それでもまだ、この先もしばらくは決まり切った毎日が続いていくような気持ちでいた。もしかしたら、無意識のうちにそのことに対する思考を避けていたのかも。
「鈴木さん」
薄暗い廊下を歩いていたら、背後から声がした。
こういうときに「呼び止められた」って思わないところが、全国の「鈴木さん」に共通する特徴だと思う。間違って振り向いてターゲットがすぐそばにいる別の人物だと気づいたときの何とも形容のしようのない気まずさ―― 、あれって当事者じゃないと絶対に分からないよね。
「ええと、販売部の鈴木さんだよね? 鈴木未来さん」
ようやく自分こそが呼ばれたその人だと分かって、足を止める。それから振り向くまでにいくらかの間合いがあったのは、その声が初めて聞くものだったからだ。
「……はい」
雑居ビルのここ三階ともうひとつ上の四階を占める我が出版社。だから今目の前にいるのは、多分社内の人間だと思う。でもその顔を確認しても、やっぱり見たことのない人。うーん、こんな風に言うと努力不足のように思われそうだけど、何しろ仕事内容が多種多様に渡っているために同じ会社の中にいてもすれ違うことすら稀って社員もたくさんいるのね。
「ああ、良かった。人違いだったらどうしようかと思ったよ」
そうだな。私と同世代か、もうちょっと上くらいか。そこに立っていたのはすっきりした感じの男性だった。伸びかけた短髪が、何となくバスケとかそういう感じのスポーツを連想させる。次の瞬間、くりくりっと興味深そうに動く眼が、私の頭のてっぺんからつま先までをすーっとなぞった。
「ええと、……何かご用ですか?」
別にそれほどねちっこい眼差しでもなかったけど、それでもあまり快いものじゃない。察するにこの人も私のことをよく分かってないみたいだ。それなのに、どうしてわざわざ呼び止めたりしたの?
鏡に映して確認したわけじゃないから、そのときの自分の正確な表情は分からない。でも、きっとかなり不審そうにしていたと思うよ? 知らない人からこんな風に声をかけられたことなんて、あんまり経験ないし。何だか、身の置き場がないって感じ。
「―― あ、ごめん」
彼の方もそのことに気づいたのだろう。もともと人好きしそうな顔立ちだったのが、さらにフレンドリーな微笑みに変わる。
「いきなりこんな風にしたら、誰だって驚くよね? ごめんごめん、そう言うつもりはなかったんだけど……ところで、ひとつ質問してもいいかな?」
そのときの私、お使いの途中。総務に渡す伝票の束を持って、結構急いでいたりしたのね。だから、不自然にそわそわした相手を目の前にしても、そう危機感を覚えるゆとりがなかったんだと思う。というか、「質問だったら、さっさと終わらせて」とか考えてたりして。
でも、その直後。短く頷いた私に投げかけられたのは、本当に予想だにしなかった言葉だったんだな。
「ええと、鈴木さん。今、付き合っている相手とかいる? いなかったら、俺が是非立候補したいんだけど」
何かがおかしい、完全に完璧なまでに何かが今までとは確実に違っている。
次の瞬間、頭の中が真っ白になってその場を走り去っていた。かなり失礼な態度だったかなと気がついたときには、もう総務のドアの前まで来ていてあとの祭り。まあ、やっちゃったものは仕方ない。やっと現実に戻れるとばかりホッとしたのに、ドアノブを回して開いたその先も、やっぱり「異空間」だった。
「あ、鈴木さん。いいところに来た」
いつも受け付けてくれる女性社員さんに声をかける間もなく、本当に私がドアの隙間から顔を覗いたのと同時にがたがたっと複数の椅子が動く音がした。そして一番近くにいた男性が、素早くそばにやってくる。
「嬉しいなあ、君の方から訪ねてくれるなんて―― あ、伝票? 了解、こちらで預かるよ。ところで、今ちょっといいかな?」
一体何が起こったのか、自分でも全く分からなかった。こんなことって、あり? だって、絶対におかしいよ。どうしていきなり複数の男性から、普通じゃない眼差しを向けられなくちゃならないの? それでもって、さらにその背後からちらちらと見え隠れする女性社員たちのひとことでは言い表せない視線。
最初はたちの悪い冗談かな、みんなで私を担いでいるのかなと思ってみたりした。だって、その後に総務から階段を上って戻るまでも大変だったの。次から次から、知らない人に呼び止められて。
そしてようやっと、販売部の自分の席までたどり着いたのに、そこもまたすでに「安住の地」ではなくなっていた。
「よっ、鈴木さん」
わらわらと束になってやって来たのは、販売部のうちの数名。その中には、いつもは外回りばかりで顔も見たこともない人もちらほら。今声をかけてきたのは、その中でも一番元気のいいリーダー格の人だ。
「今、みんなで話していたんだ。良かったら、近いうちに部内で若手中心の親睦会とかやらない? もちろん君の都合次第だけど、予定さえ合えば早速今夜にでも。店はすぐに手配するから」
何で何で? どうして、いきなりこんなことになるの?
