ようやく手に入れたささやかな幸福は、私にとってかけがえのないものだった。
撮影現場の仕事を、それがないときには工事現場などの力仕事を見つけてきて、彼は本当によく働いた。それは知り合った頃からそうだったけど、本当に気持ちのいいほど真面目な勤労精神。そう言う彼は見習うべきところがたくさんあって、その姿を見ているだけで私は心が洗われる気がした。
物心ついた頃から、お金で全てが解決する世界に生きてきた。時には家人が自家用車で接触事故を起こし、それをお金と名誉で表沙汰にしないで済ませたり。どうして集まるところには金も欲も全てが吸い寄せられるのだろう、何度も不思議に思ったものだ。
キラキラと棚の上で輝く天使の置物はそんな二人を象徴するものだった。でも、どんなに美しくても勝巳の笑顔には敵わない。勝巳の夢は私の夢。いつか自分の手で思い描いたとおりの映画が作りたい、と言われれば、そんな彼を心から応援したいと思えた。
「あの頃は本当に幸せだったわ。勝巳が部屋に戻ってきて、ふたりで飽きるまでいろいろなことおしゃべりして。……懐かしいなあ」
うっとりと溜息を吐く私に、天使は冷めた声で言う。
「それが、お皿を割って大喧嘩するようになるんだ。ニンゲンってこらえ性がないのねえ、たかだかちょっとの時間でよくもまあ、あそこまで変われるものね」
しどけなく金色の髪をかき上げて。ふふふっと笑う。凄く悔しいけど、言われるまんまだから反論も出来ない。
「ちょっと、あなた。ずいぶんと、言ってくれるじゃないの」
お茶道具の食器を片づけながら、恨みがましく言い返した。
「あなた、じゃないわ。私にはリルって名前があるの、そう呼んでくれる?」
天使、もといリルはそう言うと、にっこりと微笑んだ。こういう顔をすると今までの暴言がすべて洗い流されるよう。それがとても不思議だ。
「じゃあ、言うわ。リル? あなたたちのようにニンゲンのことを上から見下ろしている崇高な方々にはおわかりにならないかも知れない。でも大変なのよ、当たり前に生活していくのも。気が付いたら、一緒に暮らし始めて三年がたっていたわ。そして、状況は何も変わってない」
リルは折れた片翼をさすりながら、私を上目遣いに睨んだ。
「でも、だからといって、ものに当たるのは良くないわ。あのお皿だって、高かったでしょう? 私だって、こんなにされちゃって…」
それを言われてしまうと、返答のしようもない。その表情の上を藍色の闇が流れていく。そして、ゆっくりと流れて私の頬をかすめる。
「ねえ」
私は、ふと気付いて言った。
「今は、夜なの? ここの世界って、いつもこんなによどんでいるの?」
部屋の中も。そして水晶の壁越しに見える外の風景もよどんだ空気で満たされている。それを見ているだけで、どんどん気が滅入って来そうだ。
「何言ってるのよ、美鈴は知っているはずよ?」
「…え?」
逆に切り返されて、言葉を失う。
「ここは美鈴の心の中だもの。美鈴の心がよどんでいるなら、この世界は空気が濁ってしまうわ。そんなの、当然でしょう?」
そこまで言うと、リルは少し微笑んだ、哀れむように、かつ自嘲気味に。端正な顔立ちにだんだん「色」が付いていく様をぼんやりと見つめていた。
「でもさ、こんな嬉しくもない世界に飛び込んで、あんたを救おうと頑張っている馬鹿なニンゲンもいるみたい」
リルは、ふっと視線を外に向ける。その指し示す場所を私も促されるように見つめていた。
「――勝巳っ!?」
思わず、透明な壁に両手を付いて身を乗り出した。おでこをくっつけて外を食い入るように見る。
砂煙の噴き上がる地上、そこはとても生身の人間が進めるような場所じゃない。それなのに、自分の身丈よりも大きな岩が連なった場所を乗り越えている。
豆粒の様に小さな姿なのに、私には勝巳の表情も息づかいも手に取るように感じることが出来た。立ち止まってしばし息を整え、額の汗を拭う。そして、ふとこちらを仰ぎ見た。透明な壁は反射して、多分私の姿は見えないだろう、それが証拠に彼の視線も定まらない。塔のてっぺんにあるこの部屋全体を眺めている感じ。
私たちは今、どれくらい離れているんだろう。この場所は、どれくらいの高さがあるんだろう。長い階段のその登り口に辿り着くまでにだって、まだまだ距離がある。
勝巳はひとつ頷くと、また前進し始めた。途端に彼の目の前の岩が沸き立って割れて、その奥から黒い恐竜のような生き物が出て来る。勝巳の三倍くらいの高さがあるそれは、大きく腕を振っただけでその風圧が彼の身体を吹き飛ばす。
「勝巳……!!」
思わず、壁を叩く。もちろん、びくともしない。まるで私の想いまですべてを吸収してしまっているみたい。
岩に叩き付けられた彼は起きあがりながら、手元にあった棒きれを掴む。それで威嚇しながら、魔物との距離を取る。鋭い爪の付いた前足を振りかざす、勝巳は軽い動きで後ろに逃れた。
「……ちょっと、リル!?」
私はたまらずに叫んでいた。
「ねえ、どうにかならないの? 私に彼を助けることは……せめて、私の声を届けることだけでもできないのっ……!?」
バランスを崩した魔物は前に倒れてその巨体を岩肌に強くぶつけて静止した。その上を勝巳は乗り越えていく。でもホッとする暇もなく、また脇から別の魔物が現れる。
「……きゃああっ!!」
思わず、目を伏せる。体勢を整える前に勝巳はそれに襲いかかられた。避けるのが間に合わず、頬に血しぶきが飛ぶ。
「リル!?」
絶叫に近い声を上げて、振り返った。でもそこに立っていたリルは、腕組みをして静かな心の見えない表情をしている。
「手段は何もないのよ」
私の心中を思いやる隙間もなく、きっぱりと言い切る。
「ここに踏み込んできたのは勝巳だもの。彼が勝手に入ってきたんだから、美鈴に出来る唯一のことと言ったら、信じることだけだわ」
「……信じる?」
呆然とした私の表情を視線でなぞり、リルは小さく溜息をついた。
「勝巳があんたを助けに来てくれるって、必ず連れ戻してくれるって、そう信じてあげるのよ」
「え……?」
どうして、そんなことできる? 無理に決まってるじゃない。
「勝巳が助けに来てくれるはずなんてないじゃない。もう、私のことなんてどうでもいいって思ってるんだもの。私なんて、いてもいなくても空気みたいな存在なんだから。それなのに、身体を張って命を投げ出して助けに来ることなんて、あるわけ――」
最後まで言い終える前に、勝巳の足元の岩が崩れた。彼はバランスを崩して、後ろに倒れ込む。
その瞬間、私は声にならない叫びを上げていた。
つづく (110527)
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