HOMEへ
03年 6月21日 太田浩史さんと建築あそび記録

        

DUET話 01 02 03 0405 夜間飛行 06 
デザインヌーブの話 07 08  ピクニックの話 09 10 

p4

これから言うことはちょっと面倒臭いんで・とりあえずDUETは・環境的な建築ですと答えてしまっているんですが・・・
 実は「本当にやりたかったことはなにか・・」と言われると、ピター・ズントーについての論文を書いたことがあるんですけど、彼が言っている、Sachverhaltザッハフェアハート・・日本語でいうと「事態」っていうことをどう捉えるかと思って、それが設計の一番のテーマだったんです。

s 分かってますよ・もー 収集つかなー・・という
o そういう事態と違います。緊急事態とは違うんですよ。
    会場 わらい
それからピーターズントーの話になるんですが・・ズントーが出てきた時にもの凄く驚きまして、こういう変態的な人がいるんだと思って・・。正直、建築をやっているのが恐くなった。
s 坂本さんも変態だけどね
o 愛の手にしましょうよ・・
 
   会場 笑い
 ちょっと建築をやっているのが恐くなったぐらいビックリしましたね。「この人はこうこまで抽象的に考えているのか・・」と思って。どういう事かといいうと 彼はやりたいことはハッキリしてまして、さっきの文章にありましたけど、ザッファフェアハート。 建築を事態として設計しようとしているんですね。

この写真は「to roll」って意味は分かりにくいんですけど、このスンヴィッツの教会っていうのは平面が葉っぱの形 しておりまして、・・紙とかあります?

 会場から紙が出てくる 太田受け取る

巻いて作というように・・こうやって建築を作ろうとしているんですね。それは形態のアナロジーだけじゃなくって構法とか建設の順序とか。物質の構成まで全部再定義しようと彼はするんですね。これが彼の詳細図なんですけども、コレを見ているうちに地下鉄の駅を一駅乗り過ごしてしまいまして・・

s それは普通じゃないですか・・モット乗り越せー!!
  会場 笑い

 o 彼は柱を全部立てまして、外から全部ビスで止めているんですよ。内側から止めりゃ良いモノをわざと外から止める・・で、ここに隙間をあけて外から刺しているっていうのを表現しているんですね。そういう抽象的な話を現場まで持ち込むのは、どこかに狂気が混じり込んでいる。

それで彼は 外から板を取り付けた後に 外壁板をさらに打って、徹底的に柱の外側に外壁を巻き付けて行くわけですね。巻き付いて作っていることを現場の隅々まで貫徹させている。そうやって建築の部位まで高解像度で定義をしていて、その結果モノスゴーイ異様な建築に・・

これはズントーのグガルン邸です。僕はこれが一番好きなんですけど
 
これはですね・・。右側にあるのが校倉作りの既存の民家なんですね。彼は何を考えたかというと・・校倉造りの民家の増築だから、新しく建てるのも校倉造りにしないといけないと考えたらしいんです。ですから、新築部分も校倉造りになっているんですね。一本一本プレハブで作った木のブロックを、昔の校倉造りと同様に積んでいる。古い民家から積んだという表現だけを抽出して、それを新築部分でも連続させて、そこだけに表現を集中させている。

 つまり校倉造りが横に伸びていくように作っているわけです。これもデティールを見ていきますと、実はプレハブのブロック一個一個がボックスなんですね。ボックスを作って、わざわざ実(さね)を挟んで、また次のボックスを積んでいく・

こんなの「通し柱を作って外側から壁を打ち付ければ良いじゃないか」と思うんですけれど、それだと彼は「不純だ」と思っているんですよねー形態とか、空間ではなくて、もともとある既存建物構法とか物質性コピーして、それを「そのまま建築の定義に」までしているというのはあまりにも変態的なアプローチだと思っています。

 これは建つ建つと言われていて、建ってないんじゃないかと思いますけど、ベルリンのトポグラフィ・オブ・テラーっていうんですけど、一種の博物館ですね。これは東から西に、割り箸みたいな、細いコンクリートのプレキャストの棒をですね・・東から西に束ねていくんですね。ここにワイヤーが通ってまして、一本一本ワイヤーを通して、編み物を編むように やりたいと。
これも異様な建築の作り方なんですけど、その結果「全部束ねる」ってことで建築が作られていますから・・見栄として、とても抽象的な感じが立ち上がるように現れるんです

