ひっそりした室内に、静かに鳴り響くキー操作の音。それがこの部屋に私以外の人間がいることを確認できる唯一の手段だ。
だって、もう……私の視界はぼやけて何も見えなくなってる。とっくに諦めていたはずだったのに、この人に二度と会えなくなるんだって思ったら、それだけで絶望的な気分に陥ってしまう。
「……わ、私、分かったんです。いくら良くしてもらっても駄目だって。素敵な言葉をもらったって、それが大好きな人からのものじゃなかったら心がときめくことなんてあり得ないんです」
今回の企画で声を掛けてくれる人たちはみんな、私の心を動かそうとあの手この手で挑戦してくれている。サプライズなプレゼントを渡されたり、生まれてこの方一度も言われたことのないような褒め言葉をもらったり。でも、全然嬉しくなかった。いい人だなって、どうしても思えなかった。誰ひとりとしても。
「だっ……だって、私……」
言いたいこと、伝えたいことがたくさんあるはずなのに、言葉にならない。喉の奥が震えて、唇が震えて。頬もガクガクして、歯がかみ合わなくて。すごく情けない姿、それでもこれが紛れもない私自身。
絶対に泣かないって決めてたのに、自分自身への約束さえも果たせてない。俯くと、輪郭をかすめる毛先。毎晩欠かさず手入れして、翌朝の出勤前にも念入りにブローしてた。出来る限りの努力をして精一杯の姿で先輩に会いたい、そう思ったから。
―― だけど、もうおしまい。全部、おしまい。
キーを叩く音が、今も途切れなく続いている。規則正しく乱れのないそのリズムが、私のことなんて全く気にしていないって事実を痛いくらい突きつけていた。
こんなの、残酷すぎる。どこをどうしたら、ここまですれ違ってしまえるの。ゆっくりと、でも着実に積み上げてきた一年という長い時間。それが、こんなにも呆気なく崩れ去ってしまうなんて。
「逆指名」って言葉に、自分自身で驚いてた。そうだ、ここまで面倒で煩わしいことに巻き込まれるならば、せめて私自身にも自己主張できる「隙間」を残しておいてくれても良かったのに。そしたら、……ううん、でも今更どうなることでもないのか。はっきりと意思表示をしたところで、その相手に気がなかったら仕方ないものね。
今回の騒動。
突然のことだったし、とにかく驚いて慌てふためくばかりで、しばらくは何が何だか分からない状態でいた。だけど、少し冷静さが戻ったら。こんなに社内が、というか社内の企画の条件に該当する面々が浮き足立っているそのときに、ただひとり「蚊帳の外」にいる人の存在に気づいてしまったんだ。
そりゃ、最初は私自身もひた隠しにしていたよ。出来ることなら気づかれずに、何事もなく通り過ぎることが出来たらどんなにいいかって願ったりもした。だけど、それがどうしても無理って分かってからは……別の意味で引っかかりを覚えるようになったんだな。
……だって、これって。もしかしなくても、無言の「ノーサイン」なんだから。
そりゃ、他の誰とも比べられないくらいとても優秀な人だもの。こんな馬鹿馬鹿しいお膳立てに乗らなくたって、自分自身の力で必ず成功をつかみ取る。それに企画そのものに異を唱えることはせずに「お好きな方はどうぞご勝手に」って姿勢を貫いているところも潔い。そんなところが素敵だなって思うし、ますます憧れてしまう。でもどんなに思いを寄せたところで、やっぱり永遠にたどり着けない人だったんだ。
最初のうちは「どうして」って気持ちばかりが強くて、企画を立ち上げた上層部や浮き足立ってる男性陣に腹が立って仕方なかった。こんな風に大袈裟に騒ぎ立てるから、先輩が私から離れていってしまうんだって思うと収まりがつかなくて。だけど、しばらく経つうちに、今度はただひとり冷静さを保ち続ける先輩の方に怒りの矛先が移っていった。
確かに気持ちは分かる。先輩にとってはこんな企画、稚拙すぎて便乗するどころか自身が該当する立場にあることすら嫌悪感を覚えることだったんだろう。早く元通りに平穏な日々が戻って欲しい、そう思ったからこそ積極的に企画に協力しようって決意したに違いない。
だけど、どうして気づいてくれないの。私だって、被害者のひとりなんだよ。全面的に協力して助けてくれるのは無理でも、誰よりも身近な存在としてほんのちょっと手助けしてくれるくらいはいいんじゃないかなと思った。せめて今まで通り、全く変わらない日常を送ってくれたら、私だってここまで自分自身を見失わなくて済んだのに。
そして、結果として。
最終的に、一番腹が立ったのは他の誰でもない、自分自身に対してだった。私が感じている全ての苛立ちの原因は、この手の中に収まっている。もしも私がもっと魅力的で、どうしても手放したくないって思えるくらい素敵な女性だったら、状況は変わっていたはずだ。そのことを棚に上げて誰かを恨むなんて、そもそも根本的に間違っている。悪いのは私、全部私。
