ふと見上げた空には丸い月が浮かんでいる。さらさらと涼しい風が、辺りをすり抜けていった。
私ひとりの足音だけが高く響く住宅街。もう目をつむっても歩けるくらい、慣れっこになった道のり。飲み会の席ではほとんどウーロン茶だったから、ヒールの足取りもしっかりしてる。
―― やっぱり、いつもと同じ。今夜だって収穫はゼロだったじゃないの。
そんなこと、最初からわかっていた。主役である私が全然乗り気じゃないのだもの場が盛り上がるはずなんてないし、それでもどうにか楽しく過ごそうとする参加者の皆さんの気迫がカラカラ空回りしてさらに虚しい。適当なところで強引にお開きにしちゃったけど、あれってかなり失礼な態度だったかも知れないな。
彼等は何も悪くない、間違ってるのはこっちの方だ。会社を挙げてのお膳立てをここまで邪険にし続けて、今に罰が当たっても仕方ないと思う。
「……だからといって、こんな態度に出るのもどうかと思うけど」
他に誰もいないから、月に向かって話しかけてみたりする。ちょっと困ったように傾いて見えたのはきっと気のせいだよね。だけどその歪んだ輝きが、胸にしん、と落ちてきた。
本当に特定の女性が現れたのかな。そんな素振り今まで全然見せなかったけど、そうやって考えると全てのつじつまが合う気がする。そうかあ、そういうことだって大いにあり得るんだ。
ずるいよね、あんな風にさっさとひとりで戦力外になっちゃって。本人にしては「渡りに船」だったのかも知れないよ? だけど、ここまで突き放すなんてひどすぎる。
「けど……そんな最低な男のことをどうにも切り捨てられないんだからな」
そりゃ、私だっていっぱしの社会人。四六時中彼のことばっかりを考えているわけでもない。次から次から飛び込んでくる雑多な仕事を的確に処理していきながら、時折ふっとした瞬間にその姿を眺めていた。
最初はね、もしかしたら拗ねているのかなとか、内心面白くないとむかついているに違いないとか……自分に都合のいい解釈をしたりもした。だけど、そうじゃないんだよね。主任はいつもと全然変わってない。それどころか私とのことなんて最初からなかったみたいに振る舞ってる。
―― オタガイニタノシンダンダカラ、コノヘンデオシマイニシヨウ。
眼鏡のフレームがきらっと一瞬光るたびに、そう告げられている気がしてきた。そう、こだわり続けているのは私だけ。最初から割り切って始まった関係に、彼はもう何の未練も残ってないんだ。
じゃあ、私も。そろそろ全てをすっきりさせなくちゃ。
それがお互いのためとは知りながら、さりげなくフェードアウトするのはどうしても無理だった。そうするには、私の中にある主任の存在が重すぎる。他の誰かを好きになりたくたって、このままじゃ上手くいくはずもないでしょう。
今回だけじゃない、このさきもずっとずっと私は主任のことを引きずって生きて行かなくちゃならないの? そんなの、絶対に許せない。
最寄りの駅から歩いて十分と少し。住宅街を抜けた高台にある見晴らしのいいマンション。その五階、左から二番目が主任の部屋だ。
建物が段々間近に近づいてきて、それまで意識して逸らしていた視線をようやく上に向けた。部屋の灯りは点いてる、とりあえず在宅ではあるみたい。
―― もしかして、彼女が訪ねてきてたりして。
明日は土曜日、仕事は休み。のんびり出来るんだから、そういうのもアリかと思う。だったら、かなりヤバイよな。いきなり修羅場になっちゃったりして、アポも取らずに訪問した私は今度こそ主任に愛想を尽かされちゃうんだ。まあ……それもいいかな。これきり、二度と会うこともないと思うし。
帰りがけ、伝言のメモを主任のデスクに置く振りをして、その下にもうひとつ白い封筒を忍ばせてきた。中に入っているのは、退職届。週明けに出勤した主任はすぐに気づいてくれると思う。
だからもう、今の私には怖いものなんて何もないんだ。自分で考えたとおりのシナリオで突き進めばいい。
とは言っても、エレベータに乗る勇気がなくて外階段を使う。自分の足下が段々地上から遠ざかっていくのが、すごく心許なかった。それとは引き替えに、空が近くなる。丸い月がほんの少しだけ、明るさを増した気がした。
月は見てる。
いつも、どんなときも。私の足下を照らしながら、期待したり落ち込んだり思い上がったりする姿を高い場所から偉そうに眺めていた。
―― 何さ、知ったかぶりした顔しちゃって。
そんな風にうそぶいたところで、どうなるわけでもないけど。高揚しかけた気持ちは、次の瞬間には跡形もなくしぼんでしまった。
