「……あ……」
これって、かなりまずい状況だと思う。
別に「絶対に覗いては駄目」と言われてた覚えはないけど、だからといって他人の部屋を勝手に散策するなんてマナー違反もいいとこ。私だって、一応常識のある社会人のつもりだしね。
「人に断りもなく盗み見をするとは、どういうことだ?」
部屋から漏れる灯りに眼鏡のレンズが反射して、その表情がはっきりと読み取れない。でも、これって絶対に怒っているよね? そうに決まってる。
「え、ええと……その……すみませんっ!」
かなり恐ろしかったけど、やっちゃったものは仕方ない。覚悟を決めて、すぐに謝ったわよ。だってもう、言い訳のしようもない状態だしね。
「思いの外、潔い態度だな」
その言葉も、感情が入っていない不思議な響きだった。
どうしよう、かなりヤバイかな。次の言葉が見つからなくてしばらくは途方に暮れていた私。でも次の瞬間、主任の手にあるものを見つけて、今までの全てが吹き飛ぶくらいびっくりしていた。
「―― なっ、何でっ、……それを……」
夕方、退社する前に主任のデスクに置いたはずの白い封筒。どうしてそれが今ここにあるの? それって絶対に変だよっ……!
「何をそんなに驚いている。総務に用事が出来て、帰りがけに会社に寄ったんだ。そのときに部屋を確認して、これを見つけた」
えええ〜っ、嘘! ……ってことは、私の雲隠れ計画も最初から全部ばれていたってことっ!?
「……な……」
何それ、それなのにどうしてここまで知らんぷりを通せたの? いくら主任とは言っても、そんなのってあり得ない。
「一体どういうつもりだ。社内規則では退社する際にはひと月以上前に申し出て許可を取る必要がある。こんな風に勝手な行動を取られたら、直属の上司である俺までが監督責任を問われることになるんだぞ」
……あ、これってすごく怒っている。話し方こそは普通なんだけど、やっぱり言葉の陰にいちいち苛立ちが含まれているもの。
「え……ええと、だって」
今回の場合は仕方ないじゃない。規則規則って言うなら、私を勝手に巻き込んでくれた馬鹿げた企画のことも最初から教えてくれてたって良かったと思うよ? こっちは回避する方法もないままに好き勝手にいじられまくって、もうこれ以上は我慢ならなかったんだから。
「話はどんどん進んでいくし、断るすべはないし。それに、相談しようにも主任はいつも忙しそうでしたし」
ううん、これはちょっと嘘かも。
もしもやましい気持ちが全くなかったら、私はすぐにでも主任に泣き付くことが出来たと思う。だけどそうしなかったのは、その裏にある想いに気づかれたくなかったから。
「助けてください」という言葉に「さっさと私を選んでください」という本音が見えてしまったら、きっと呆れられてしまう。最初からそんな関係じゃなかっただろうとばっさり言い捨てられてしまって、それでおしまい。最初から全てが予想できた。
「とても悩んでいるようには見えなかったがな、お前は結構なりゆきを楽しんでいる様子だったぞ」
えーっ、何でそうなるのっ!? そんなはず、ないでしょう。本当に私、すごく迷惑していたんだから……!