幸いなことに、当日は予定がぎっちり入っていて動かせそうになかったからきっぱり断ることが出来た。でもそこまできちんと理由があるのに「どうしても駄目なの? 他の日に動かせないのかな?」なんてしつこく食い下がられたりして。何か、そんなのって気持ち悪いし、あり得ない。だって、仕事だよ。同じ部署にいたら、私の置かれている立場だって分かってくれていいのに。
訳の分からないままに必死で「ごめんなさい」をしたら、やっとのこっさで一団は引き上げてくれた。それでも自分のデスクに戻って外回りの支度なんかを進めながらも、ちらちらっとこちらを振り向いて確認してるのね。何か……こんなのって、おかしすぎる。新手のいじめ? ……ううん、社会人にもなって、そんな子供っぽいこと集団でしなくたっていいよね。
どうにか気持ちを立て直して、仕事の続きをしようとパソコンを立ち上げても駄目。頭の中がぐるぐるして、すごく不安定な気分になってしまう。そこで恨めしく目で追ってしまう空っぽのデスク。先輩は今日一日出払っていて、私はひとりで留守番をしてる。いつもどんなときも一緒に行動している訳ではないのね。
―― こんなとき、先輩だったらどんな風に対処するだろう。
ありとあらゆる状況下で常に落ち着いて行動することの出来る先輩だから、今の私みたいな困った立場にあってもさらりとかわしてしまうに決まっている。それどころか、思わぬ事態にわたわたと慌てている情けない部下の姿を見たら心底呆れてしまうんじゃないかな。デキル人の内側が私たちにとって謎なように、彼らから見たらこっちの内側が謎に思えてしまうってことよね。
ま、定時までどうにか乗り越えれば。そのあとに相談することだって出来るし。
大阪からの日帰り出張から戻った先輩と落ち合って、その後に書籍チェーン店の営業の方との打ち合わせが入っている。来月発売の新刊について、店頭イベントが予定されているのね。メディアにも頻繁に登場している作家だから、サイン会とかそんな感じにするのかな。
こんなとき、大手の出版社だったら広告代理店に一任ってことも多いと思う。でもうちの会社はいちいち第三者に委託するほどゆとりがあるわけじゃないし、自分たちで出来ることはやっちゃえって社風なのね。
「―― あの、鈴木さん。鈴木未来さんはこちらかしら」
やっと、少し落ち着いてきたかなって思っていたら、また私を呼ぶ声がした。
「はい、私です」
良かった、女性の声だ。そう思って、何の躊躇もなく振り向いたら。
「ああ、あなたが鈴木さんね。ちょっと私と一緒に来てくださる? 社長がお待ちよ」
「社長室」って名前はあっても、半分物置みたいになっているその部屋は、総務部のすぐ隣にある。ドアを入ると両脇の壁に沿ってうずたかく積み重ねられた段ボール箱たちが、迫ってきそうで怖い。地震でも来たら、それこそひとたまりもないんじゃないかしら。
「どうぞ」
って、先ほどの女性にお茶を出していただいたりして、思い切り恐縮してしまう。そうよ、思い出した。この人は社内で「マドンナ」と呼ばれている、切れ者の社長秘書。すらりと長身でモデルみたい、ヘアスタイルもメイクも完璧で、同性の目から見てもうっとりしちゃう。
「ごめんなさい、社長に急ぎの電話が入ってしまって。でもすぐに終わると思いますから」
美しい人って、本当に頭のてっぺんからつま先まで全てが完璧に出来ているんだな。白魚のような、って言う形容がぴったりな指先には珊瑚色に染められた綺麗なかたちの爪が並んでいる。そんな風に密かに観察していたら、何だか急に膝の上で握りしめた私の手が子供っぽく見えてきてしまう。うー、ぽてぽて。情けないよなあ、全く。
「やあ、ごめんごめん。待たせして、すまなかったね」
がちゃんと背後のドアが開いて、元気のいい人影が飛び込んできた。慌てて立ち上がって、深く深く頭を下げる。四十代そこそこのぱりっとしたスーツ姿のこの方こそ、我が社のドン。今を遡ること三年前、数名の仲間と一緒に会社を創設したその人だ。見た感じは「品のいい紳士」なんだけどね、やっぱりただ者ではない風格が感じられる。
「ほらほら、かしこまってないで座って、座って。いやあ、今日は暑いねえ。少し前まではコートが手放せない位だったのに、もう衣替えをしてもおかしくないなあ」
出版社を始めたくらいだからその道に精通している人物なのかと思ったら、そうじゃないの。大手電機メーカーの営業から始まって、服飾デザイン事務所、予備校講師を経て今に至るとか。自分の父親よりも十歳近く若い方なのに、人生を三回くらい生きてるみたいな経歴だ。
