ある朝目覚めたら、上司である彼の部屋にいた。しかもお互い裸のまま、ベッドの上でひとつの毛布にくるまって。
それは、今を遡ること一年前。年度が切り替わる直前だったと思う。
「……えっ、ど、どうして……!」
前の晩の深酒で、思考回路が上手く働かない。だけど、必死になって頭を巡らしていたらようやく、仕事で大失敗をした私を彼が「一杯ひっかけてくか?」と誘ってくれたところまでは思い出した。だけど、……その先の記憶は全然なくて。
「―― ま、そういうことだ」
ベッドサイドに置いてあった眼鏡を掛けた主任は、うろたえまくる私のことなんて全然気に留めない感じでさっさとベッドを降りる。……あ、良かった。とりあえず下着だけは身につけてくれたんだな。ここで後ろ姿とはいえ、いきなりオールヌードを晒されたら衝撃が大きすぎる。
いや、たぶん……昨日の晩はお互いに飽きるほどその姿を見せ合ったんだと思うけど、そんなこと全然覚えていないしっ、やっぱ心の準備とかそう言うのが全然ないままでは無理。
「とりあえず、つけるものはつけてたみたいだし。……沙彩、自分で確認するか?」
とても彼の方を直視できるだけの勇気もなく視線を逸らしまくっていた私に、さらに投げかけられる衝撃のひとこと。ハッとして向き直ると、主任はゴミ箱の中を覗いている。
え……ええと。それはもしかして、……もしかしなくても、避妊具のことを言っているんでしょうか?
「いっ、いえっ! け、結構です……!」
やだーっ、無理無理っ! そんなの絶対にあり得ない! そりゃ、これが仕事だったらしつこすぎるくらいの確認作業が必要だけど、でもっ、そういうのとは違うし。見たくない! ぜーったいに見たくない……!
「そうか? じゃ、あとで文句を言うんじゃないぞ」
こんな風に会話を続けている間も、私の心臓はバクバク言い続けてる。何で? 何で、こんな展開に!?
そりゃ、鹿沼主任は社内でもアコガレの上司として常に上位ランクに名前が挙がるし、実際一緒に仕事をしていてもときめいてしまう瞬間はたくさんあった。でも、私たちはあくまでも同じ販売チームの上司と部下。過去にも何度かツーショットで飲みに行ったことはあったけど、そんな雰囲気になったこと一度もなかった。
―― だけど、とうとうこんなことになっちゃって。これから一体、どうしたらいいんだろう?
「……」
主任はいつも通りの涼しげな横顔、職場にいるときと全然変わらない。冷蔵庫を開けてミネラルウォーターを取り出すと、それを直に飲んでる。ふうん、結構ずぼらなところもあるんだな、なんて考えてたら、やがて飲みかけのそれを私の方に突き出してきた。
「これでも飲んで待ってろ、先にシャワー使ってくる」
すみませんっ、やっぱり直視出来ない。想像していたよりもずっと逞しい胸板がすぐ目の前にあるのって、すごく……すごく変な感じ。私、あの場所に触れたのかな? そうなんだよね、……ああ、本当にどうしよう。
とりあえず毛布で身体を隠して、必死に呼吸を整えていた。そんな私の頭上から聞こえてくる、神のような声。
「心配するな」
え? と、そこで私の思考がストップしたのは、その響きがあまりにもさらりとしていたからだ。
「昨晩のことは、ふたりだけの秘密にすればいい。今後の仕事のためにもそうするのが一番妥当だろう」
これで、すべてがチャラだと言わんばかりに吐き捨てると、主任はそのままバスルームへと消えた。
―― 出会い頭の接触事故。それを示談にして終了。
それきりひとこともその部分に触れようとしない主任は、無言のままそう告げているような感じだった。
昨日と同じ服のまま仕事に行くことは無理だから、一度自分のアパートまで戻って着替えをする。そうして始業ギリギリの時間に出勤すると、主任は何ごともなかったかのように普通に仕事をしてた。
そりゃ、えっちなことした翌日にすべての人間が挙動不審になるはずもない。でも……ここまで普通に過ごされちゃうと、さすがに落ち込むなあ。
少なくとも、主任の方はふたりの間にあったアレコレを覚えているわけでしょ? それなのに、平気な顔出来るってどうなの。
知らないうちにそんな風に腹を立てている自分に気づいて、次の瞬間にすごくすごく情けなくなる。
そのときまで、主任とはすでに二年も一緒に仕事をしてきていた。
書店でバイトしていた学生時代、とある作家のサイン会をやることになって、出版社側から責任者としてやってきたのが当時まだ平社員の彼。そのときの仕事ぶりが認められて「うちで働かないか」とスカウトされたのね。
あのときは本当に驚いたなー、まさかあんな風に声を掛けてもらえるとは思ってもみなかったもの。それでも出版業界には興味あったし、誘われるがままに飛び込んでいた。そして卒業と同時にめでたく正規採用、この不況下にあってすごく恵まれた身の上だったと思う。
さー、これからばんばん頑張るぞ! ……って張り切っていたところで、まさかの大失態。相手方を怒らせるだけには留まらず、今後一切の取り引きをしないと言い渡されてしまった。そんなはずじゃなかったと言ったところであとの祭り、どんなに悔やんだところで取り返しはつかない。
