明るいざわめきが続いていく店内は、手前がテーブル席で奥が宴会用のスペースになっている。低いついたてで仕切られたテーブルにはお馴染みの顔ぶれ、皆にビールジョッキが行き渡ったところで中程の席に座っていたひとりが立ち上がった。
「では、このたびの佐藤くんの栄えある初契約を祝して―― 乾杯!」
十いくつの「乾杯」の声がそこに連なり、さらにガラスの触れ合う音がひとしきり続いていく。その間にもそこここで上がる笑い声、すべての緊張から解き放たれた時間がそこにあった。
「いやーっ、本当に良くやったな! 見直したぞ、佐藤」
「お前なら絶対に取れると信じていた。俺の見込みに間違いがなかったってことだな!」
早くもジョッキを空にして「お代わり」コールをする者もいる。皆の真ん中に座った「佐藤くん」が今日の主役。去年秋の移動でうちの部署に来てから半年、彼は今回初めて自分ひとりの力で新規開拓の取引先との契約に成功した。
「あっ、ありがとうございます! 自分っ、本当に嬉しいです……!」
ジョッキ半分のビールで顔が真っ赤になっちゃう彼は、そのシャイな外見そのままの性格。もう一歩のところで取り逃したチャンスも数知れず、そのたびに我が販売部署内のチームメイトたちはヤキモキしながら見守っていた。
あーっ、私も今夜は思い切り飲むぞー! 休日返上で企画書作りにも付き合ったし、取引先でのやりとりをひととおり予行練習するための相手も引き受けた。やっと配属されてきた可愛い後輩くんのためにと頑張ってきたんだから、いっぱい感謝されても良いと思う。
「はーい、飲み物の追加のある人、注文取るよ!」
うちの販売チームは平均年齢が極端に若い。
以前からそうだったのかどうかは知らないけど、私がここにバイトで潜り込んだ三年前には、もうこの不思議な体制が確立していた。現在販売部署は三つのチームに編成されていて、ベテランメンバーのAチームと中堅メンバーのBチーム、そして我らが若手Cチームとなってる。
どうしてこんな風になってるのか不思議だけど、これも上層部の考えなんだから仕方ないかな。うちの会社ってとにかく普通の常識じゃ考えられないことが多いみたいだし、これくらいで驚いてたら始まらない。
モノが売れなくなったと騒がれて久しい世の中にあって、その中でも特に生き残り競争の厳しい出版業界。どうやら食いつないでいけるだけも良しとしなくてはならないだろうな。
「沙彩(さあや)さん、俺は次も生中でよろしく!」
「こっち、レモンハイと生グレね」
「俺はウーロンでいいっスか?」
はいはいはい、とボールペンを取り出して、コースターの裏に素早くメモってく。今日の主役の佐藤くんを除けば、ここにいるメンバーは皆が私よりも年上。でも学生バイトから始めたから、キャリアだけはこっちの方が長かったりする。
きつめの顔立ちに顎の長さでぷっつり揃えたボブ。ほとんどナチュラルに近い色味のストレートヘアが「出来る女」っぽくて、姉御らしさをパワーアップしているかも。
「とりあえず、これでいいかな? じゃ、注文入れてくるね」
このお店、内線で店員さんを呼んでるよりも直接厨房に声を掛けた方がずっと効率いいんだよね。会社から程よく近いこともあって、みんなで飲むならココって感じに決まってる。だから、勝手は良くわかってるんだ。
「―― あ、と」
勢いよく振り向いたところで、自分の向こう側にもうひとりいたことに気づいた。
そうよそう、この人を忘れちゃ駄目じゃない。彼こそが我らがリーダー、鹿沼(かぬま)主任。寡黙で隙のない感じの人だけど、とにかく頼りになるんだ。おしゃれなスーツに包まれていても、鍛え上げられた全身が容易に想像できちゃう。さらりと落ちた前髪の下、銀縁の眼鏡で常にメンバーを鋭く見守ってくれている。
「主任、飲み物どうします?」
それにしてもどうしてこんなに端に隠れてるの、仮にも上司なんだからもっと偉そうに上席に着けばいいのに。
「焼酎、ロックで」
戻ってきたら、絶対私と席を入れ替わってもらおう。いくらこういう席があまり得意じゃないって言ったって、ひとり黄昏れてちゃ良くないよ。そう思いながら、彼の後ろを通り過ぎる。それとほぼ同時に、賑わう仲間たちの中から、元気のいい声が飛んできた。
「そうそう、鹿沼主任! 主任も佐藤に何か言ってやってくださいよ」
こういう風に話を振られても、全然動じないんだよね。彼はほとんど空になったグラスをテーブルに置くと、静かに視線を動かした。
「いい仕事をしてくれたな。今後もこの調子で頼むぞ」
ジョッキを両手で支えながらその言葉をじっくりと聞き入っていた佐藤くん、直後にすごく嬉しそうな顔になる。
「あっ、ありがとうございますっ! これもすべて、主任のお力があってのことです!」
まーっ、それは確かに当たってるかも。
そう思いつつ、私はお店の名前が入ったサンダルに足を突っ込む。途中、佐藤くんが何度も何度も暗礁に乗り上げかけて、そのたびに的確なフォローを入れてくれてたのは他でもない主任だもの。
