「あ、沙彩さん。シャンプー変えたでしょう?」
こっちはパソコンとにらめっこしてたんだよ。いきなり後ろからくんくんされたら、びっくりするよね? 振り向いたら、やっぱり佐藤くん。こういうこと平気でしちゃう子なんだから参るわ。
「うん、よくわかったね。何、見積書ができたの?」
三人姉弟の末っ子、上に年の離れたお姉さんがふたりもいるんだって。そう聞いてすごく納得。メンバーの中でも私が一番懐かれているのも当然のことなのかも。
「はいっ、見ていただけますか?」
よしよし、今は遠くにお嫁に行っちゃったというお姉さんズに代わって、ここでは私が優しくしてあげるわ。だけどあんまりいちゃいちゃしているとね、一部の社員からはあらぬ噂を立てられたりするんだ。世の中には暇な人もいるんだなと呆れちゃうわ。
そんなの私の方は全然気にならないけど、ハッピーな社会人生活をこれから満喫するはずの佐藤くんには申し訳ないかもね。
「……あーと、赤ペン。あれ、どこに行ったかな?」
さっきまでここにあったはずなのになあと思いつつ、机の下を探ったりして。あ、やっぱり落っこちてたか。よいしょっと拾い上げてふと見れば、視線の先にあるのは鹿沼主任のデスク。当然だけどこっちのことなんてまったく気にも留めてないみたいね、眉間に皺を寄せて誰かと電話してる。
……ヤキモチなんて、妬いてくれるはずもないか。
いまさらなことを考えて、ふっと溜息なんか吐いちゃう自分が嫌。割り切った関係だってわかっているはずなのに、やっぱりどこかで期待しているのかも。駄目だな、こんな風に考えていること主任に気づかれたら大変。
「じゃ、チェックするよ。……って、佐藤くん! 最初から違ってるじゃない。何でここに余計な数字が入っているのよ〜っ!」
我が販売部署の仕事は、外部とのやりとりが中心になる。営業職なんて言うとバリバリの企業マンって雰囲気だけど、実は地味な仕事がほとんどなのね。そのくせ先を見通す能力も必要だったりして、気が抜けない。
私にも担当区域が割り当てられているけど、その受け持っている取引先は他のメンバーよりは少なめ。そのぶん、みんなのスケジュール管理とか上がってくる伝票の取りまとめとか事務的な仕事を多く手がけてる。
「沙彩、ちょっと」
これでもかってくらい駄目出しをした見積書を佐藤くんに突き返したところで、鹿沼主任に呼ばれる。あれ、いつの間にか電話が終わってたのか。
「S書店でのイベント企画書、急いでまとめておいてくれ。午後イチで担当者に会ってくる」
そう言いながら、手にした書類をボールペンで叩く。だから何となくそこに目をやると、すごく急いで書いたみたいな文字が並んでる。
『今日、仕事上がったら家に来い』
向き直って私の意向を探ることさえしないのが、なんとも。こっちが断るなんて、絶対に考えてないんだよ。それもすごい自信だなと思う。そもそも提案をしているのに、「来る?」とか質問のかたちになっていないところがすごい。
……こんなになって、もう一年。だけどこの先も、延々と同じように続けていく気がする。
「あ、じゃあコピー行ってこないと。ちょっと総務まで出てきます」
何ごともなかったかのように話を続けることが出来る自分を、もうひとりの自分がどこからかとても冷たい眼差しで見つめていた。
販売部にあるコピー機がこの前から調子が悪い。何度も業者に連絡しているのになかなか見に来てくれないんだから困る。お陰でこっちはたびたび総務まで行って借りなくちゃならなくて、すごい面倒だ。
「それなら、ついでに下のコンビニで弁当買ってきてくれ。すぐに食い終わるのがいいな」
言い終わる前に、もう携帯のボタンを操作している。また、私の口からこぼれ落ちる小さな吐息。これを全部かき集めたら、大変なことになりそうだわ。
◇ ◇ ◇
うちの出版社が設立されたのは今から七年前。その頃はこの雑居ビルのふたつのフロアだけを借りていたみたい。それが今では二階から五階までの四フロアまでスペースを広げてる。
最近では取引先でも「ああ、そちらで出した○○先生の著書、売れ行き好調ですよ!」なんて言ってもらえたりして、ちょっと嬉しい。だいぶ知名度も上がってきたのかな、もちろん今でも「え、何それ」と言われることの方が多いけどね。
時々上層部の気まぐれで大がかりな配置転換をするんだけど、今は販売部が三階で総務部が二階。突き当たりにある鉄製のドアを開けて、階段をひとつ下りる。亀のようにのろのろ動くエレベータを待つよりもずっと効率的だ。
「あれ、ニノちゃんじゃない?」
階段を下りると再び目の前に立ちはだかったドアを体当たりで開ける。そしたら目の前に、よ〜く見知った顔が現れた。
「木暮室長、こんにちは」
私の苗字「二宮」をこんな風に略して呼ぶのはひとりだけ。チームでも鹿沼主任の影響でメンバーのすべてから「沙彩さん」と呼ばれているだけに、すごく違和感がある。
「ふふ、そんなに改まらなくたっていいんだよ。長い付き合いなんだから、もっと打ち解けてくれればいいのに」
触り心地の良さそうな上質のスーツに身を包み、あまーいマスクでにっこり微笑む。以前は販売部でぶっちぎりの成績を収めていたというこの人、今は社長のすぐ下で補佐的な仕事をしている。噂によると次の副社長候補筆頭って言うけど、本当かな?
