―― この異様な状況を何と説明したらいいものだろう。
すれ違う誰からも好奇の目で見られ、隙あらば声を掛けられる。正直、ここまで注目されたことは今までの人生において一度もなかったし、またそのような立場になったところで「嬉しい」とは全く思えなかった。
はっきり言って、これは明らかな人選ミスだと思う。でも、いくらそのことを訴えたいと思っても、企画主催者と接触する機会が全く無いのだから仕方ない。普段はこちらが辟易するくらい神出鬼没に「ニノちゃ〜ん♪」なんて現れる室長なのに、まるで地球の裏側にでも雲隠れでもしてしまったかのようだ。
しかも聞いた話によれば、この企画が前回開催された際にヴィーナスを射止めたその張本人が木暮室長ってどういうこと!? 前年入社してきたばかりの自分の直属の部下をモノにしたって、どう考えても逆らえない立場の人間を丸め込んだとしか思えない。
あ〜、こんなことになるなら、事前にもうちょっとリサーチしておけば良かった。そうすれば、逃れるすべもあったかも知れないのに……!
そう思いつつ、私が睨み付けているのは湯沸かしポットのオレンジ色のランプ。何だか今日はお湯の沸くのものろくない? 何で、どいつもこいつも人のことを馬鹿にするのかなあ……!?
「沙彩さ〜ん、そろそろ時間ですよ!」
急に呼びかけられてハッと振り向くと、そこにはすっかり出掛ける準備を終えた佐藤くんが立っていた。
「……あ、ごめんっ! 私もすぐに出られるから」
そうだ、今日はこれからお得意様回り。別に急ぎの用事があるわけではないのだけど、定期的に顔を出して印象づけておくことも私たち販売部署の人間にとっては大切な仕事のひとつになる。
企画の目玉として祭り上げられてしまってからは、社内外問わずどこへ行くにも「お供」がついてくるんだ。今までは単独行動が普通だったから、半月経った今も全然慣れない。正直煩わしいし止めて欲しいと言いたいとこだけど、彼等としても善意で行動してくれているんだからあまり邪険にするのもどうかなと思っちゃって。
「さ、行こうか」
出入り口の横にあるスケジュール表の名前を移動したあと、私の方が先導するかたちで歩き出す。メンバーによってはそれを良しとはせずに強引に前に出る人もいるけど、佐藤くんはその点控えめだから助かる。だけど、彼だっていっぱしに「企画参加者」のつもりでいるんだよね。
「俺、本当は装丁の仕事がやりたかったんです」
いきなりそんな話を切り出されたときは、自分の耳を疑ったわ。
本のデザインを考えるのは「製作部」の担当なんだけど、そう言う部署に配属されるのは美大とかデザイン関係の専門学校とかそう言うところで一通りの勉強をしてきた人が多いんだよね。まあ、ウチみたいなちょっと変わった会社の場合は絶対にそうとは言えないけど。
「いつだったか、そういうのを専門に手がけている人のことを特集しているTV番組を観て、それからずっと憧れていたんです」
一番あとからチーム入りした佐藤くんでさえ、すでに丸一年の付き合いになる。だけど、今まで一度もそんな話題になったことなかったし、きっとこれからもあり得なかっただろう。
―― なんか私、いつの間にかカウンセラーか何かになってしまったみたい。
「ヴィーナス」の企画が始まってから、とにかくこの手の話をされる機会が増えた。言葉は悪いけど、私の元に「言い寄ってくる」のは、今の自分に満足していない人たち。本当はもっと別の部署に移りたかったり、今までにない新しい提案をしたかったり。そういう夢や希望をどんどんぶつけられると、それだけで暑気あたりしてしまったような気分になる。
正直、私にはそこまでの野心はなかったし、いわゆる「郷に入れば郷に従え」タイプ。与えられた仕事の中にやり甲斐を見つけて、その中で精一杯頑張ればいいやと思っていた。自分自身がそうだから回りも似たり寄ったりかと思ってたんだけど……どうも違ったみたい。
「でも、だからといって何もこんな企画に便乗しなくたって。今の自分の仕事をしっかりこなして上層部に印象づけられれば、道は拓けていくんじゃないかしら?」
相手が佐藤くんだから、私も話がしやすい。企画に参加している人たち全てに抱いている疑問を、素直に投げかけていた。
「え……だって、それは……」
そしたら、佐藤くんは急に真っ赤になっちゃって。この子はどちらかというと色白なタイプだから、耳の先まで綺麗なピンク色に染まっちゃうの。
「さ、沙彩さんみたいな素敵な人が僕の相手になってくれるんだったら、希望通りの仕事に就けるよりもむしろそっちの方が嬉しいと思います……」
さすがに最後の方は恥ずかしすぎるのか、ごにょごにょ、というしゃべり方になってしまってた。でもすぐに思い直したみたいに、ハッと顔を上げる。
「……あっ、その! ですから、今回は沙彩さんがお相手だったから参加しようと思ったんです!」
何かさ、そんな風に真正面から言われちゃうと、こっちが恥ずかしくなっちゃう。一応何か答えなくちゃと思って、小さな声で「ありがとう」って言ったけど、……何かな、やっぱりこんなのっておかしいと思っちゃう。
ウチの会社って、昨年に創設五年のイベントを終えたばかり。新しい世の中のニーズに見合った書籍を提供したいと集まった脱サラメンバーが社長以下、今の上層部。とにかく普通とは変わったことが大好きで、社員採用に当たっても「何それ」って首を傾げてしまうような逸話がたくさんある。