それなのに主任はそんな私を責めるどころか、ぐだぐだ続く愚痴に懲りることなく付き合ってくれたんだ。そういうのって、ほんのちょっとの好意がなくてもできること? ほとんど初対面の頃から「沙彩」って下の名前で呼んでくれているし、もしかして主任も私のこと……とか思っちゃ駄目なのかな。
◇ ◇ ◇
「いつまで、そんなしけた面してやがる」
その日、どうにかこうにか仕事を終えて雑居ビルを出ると、主任が待っていた。驚いて足を止めた私に、彼は面白くなさそうな表情のままで言う。
「少し考えが変わった、これからちょっと付き合え」
そのまま駅の方へとずんずん歩いて行っちゃうから、私も慌ててあとを追った。ようやく広い背中のすぐ側までたどり着くと、主任は振り向きもせずに言う。
「お前、何か勘違いしてないか?」
その言葉の意味がまったくわからないから黙ったままでいると、彼は急に足を止めた。
「昨夜は互いの同意の上でコトに及んだまでだ。お前だってかなり感じまくっていたぞ、それをまったく覚えていないって言うのがむしろ信じられないが」
こくっと息をのむ音が、背中越しに聞こえた気がした。
「正直、俺たちは身体の相性がとてもいい。だから、お前に提案がある」
そこで、やっとこちらを振り向いた主任。でも、残念ながらその顔は街灯の影になっていて表情がよく読み取れなかった。
「俺は今現在もこれからも特定の相手と付き合うつもりはない。だが男としての生理的欲求は当然ある。それを処理するために、お前が適役だと判断した」
信じられない言葉の羅列、こんなことを突然言われて「はい、そうですか」って答えられる人なんているんだろうか。
「そ、それって……い、いわゆる、セフレになれってことですか?」
ううん、他に考えようがないと思う。私の言葉を受けて、主任が口の端だけで笑った。
「そんな顔するな。もう一度試してみれば、お前の気持ちも決まるはずだ」
どうして、あのときにきちんと断ることが出来なかったのか、自分でもよくわからない。すごくショックで、どうにもならないほど打ちのめされた気分。
ずっと憧れていたのに。そりゃあ特別の相手になれるとは思っていなかった。仕事が出来て隙がなくて、すべてにおいて完璧な主任と私とじゃ、不釣り合いすぎる。だから、同じチームのメンバーとして一緒に仕事が出来るだけで十分幸せだって自分に言い聞かせてきた。
……なのに、どうして。
「よくもそんな、自信たっぷりに言えますね?」
たぶん、私の心のどこかに「試してみたい」っていう気持ちがあったんだと思う。これから何が起こるかがわかっているのに、逃げ出すこともなく主任の言葉に従ってしまう私。そんな滑稽な自分の姿をもうひとりの私が遠くからぼんやり見つめているような気がした。
「ほら、早く来い。いまさら、恥ずかしがることもないだろう」
シャワーを終えてドアを開けると、部屋の照明がギリギリまで落とされていた。挑発的な主任の言葉に、私はわざと大股に部屋を横切る。適当に身体に巻き付けたバスタオルが心許ないけど、これしか用意されてなかったんだから仕方ない。
場慣れした女のように彼の隣に腰掛けると、すぐに背中に腕を回された。
「ココから上はやめとこうな、大切な奴に取っておけ」
顎に手を添えられて上向きにされたから、一瞬「キスされるのかな」と思った。だけど、主任はまるでそんな私の心まで見透かしたように低く笑う。
「ま、せいぜい楽しもうぜ。ああいう職場じゃ、お互いストレス溜まりまくりだろうからな」
かちり、と無機質な音がして、主任の外された眼鏡がサイドテーブルに置かれた。遮るものの何もなくなった瞳はそこに映る冷たい輝きを余すことなく伝えてくる。
仰向けに押し倒されるのと同時に、首筋に痕が付くくらい強く吸い付かれた。バスタオルの前がはだけて、胸が露わになる。恥ずかしい、と思う暇もなく、彼の手がそれを鷲づかみにした。
「……あっ、あああ……っ!」
無理矢理たかめられていくような乱暴な手つきに、あっという間に溺れていった。感じてやるもんかと必死になればなるほど、そのわずかばかりの望みが切り崩されていく。
「ほら、見ろよ。もうこんなにぬるぬるにして、いやらしい奴だ。無駄な抵抗はよせ、そんなあがきが俺に通用するわけないからな」
色づいた胸のてっぺんにむしゃぶりつかれ、その一方で濡れそぼった部分に指が差し込まれる。その巧みな指先は私の内側を探りながら、ここぞという部分を的確に突いてくる。
「やっ、……やあああっ……! 駄目っ、そんな風にしないで……!」
それなりに場数もこなしていたから、どんなに追い詰められたシーンでも自分自身をコントロール出来るだろうという自負があった。でもそんなちっぽけなプライドなんて、主任の前ではまったく通用しない。
「何を言ってる、これくらいのことで音を上げているようじゃ先が思いやられるな。今夜はこっちの気が済むまで存分に楽しませてもらうからな、そのつもりでいろ」
これでもかと突き上げられる快感に幾度も自分を手放しかけ、そしてまたずるずると引き戻される。もう許してと何度も何度も訴えながら、その一方でもっと激しいものを求め続けていた。