たどり着いた、ドアの前。震える指で、インターフォンのボタンを押す。
『……はい?』
くぐもった声は確かに彼のもの。私は大きく深呼吸してから、口を開く。
「沙彩です」
分厚いドアの向こう、全ての物音が一瞬止んだ気がした。それから、何かを外す音がしてドアが開く。
「どう……して」
大きく開かれたドアから姿を見せたその人は、部屋着のスウェット姿。ラフな着こなしなのに結構格好いいんだ、ふたりで過ごす夜、さりげなく眺めながらいつもそう思っていた。
「こんばんは」
私はずるい、その瞬間にちゃんと玄関先を確認している。そこにあったのは主任の通勤用の靴だけ、少なくとも今夜は他に誰もいないみたい。
「急に押しかけちゃってすみません。今夜は、主任にお願いがあって来ました」
洗いっぱなしの髪があちこち向いていて、いつもよりも少し幼く見える気がした。だから、こちらも普段より強気になってしまう。
「そう? でも、こっちもいろいろ忙しいんだけど……それって、時間掛かるのか?」
こんな風に突き放されるのは想定内、でもやっぱりちょっと辛いな。
片手はドア枠を押さえて、もうひとつの手でドアレバーを持っている。両手がふさがったままの彼の首に私は素早く腕を回した。
「えっ、……沙彩っ……!?」
瞳を閉じて、一瞬だけその場所に触れる。柔らかくて、想像していたよりもちょっと冷たくて。初めての感覚に心が震えた。
「今夜だけ……私の恋人になってくださいませんか?」
そっと、身を剥がしたあと。真っ直ぐに彼の目を見てそう言えた。実のところ、膝がガクガクして立っているのもやっとだったけど、今日はロングのスカートだから上手く隠せてると思う。
「……」
主任はしばらくの間、黙ったまま私を見ていた。すぐには言葉が浮かんでこないのか、さもなくば様々な思考が頭の中をぐるぐる回ってなかなかひとつの結論に達しないのか、そのどちらなのかはわからなかったけど。
「お前、自分が何を言っているのか、わかっているか?」
ようやく投げかけられた言葉は、思いの外冷静なものだった。私は黙ったままで頷く。そしてまた主任をじっと見つめた。
迷惑なのは百も承知、何馬鹿なことを言っているんだと突き放されても仕方ない。だけど自分から折れることだけは絶対にしないと覚悟を決めてきた。
―― 私はこの人が好きだ。ただの片思いでしかないと言うことはわかっていたけど、ずっとずっと憧れ続けていた。だからこそ、誰がどう考えたって理不尽な関係を甘んじて受け入れてていたんじゃないか。
それは一体いつから? そう、たぶん、初めて出会ったその日から、私はこの人に惹かれていたんだと思う。ラッキーなことにそれからも一緒に仕事が出来ることになってすごい運命を感じて、だけど……そんなのこっちの一方的な想いでしかないことも承知してた。
「じゃあ、今のが『恋人』の挨拶か」
口は一文字に結んだまま、もう一度頷く。そんな私を、主任は先ほどまで足下を照らしていた月と同じ色の瞳で見守っていた。
見つめ合ったまま、どれくらいの時間が流れたのだろう。ふわりふわりと頬をくすぐる夜風が、私をかろうじて現実に引き留めている。もしもその感覚を捉えることが出来なかったら、そのまま夢の世界へと堕ちてしまったかも知れない。
「……そうか」
かすれた声が耳に届いたのと、主任の指が私の頬に触れたのがほぼ同時。ドアを肩肘で押さえたままで前屈みになった彼が、熱い吐息で私の口を塞いだ。
「……っ……!」
まるで身体の中身を全て吸い取られてしまいそう。激しく貪られて、舌の動く音が内側から耳へ届いてくる。頬に眼鏡のフレームが当たって痛い、だけどそんなこと主任は全くお構いなしだ。荒い息づかいが重なり合った唇の隙間から漏れて、私たちの周りに漂っている。
「それなら、これくらいはやってもらわないと困るな」
ようやく解放されたあと、ふたりの唇の間に透明な糸が引いているのを発見してものすごく恥ずかしくなる。でも、そんなときでも、主任はまるで提出書類のちょっとしたミスを咎めるように、冷静な口調だった。
対する私の方は、動悸の激しさに気が遠くなりそう。心臓から送り出される血液が一気に何倍にもなったような気がする。こうしている間も、内側からどくどくと打ち付けてくる音に呑み込まれそうになっている。
―― これって、一体どういうこと?
軽いパニック状態に陥っているうちに手首を掴まれ、そのまま部屋の中へと引き込まれた。
「お前は何もわかってない」
ほつりと落とされた言葉、そして再び唇が塞がれていた。