「あのー鈴木さん、鈴木未来さんはいますか?」
ようやく自分の席に戻って、わずか数分後。またしても仕事の手が中断された。
困るのよね、名指しで来られちゃシカトするわけにもいかないし。だいたい、この部署で一番下っ端の私の席は入り口のすぐそば。誰かが訪ねてきたらすぐさま立ち上がって対応すべきポジションだ。今まではそのことを煩わしく思うこともなかったのになあ。今日の、それもたった半日の間に、一年分のツケが一気に回ってきた感じ。
「はい」
仕方なく振り向いたら、案の定ドアの脇に見知らぬ顔。もういいよ、勘弁してよと心の中で叫びながらもゆっくり席を立つ。
「ああ、君が鈴木さんか。初めまして、でいいんだよね? 俺は製作部の井東って言うんだ。ところで良かったら今夜―― 」
それに続く言葉はわざわざ聞かなくても分かった。というか、今朝からずっと訪ねてくる人全てが同じ台詞を言うんだもの、もういい加減耳タコになってる。ホント、ウチの会社って肩書きナシの平社員がこんなにいたんだって驚いちゃう。もちろん、突っ込みどころはそこじゃないって分かってるけど。
「ごめんなさい、無理です」
ややこしく話がこじれる前に、先手を打って言葉を遮る。これも何度かシミュレーションした末にたどり着いた私なりの最善策だ。
最初のうちこそは「話の途中で割り込むのは申し訳ないなあ」と大人しく最後までしゃべらせていたんだけど、それだとやたら時間は掛かるし断ったときにすごく嫌な顔をされるし。さっさと切り上げた方がお互いにダメージが少ないって分かったわ。
「あの、今日中にまとめなくちゃならない資料があるんです。ですから、すみません。失礼します」
さらに相手が次の言葉を話し出す前に、一気にクロージング。これって営業マニュアルを逆行しているよなあって思うけど、こういう状況に慣れてない私はとにかく余裕がない。どうにかして誘いを振り切らなくちゃって、そればっかり考えてる。「何だよ、失礼な奴」って眼差しを向けられても、仕方ないわ。いいの、常識のない人間だと思われても。
そして、席に戻って仕事再開。集めたデータを形式に沿って入力して比較するだけなのに、そんな単純作業ですら全くはかどってない。あーもう、自分で自分が嫌になる。とにかくちょっとでも先に進めなくちゃ。
「……」
キーに指を置いて、そこでちらっと向こう側の席に目をやる。誰にも気づかれないように、そっと。本棚の隙間からさりげなく覗くのが、この一年の間に私なりに研究した一番いい角度だ。
良かった、先輩は今のやりとりに気がついていないみたい。いつも通りの涼しげな横顔がまっすぐにパソコンの画面と向き合ってる。今回も出来る限り小声で会話していたしな、その努力は報われたってことかしら。
本当、今朝出社するまではもうちょっと楽天的に構えていたんだけど。
私自身がしっかりとしていれば難なく乗り越えられるはずだというもくろみは脆くも崩れ、言葉通りに「仕事も手に付かない」有様となっていた。確かに社長直々に言われたよ、しばらくは周囲が騒がしくなるかも知れないって。でも、ここまでひどいとは思わなかった。勘弁してよって感じ。
だいたいね、上層部の軽い思いつきから始まった企画とはいえ、あまりにずさんで穴だらけの進行だと思うの。一応個人名は伏せられているけど、だからといって万全の体制になるわけがないでしょ。「入社二年目」「髪の長さは肩に付くくらいで、ストレート」「誕生日は七月」「イニシャルはS」―― って、バレバレもいいとこ。その上、公表を待たずにフライングで情報が漏洩しているしね。
もう、こんなの止めた方がいいよって思う。と言うか、どうか全て白紙に戻してもう一度綿密な計画を立て直してください。そうやって訴えたいけど、今は廊下に出るのも避けたい状況。どこで誰に待ち伏せされているか分かったもんじゃない。
そりゃあ、私だってフツーに憧れたことはあったわよ。複数の男性から一度に言い寄られて、困っちゃうなあと思いつつも誇らしげに感じる立場を。でも想像するのと実際は全く違う。最終的にひとりに絞り込まなくちゃならないなら、選択肢が多くなれば多くなるほどややこしくなっていくものなのね。それに、何より問題なのは私自身がこの企画に全然乗り気じゃないってことだ。
「いいんだよ、あまり深刻に考えなくても。最終的には鈴木さんの気持ちがしっかりと固まることが大切なんだから、それまでに何ヶ月掛かろうと何年掛かろうと自由だ。もちろん遊び半分なのは困るが、それよりも困るのは君が自分の気持ちを無視して適当に決めてしまうことだからね」
なーんて社長に説明されたけど、この状況が延々と続いていくかと思うとぞっとする。正直、三日だって保ちそうにない。どうか、今までの平穏な日常を返して。このままだと私、ブチ切れちゃいそうだよ。
