それぞれのヴィーナス◇2番目の沙彩

    
   

 残念ながら。
  私は鬼気迫った高橋くんの叫びを聞いても、一体何がどうなっているんだかさっぱりわからないままだった。
「……ヴィーナスって……何なの、それ?」
  だって、全くの初耳だもの。そりゃ、その単語が「女神」を示す言葉だと言うことは知っている。だけど、さっきの言葉をそのまま受けたら、私が女神ってことになっちゃうよ?
「何とぼけているんですかっ、それくらいのこと沙彩さんだってわかっているはずでしょうっ……!」
  すっごい苛立っている様子なのはわかるんだけど、こっちとしても対処のしようがない。
  だいたい「ヴィーナス」って、何よっ。しかも「今回の」という言葉までがくっついていて訳がわからない。
「ほらっ、これ。一階ホールの掲示板に張り出されてました! こんな大々的に発表されちゃって、どうするんです。水臭いですよ、沙彩さんっ。こういうことは、まず身内である僕たちにこっそりと教えてくれるのが筋と言うものでしょう……!」
  こ、怖いんですけどっ、高橋くん。まあ、もともとこの人は転職組で私より学年がふたつも上なんだよな。今までの低姿勢がむしろ不思議なくらいなの。
「え、掲示物を勝手にはがして来ちゃったの!?」
  かなり強引に引きちぎってきた感じで、画鋲でとめられていたであろう部分が無惨に破けてる。しかも全体がくしゃくしゃで、元の姿を全く留めてないし。
「いっ、いいから! 良く読んでくださいって……!」
  騒ぎを聞きつけて、すぐ側の席にいた佐藤くんや別チームの在室者まで集まってくる。
「四年に一度開催☆当社の大人気企画……っ?」
  ―― 何なの、これ。どういう四月馬鹿ですかっ!?
  それが、書かれていた文章を読んだ最初の感想だった。だいたい、まだ「第二回」なのに「大人気企画」と銘打つのが意味不明。しかも企画の責任者が、あの木暮室長ってどういうことよっ!? それだけで、滅茶苦茶に胡散臭いんですけどっ……!
「ほらっ、見てくださいよ、ここ!」
  そう言って高橋くんが指し示した箇所には「今回のヴィーナスのヒント」が箇条書きで並んでいる。
「学生バイトから正社員になった」 「姉御肌のしっかり者、そう簡単には落ちないタイプ」「案外情に脆い一面も」「ボブカットのつり目美人」……何なのっ、これ。
「どー見ても、これは沙彩さんのことでしょうっ! それくらいのこと、誰が考えたってすぐにわかりますよ。俺が通ったときには掲示板前は黒山の人だかりになってたし、もう社内全体に情報が広まっていると思って間違いないです……!」
  ―― こっ、木暮め〜っ! アイツ、一体何を考えているのよっ。
「ちょっと、室長はどこっ!? こんなのって、あり得ない。私、直接掛け合ってくるから……!」
  だいたいさ、ヴィーナスのハートを掴んで思い通りの出世を果たすなんて人権無視もいいところ。絶対に許せないからっ、もしも自分のことじゃなかったとしても本気で応戦してやると思う。
「あっ、駄目! 駄目ですってば……!」
  だけど。
  勢い込んで飛び出そうとした私の前に立ちはだかるのは高橋くん、そして後ろから腕を引っ張るのは……佐藤くん!?
「沙彩さんを他の奴らに渡すわけにはいきません! 俺たち、今までずっと仲良くやってきた仲間じゃないですか。だったらいいでしょう、沙彩さんにはこのチームの中から相手を決めてもらいます! そうするのが一番いいんです……!」
  何? 一体、どこがどうなっているの!? 私がチームの誰かと……なんて、どうしてそんな寝ぼけたことが言えるのよ。そんなこと、過去に一度も考えたことなかった。そりゃ、みんな気のいい仲間だとは思うよ? でもそれとこれとは話が別でしょう……!?
「ここの注意書きを見てください! この企画は肩書きのない社員全員に参加資格があるんです。と言うことはウチのチームメンバーだって、主任を除いたすべてに権利があるってことでしょう!」
  だから〜、どうして一気にそこまで話が進むかな? ……って、主任には参加資格がないの?
「まあ、鹿沼主任は自力でいくらでも出世できそうですからね。その点は心配ないし……そもそも、そんな柄でもないでしょう。でも、俺たちは違います。そりゃ、いきなりだから沙彩さんが戸惑うのは仕方ないです。だからまずは他の部署の奴らよりも先にチャンスをください……!」
「そっ、そうですよ、沙彩さん! オレもそれがいいと思います……!」
  どう考えても、まともじゃない主義主張が延々と続いていく。それなのに、高橋くんや途中から加勢してきた佐藤くんの顔はどこまでも本気。
「……わ、わかった。とにかく今日一日、大人しくしていればいいんだね? 部屋からも極力出ないように心がけるから、とにかく仕事を始めて」
  くらくらと目眩がする。このまま立っているのは無理、とにかく自分の席に戻ろう。それで、やりかけの仕事を片っ端からやっていけばいいんだわ。
  ―― そうは思いつつも。
  混乱した頭の中に鮮やかに浮かんでくるのは、勝ち誇った木暮室長の顔。あの人、昨日の時点で全部わかっていたんだよね? それなのに、素知らぬふりで人のことをおちょくったりして……本当に最悪な性格だ。 もちろん、そのあともいつになく来客の多かった販売部署。
  でもそこは勇敢な騎士たちが立ち向かってくれたから、とりあえず平穏なままで一日の仕事を終えることが出来た。

