TopNovelヴィーナス・扉>シンデレラの赤い靴・3

それぞれのヴィーナス◇初代の未来

  

  

   
 あり得ない幸運に「運命」を感じて、そしてその次の瞬間には「何を馬鹿なことを」と思い直す。そんな風に過ごしていたら、あっという間の一年だった。初めての出会いの日が昨日のことのようなのに、もう新年度を迎えてしまうなんて。

 私だって、そんなに馬鹿じゃない。自分の置かれた立場だってちゃんと分かってるし、だから過度の期待なんて絶対にしちゃ駄目―― そんな風に自身に言い聞かせたことは数え切れないほど。性懲りもなく、って悲しくなるくらい学習能力がなくて情けないばかりだ。
  だって先輩の一挙一動は、思わず妄想を繰り広げてしまいたくなるくらい意味ありげに感じられてしまうんだもの。ただにこやかな笑顔を向けられるだけで、「もしかしたら」ってときめいちゃう。いい加減慣れろって自分で自分に突っ込みたくなっちゃうよ。

 

「さ、そろそろ出掛けた方がいいな。今の時間は道も混むから、少し余裕を持った方がいい」

 開いていた書類はいつでも中断できるもの。もう一度画面を一通り確認してから、デスクトップとメモリースティックと二カ所に保存する。電子機器は便利だけど、何か間違いがあってデータが消滅することだってあり得ないことじゃない。そのときになって慌てるんじゃなくて、起こりうるトラブルを前もって予想して対策を練る。機械は「使いこなす」ものであって、「使われる」ことがあっては駄目なんだ。

 頭ではとっくに分かっていたような事柄も、実際に身をもって経験しないと自分のものにならない。この頃ではようやくまともになってきたけど、最初のうちなんて本当に目も当てられないほどの惨状だったと思う。当の本人がそう考えるくらいだから、指導する立場の人はことさらだっただろう。
  簡単な書類の作成から、電話の応対。お得意様を訪問するための下準備に、その後のフォローまで。「デキル」人から見たら当たり前のことが、私には難しくて。何も知らないまんま「大人」になったつもりでいたんだなって痛感させられた。

「田丸先生は光月堂の和菓子がことのほかお好きだからね、途中で買っていこう」

 私だったらいちいち手帳を開いて確認するようなことも、先輩は全部頭脳コンピュータに登録済み。一体、どれくらいのデータが入っているんだろうって、未だに驚かされるばかりだ。

「はい、分かりました」

 販売部が接するのは広告代理店とか直接流通に関わる相手が中心なのかなと素人の頭では考えていた。だけど、実は違うのね。作家先生にとっては、自身の作品は「我が子」同然。目に入れても痛くないほどの大切な存在だから、その行く末までも見守りたいって思われる方も少なからずいらっしゃる。
  まあ、これはどこの世界でもそうだけど、いろいろなタイプに分かれるから一筋縄ではいかないの。中にはいちいちお伺いを立てるとかえって疎ましく思われる方もいるから難しい。この手のやりとりは編集部を通して行う場合もあるし、販売部の人間が直接出向くことも結構多いのね。

 たくさんの人たちが関わって、ようやく世に送り出すことになった一冊の本。だからこそ、最高のかたちで読み手に提供したい。その想いが強ければ強いほど、かえって双方のやりとりが難しくなる場合も多くて、最初の頃はとんでもない失敗もしてしまった。
  例えば、多分こんな風に仰っているんだろうなと先読みして全然見当違いになってしまったり、言われたとおりに進めていったら途中で相手方の意見が180度変わっていて、しかも当のご本人はそのことに全く気づかれてなかったり……。そのたびに地の底まで突き落とされるくらいに落ち込んで、目の前が真っ暗になった。

「大丈夫、とにかくそのときそのときの一瞬が真剣勝負なんだから」

 顔面蒼白になるくらいの失態に直面しても、先輩は少しも慌てることがなかった。それどころか、不甲斐ない後輩の尻ぬぐいまでやってくれたりして、それを当然のような顔でいる。もしも大失敗したと分かったら、とにかく誠心誠意込めてお詫び申し上げること、って教えてくれたのも先輩だった。

「僕だって、最初の頃はかなりすごかったんだよ?」

 そう耳打ちしてくれたときはいたずらっ子みたいな表情で、かなり緊迫した事態だったのに思わず吹きだしてしまった。

「そうそう、未来はいつでもまっすぐ前を見ているところが持ち味なんだから。そりゃ、人間だし落ち込むことだってあるだろうけど、現場に出向いたらすぐに気持ちを切り替えないとね」