もちろん、私みたいな下っ端がそう簡単に上層部と顔を合わせる機会はそうそうないし、こんな風に個人的に声をかけていただいたのなんて、今までに何度あったかしら。ええと、入社式のとき? それとも新人研修を終えて今の部署に配属になったときかな。
「いやいや、―― 鈴木さん、だったかな? どうだい、今の気持ちは」
おもむろに、一撃。
私の目の前、奥の席に窓を背に座った社長は、低めのテーブルの上に手を組んで身を乗り出してきた。満面の笑みを浮かべて、興味深そうにこちらを見つめる。
「……は……?」
この人は、何かを知っている。あまり勘の良くない私でも、それくらいのことはすぐに分かった。だけど、いきなりこんな風に切り込まれたら、すごく落ち着かなくなって不安になっちゃう。どうしたものかと思いあぐねていたら、すぐ背後から助け船を出してくれる声がした。
「社長、きちんと説明して差し上げないと。鈴木さん、困ってますよ?」
どこまでも冷静に、それなのに機械的ではない心のこもった温かな声。とっても勇気づけられて、私も必死に頷いていた。
「あ、―― ああ。いやいや、すまんなあ……ついつい楽しくてな。別に意地悪をするつもりはなかったんだよ」
そこまで言い終えると、社長は自分の湯飲みを一気にあおった。きっとこの人はお酒もかなりいけるんだろうな、そういう予感がする。
「どうも、どこかでフライングがあったらしくてね。君に説明をする前に先走りをした輩がいたようだな。でも、安心して欲しい。これから私の言う話を良く聞いてくれさえすれば、君は今までと何ら変わりなく我が社の社員として過ごすことが出来るのだからね」
四年に一度のお祭りイベント。
何よそれ、絶対にあり得ないから。それもどうして、私なんかがそのターゲットにならなくちゃいけないの。訳わからない。
多分、社長はすごく分かりやすく、かみ砕いて説明してくれたんだと思う。でも話の詳細を聞けば聞くほど尋常じゃないし、人権無視も甚だしいし、絶対にあってはならないことだと確信した。
だって、変だよ。肩書きを与えられてない平社員だけが対象で、前もって上層部の決めたひとりの女性社員のハートを射止めたら希望通りの部署にそれも特別な待遇で昇進することが出来るなんて。しかも、そのターゲットの女性が「ヴィーナス」って、どういうこと?
まあ、当然と言えば当然だけど、こんな馬鹿げた企画は今回が初めて。だけど絶対に盛り上げるし上手く運ぶって、社長は言い切るんだ。本社の命運を分ける世紀の一大イベントになるだろうって。
「しばらくは周囲が騒がしくなるかと思うけど、君としても悪い話じゃないはずだ。身内を褒めるのもなんだが、私から見ても我が社の若手陣は前途洋々の有能な人材が揃っていると思う。そのような中からただひとりを選ぶことが出来るなんて、こんなに割のいい話があるかい? いや、またとないチャンスと思った方がいい」
あんまりに強引に押し切られてしまったため、反論のひとつも言い返すことが出来なかった。これって、絶対に辞退するべきだと思う。だって、そんな。私はまだ、恋愛とか結婚とか、そう言う難しいことまで考えたくないもの。そりゃ、いつかはって思うけど……今はそのときじゃない。
「自分のデスクに戻っても仕事にならないだろうから」ってことで、その午後は社長室の一角を借りて仕事をさせてもらった。そして、定時になると逃げるように会社をあとにした訳なのだけど……本当に足取りも重くて、先輩との待ち合わせ場所までの距離がとてつもなく遠く感じられてしまう。
―― ホント、どうしよう。
最初のうちは、すぐに相談して力になってもらおうと思っていた。先輩なら、私が思いつかない対処法をすぐに考えてくれるはず。だけど、それもどうかなって。そこまで甘えてしまうのも、情けないものがあるかもって時間の経過とともに思えてきたのね。
実は、ね。ほんの数日前に春の人事異動の発表があった。だけど、意外や意外なことにそこには先輩の名前はなくて、社内でもそのことで一時騒然としたくらい。もっとも当の本人はあっさりしたもので、残念そうにも口惜しそうにも見えなかったけど。でも……内心はかなり落ち込んでいると思うんだ。
そんな先輩に、私の個人的な悩みでさらに困らせるなんて絶対に良くない。私だって、もう立派な大人なんだし、自分のことくらい自分でちゃんとしなくちゃ。先輩の力を借りなくたって、この事態を乗り越えることが出来なかったら駄目だよ。
―― 大丈夫、何とかなる。私、いつまでも先輩のお荷物でいたくないもの。ちゃんと肩を並べて一緒に仕事が出来るだけの人間になりたい。そうなってこそ、先輩だって私を一人前の女性として視野に入れてくれることになるんだから。その日まで、ひとりで頑張ろう。
改札口の前、手を振る先輩はいつも通りの笑顔。だから、私も自然と笑みを浮かべることが出来た。