡せなくて、結局は自分で全部平らげちゃったんだっけ。だから、他の人へのと同じ義理チョコをわざわざ買い直したりして。それでも先輩は「ありがとう」って特上の笑顔で受け取ってくれたけど。
「そんなこと、ありませんよ。甘いものが好きな男の方って、実は結構多いと思います」
遅くなってから私がひとりで夜道を歩くことを心配して、こういうときは途中下車してアパートの近くまで送ってくれる。もう建物が目の前ってところまで来ると、じゃあおやすみ、って。何事もなかったかのように帰って行く姿もいつも同じ。
「あ、ありがとうございました」
広い背中が遠ざかっていくのを、ただただ立ちつくして見送る。こんな幸せな時間が、あとどれくらい続けられるのだろうかと想いながら。