「それにもしも本気で嫌だと思っていたんなら、さっさと相談してこい。自分からは何も行動せずに勝手に被害者ぶるのはよくないぞ」
やっぱり、主任はずるい。そんなこと私に出来るはずもないのに、もっともらしいことばかり並べ立てて。私がどんなに苦しんだか、全然わかってないんでしょう? 主任みたいに、何もかもをすっぱりと割り切れるようなドライな人間とは違うんだから。
「よっ、良くないも何もっ、私はもう決めたんです。二度と会社には戻りませんっ、あんなイベントはもうたくさんです……!」
主任は私を選んでくれない、だからあんなに冷静でいられたんだ。―― そう、今回のことは全て主任への腹いせ。私のことを何もわかってくれないその態度が許せなかった。
監督責任? いいじゃない、それで少しぐらい減給されたって。主任だったら、そのくらいすぐに取り戻せるって。
「沙彩」
それなのに。取り乱した私を前に、どこまでもいつも通りな主任。静かに名前を呼ばれる。
「何で、泣いてるんだ」
―― え、嘘。
この上なくシリアスな場面だったのに、急にいつもどおりの自分に引き戻されてしまった。頬に手を当てると、確かにその場所が濡れている。でもどうして? 自分でもわからない。
そしたら、そこに主任の指が伸びてきて私の手を絡み取る。ぎゅっと握りしめられて、……ええと何なの、この状況。
「悪いが、俺は超能力者じゃない。言いたいことがあるなら、はっきり伝えてくれ。そうしなかったら、何もわからない」
そ、そりゃそうだけど。やっぱり、どうしても言えないことっていうのがあるわけで。だからもういいじゃない、シナリオが完璧なものにならなかったのは悔しいけど仕方ないわ。
「いいです、もう離してください」
あの、私の言葉はちゃんと聞こえているはずだよね? それなのに、どうして掴まれた手がそのままなの。……この状況、かなり恥ずかしくて惨めなんですけどっ。
そしたら、主任。さらに信じられないことを言い出すし。
「恋人になら何でも話せるはずだろう? ……そうじゃないのか」
はぁっ? ……って、思わずその顔をまじまじと見つめちゃった。何それ、違うでしょっ!?
「え、ええと……その話はもう時効を迎えたと思うんですけど」
まさか「一晩だけ」っていう条件を「夜が明けるまで」と解釈されたとか? えーっ、もういいよ。あと数時間で朝じゃない。それくらい、大目に見て欲しい。
それに何よ、その「報告事項があるなら簡潔に」みたいなビジネスライクな言い方は。世の中にはね、言いたくたって言えないことがたくさんあるの。そういうことがてんこ盛りになっているから、色々と問題が起こるんじゃないの。
「時効? 俺は期限を決めた覚えはない」
そう言って一歩前に出てくるから、こっちは当然一歩後退する。だけど腕が掴まれたままだから、それ以上は離れることができなかった。
「恋人にして欲しいと言い出したのはお前の方だぞ。それとも何か? 一晩寝たら急に気が変わったと言いたいのか」
何よそれ、全然話の筋が通ってないじゃない。
「そっ、それは……」
だって初めから、永遠なんてあり得なかった。特別の関係にはなれっこないってわかってたから、覚悟を決めたんじゃない。その後のことなんて、何も考えてなかったし。
ああ、嫌だ。どうしてこんな風に面倒なことになるの。せっかく恋人同士の最高の夜を過ごしたのに、幕切れがこんなだったら最悪。何で上手くいかないんだろ、シナリオは完璧だったのに。
「また、そんな顔をする」
ぽつりと落とされた言葉。俯いて、暗くなった主任の顔がよく見えない。
「お前はいつもそうだ、俺といるときは面白くなさそうな態度ばかりを取る。あいつらと一緒のときの方がよっぽど楽しそうだったぞ。だからもう、解放してやろうと思っていたのに」
言葉どおりに、するりと腕が抜ける。でも自分のものに戻った両手で、彼が次の瞬間にしたことは。
「えっ、ちょっと! 何するんですか、止めてください……!」
そう叫んだときにはもう遅かった。
私が決死の覚悟でしたためた文書は、それを収めた封筒ごと元のかたちもわからないほどに細かく引きちぎられていた。
「お前が辞めることはない、出て行くのは俺の方だ」
指からこぼれ落ちた紙片たちをぼんやりと見つめながら、主任は信じられない話を続けていく。
「もう上には話を通してある。今回の騒動が収まったら、お前たちにも報告する予定だった」
何なの、それ。私、全然聞いてないよ。
「……ど、どうして……」
主任が私たちのチームからいなくなる? そんなこと予想できるメンバーなんてひとりもいないよ。主任がいたから、みんな今日までやって来られたんじゃない。それぞれが掴み取ってきた成功だって、元はと言えばみんな主任が蒔いてくれた種から芽吹いたものだった。
「設計事務所への転職が決まった。そこで実務経験を積んだのちに試験を受けて、将来は独立するつもりだ」 そこでようやく顔を上げた彼は、私を見つめて自嘲気味に笑う。
「そんな雲を掴むような話をする男について来いとは言えないだろう」
薄暗い部屋に佇む彼の背後から、全てを知っているかのような月明かりが音もなく差し込んでいた。