「ねえ、鈴木さん。ちょっといい?」
背後からの声で、一気に現実に引き戻される。あまりに近いところから呼びかけられて、どきっとした。まあ、それもそのはず。声の主は昨日から何度も話しかけられてる同じ部署の人だもの、確か松田さんとか言ったっけ。
「さっきから大変そうだね。仕事、忙しいの? ひとりで抱えきれない量なら、俺が手伝ってもいいよ。今、大きな仕事がひとつ終わって少し楽になってるんだ。鈴木さんのためだったら、それこそ残業だって何だって出来るよ?」
こういう台詞って、知らない人が聞いたら絶対に誤解しそうだ。そうじゃなくたって、私のことはもう社内でかなりの噂になっているみたい。企画に実際に参加できる男性陣だけじゃなくて、女性社員ご一同からも意味ありげな視線を投げかけられてる。ここは男性の多い部署で、まだ良かったけど……それでもあまり気分は良くないわ。
「いいえ、結構です。これは私に任された仕事ですから」
本当、我ながら可愛くないなあって悲しくなる。こういうときに素直に「助かります、お願いしますね」って言える女の子が幸せを掴むんだろうな。そうは思っても、長年付き合ってきた性格は簡単に変えられるものじゃないし。
「何言ってるんだよ、水くさい。君が人一倍頑張りやなのは知ってるけど、少しは同僚を頼って欲しいな。だいたい、その仕事はもともと鈴木さんひとりが抱え込んでやるべきものじゃないでしょう? ……ま、当のご本人はひどく多忙な人だから仕方ないかも知れないけどね」
えー、何を言い出すの。それって、全然見当違いの発言じゃない。今度ばかりはちゃんと訂正しなくちゃと口を開きかけたら、ジャストタイミングで鳴り出した携帯の呼び出し音に邪魔された。
「あ……っと、ヤバ。ちょっとごめん」
そそくさと立ち去る背中に、ホッとため息。困るんだよな、この人ってやたらと声が響くんだもの。このまま会話を続けたら、絶対に先輩に気づかれちゃう。どうかもう戻ってこないでと、祈るような気持ちだ。
と、今度は反対側から人の気配。
「未来、田島先生の新刊、帯のサンプル届いてる?」
落ち着いた、いつも通りの声だった。あまりにドンピシャの間合いだったから、会話を聞かれちゃったかと一瞬青くなったわ。でもそんな心配は無用みたい、先輩は普段とどこも変わらない。
「はいっ、……こちらです」
短い響きにすごく助けられた気がして、思わずうるっと来ちゃう。ああ、駄目駄目。私自身が挙動不審になってどうするの。ここはさりげなく、さりげなく。
「ありがとう、いい感じに仕上がっているね。すぐに販売店の方に手配しないと」
昨日は丸一日席を外していたから、先輩には山積みの伝達事項が溜まっていた。全部確認したつもりだったのに、やっぱり手落ちがあったみたい。それなのに、責めるような言葉もなくて。
用件だけ済ませると、何事もなかったかのように自分の席に戻って仕事を再開する先輩。いつもながら、完璧なほどに素敵。そんな姿を見つめている時間が私にとっての一番の幸せだ。
……だけど。今日だけは、あまり近くにいて欲しくなかったな。
この困った状況を先輩に知られたくない。もしも相談すれば、すぐに助けになってくれるって分かってるけど、だからこそ。
先輩のことだ、社内がこぞって参戦するこの企画を知ったところで興味も関心も持たないだろう。ぜったに、そうじゃなくちゃ。そんな他力本願なことをしなくたって、自分自身の力でちゃんと道を切り拓ける人だもの。
私だって、先輩を見習って。
こんな風に周囲に振り回されて右往左往しちゃうのも、私自身がちゃんとしていないから。その上、さっきみたいに先輩のことまで悪く言われちゃ、悲しすぎる。とにかくは、仕事仕事。それしかないわ。
午後からは短い打ち合わせがひとつ入っていた。
目と鼻の先の取引先に先輩とふたりで出向くわけだけど、今日くらいその予定が嬉しく思えたことはない。少しの時間でも面倒ごとから解放されるのは有り難いし、それに先輩と一緒にいれば声を掛けてくる相手もいない。
いくら社長曰く「前途洋々な」面々だと言っても、やっぱり先輩には一目置いているみたい。そりゃそうよね、仕事の出来も人間性も段違いだもの。同じ土俵で張り合おうなんて、考えるわけないわ。それでも廊下を歩いていればあちこちから視線を感じて、落ち着かない気分になる。
「……どうしたの、未来?」
そりゃ、気づくよね。これだけ近くにいるんだもの。おどおどしながら歩いてたら、きっと足下もおぼつかない。
「いいえ、大丈夫ですっ! 何でもありません」