 いつもいつも的確なアドバイスをしてくれる、そんな先輩がいたからこそ今日までやってくることが出来た。だからこそ笑顔で送り出したいと思うのに、本音としてはやっぱり寂しくて仕方ない。

 千鶴ちゃんの話では、我が社の人事は出たとこ勝負。毎回同じとかいうことはまずなくて、かなり奇をてらった異動もあったりするみたい。そうやって社内に「風」を起こすことでさらなる活性化が生まれて、結果として業績アップに繋がっていくとか。うーん、奥が深すぎて私にはまだよく分からないわ。
  だから先輩が前評判通りに昇進するとしても、同じ販売部の中でポストを与えられるとは限らないのね。全く畑違いの部署に回されるとか、それもあり得る。もちろん先輩だったら、どんな仕事を任されたとしても完璧にこなすことが出来ると思う。ただ、そうなってしまったら、今までみたいに一緒にいられないどころか、その姿を確認することすら容易なことではなくなるんだな。

 ―― だからといって、どうなることでもないじゃない。先輩にとっては、その方がかえって好都合かも知れないし。

 ああ、駄目駄目。また後ろ向きになっているわ、私。けど……ときどき考えてしまう。先輩が今まで足踏みをしていた理由のひとつに私の存在があるんじゃないかなとか。あ、もちろんプラスの意味じゃないよ。あまりにも不甲斐ない後輩を指導する役目を仰せつかってしまったために、しなくてもいい回り道をする羽目になったのかも。

 ううん、それも違うな。

 ここは会社だもの、そんな個人的なことでいちいち滞っていたら始まらないよ。同じことなら、先輩の昇進を遅らせるよりも私をどうにかしたほうが簡単だし。でも「一緒にいたい」って気持ちが強すぎて、だから勘ぐってしまう。

「ほら、未来。あまり車道にはみ出すと危ないよ?」

 ハッと我に返れば、その瞬間に目の前に溢れ出す春の日差し。先を行く先輩の肩先に、光が止まってキラキラと輝いてる。社内にいるときのてきぱきと仕事をこなす先輩もかなり素敵。だけど、こうして天然の照明を受けて立つ姿はもっと素敵だと思う。

「す、……すみませんっ!」

 慌てて足を速めて、いつの間にか空いてしまったふたりの距離を縮める。去年の今頃は、何もかもがいっぱいいっぱいで、ゆっくりと何かを考えることが出来なかった。だから、同じ春の風景でも、今年は全く違うものに感じられる。

 先輩がいて、その姿を追いかける私がいて。それが当然のことで。

 ずり落ちそうになった封筒を、よいしょと抱え直す。あれこれと書類を詰め込んだから、かなりの重量。こういうのも非効率的ってことになるんだろうな。先輩は見た目だけでそれに気づいて「僕が持とうか?」って申し出てくれた。もちろん、丁重にお断りしたわ。そんな申し訳ないこと、出来っこないでしょ?

 


 乗り込んだ地下鉄は、昼下がりの時間帯だというのに驚くほど混み合っていた。

「今日はこの先の見本市会場で展示会の最終日になっているらしいね。いや、参ったな」

 他企業よりも始業が遅い仕事柄、通勤ラッシュとも無縁の生活を送っている私。とても恵まれた境遇だとは思うけど、だからこそこんな事態に陥ると突然慌ててしまう。
  先輩はその長身を持て余すこともなく、空いた隙間を縫って奥へ奥へと進んでいく。はぐれてしまったら後が大変だからとその背中を追いかけようとするけど、とにかく人垣が高くてかなり手こずってしまう。

「ほら、未来。こっちへおいで」

 一番高い場所にあるつり革に軽々と掴まりながら、先輩はドア横の特等席をしっかり陣取っていた。そこには低い場所に手すりがあるから、私でもどうにか体勢を保つことが出来る。

「そこにいたら満足に息も出来ないでしょう、もう少し端に寄ったほうがいいよ」

 そう言って隙間を空けてくれるけど、何だか申し訳なさすぎ。ぎゅう詰めの車両内に現れた貴重なエアポケットは、先輩の広い背中でしっかりとかたち取られている。そこにすんなりと身体を収める幸運、当然のことだなんて絶対に思わない。