細かいミステイクなんて数え切れないほど。一度なんて、アポの時間を間違えて、顧客を二時間も待ちぼうけさせるという大失態までやってくれた。あのときは、マジで「終わった」と思ったわよ。それでも主任が先方に取りなしてくれて、どうにか切り抜けたんだ。
「そういうこと、全部当たり前みたいにやっちゃうんだもんなあ……」
すでに起こってしまった事柄をああでもないこうでもないとほじくり返すんじゃなくて、常に「だったら、この先をどうするか」を考える。もちろん足下はしっかりと踏み固めた上で、顎を引いて視線は真っ直ぐ先に向けることをこの人から教わった。
いつも、どんなときも、後悔ばかり続けても始まらないって。そのことを自らがお手本となって示してくれている。そんな彼だから、チームのみんなも心から信頼してついていくんだ。
厨房から戻ると、主任はメンバーのひとりと難しい顔をして話していた。ああ、私よりも二年上の高橋くん。このところ、調子が上がらないってぼやいていたっけ。何度企画書を出しても突き返されて、かなり落ち込んでいた。大盛り上がりの上座の方をときどきちらっと見ては苦笑いして、さらに話を続けてる。
販売部の仕事は基本的に個人プレイ。慣れないうちは先輩が同行したり、急ぎのときにはみんなで協力して書類を仕上げたりもするけど、そう言う場合にも誰が担当者なのかははっきりさせている。人間相手だし、実力だけじゃなくて運も左右するから、難しいなあと思うことも多い。
……ま、いいか。何だか長い話になりそうだし。
ちょうど飲み物が届いたから、それを運びながら奥へと進む。それじゃ、こっちはこっちで勝手に楽しみましょ。何て言ったって、今日はお祝いの会なんだから。
◇ ◇ ◇
「じゃ、二次会はカラオケで決定! 揃ったら、移動しま〜す!」
店から出ると、そういう話にまとまっていた。そこで、すっとみんなの前を通り過ぎる主任。
「あとは、よろしくやってくれ。俺は先に帰るわ」
軽く右手を挙げて、ひとことだけ。これはいつものことだから、もうメンバーも慣れっこなんだ。
「はい、お疲れ様でした〜!」
赤い顔たちに見送られて、ベージュのコートが夜の街に消えていく。その背中をしばらく見守ってから、私も皆の方へと振り向いた。
「私もここで終わりにする、今夜はちょっと飲み過ぎちゃったみたい。みんなもほどほどにしなよ、あんまり羽目を外すと明日に差し支えるよ?」
こういうとき、紅一点って気が楽。強く引き留められることもないから、さっさと戻れるもの。
「沙彩さん、おやすみなさい〜!」
「お気をつけて!」
さっきまで薄暗い顔をしていたはずの高橋くんも、気づけば完全復活している。うんうん、気持ちの切り替えは大切だよ。また、明日から思い切り頑張ればいい。
「おやすみ〜!」
賑やかなメンバーたちに明るく手を振ると、私はきびすを返して歩き出した。
この辺は良心的な値段設定のお店が多いから、週中でも結構な賑わい。そうだよね、どうせ飲むならこんな風に美味しいお酒がいい。すっかり出来上がっているサラリーマンたちの横を通り過ぎながら彼らを温かい目で見守れるって、私もずいぶん大人になったなあ。
今夜はそれほど冷え込んでない、コートなしでも歩けるくらい。こんな風に少しずつ季節は巡っていくんだな。桜の季節だってもうすぐだ。
「遅かったな」
駅の構内に入ったところで、そう声を掛けられた。誰かに連絡でも取ってたのかな、ぱちんと携帯を閉じて。
「そんなことありません、主任の歩くのが速すぎるんです」
私がショールを巻き直すのを、彼は眼鏡の奥からじっと見ている。そういう風にされるとひどく緊張する、別に悪いことをしてるわけでもないのに、手元が震えちゃうよ。
「……行くぞ」
やがて、主任は改札の方へと歩き出す。相変わらずの大きな歩幅、もちろんあとを追う私のことなんて少しも気に掛けてくれない。
ついてくるんなら勝手にどうぞ、って感じ? 今夜はほどほどにアルコールが効いてるから、ちょっと強気にその背中を睨み付けてみる。でも、そんなこと全然気づいてくれないけどね。
そして、また二時間ほど経過。私はベッドの上で、ぼんやりとまぶたを開けた。
「そろそろ起こそうと思っていたんだぞ、急がないと終電だろ?」
その声に振り向くと、主任は毛布を腰に掛けたまま寝そべって何かの資料をめくっていた。
「あ、……はい」
―― こういうときまで仕事のことが頭を離れないんだな。
そんな私の呆れた眼差しさえも華麗にスルー。もうこっちの存在なんてどうでもいいって態度だ。ま、これもいつものこと。私はベッドに腰掛けて、床に落ちていた下着を拾った。
時間があるときはここでシャワーを借りるんだけど、今夜は無理みたい。元の通りに服を身につけたら、ささっと髪を手で撫でつける。うら若き女性にはあるまじきインスタントな支度だけど、人通りの少なくなった深夜の時間帯だし、たぶん平気。
「それじゃあ、また明日。おやすみなさい」
ドアを開けて振り向くと、主任は視線は書類に落としたまま。右手を上げるいつものポーズだけで見送ってくれた。