白、真っ白。
目覚める前、私の頭の中は全てがすっきりリセットしてしまったみたいに空っぽになっていた。何もかもを外に出してしまって、自分という存在そのものまでどこかに消えてしまったみたい。こんな風になっちゃうものなのかな〜って、ちょっと信じられない気分。
だけど、全然不安はないのね。おなかの中が温かくて満たされていて、もう何も怖くない。でも、まだだるい。もうちょっと、このまままどろんでいたいなあ―― 。
「未来、お寝坊さん。そろそろ起きて支度を始めた方がいいと思うよ?」
ああ、何て心地よい響き。世界で一番大好きな人の声が耳元で踊る。うーん、これも夢の続きって奴かな? 何かもう、居心地良すぎ。
「ほら、駄目だよ。これ以上のんびりしていると始業に間に合わないだろう。……まあ、ここからなら走って五分もかからないとは思うけどね」
―― え?
笑いを押し殺したような声に、ぼやけていた頭が急に現実に引き戻される。間に合わない? え? それって……っ!?
「きゃああああっ! いっ、今っ! 今、何時なんですかっ!?」
勢いよく起き上がって、周囲を確認。大きく取られた窓からさんさんと注ぎ込む朝の日差し、高層階だから地上の雑音とか聞こえないけどっ。でも、何だかすごくヤバイ予感!!
「ええと、……八時をちょっと回ったところかな?」
恐る恐る声のする方向を振り返れば、ベッドの縁に腰掛けていたのはすっきりと身支度を整えている先輩。髪の毛のセットも完璧で、お髭のそり残しなんてあるはずもない。このままアタッシュケースを手にすれば、いっぱしのビジネスマンだよ。その上、朝の日差しを浴びた微笑みの美しいこと。……じゃなくて!
「……はっ、八時っ!? ちょ、ちょっと待ってくださいっ、それってっ……!」
うっわー、待って待って。私、とりあえずバスローブっぽいものは身につけているものの、ほとんど裸同然だよっ。だってだって、昨夜はあのあとも「はい、それまでね」とはならなかったんだもの。さすがに二回目だか三回目だか終了したあとはシャワーを浴びることが出来たと思うけど、その辺の記憶はあやふや。
「ふふ、だから急ぎなさいって言ったでしょう。大丈夫、ここは洗面用具からドライヤーまで全部揃っているからね。メイクの道具だけ持ってれば、それなりの支度は出来るよ。さあ、その間に僕は下のコンビニで軽くつまめるものを調達してこようか」
ええと、……ええとっ! 今、八時過ぎなんでしょう?? って、ことはっ? ここって、確か会社の目と鼻の先。ってことは私のアパートまでどんなに急いでも行って帰って往復一時間半以上は掛かるってことだよね。部署によって差はあるものの、ウチの場合は九時が始業。待って待って、それって―― 。
「あのっ、せ、先輩っ! 申し訳ありませんが、私今日の午前中は……」
まだ半分、寝ぼけたまんまの頭だったけど、それでも必死で考えた。うん、そうだよ。これはどう見ても非常事態。だったら、社会人の最終手段である「年休」ってやつを―― 。
「駄目、今日はきちんと定時に出勤しないと」
それなのに。先輩はまるで初めから私が何を言おうとしているのかを分かっていたみたいに、ばっさり切り捨ててくれる。いとも簡単に。
「さっきも言ったでしょう? そんなに見苦しくない支度は十分出来るって。簡単な下着やストッキングとかは下のコンビニで揃うから、出掛けに寄って選べばいい。とにかく、早く行動を開始しなさい」
そ、そう言う問題じゃない気がするんですけど。そう訴えても、絶対に受け付けてもらえない感じ。嫌だ、もう。どうしてもっと早く起こしてくれなかったのっ! そりゃ、朝寝坊しすぎた私も悪かったよ。でも、その原因の一端は先輩にもあるわけで……。
「未来」
急にそんな真面目な顔で睨んだって、全然怖く……ないわけないか。ううん、元々が綺麗に整った顔立ちだけに、かなりシュールに見える。
「もう一度だけ言うよ、早く支度しなさい」
それだけ言い終えると、先輩はお財布を手に部屋から出て行った。
見慣れた通勤路に降り立った私の心は、例えようのないほど縮み上がっていた。
だって、そうでしょ? 私も、隣を歩く先輩も上から下まで昨日と全く同じ格好をしているんだよ。もう、これって、黙っていても全てがバレバレって奴。仮にも企業に属する者として、絶対にやってはいけないことだと思うの。
「さ、急ごうか。遅れるよ?」
先輩っ、どうしてそんなに落ち着いているんですかっ!? まさか、自分だけ上手い逃げ場を作ってある訳じゃないですよね?
