それぞれのヴィーナス◇2番目の沙彩

    
   

 月明かりが唯一の照明となった窓際。聞こえてくるのは互いの息づかいと、激しい水音。
  一番奥まで突き立てられて、次の瞬間にはぎりぎりのところまで引き抜かれる。そうしている合間にも腕を絡め、唇を重ねて舌で求め合う。もう駄目、自分の中からいろんなものが流れ出て来そう。
  体勢を大きく変えられて、仰向けになった彼の上にまたがる。その頃には、もう恥ずかしさとか躊躇いとかそんな感情はどこかに消し飛んでいて、自分でも驚くほど自由に腰が動いた。
  私の腰を支えていた彼の両手がだんだん上に伸びて、胸を下から持ち上げる。上下に激しく揺れているその部分が彼の手の中で暴れて、まるで駄々っ子のよう。
「さあ、……そろそろ仕上げと行くか」
  くるりと体勢が入れ替わり、また仰向けに戻された。動きの自由になった彼が激しく腰を使って、これでもかというくらい深い場所まで入り込んでくる。がっちりと押さえ込まれた太股、私は枕の下に腕を差し込んで身体を安定させた。
「……んあっ、ああんっ、ああああっ……!」
  駄目、壊れちゃう。私を取り巻いているこの世界全てが、がらがらと崩れてきそう。だけどいい、このまま突き進んで。
「沙彩っ、……まだだ、ほらもっと感じろ……っ!」
  とっくに限界値を超えているのに、まだ欲しいと思ってしまう私。全身が汗だくになって、顔なんて涙でぼろぼろになって、本当に情けない姿になっていると思う。そんな私を変わらず冷静な瞳で見下ろす月明かり。
  ―― いいよね、少なくともあなたは満たされているもの。
  私の心はいつも下弦の月。
  昇ってくるそのときには夢や希望をたくさんその細い腕に抱えているのに、天に上がったそのあとは何もかもを失ってしまう。そして最後、沈みきる頃には手の中に何も残らない。
  細い細い月、夢を見ることすら許されない存在。やがて消えゆく自分を憂いながら、それでもまだ希望を捨てることが出来ない。
  愛しているのに、本当に大好きだったのに。
  私の気持ちは、永遠に主任には届かない。こうして誰にも知られないままにひとりで去っていくことを決めても、本当の気持ちをさらけ出して素直になることなんて無理。
  今夜呼び鈴を押してしまったのは最大限の強がり、迷惑な女として主任の記憶の片隅に残ればそれでいい。
「……ああっ、私っ、私、もうっ……!」
  刹那、ふたりの身体が大きく跳ね上がる。強い波が身体を駆け抜けて、しばらくはその余韻に指先を動かすことすら出来なかった。
「……どうした」
  さすがに主任の呼吸も上がっている。私は溢れてくるものを必死で押しとどめながら、震える唇で言葉を紡ぎ出そうとした。でも、なかなかそれが上手くいかない。
「―― え?」
  しばらくはぼんやりとしていた私だったが、やがて繋がったままの部分が変化したことに気づいてハッとする。
「何だ、恋人同士なのに一度きりで終わるはずはないだろう。気の済むまで求め合うのが当然だ」
  私の声にならない悲鳴など、全く聞き入れられることはなかった。再び波間に引き寄せられ、快楽に呑み込まれていく。彼の指先が背中を辿り、私をきつく抱き寄せる。首筋に胸元に無数に落ちていく唇、私も負けじと彼の肌にすがりつく。どうにかして振り切られないようにと必死に。
「ふっ、ふあっ……、あああっ……!」
  あっという間にたかみに押しやられたが、それくらいで解放されるはずもない。一呼吸ののちにはまた彼の動きが再会し、私はまた引きずり込まれる。そんな時間が限りなく続き、最後の方は自分がどんな風にして彼を受け入れていたのかほとんど覚えていない。

「……沙彩?」
  気がつくと、静寂が戻っていた。主任の腕がしっかりと背中に回り、きつく抱き寄せられている。額に落ちる唇。
「……あ……」
  終わったんだ、とそのときはっきりと実感した。すぐ目の前にある胸板に頬を寄せることすら、今の私には絶対に許されないことのような気がする。
「私……戻らないと」
  自分の身体がすぐに動ける状態ではないことはわかっていた。でも、この部屋で朝を迎えたのは最初の夜だけ。あとは有無を言わせず、突き放されている。うっかり寝入ってしまって夜半に目覚めても、それは例外ではなかった。
  だけど、腕の中でもぞもぞともがいた私を、主任は解放してくれない。それどころか、もっともっと強く抱きしめられてしまう。
「何を言うんだ、恋人同士はこんな風に抱き合ったままで眠るんだ。そういう風に決まっている」
  そのまま目を閉じてしまった彼に、異を唱える機会は二度と訪れなかった。
  すぐに近くで聞こえてくる寝息。柔らかな音色に導かれるように、私もずるずると眠りの中に堕ちていった。