個性的な人間ばかりが集まっているし、よくもまあひとつの会社として空中分解することなく成り立っているよなと感心してしまうわ。
この的外れな企画に参加資格があるのはいわゆる「平社員」と呼ばれる肩書きのない人たち。でも彼等のほとんどは転職組で、それなりのキャリアを積んでさらにスキルアップしたいと乗り込んできた血気盛んな面々だ。
まあ、ようするに。考えようによっては、これはそれほど破壊的な条件ではないわけね。
将来有望な若手社員たちが束になって求愛してくる―― こういうシチュエーションを夢見ている乙女な方々だって、少なからず存在すると思う。
そう、残念ながら私がそういうタイプとしてカテゴライズされなかった、というだけで。
佐藤くんも高橋くんも、そして他のチームメンバーたちも、一緒に仕事をしていく仲間としては最高の人たちだと思う。ただ、そこに「恋愛」が加わると話は一気にややこしくなる。イロコイって常識じゃ片付けられない複雑な要因が絡み合ってるし、強引に結びつけようとするのは何か違うと思うんだ。
この企画の恐ろしいのは、私が「ただひとり」を選ぶまでは延々と続いていくところだ。途中リタイヤも許されないって、どんだけよ? 四年間かかってもいいからひとりに決めろって言われてもな、無理なものは無理なんだよ。
◇ ◇ ◇
「―― え、主任は今日も直帰?」
二時間ほど出歩いて部署に戻ると、そこは閑散としていた。
私は今夜、販売部署の他のチームの人たちと食事に行くことになっている。それほど親しくない相手と一対一だと疲れそうだったから、五人一緒にしてもらった。こうやって見渡してみると肩書きなしの社員さんって結構多いのね。そんなこと今まで意識したこともなかったから、ちょっとびっくり。
「ええ、Bブックスの営業の方との打ち合わせが終わったら、そのままご自宅に戻るそうです」
パソコンに向かっていた林くんが一度手を止めて答える。
「この頃、主任はそういう感じが多いっスよね? もともと、そんなに付き合いがいい方じゃなかったけど……」
「この前の打ち上げにも不参加でしたしね」
それに答えるように佐藤くんも続ける。そうか、主任の行動が気になっていたのは私だけじゃなかったんだ。
もちろん、仕事上での手抜きとかは全くない。主任がやることはいつでも完璧すぎるぐらいだし、途中で誰かにそれが引き継がれることになっても全然困らないように配慮がされている。
でも……何て言うのかな。今回のはた迷惑なイベントが始まったのとほぼ同時に、彼は見えない一線を私を含めた他のメンバーとの間に引いてしまった気がするのだ。
しかもそれは間違っても「馬鹿げた企画が面白くない」という否定的な態度には思えない。楽しみたいなら勝手にどうぞ、と突き放されたような、そんな気持ちになってくる。
「そういえば主任、この頃何か質問しても上の空のことが多いし。それに今まで自分でやっていた大口の仕事を俺たちに回してくるんですよね? それはそれで頼りにされてるみたいで嬉しいけど、このままだと主任の仕事がなくなってしまうと思うんですけど……」
そんなの俺の思い過ごしに決まってますけどね、と林くんは続ける。私も自分の考えがまとまらないまま、何となく頷いていた。
「きっとまた、私たちがびっくりするような大口の取引を持ってくるんじゃないのかな? そのときになって慌てないように、今の仕事をどんどん片付けないとね」
いつも通りに先輩風を吹かせて明るく言っては見るものの、私自身も何となくチームから疎外されていくような寂しさを覚えていた。
この職場で、あとどれくらいやっていけるんだろう。今の仕事は楽しいし、できることならずっと続けていたいと願っていた。でもやっぱり辛すぎて、そろそろ限界が来そう。
こんな風に、ある日を境に全てがなくなってしまうなんて思ってもみなかった。だけどこれが現実、私に突きつけられた今。
「……もしかして、彼女でもできたのかな」
それはきっと、何気なく思いつきで落とされたひとこと。佐藤くんの言葉に、林くんも頷いてみせる。
「そう言うのもアリかも知れないなあ。あの仕事人間にもとうとう春が来たってこと?」
私もすぐに反応しなくちゃ、そう思うのに頭が全く動かない。
そう言えばあの夜以来、一度も「誘い」が来なくなった。企画が始まったことで遠慮されているのかと思ってたけど、それ以外の理由だって大いにあり得るんだ。
「えーっ、だとしたらどんな人かなあ。是非、見てみたいんだけど……沙彩さんも興味ありますよね?」
さらに楽しそうに続ける林くんに、私はただ曖昧な笑みを返した。
もともと主任の気まぐれで始まった関係だったから、いつ途切れても不思議はなかったと思う。私だってそれなりの覚悟はしていた。でも……こんなに呆気なく終わるなんて。
あれからずっと、主任には距離を置かれている。仕事の話をするのにも、わざわざ間に人を入れられたりして。以前のように「沙彩」と気軽に呼んでくれることもなくなった。今日も一日、ひとことも言葉を交わしていない。そんなことも当たり前になっていて、周囲の誰も不思議に思わなくなってる。
―― もうこの場所に、私の存在は不要だってこと?
私はどんなに頑張っても、この企画に乗り切れない。そしてその理由がどこにあるのかも、はっきりわかっていた。