颯爽と軽い足取り。難なく雑居ビルの自動ドアをくぐり抜け、突き当たりにあるエレベータまでまっすぐに進む。そのあとをよたよたおぼつかない足取りでついて行く私は、気がつくと右手と右足が一緒に出ちゃうって感じなのに。
改めて、自分の服装を確認する。エメラルドグリーンのスーツはそれほど派手派手ではないけれど、昨日着ていたことを覚えている人は社内に絶対いるはず。その上ブラウスまで同じだもの、申し開きも出来ないでしょう? うわー、今すぐここで意識を失ってばったり倒れたいわ。いや、そんなことをしたらますます騒ぎが大きくなるだけかしら。
ピンポーン。
いつになくおなかの底に響く音色とともに、エレベータのドアが大きく開く。そして、そこには。にこやかな笑顔を首の上に貼り付けた、見知った女性が立っていた。
「随分、派手になさいましたね? 先程から社長がお待ちですよ、おふたりとも」
社長秘書である彼女に、先輩と私はそのまま有無を言わせず社長室へと連行された。そうなっても、先輩の方は全く動じる様子もないのよね。うわあ、うわあ、どうしよう。まさか、謹慎処分とかならないよね?
「どういうことかね、木暮君。きちんと説明してもらおうか」
案の定、って感じで。社長は文字通り「苦虫を噛み潰したよう」な顔をしている。そりゃそうよね、社員ふたりが「外泊しました」って悪びれもせずに出社してごらんよ、連れだって。これ、いくら自由な社風だって、笑って見逃すわけには行かないと思うの。
「―― どうもこうも。ま、ご想像の通りと申し上げるしかないですね」
とりあえず椅子を勧められて社長と向き合って座ったものの、身の置き場なんてあるはずもない。うう、穴があったら入りたい。何なら、今から自力でPタイルの床を掘り進めちゃってもいいわ。
それなのに、話を振られた先輩っ! 何てこと言うの……っ!?
「おいおい」
あまりに直球勝負の返答に、社長もしばし口をあんぐり。だけど、そこは苦労の末に会社を立ち上げた器の持ち主。どうにか気を取り戻す。
「こちらの、鈴木未来君。彼女が今、我が社にとってどういう立場にあるか分かっているんだろうな? これではせっかくのイベントが台無しじゃないか。長い間準備を重ねて、ようやく盛り上がってきたところだったのにどうしてくれるんだ、全く」
うっわー、それを言われちゃうともう立つ瀬がない。
そりゃ、社長が言うように「盛り上がっていた」かどうかははなはだ疑問だけど、私がイベントの鍵を握っていたのは間違いない。だから、……だったら、同じことだとしても、もっとひっそりと穏便に話をまとめるべきだったんじゃないだろうか。
「何を仰いますやら。それでは、そのお言葉、そっくりそのまま社長にお返ししますよ?」
この期に及んで、どうして落ち着き払っていられるんだろう。年齢差が倍くらいある、しかも会社で一番偉い人を相手に、先輩は少しもひるむことはない。それどころか、この緊迫したやりとりをむしろ楽しんでるって雰囲気すら感じられるのね。
「このような姑息なやり方で僕たちの仲を裂こうとするなんて、社長も上層部の皆さんもどうかしていますね。そうなれば、非合法には非合法で対抗する他ないでしょう? 全く、これでも最大限に紳士的な方法を選んだつもりですよ」
喧嘩売ってますけど、ついでにガンも飛ばしてますけどっ!? せ、先輩、キャラが変わりすぎ。私、昨日からカメレオンと一緒に行動しているような気がしているわ。まさか何かのマンガみたいに「僕は千の仮面を持つ男だ」とか言い出すんじゃないでしょうね。
でも、その次の先輩の言葉には。さすがに驚きすぎて、突っ込みの言葉も見つからなかった。
「僕には彼女と、そして彼女のおなかにいる子を全力で守る使命がありますからね。これ以上は譲歩するつもりはありません、彼女はずっと以前から僕だけのものです」
―― え? ちょっと待って。
あの、私って……ニンシン、してるの? いや、違うよっ。もしかしたら、そうかも知れないけど……そんな、昨日の今日で何で分かるのっ!?
「そのお顔では僕の話を全く信用していらっしゃらないご様子。仕方ありません、近日中に医師の診断書を添えて―― 」
ちょっと、いい加減にしてください! 何でそんなに嬉しそうなんですか、先輩っ!!
「い、いや。そこまでは強要しないが、……でも何だ。元はと言えば、お前の方にも原因があると思うぞ。いつまでも煮え切らないままでいるから、こういうことになるんだ。だいたい昔からお前と来たら要領ばっかり良くて……」
一方、社長の方は。少しは和んだ感じではあるけど、あれ? 何だか、発言が変な方向に……?