◇ ◇ ◇

 次に目が覚めたとき、月はだいぶ傾いていた。
  さすがに腕は緩んでいたけど、腕枕はそのまま。もう一方の腕も私の上に回っていた。
  そっと見上げる、主任の顔。男の人なのに長いまつげ、しかもくるんと巻いているのが羨ましすぎる。綺麗に整った顔だから、もしも女性だったらかなりの美人だっただろうな。そんな風に何度も思ったっけ。
  静かに手を添えて、上になった腕を脇に下ろす。主任はかなり深く寝入っているらしく、そうしても身じろぎすらしなかった。
  ―― このまま、消えてしまおう。
  朝の光と共にその存在を隠してしまう月のように、私も主任の前から永遠と姿を消してしまうんだ。引っ越しの手続きも全て終わっていて、荷物は全て運び出してトランクルームに入ってる。今回の行動は、ちゃんと全てが計算されたものだったんだよ。
  そうやって気づいたら、ちょっとは見直してくれるかな。沙彩もなかなかやるな、とか言って。
  ―― とにかく、シャワーだけは借りなくちゃ。このままで帰るのは絶対に無理。
  身体を起こす前に、伸び上がってもう一度だけキスをする。まだ、恋人が残っていてもいいよね。これで本当におしまいだから。
  そんな風に自分に言い聞かせながらベッドを下りたものの、さすがに裸のままじゃ歩けない。床を見渡すとずり落ちたタオルケットが目に入ってホッとする。それを身体に巻き付けて、私はそっと歩き出した。
  本当はすぐにバスルームに向かうつもりだったんだ。でも、暗がりの中に一筋の光の帯を見つけて、思わずその場所へと吸い寄せられてしまう。
  ドアは完全に閉じられていなかった。水回りの奥、もうひとつの部屋があることを私はずっと前から知っている。主任が何度かそこから出てきた姿も見ていたし、ただのストックルームとかじゃないことは何となく見当が付いていた。でも、あえて訊ねようとはしなかったけど。
  最後まで、主任の心の中は全くわからないままだった。私のことを本気に思っていなかったことだけは確か。何しろ、社内イベントにかこつけて関係を清算してしまおうと思っていたんだ。そこまであからさまにされて気づかない方がおかしい。
  ―― でも。
  どんなに冷たくされても、情けもなく突き放されても、主任に対する気持ちは決して覚めることはなかった。それくらい彼は魅力的で、完璧な存在だったんだと思う。
  仕事は完璧、取引先への配慮も申し分なく、後輩指導にも余念はない。非の打ち所がないという言葉はまさに主任のためにあるのだと思う。
  一体、あのドアの向こうに何があるの? 私には教えてもらえなかった主任の秘密、ちょっとだけ覗いてもいいよね。ああ、でもどうしよう。もしもアイドルのポスターとかたくさん貼ってあったら。そのときは、ちょっとイメージが変わるかも知れないなあ……。
  ゆったりとしているとはいっても、そこは単身者用に設計されたマンションの一室。ほんの数歩でその場所までたどり着いてしまう。でも私にとって、それは永遠の距離にも思われた。
  ドアに手を添えて、それでもまだすぐには開くことが出来ない。
「……」
  白い蛍光灯の光。眩しすぎて、一瞬何も見えなくなる。そしてしばらくして目が明るさに慣れてきたとき、私はアイドルのポスターやフィギュア人形よりももっともっと不思議なものをその場所に見つけてしまった。
  一番先に目に入ったのは、製図用と思われる大きなデスク。自由に傾きを変えられるようになっていて、今も少し斜めになっていた。その上に家の見取り図のようなものが書かれた大きな用紙がある。傍らには鉛筆やペン、消しゴムに長い定規。
  そしてまた別の机にはデスクトップのパソコンが置かれていた。リビングにもノートのパソコンがあったけど、もう一台違うのを所有していたんだ。今は待機電源になっていて、画面は真っ暗になっている。
  さらに真ん中の小さなテーブルには、ショールームとかで見かけるような一軒家の模型が置かれていた。屋根を取り外して中身が見えるようになってる。
  奥には色々な本が詰まった本棚がいくつか。
「……何、これ……」
  主任って、まさか副業を持っていたの? まさか、そんなことって信じられない。ウチの職場だって、かなり忙しいと思うのに、どうして別のことまで手が回るの。だいたい兼業なんて許可されてたっけ。
  もしかして、この頃急に付き合いが悪くなったのは急ぎの仕事とか抱えたから? でも、それってちょっと無責任すぎないかな。主任にとっては販売部での仕事なんてそんなに難しくないのかも知れないけど、だからって、畑違いのことに時間を割かなくたって――
「―― おい」
  そっと後ずさりをしてドアを閉めようと思ったんだけど、その前に背中が何かにぶつかった。何もないはずの場所にいきなり現れた「壁」―― 振り向くとそこにはシャツと下着を身につけて元の通りに眼鏡を掛けた主任が立っていた。

 

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2010年6月30日更新