「あ、ありがとうございます」

 身体を無理にねじるようにして、どうにかその場所へとたどり着いた。私、とりあえず平均身長ギリギリくらいはあるんだけどな、やっぱ男性の比率が高くなると厳しいものがある。よどんだ空気が下へと集まって、呼吸を続けていると気分が悪くなりそうだった。

「この先はカーブになっていて揺れるから、しっかり掴まっているんだよ?」

 そう告げられる間にも、車体は右へ左へ小刻みに傾く。そのたびに満員の人の固まりも動いて、ぎゅうぎゅうと押し合う音が聞こえてきそう。

 そして、ギーッとレールと車輪の擦れあう鈍い音がして。

「……っ!」

 次の瞬間、鼻先に強く押し当てられたもの。見かけよりも柔らかい素材で仕上げられたスーツと、その襟元から覗く洒落たデザインのネクタイ。ほんのりと漂ってくる香りは、いつも感じているそれよりも何倍も何十倍も強いものだった。

 ―― ど、どうしようっ! かなりすごい体勢になってるかも……!?

 少しでも身体をよじって離れられたらと思うのに、私の背中には座席との間のポールがあって無理。だけどだけど、このままって……ちょっとヤバすぎる。

「駄目だよ、未来。もっとこちらに寄って」

 さらにびっくり、先輩は私の背中に腕を添えて強く抱き寄せる。こんなことって、あり得ない。そりゃ、このままだとポールに当たった部分が痛くて大変だけど、だからといって……その。

 ―― このままだと、ドキドキが聞こえちゃう。ああ、どうしたらいいんだろう。

 頭の中が真っ白になって、酸欠を通り越して無呼吸になって。クラクラと目眩に襲われるその時間が一瞬にも永遠にも思えた。このまま時が止まってしまえばいいのに、なんて漫画チックな妄想まで浮かんできたりして。だってだって、こんなこと二度と起こりっこない。出会い頭の事故みたいな状況でもそれでもいい。

「もう少しだからね、我慢していて」

 すまなそうな声が耳元で踊る。ううん、そんなことない。私、我慢なんてしてないよ。きっと今、今この瞬間が先輩と出会ってからの日々の中で一番いけない自分になってる気がする。

 ―― 私、こんなにも先輩のこと、大好きなんだ。

 もしも、って思う自分をたまらなく情けなく思っていた。先輩はただ上からの命令で仕方なく私の指導を続けているだけなのに、それまでもを特別な行為のように思えちゃう私。おめでたすぎるにも程がある。

 焦がれる気持ちを必死で押さえ込んでいた。そうすることでしか、先輩の近くに存在し続けることが出来ないと分かっていたから。私が特別な感情を抱いていると知った瞬間に、ふたりの関係までが跡形もなく崩れ去ってしまう。いつかは必ず終焉を迎えると分かっていても、それを少しでも先延ばしにしたいと思ってしまう自分がいる。

 ―― けど、本当は気づいて欲しかった。そして応えて欲しかった。

 ここまで来ると、おこがましいにも程がある。先輩と私じゃ何もかもが全然違うのに、そもそも同じフィールドになんて立てるはずもないのに。それでもまだ、期待してしまう自分。情けないよ、だけど諦めきれない。だって、先輩は素敵すぎるんだもの。だから、私だけが悪い訳じゃない。

 息苦しい時間が突然止まり、すぐ脇にあるドアが大きく開かれる。ホームに吐き出される人波に従って、私の身体も再び自由を回復した。

「未来、こっちだよ」

 出口の表示を指しながら、先輩が手招きをする。その表情は悲しいくらいいつも通りで、当然のことなのに行き場のない寂しさがこみ上げてくる。

「はい、分かりました」

 先生のお宅に伺う前に、どこかに寄って髪を整えなくちゃ。きっと今の私、ぐしゃぐしゃのよれよれになってる。それに、外見の乱れよりも内側の気持ちの方がもっともっと大変なことになってると思う。

 私が追いつくまで、何度も振り向いて心配そうに確認してくれる。だけどそれに特別な感情が上乗せされているなんて期待しちゃ、絶対に駄目。この一年、何度も膨らんではしぼんできた気持ちが、私に新たなる警告を与えてくれる。

 ―― 学習能力って、結構役に立つものなんだな。

 昨日よりも今日、そして今日よりも明日の方がもっと好きになる。行方知らずの私の恋は、一体どこまで漂っていくのだろう。

 

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2009年5月22日更新

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