こういうのを見ると空間なのか出来事なのか・・一寸よく分かんなくなっちゃいますねー。事態と言うと難しく聞こえますが、何か物質性や空間が「こと」として見え「もの」と「こと」が連続する感じがある気がするんです

ザッファフェアファルトという言葉は面白いなと・・ハット気が付いたんのは実は・・ズントーの論文に「ザッファフェアファルト」という言葉があったのは知っていたんですけれど、ミースの本を読んだときに 彼も同じような事を言っていまして。同じ言葉が発語されていることにぎょっと身がすくんだんですミースも「ザッファフェアファルトが大事なんだ」といってるんです。この訳はかなり違訳だと思うんですけど、ミースは「事態が持つ意味が真義である」って言っている。・・そう考えてみるとミースも建物を物質の関係として定義していると思うんです。

 これはファンズワース邸ですけれど。わざわざ柱と梁の関係を明確にするために後ろから溶接したりするとか。ものすごい抽象的な次元で、何を操作してそれがどういうふうに寄り集まって構成されているか・・というのが見える形になっていますね。

 そういう建築を作るとき、というか物質を操作するときの解像度の高さっていうのがとても、最終的に美しさに現れて来ているのではないかと思うわけです

彼のデティールを見ても物質性が異様に定義されている。この曇りのなさとか・・なんていうのかなー・・あらゆる現実をもの関係に落とし込もうとする狂暴な抽象性に驚くんですね。

ズントーはどうも全然違うふうに建築を定義している」というところから始まりまして、その後「事態」っていう言葉を色々考えまして、似たようなものは片っ端から分析していったわけです。・・まず思い当たるのは 「もの派」 だったですね。僕は「もの派」よりも「こと派」と言った方がすごく良いんじゃないかと思ってます。ここにあげた彼らの証言を読むと、彼らも自分たちのことをそういうよういうように思っているんですね。

 これ有名な 関根信夫 の「位相=大地」ですけど、地面に穴を掘って、同じだけのボリュームを横に積み上げてみるというのは「もの」と言うより「こと」だろうと思うんですね。

 で、そういう操作をしたら、状況が、表現になると彼は言う。操作とか、ものに生じている出来事がもの凄く謎めいて見えるというのが表現なんじゃないかと。そういうのが「事態」のなかに含まれているんじゃないかと思います

で、もの派というこはその辺のことを執拗にやっていたと思うんですけど、これは李禹煥の作品です。ガラスの上に石を落っことして それを状況として表現してますね・・ガラス・石は「もの」なんでけども、「もの性」を現すにはどうしても「こと」必要になってきます

僕はこれは一番好きなんですけど、高松次郎の地味なコンクリートのオブジェ。これは彼は何をやったかと言うと。わざわざコンクリートを箱の形に打って、表面をはつってですね。粉々にしてお皿の窪みを作って、お皿にもう一度その破片を盛るっていう作品です。元々は一体のコンクリートのワンボリュウームだったん ですけど、その「物質に操作を加えた」ということが表現なんです。

「もの」派と言いつつ、操作がこういうふうに際だって現れている。それがさっきのズントーの「束ねる」とか「巻く」っていう手法に近いんじゃないかと思うんです。

少しずつ抽象論にしたいんですが、さっきお話しした「挑発するマティリアリティ」で、現代素材論でも「同じような話をしている」というのに直面したんですね。

これは僕が尊敬するエツィオ・マンツォーニっていうデザイン評論家でもある建築家でもある人の言葉なんですが、彼は「ボールペンのチップは3つのプラスチックと2つの金属からなるけれど、製造工程を前提とした一つの創造された製造プロセスの現れでもある」って言っているんですね。で、マティリアルというのは、物質というよりも、プロダクトの生成プロセスの全体を表しているというわけです。

エツィオ・マンツォーニはボールペンの先っぽをジーット見ながら「これは物質なのか製造のプロセスの現れなのか」・・って考え込むんですけれど、その気持ちが僕には本当に分かるんですね。精神状態としてはかなりヤバイと思うんですが、目の前の「もの」が、出来事なのか、括弧とした輪郭を持つオブジェクトなのか、だんだんよく分からなくなってしまう・・・。

例えばですね。これも好きな作品の一つなんですけど、Lestrusaという、イタリアのベンチです。これはアルミの押し出し成形で作ったベンチなんですね。これは確かに「もの」なんですけど、押し出し成形ですから、ニョーンと成型機から出てきたようにも見える。見るとだんだん、その「にょーん」という成形プロセスを見ているような気持ちになってくる。それを狙うために、ベンチがどういう操作で作られて来たかという来歴が、とても分かるようなデザインになっているんですね。

