TopNovel>天使の修繕費・3




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 ひりひりと何かが身体を柔らかく圧迫する。たとえようもない嫌な気配に瞼を開けた。
「う……?」
  ぎゅん、と視界に溢れた空気に思わず目を細める。ねっとりと身体にまとわりつくまがまがしい気配、目の前を漂う藍色の闇の帯。
「あ〜ら、ようやく起きた! じゃあ、早速仕事してもらおうかな?」
  声のした方を見ると、ふかふかした雲のような物体の上にだらしなく横たわった少女が薄笑いを浮かべていた。これって、いわゆるソファーとかそういう類のものなのだろうか。薄暗い空間が広がる中で、そこだけが少しだけ明るく見えた。もしかして、彼女の身体の中から光が発せられている? これも目の錯覚かな。
  一方の私といえば、硬い床の上にじかに身を横たえていた。そのせいか、身体じゅうが痛い。
  でも、この場所って……?
  床も壁も透明なもので出来ている空間でそれほど広くはない。窓もドアもないのに、透き通った壁の向こうには外の風景が透けて見えた。遙か下方の砂の大地から細い階段がのびていてこの部屋まで続いているみたい。地上はごつごつと岩がせり出した荒れ野で、その隙間で何かが絶えずうごめいている気配がある。
「……ここ、どこ?」
  周囲をぐるりと見渡して、それからもう一度、少女に視線を戻す。彼女はふふっと笑い声を上げた。
「残念だけど夢じゃないの。ここは私の部屋、とはいっても仮住まいなんだけどね。とにかく、まあ、あんたはニンゲンで寿命も短いけど、それでもいないよりはマシ。掃除洗濯、炊事。それから翼がないと外に出るのもしんどいから、そういうときは代理人になってね。遠くの橋を渡ることになるから恐ろしく遠回りなんだけど。それくらいのこと、私の下僕ならば当然よね?」
「な、何言ってるのよ!? そもそも、こんなコトが現実に起こるはずないじゃない」
  これは夢だ、私の無意識が作り出した幻想の世界。そう思いこもうとした。
「あら、私に刃向かっていいの?」
  刹那、少女はすっと目を細める。次の瞬間、強い圧迫感が左の足首に走った。まるで細い紐できつく巻き取られたみたい。
「……ぎゃっ!」
  あまりの痛みに膝を折る。
  恐る恐る痛みの場所を見ると、そこには見たこともない飾り輪がはめられていた。七色に光るそれはどこか懐かしい光沢で、この建物と同じく透き通っている。
「ど、どういうことなの、これは!」
「最初に言っとくけどさ。私、今現在、非常にむかついてんのよね」
  少女は大袈裟にため息を付くと、髪をかき上げた。さらさらと金色の糸が流れる。露わになる顔の輪郭、目鼻立ち、やはり見覚えがある。
「あなたは、本当にあの水晶の置物なの?」
  私たちの部屋の棚に飾られていた小さな水晶の人形。初めて勝巳にねだって買ってもらったそれは、長いこと私の宝物だった。大きさの割りに高価なそれと、目の前の少女の見目形はそっくり同じ。
「あんなの、ただのヒトガタ。さっきもそう言ったでしょう? 私はあんたたちが上手くいくかどうか見極めるために、ずっとあの中で見張ってたの。全く……今回のが最終試験だったのよ、正式に天使のライセンスを取るための。ああ、むかつく! あんたたちを見込んだ私が馬鹿だったわ。これで百年もの間苦労してきたのが、水の泡じゃないの!」
  彼女は、力任せに手元のクッションを叩く。そこからふわっと、羽毛が舞い上がった。
「何、それ」
  いきなり、訳のわからない単語を並べられて戸惑うばかり。そして少女は、さらに冷めた目でこう続けた。
「ニンゲンなんて誰もがみんな、天使の意のままに動くものなの。だから、恋愛してくっついたり離れたりするのも、みんな天使の気まぐがなせる技よ。でもね、好き勝手に出来るのは正式ライセンスを持っている者だけ。そこに至るまでには、一定の条件をクリアして最終試験に合格しないとならないのよ。今まで私は血の滲むような努力をして、ようやくここまでたどり着いたわ。そして、残るは最後の試験だったのよ、それを……」
  彼女の口調が、次第に熱を帯びてくる。湧き上がる怒りのためか、ふるふると小さな手が震える。
「あんたたちを一目見たとき、きっと上手く行くと確信したの。だから手を貸したんじゃないの。それが、蓋を開けたら甲斐性なしの男と不満ばっかを吐く女。あああ、もう最低! 挙げ句の果てに、浮気されたの? もう決定的におしまいね。あいつ、仕事もろくに出来ないクセに、いい気なもんだわ」
「ち、ちょっと、待ちなさいよ! 甲斐性なしの男とは聞き捨てならない、勝巳は大きな夢を持っている男なの。そこをわかってくれなきゃ、困るわ!」
  思わず、反論していた。だって、すっごくむかついたんだもの。三年も一緒に暮らしてきた男のことをこんな風に言われちゃ、黙ってられない。
「ふうん」
  少女はふん、とハナをならすと、顎で私を促した。
「ねえ、お茶入れてよ。そこに道具はあるからさ」
  ――だから、何で上から目線!?
  とは思ったものの、さっきの痛みを考えるとここは素直に従った方がよさそう。私はテーブルの上に置かれていたお茶道具で、香りのいい紫色のお茶を入れた。
「あ、あんたも飲みなよ? 気分がすごく落ち着くんだよ、これ」
  おいおい、誰のせいでむかついてるのかわかってるの? そう言いたかったけど……確かにこのお茶は本当においしそう。だからもうひとつカップを出して、自分の分も注いだ。
「はい、どうぞ」
  お盆に乗せて、差し出す。少女がカップを手にしたので、私もクッションの傍らに座り、もう一つを手にした。ふわんと甘い花の香り。気分がすごく落ち着く、と言うのはあながち嘘ではないかも知れない。そう思いつつ一口含む。ほんのりと甘いそれが、素直に心に染みとおっていく。
「勝巳が夢に向かって頑張っているのは本当だよ。今時、あんなに真剣に生きてる奴は他にいないんだから……」
  傍らの天使に語りかけると言うよりは、自分自身に言い聞かせているように。そう呟いたら急にじわっと来て、目のフチがじんと痛んだ。

 

つづく (110523)

 

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