TopNovel>天使の修繕費・7




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「……ま、勝巳っ!」
  ちょっと待ってよ、お祖父様ご自慢のドーベルマンは? 一体、どこに行っちゃったのよ……!?
  そう思って、よく見ると3匹は人なつっこそうに勝巳の足元でじゃれている。
「美鈴のお姉さんだって人から連絡をもらったんだ。良かった、間に合ったね。――さあ、行こうよ?」
「いっ、行こうって?」
  土蔵の出口には見張りがいる。どうも飛び道具も持っているらしい。とにかく信じられないくらい物騒な話だ。
「決まってるだろ? 飛び降りろよ、受け止めるから」
  これって、映画の見過ぎじゃないだろうか? さらりとした口調で勝巳は当然のように言った。
「ままま……待って? 無理よ、絶対に無理っ! そんなことしたら、ふたりとも死んじゃうっ!」
  そりゃ、勝巳がここまで来てくれたのは嬉しい、すごく大変だったはずだ。でも、飛び降りるなんて無理、命の保証がない。私の窓枠を持つ腕がガクガクと震えた。
「だったら、死ぬつもりで来いよ?」
「……え?」
  いったい何を言ってるんだ、この人。正気だろうか? 心の中で呆然と呟きつつ、すがるような目で勝巳を見る。すると彼はふっと笑った。
「美鈴がここの暮らしを捨てるのと、ここから飛び降りるのは同じくらい大変なことだと思うよ。こんな何不自由のない裕福な生活、普通だったら絶対に捨てられない。口では何とでも言える、でもそこから飛び出す勇気がないなら――美鈴は決まった相手と素直に結婚すればいいんだよ」
「勝巳ぅ……」
  そんないい方しないでよ。ひどい、私に死ねと言うの? 身体の震えはもう最高潮、気が狂いそう……!
「来る?」
  ふわっと、毛布のようなものを広げて、勝巳は私に尋ねた。
  それと同時に、土蔵の入り口の方で声がする。
「お嬢様? 今、話し声がしませんでしたか、入りますよ」
  ガタガタとかんぬきを外す音がする。もう、時間はない。そう、今しかない。
  私は、窓枠に足をかけた。下を見ると、勝巳が微笑んでいる。
  その方向へ…私は空を切った。

「まったく。私が絶句するほどのベタベタ展開だったわ。あのときはさすがの私も腰が抜けたもんっ!!」
  この天使は、本当に今までの私たちの全てを知っていると言うのだろうか? まるで自分が見てきたことのように、うんうんと頷いている。
「ああいうときこそ、『天使の力』とやらで助けてくれれば良かったのに。まあ、怪我をしなかったのは奇跡ね、植え込みがあって助かったわ」
  物音を聞きつけて飛び出してきた見張りに、犬たちが飛びかかった。大きな悲鳴に紛れて、夜の闇を必死に走る。その後は言葉どおりに逃避行だった。
「まあ、いいじゃない。娘のあまりの行動に恐れをなして、あんたの父親もそれ以上は深追いしなかったんでしょう? 良かったわよね〜」
  珍しく可愛らしく笑う顔を見ながら、私はふと思い出す。
「そう言えば。あれから間もなくよ、水晶の置物を買ったのは」
「そうだったわよね」

 少しだけ広い部屋に引っ越した。
  ユニットバスだったけど、ちゃんとシャワーも付いている。ささやかでも居間と寝室が別になった二DK、それが今日まで暮らしてきたふたりのお城。
  勝巳の収入は驚くほどささやかだったので、もちろん私も働いた。大卒とは言っても、なんのキャリアも資格もない。そんな若い娘が働ける場所などは限られていた。水商売だけはしたくなかったし、夜はなるべく家にいて勝巳を出迎えたい。考えた末、中華料理店の厨房で働くことにした。
  主にお鍋やお皿を洗ったり、台の上を整えたりする雑用だ。毎日が戦争のような喧噪の中での立ち仕事。でも、見つけた仕事の中では一番時給が高かったからここで頑張るしかない。私が働かないとお家賃も払えないし、ご飯だって満足に食べられない。
  勝巳の収入は不定期だった。やはり月給で入ってくる私のバイト代が生活の支えになる。辛くないと言ったら嘘になる。でも、弱音は吐かなかった。自分の選んだ生活だから、命がけで勝ち取った生活だったから。
  勝巳に久しぶりの現金収入が入った夜、ふたりで晩ご飯を食べに行った。その後、ふと立ち寄ったデパートで私たちはその置物に出逢ったのだ。
  片手にちょこんと乗る小さな天使。透明な輝きはデパートの綺麗な照明の中でまぶしかった。まるで自らが光りを発しているかのように。
「買ってあげようか?」
  なかなかそれを手放すことが出来ないでいる私に勝巳がささやいた。びっくりして、彼の顔を見つめる。
「そんな……いいよ、お金がもったいないもん」
  慌てて、棚にそれを置いた。だけど、勝巳はそれでも食い下がる。
「ホント、美鈴には苦労ばかりかけてるから。買おうよ、俺達の未来のために」
  そうは言ってくれたけど、ただのガラスと思ったそれは水晶で出来ていたのでびっくりするお値段。想像していた金額よりもゼロがふたつ多い。普通の社会人ならちょっと無理をすれば出せた金額かも知れない、でもその時の私たちには目の飛び出るほどの大金だった。
「大丈夫、どうにかする」
  そう言って、笑った勝巳の心中を私は探ることが出来なかった。
  翌日、彼の唯一の「足」だったオフロードのバイクがなくなっていた。

 

つづく (110527)

 

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