 これは日本の吉田金属のナイフです。これはステンレスのナイフで刃も握りも同じステンレスなんですね。これ、も実に抽象的で面白いなあと思えてしまうわけです。・・・どういう風に面白いかといいうと両方とも同一素材なのに加工を変える事で凶器にもなるし、握るという人間に親和性の高い部分にもなる・・素材が、操作によって正反対の性格をもって現れるという事例です。

これもなにか、「事態に見えてしまう」んですよね。

ドンドン抽象度が上がってくんじゃないかと思いますけど。これは傾斜機能性管継ぎ手。継ぎ手に変なグラデーションかかってますけど・・手前が銅なんですが奥がステンレスなんです。一つのオブジェクトの中で連続的に組成が変わっていく・・これは原発のプラントの管をつなぐための、継ぎ手で・・原発だから管が外れちゃ困るんですね。ですから溶接で全部止めたいんですけど、異なったパイプの素材を継がなくてはならないときに問題が出てくる。
 ステンレス管と銅管をつなげる時にどうしても溶接で納めたいというときに、どうするか。それを解くために、継ぎ手自身に両義性、というか二面性をもったオブジェクトを用意する、というわけです。作り方は細かいスライスを溶かし込むらしいんですけど

 一つのオブジェクトの中に全然違う素材が同居している。

そういうのが「もの」というより「こと」という感じがするんですね。

  突然 呑んでいる缶ビールの缶を持ち説明し出す太田

これはアルミの缶なんですけど、これどうやって作るかというと、アルミのシートがあって、メス型があって、そこにシートを入れて、ドンとオス型でスタンプすると、ニョキっと跳ね上がって 立つらしいんですよね。

 後はカットして缶の形にしていくんですけど。これなんかもドンニョキっと音がするくらい「こと」として見えちゃうですね。「もの」なのか「こと」なのか分からないという精神状態に素材特集のときに陥りまして、いろんなものが非常にヘンテコに見えてきた。

「もの」を見ればたちまち金型が頭に浮かんでしまうという奇妙な状況のなかで、「もの性」を表現するには「こと性」を、つまるところ「事態」を表現するんじゃないかというような、なにか確信みたいなものが自分の中に生まれて来たわけです。

哲学系の話でも「事態」は古典的な素材です。レヴィナスはフッサールのことを引き合いに出して・・こういうふうに言ってます。「事態というのは絶えず具体的な生の対象である」「生きるとは比較するだけではなく判断することである」というようにですね。

「アルミの缶を知覚する」というよりも これがどういう操作で出来て来たかという、類推し判断し 背景の事態を引き受けるもの としてオブジェクトを見るということと、オブジェクトの成立要因とか、背後を知るっていうのが生きるって事だって言っていたりします。

あとはヴィトゲンシタインが必ず出てくるんですけど、彼はもう少しドライででして、「事態の構成要素となることはモノにとって本質的である」 と。そういうような言い方をしています。

さっきのズントーなんかをみると、そのまま言葉が当てはまるではないかと思うんです。

で結論なんですけどDUETでやりたかったことは、環境の事とかあるんですけど、建物を「こと」・・もしくは「ことのように起きている」と捉えて設計したかったんです。だから 例えば違う素材が同居するといった「こと」として見せたかった

僕が素材熱環境と言った物質的な話をとても好きなのは、そいうい物理要因とか物質の事をちゃんとしていくと、ドンドン建築が抽象的な次元に話が進むからなんです

DUETの熱がどうなってるかというのをジーット見てるのは、このアルミ缶がどうやって出来てきたかと かなり視線としては近くって、これで起きている物質的な状態・・。というものをなるべく見極めたいなーと・それはデティールに至るまでそう思うんです。

何故かというと 事態・・ として建築を定義つけたときに、はじめて建築が謎めいてくるんじゃないかと思っているからで、謎こそが、僕が作りたいものだからです。んで。ミースやピター・ズントーの建物が凄い迫力をもっているのは、きつと、物質の謎に迫っていこうと彼らが考えていたからじゃないかと思うんですね。

これが本当の設計対象でした


これは建前の時の写真なんですけど・・そういう抽象的な雰囲気がDUETがブロックと鉄骨だけのときにはプンプンしてましたね。


                                       次の頁へ