「そう言う話を今、蒸し返されても困りますよ、伯父上」
今、何て仰いました? お二方。
呆然とふたりの顔を見比べるのが私、まるで金魚。口をぱくぱく開けたり閉じたり……えーっ、それって、どういうこと? 一体全体どうなってるのっ!? 伯父さんって、……このふたり、知り合いも知り合いで親戚だったりしたの??
「ま、残念ながら、今回のイベントは早々に終了させていただきます。もう、二度とこんなことはナシですよ? 前々から何かが起こりそうだなって気はしていましたが、まさかこんな馬鹿らしいことをお考えになるとは。全く持って、我が社の将来が不安になりますね? ……さ、そろそろ行こうか? 未来」
えー、これで話を終わらせちゃっていいの? いくら先輩の言葉と言っても、今回ばかりは素直には頷けない。すごく申し訳ない気持ちでそれでも仕方なく立ち上がると、すぐに社長に呼び止められた。
「それで、鈴木君」
自分と同じ姓を口にしたからだろうな、社長は心なしか恥ずかしそう。私としてもどう対応したらいいのやら、すごく困っちゃうんですけど。
「君は、これでいいのかい? 木暮君のような男はとにかく一筋縄ではいかないよ。今後苦労するのは目に見えている、異を唱える機会は今このときしかないと思うがどうかね?」
だ、駄目出しですかっ!? でも今更、どうにもならない気がするんですけどっ。私、先輩に全てを許しちゃったし、それでもって、それですごく幸せだったりするし……。
「わ、私は木暮先輩が大好きです。ですから、……こんな風に選んでもらえて本当に嬉しいです」
うわわ、何を言ってるんだ、私の口。もう、意味不明だよっ。恥ずかしくて恥ずかしくて、わたわたしちゃう。しかも、先輩まで振り返ってばっちり聞いてるしっ。
「―― そういうことなら致し方ない。ヴィーナスの言葉は絶対だ、他の誰にも変えることは出来ないのだからな。ということで、じゃあどうするか。ラッキーボーイな木暮君、君は我が社に対して何が所望なのかい?」
ようやく確信に辿り着いた、って笑顔。そう言うときの口の端の上がり方が、ふたりはどこか似ていた。姓が違うってことは、先輩のお母さんのお兄さん、とかになるのかな? 先輩の転職も実はその辺に理由があったりして。
「僕が欲しいものですか? もちろん、―― 今、あなたがお座りになっているその椅子ですよ」
真顔で一息にそう言い終えてから、先輩はすぐにふっと表情を柔らかく変える。
「……って、言うのはもちろん冗談ですけど。とにかくまずはそちらにいらっしゃる才媛の下で、経営のノウハウを学びたいと思います。それでいかがですか?」
ほんの二十分かそこらのやりとりだったのに、私は今日一日分のエネルギーを全て使い果たしてしまったみたいだった。このまま仕事に向かうことが出来るのだろうか、そう思いつつもいつも通りに大好きな背中を追いかける。
すると先輩は廊下をまっすぐには進まず、くるりと振り向いてエレベータのボタンを押した。
「さ、今日の仕事は終わったし、あとはゆっくり休もう」
一体どういうことなのか分からずに呆然とする私に、先輩は長身をかがめて耳打ちする。
「あれだけ啖呵を切ってしまったのだしね、とにかく今は取り急ぎ絶対的な証拠を突きつけないと。そのためには未来の協力が不可欠だよ。いや、僕に掛かればそう難しくないはずだ」
何が何だか、と瞬きする間もなくやって来たエレベータに押し込まれる。そしてほんの数秒の密室の中で、ぎゅーっと抱きしめられて濃厚なキスまでされちゃったり。……ちょっと、真っ昼間からまずいでしょう、これはっ……!
「大丈夫、当面の仕事は昨日までに全て片付いているからね。本当に良かったよ、我が部署には有能な人材が揃っていて」
で、結局。
どこまでがはったりで、どこまでが本音? それで私を含めて周囲を欺いていたのは、どの辺ですか??
もう、先輩、何が何だか分からない。結局、踊らされていたのは私ひとり。社内にふたりといないシンデレラに抜擢されたはずが、途中でストーリーとキャラがすり替わっていたみたい。
「未来」
雑居ビルを出てしばらく歩くと、広い大通りに行く手を阻まれる。長い信号待ちの間、先輩は誰にも分からないように、だけどたまらなく濃厚に私を刺激するんだ。
「そろそろ、ふたりっきりのときは『木暮先輩』を止めてもらおうか。早く名前で呼んで欲しいって、ずっと思っていたよ」
そ、そんなっ。急に言われても……恥ずかしくて無理。わたわたしてしまう私を先輩は興味深そうに見守る。
そして。
半開きになった唇に春の風が通りすぎる刹那、甘酸っぱいキスが再び落ちてきた。
おしまい (090701)
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