「それよりも、うちのコピー機をそろそろどうにかしてください。本格的にヤバイ状態になっているんですけど」
三十代前半でここまでの地位に上り詰めるって、かなりのエリートだと思うんだ。だけど、私はこの人のことが苦手。だって、ひょうひょうとしているように見えて腹の内が全然わからないんだもの。
そもそも顔を合わせるたびにこんな感じで、ちゃんと仕事しているのかなととても不安になる。プライベートでは社内恋愛の末にゲットした奥様との間に年子で三人のお子さんがいると言う話だけど、もしかしてご自宅ではこの人が一番手の掛かる子供になっているんじゃないかなあ。
「おおーっ、さすがはニノちゃん。相変わらず、言いたいことをズバッと言ってくれるねえ」
こっちはいつまでも無駄話に付き合っている暇はない。そう思って振り切ろうとしたのに、まだ後ろからついてくるし。その上印刷室のドアを閉めようと思ったら、そうはさせるかと言わんばかりにささっと滑り込んできた。
「そうそう、近頃は僕も忙しくてなかなか上に回れないけど、販売の方は相変わらず? ニノちゃんは逆ハー状態でウハウハでしょう、いいよねえ若い男を周りにたくさんはべらせて」
ホント、何が言いたいんだろうな、この人。こっちはコピー機操作中で、席を外すわけにも行かないし。だから無言のままで睨み付けてやったの、でも余裕の微笑みを返されちゃった。
「もしかして、もう付き合ってる相手とかいたりする?」
なまじっか整っている顔でしょう、だから突然こんな質問をされると品定めされているような気分になって焦る。もちろん「奥様とらぶらぶ」ってことがわかっているから口説いてるんじゃないってことくらいわかるけど。
「そっ、そんな暇があるわけないでしょう!」
なに馬鹿いってんのよ、って感じよね? 本当に勘弁して欲しい。
「ふーん、そうなんだ」
これ以上、話を続けるのはさすがにヤバイと思ったのかな。木暮室長は首をすくめると、くるりと背中を向ける。
「あんなによりどりみどり選びたい放題なのに、悲しい独り身なんて残念だね。一体、ニノちゃんの王子様はどこにいるんだろうね」
そんなのこっちが聞きたいわよ、って呟きは、幸か不幸か彼の背中に届かなかったみたい。 遠ざかっていく靴音を聞きながら、私はまた小さく溜息を落としていた。
◇ ◇ ◇
室長の言うことなんて、真に受ける必要ない。恋愛してないと「残念」って、どういう感覚よ。こっちは会社のために自分のために仕事に没頭する毎日なのに、余計なこと言って混乱させないで。
「……どうした?」
膝の上に私をまたがせて下から突き上げていた彼が、ふと動きを止める。等間隔の心地よい揺らぎが消えて、そこで私もハッと我に返った。
「あ……いえ、別に」
眼鏡を外した主任の顔って、未だに落ち着かない。薄いガラス一枚のガードが取り払われた分だけ距離が縮まるはずなのに、かえって遠い人に思えてくるのはどうしてだろう。
「今夜の沙彩はずいぶん余裕だな。そろそろ本気を出せってことか?」
そんなつもりじゃないんだけど、とか言い訳するチャンスも与えてもらえない。彼は乱暴な仕草で私を膝から振り落とすと、ぐるっとうつぶせにさせた。そして腰を高く持ち上げる。
「……あっ、あああ……っ!」
硬くいきり立ったものが乱暴に埋め込まれて、私はシーツに顔を埋めたまま低くうめいた。その一撃だけで軽くのぼりつめてしまいそう。あまりの気持ちの良さに腕にうっすらと鳥肌が立った。
「ほら、へばっているんじゃないぞ。これからが本番だ、覚悟しろ」
激しすぎる行為はまるで私の中から余計なものをすべて排除しようとしているようだった。私は何度も悲鳴を上げて許しを請う、でもその願いは決して聞き届けてはもらえない。
シーツを握りしめる指先が手のひらに食い込み、その傷みだけが自分自身を引き留める唯一のものとなった。大きな手のひらが両方の胸を同時に愛撫する。いくつもの快感が一度に押し寄せ、また我を失いそうになった。
身体と身体がぶつかり合う物欲的な行為、その中に確かなものなど見つけることは出来ない。それなのに私はまだ願っている。そんな自分が愚かすぎて、口惜しくて仕方ない。嘆くことすら、いつか忘れてしまっていた。
昼間の木暮室長との会話は、じわじわと時間を掛けて私の心を浸食していた。これでいいと思い切っていたはずなのに、今だけを楽しもうという大人の関係をきちんと受け止められたと思っていたのに。ちょっとしたきっかけですべては脆く崩れ去る。結局のところ、私はどこまでも中途半端なままだ。
ふたりの心の温度差が開くごとに、気持ちまでが手の届かない場所まで遠のいてしまう。
―― いつまで、こんなことが続いていくの?
そのときの私はまだ予想もしていなかった、この不毛な関係の終焉がすぐ側まで来ていることを。