◇ ◇ ◇

 その人がドアを開けて入ってきたそのとき、まるで数年ぶりに会うような懐かしさを感じた。もちろん、そんなことおくびにも出さなかったけどね。そんな私よりも早く、他のメンバーたちが声を上げる。
「あ〜っ、お帰りなさい! 鹿沼主任っ……!」
「お休みなのに、わざわざ来てくれたんですか!」
  いつになく熱烈な歓迎を受けて、さすがの彼も戸惑っている様子。だけどそれらをさらりとやり過ごし、彼は眼鏡のフレームをきらりとさせながらこちらを振り向いた。
「何も変わったことはなかったか?」
  私は普段通りに小さく頷くと、明日の朝渡そうと思っていた今日一日分の仕事内容を書いたメモを彼に手渡す。それを一通り読み終えて、彼は薄い唇で静かに微笑んだ。
「さすがは沙彩だな、こうして急に仕事を任せても全く心配ない。本当に助かるよ」
  とりあえずはね、いつも通りにやり終えたと思う。
  ただ、午後一で某ブックスチェーンの営業部長からネチネチと面倒な電話が来たときにはちょっと困った。だけどそんなときにも、いつも鹿沼主任がどういう風に対処しているか、それを思い出すことで乗り切ることが出来る。相手の言い分はすべて聞いた上で、こちらとしても譲れない部分ははっきり示していけばいい。女だからと甘く見られたって、絶対に負けないんだから。
「ありがとうございます」
  だけど、今日の私は。いつもなら胸が躍るほどに嬉しい彼のねぎらいの言葉にも、素直に反応することが出来ない。部署内にピリピリと張り詰めている空気、主任はもう気づいているのだろうか。
  ここは私から事の次第を説明するべきかなあ……でもわざわざそんなことする必要もないのかも。そんな風に迷っていたら、他のメンバーが先に口を開く。
「そうそう、主任! 沙彩さんが今回のヴィーナスに決まったって、もうご存じですか!? オレたち、もう興奮しちゃって……で、終業までにメンバー全員揃っちゃいました!」
  満点を取ったことを褒めてもらいたい子供のような瞳に見つめられて、さすがの彼もちょっと戸惑っている。だけどその反応からは、今回のことを彼自身が最初から知っていたのかそうでなかったのかは判断つかなかった。
「だからこんなに賑やかだったのか。一体、何ごとかと思ったよ」
  主任は短くそう告げると、ちらとだけこちらを見る。だけど、私の方はどんな反応を返したらいいのか、全く見当が付かなかった。
  ―― 正直、こんな馬鹿騒ぎは少しも嬉しくない。せっかく仕事も楽しくなってきて、これからもっと頑張ろうってときに変なイベントに担ぎ上げられるのはホント、勘弁して欲しいって感じ。
「どうした、浮かない顔だな」
  何だか、突き放されたような気分。
  普段通りのすっきりした横顔、感情が少しも見えないことにも慣れっこになっていたはずだったのに。
「いえ、……でも」
  どうにかして、自分の本当の気持ちを伝えたいと思った。だけどそうするための簡潔な言葉が思いつかない。
  でも、こんなイベント馬鹿馬鹿しいと思うのは主任も一緒のはず。ここで何かフォローを加えてくれたら、浮き足立ってるチームメンバーたちも目を覚ましてくれるんじゃないかな。
  しかし、私のそんな期待は、次の瞬間に脆くも崩れ去っていた。
「ここはそう言う会社だ、そのことをお前もわかっているはずだろう。せっかくの企画だ、主役が盛り上がらなくてどうする。こういうのをチャンスと思える奴じゃないと、この業界で生き残れないぞ」
  話はそこまで、と言わんばかり。彼のこんな態度に出ることは、最初から何となくわかっていた。だけど、もうちょっと……言い方を考えてくれても良かったんじゃないかな。
「そうそう、主任! これから俺たちチームのみんなで飲みに行くことになってるんです。主任も一緒に如何ですか……!?」
  高橋くんの提案に、彼はあっさりと首を横に振る。
「いや、俺は部外者だ。企画に関係のない邪魔者はさっさと退散するよ」
  それから、主任は最後にもう一度私の方へと向き直る。
「いい報告を待っているよ」
  黙って唇を噛みしめるその行為だけが、今の自分に出来る唯一のパフォーマンスだった。

 

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2010年6月21日更新