頑張って、笑顔を作る。少しでも先輩の優しさに応えたいから。いつまでも隠し通せることじゃないかもだけど、それでも出来るところまでは自分だけの力で頑張ってみたい。
「そう? ……ならいいけど」
何か言いたいことを抑えてる口元―― 、そう思ってしまうのは私の勝手な幻想だよな。大切にされてる、守られてるって、今までに何度も何度も錯覚してきたもの。きっとそれこそが、先輩のことが好きで好きでたまらない私の都合のいい思いこみ。
「じゃ、未来は先に戻っていて。僕は総務に用事があるから」
あっという間に安全な時間は終わってしまって、いつもに増してどんよりして見えるグレイの雑居ビルに戻ってきた。入り口の自動ドアを入ったところで、先輩がたった今思い出したみたいに言う。
「そうですか、でしたらそちらのお荷物をお持ちします」
持参したサンプルの束はそれほど重くはないけど、とにかくかさばるの。風船みたいに膨らませている歪んだかたちのパーツなんて、紙袋に入れようがなくて大変だったくらい。
「ああ、悪いね。ありがとう」
迷うことなく手渡してくれる、たったそれだけのことで「信頼されているのかも」なんて嬉しくなってしまうおめでたい私。こんな風にペアを組んでいるからこそ、他の人にはない恩恵を受けることが出来る。
……だけど、やっぱり遠い人なんだな。
嬉しさと同じくらいこみ上げてくる寂しさ。この感情にももう慣れっこだけど、今日はいつもよりもそれが大きく感じる。どうしてなんだろう。
「お帰り。重そうだね、それ持つよ」
ぼんやりと物思いにふけりながら廊下を歩いていたから、柱に隠れていた人影に全く気づかなかった。もしかして待ち伏せされていたのかもって思ったときには、すでに紙袋が奪い取られている。
「あ、すみませんっ!」
また、この人だ。同じ販売部の松田さん。もういい加減、うんざりしてる。別にこれくらいの荷物、手を貸してもらうこともないんだけど……何だかわざわざ返してもらうのも面倒な感じ。
「今日のはただ確認のための訪問だったんでしょう? 別にわざわざ君までが行く必要もなかったんじゃないの、それを自分の所有物みたいに連れ回して、全く迷惑な話だよね」
急に話を振られたから、最初は何を言われているのかがよく分からなかった。二度三度瞬きして、そしてやっと「ああ、先輩のことを言ってるのか」って気づいたくらい。
「いえ、別にそんなことはないです」
慌てて否定するまでの一瞬の間合いで、相手は何かを誤解したらしい。勝ち誇ったような笑みを浮かべて、さらにたたみかけてくる。
「またまた、そんな風に奴の肩を持つこともないだろう。君だって、いい加減うんざりしているんじゃないの? もうとっくにひとりでちゃんと何でも出来るのに、いつまでも雑用ばかりを押しつけられて。やっと今回の異動でどっかに行ってくれると思ったのに、当てが外れてしまったしね。ああいうのがいると、周りはやりにくくてかなわないよ。君もそう思うでしょ?」
何言っているの、この人。すごく性格悪くない? あまりに驚きすぎて、すぐには反応できなかったくらいだよ。そりゃ、あれだけ「デキル」人だから、やっかまれても仕方ないかもだけど……こんな言い方ってひどすぎる。
「すみません、私急いでるんです。失礼します」
どういうことなの、今までは見て見ぬふりをしていたのに急に人が変わったみたいに。いくら顔なじみだからって、馴れ馴れしくしてこないでよ。本当、迷惑なの。
「いや、待ってよ。こっちの話は終わってないんだから」
引っ張り返した紙袋の持ち手を向こう側からしっかり握られていては話にならない。
「これって、ただの嫌がらせだろ? それにせっかくの企画、社内あげて盛り上がろうってときに水を差すような真似されたくないんだ。いいだろ、急ぎで終わらせなくちゃいけない仕事ならみんなで手分けして手伝ってやるから。その代わり、今夜は俺たちに付き合ってよ」
嫌だ、絶対。こんな失礼な勘違いばっかしている人と一緒になんていたくない。
「だから、困りますっ! 私は―― 」
突然目の前に現れた人影に息を呑む。言いかけた言葉の続きも、どこかに吹き飛んでいた。
「……」
松田さんの方も、さすがに驚いているみたい。急に紙袋の持ち手を離すから、私は勢い余って数歩後ろに下がっていた。そんな情けないふたりの姿を交互に見つめる、静かな眼差し。
「別に僕は、嫌がらせをしているつもりもないのだけれど」
凛とした声が、薄暗い廊下に響く。その一言で、松田さんは可哀想なくらい青ざめていた。でも、次の瞬間には今度は私の方へと先輩が向き直る。
「未来も僕に遠慮することなんてないのだからね。せっかくの誘いを断ることもないだろう、どうぞ存分に楽しんでお出で。時間までにやりきれなかった分は、こちらで処理しておくよ」