もっと早く当たって砕けるだけの勇気があれば、こんなに周囲を恨んで嫌な気持ちになることもなかったのに。居心地のいいぬるま湯の関係がいつまでも続けばいいって、すごく都合のいいことを考えていた。でも、今は分かる。先輩とのことなんて、全てが幻想でしかなかった。きっとこれは神聖な職場に恋愛感情を持ち込んでしまった私への罰。
「……さ、最初から、始まっていたんだと思います。初めてお目に掛かったとき、そのときからすごく素敵な人だなって思って。それで入社してみたらやっぱりものすごく人気のある方で、私なんて足下にも及ばないような存在で……だけど」
同じ部署で、しかもこんなに間近で働くことが出来るなんて、本当に夢みたいだった。ひとりの社会人としても、人生の先輩としても、とにかく尊敬できる素晴らしい人。そのひとことひとことに感化されて、行動の一部始終がお手本になった。少しでも近づきたくて、お荷物だけにはなりたくなくて、自分の出来る限りの努力を惜しまずに突き進んで。
それが、私の一年だった。寝ても覚めてもそんな感じだったから、ほとんど生活の全てがそうだった。いつまでも夢が続くはずはなかったのに、どうして気づくことが出来なかったんだろう。
いつかは先輩の心が私の方に向いてくれる日が来るんじゃないかなって、自分にとって都合の良いシナリオを書き上げていたのではないだろうか。
「こ、……こんなこと、いきなり言われても迷惑だって分かってます。でも、……だけど、私……」
この瞬間。大声で泣き崩れてしまうことが出来たら、どんなに楽だろう。でもそこまでするのはさすがに迷惑だし、どうにかして堪えようと思った。こんな風に取り乱して、あれこれわめき立てるだけでも十分見苦しい。未だ背中を向けたままでいるであろう先輩も、内心ではかなり呆れているはずだ。
あなたが好きです、あなたに決めたいんですって言える勇気があったなら。
ぽとぽとと足下に雫がこぼれる。水気を吸い込まないピータイルの床の上に転がる光の粒。遠く近く、幻みたいに見える。幸せすぎた日々がいきなり終わる、その現実を未だに受け入れかねている私がいた。
「未来」
そのとき。
すごく近くから声が聞こえた。何というか、……頭上から舞い降りてくる淡雪のような響き。
「もう、それ以上はいいよ。このままでは、僕の台詞が全部なくなってしまうからね」
キーを叩き続ける雨音のような音が消えている。ようやっとそのことに気づいたのとほぼ同時に、ふわっと温かいものに包み込まれた。
「……ごめん」
え、何って、自分の置かれた状況が全く分からなくて、確認したくても身体が動かなくなっていて。軽い目眩まで覚えてしまうころ、やっとかすれた声が私に届いた。
「もう、自分でも何が何だか分からなくなってしまったんだ。こんな風に悲しませるつもりはなかったのに、いつの間にか引っ込みがつかなくなってしまって……いい加減愛想を尽かされる頃だろうと諦めていた。本当に、……本当にごめん。今更、何を言っても始まらないけどね」
先輩? あの、……一体何を言ってるの?
もしかして、私は今、抱きしめられていたりする? そんなはずないのに、背中に回された腕の強さが私をそう錯覚させる。たった一瞬前まで、絶望のどん底に突き落とされる勢いだったのに、こんな展開はあり得ない。何て都合のいい妄想、とうとうおかしくなってしまったのかしら。
「未来」
あんまりの力加減に、息が止まりそう。貧弱という印象ではないにせよ、それほど力持ちには見えない先輩なのに……これが男の人ってことなのかしら。その上、甘い声で名前を囁かれたりしたら大変。意識がどこかに飛んでいってしまいそうよ。
「……」
夢なら覚めないで、そんな気持ちで額をスーツの胸元にこすりつけた。それが今、私に出来る精一杯。先輩から制されなくたって、新しい言葉は何も浮かんでこない。ただただ、ふわふわと気持ちが辺りに漂っているだけ。良くいるよね、体臭のすごいおじさんとか。混んでる電車とかで隣になったりすると「勘弁してよ」って思ったりもした。でも、先輩の香りはいつまでも包まれていたいくらい素敵なの。
「好きだよ」
今度こそ、あまりの信じがたさに現実がざーっと戻ってきた。慌てて束縛から逃れて、呆然と声のした方向を見上げる。そしたら、そこにはまっすぐ私を見下ろしているふたつの瞳。ついでに両方の手首はしっかりと握りしめられていた。
「……嘘……」
ようやく口をついて出てきた言葉がこんなひとことだったなんて、我ながら情けない。でもでも、正直なところそれ以外の感情はこれっぽちも湧いてこなかった。
「……嘘っ、嘘です! そんな……そんなことって、絶対にあるはずないですっ!」
冗談でも、もうちょっとマシなことを言って欲しいと思った。だって、ひどいよ。私が本気にしたらどうするの。舞い上がってそのあと突き落とされることを考えて欲しい。そしたら可哀想だって思うでしょう?
「どうして?」
それなのに、先輩はすぐには否定もしてくれなくて。その上、私の手首を握りしめる力がますます強くなるから大変。痛くて、怖くて、それでもって逃げられなくて。
「どうしてって……、そんなの誰が考えたってすぐ分かりますっ! わ、私なんて先輩には全然ふさわしくありませんから……っ!」
必死に首を横に振って、あらん限りの声で叫んでいた。もしもドアの外にまで響いていたらどうしようって、そのときは全然意識してなくて。ただ、先輩の言葉を全身で否定することしか思いつかなかった。
「……どうして、そんな風に思うの?」
あの、私の顔はすごくぐしゃぐしゃになっているんじゃないですか? せめて片方の腕だけでも解放して、そしたら顔をぬぐってちょっとはマシになるから。こんなことしてると、今に鼻水まで出てきちゃう。嫌だそんなの、絶対許せない。
「未来への気持ちを決めるのは、僕自身のはずだよ? 僕の気持ちは、最初から決まっていた。多分、未来がそう思うよりも早くにね。それなのに、心外だな。こんなに強く否定されるなんて」
少し身をかがめて、私の顔を覗き込む。愁いを含んだ眼差しは、アイドル歌手の引き延ばしポスターよりもセクシーだ。
「だっ、だだだだだって、……だったら……」
駄目だよ、そうやって人を丸め込もうとしたって。今までの全てを思い返せば、先輩の言葉が全然つじつま合ってないって分かるもの。私、そこまでうっかりさんじゃないよ、ホントだよ。
だいたいね。
こんな風にあっさりと世界一短い言葉でコクハク出来ちゃうんなら、どうしてもっと早く、ここまでせっぱ詰まる前に言ってくれないの? 先輩ならそれくらい、簡単にできちゃうはずでしょう?
「大切すぎて、手が出せなくなることってあるんだよ。今までそう言うこともあるって頭では分かっているつもりだったけど、実際に体験して痛感した。確かに未来に嫌われてはいないって自信はあった、でもだからといってそれ以上の感情を期待することも出来なかったんだ。あまりに注意深くなりすぎて、それがかえって自分を縛り付けることになってしまった」
腕を引かれて、なすがままに先輩の胸に倒れ込む。心臓の音がすごく早くて、こんなに大きな音を立てたら爆発しちゃうよってくらいで怖くなる。
「苦しかった、ずっと。その上、……こんなかたちで他の奴らに出し抜かれてしまって、とうとう引っ込みが付かなくなってしまったんだ。そしてやっと分かったよ、今まで僕がどれくらい未来に甘えていたかってことを。未来が僕のために尽くしてくれることを特別なものと錯覚していい気になっていたなんて、情けないよ。
日を追うごとに騒ぎはどんどん大きくなってしまうし、今更リアクションを起こしたところで、それこそ自分の将来のために未来を利用するんだと誤解されてしまうだろう。
そうしているうちに、身動きが取れなくなってしまって……気がついたら、このザマだ」
先輩の言葉が続く。こんな風に私だけのために延々と話が続くなんて、何だかすごく不思議。冷静に考えてるときじゃないのに、あまりの信じがたさにかえって別のところが気になってしまう。
「自分でも馬鹿だったと思ってる、今更許してくれなんて言えない。でも……未来をこのまま手放すのはもっと嫌なんだ。他の誰にも渡したくない、もしも僕以外の奴が未来に触れたら……そのときは我を忘れて思わず殴り殺してしまうかも知れない」
いや、いくら何でもそれはないでしょう。突っ込みたかったけど、あまりに先輩が真剣に言うからそれも出来ない。私如きのために人殺しなんて……そんなの、絶対に間違ってるから。
「選んで欲しいんだ、未来に。本当は、ずっとそう思っていた」
初めての言葉をたくさん言われて、その全てが今までの先輩のどれとも当てはまらなくて。だけど、それでも。私の一番大切な部分が、紛れもない真実を伝えたがっていた。
「そっ、その……私」
いざとなると舌がもつれてしまう。私の気持ちなんて最初から決まっていたのに、やっぱり言葉にするのは怖いよ。
「私は、……先輩じゃなくちゃ嫌です」
刹那、ほろんと新しい涙がこぼれて。その雫が頬を流れ落ちるよりも早く、先輩が私の唇を塞いだ。
「……未来……」
初めて感じる本当の先輩の熱さ。想像していたよりも柔らかくて、それからちょっと艶めかしかった。ドラマとかのキスシーンは実はとてもシンプルだったんだなって、何だか自分がすごく大人になった気分。
「ああ、未来……もう駄目だ」
やがて先輩は苦しそうに呻くと、再び私を強く抱きしめた。
「このままだと、危険だ。場所を変えてもいいかな?」