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それぞれのヴィーナス◇4番目の景子
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 キーボードを叩く音は、雨粒が森に打ち付ける響きに似ている。あちらこちらで聞こえる規則正しい旋律、遠く近く浅く深く絶え間なく続いていく。

 ―― ああ私は今、取り込まれている。

 指先にわずかに残った理性が、波の中から意識を浮上させようとしている。駄目、まだ駄目。もう少しだけ、このままがいい。

「あのぅー、穂高さん。ちょっといいですかぁ〜?」

 突然、雨音が止んだ。それと同時に今まで私を包んでいた心地よい空間は消え、瞬く間に見慣れたオフィスの日常が現れる。
  こう言うのって、すごく嫌い。自分の意志に関係なく行動が制限されるって言うのが気に入らない。そりゃ、社会の一員としてはある程度の協調性も必要だとは思う。でも、きちんとノルマをこなし周囲に全く迷惑を掛けないどころか恩恵まで与えているのであれば、それで十分ではないの?

「……何かしら?」

 眉間の辺りに不快な気持ちを貼り付けて、私は振り返る。至福のひとときを破壊した諸悪の根源と対抗するために。そこに立っていたのは「あんた、何のためにここにいるのよ?」を絵に描いたような女の子たち。正確には同じ職場の同僚なんだけどね。年齢もキャリアも全然違うのに性別が同じってことだけで一緒くたにされるのは気に入らないが、事実なんだから仕方ない。

「そのぉ〜、今夜なんですけどぉ。千香たちがセッティングした合コン、ひとりキャンセル出ちゃったんですぅー。良かったら、ご一緒しませんか? 他の子には全部声を掛けちゃって、残ってるの穂高さんだけなんですよ〜」

 てっきりゴミでも貼り付いてるのかと思った爪先は、よくよく見たらデコレーションネイルとか言うやつね。誕生日のケーキとは違うんだからさ、もうちょっとどうにかならないものかしら? それ、書類をめくったら、絶対に引っかけるわよね。

「そうそう、今日は大共和物産の若手エリートがお相手なんですよ! 絶対にオイシイって、みんなもうノリノリですっ!」

 ―― だから、何?

 その「これから南国ビーチでバカンスです」風のファッションや無駄にラメを塗りたくった瞼は、もしかしなくても今夜に向けての気合い? 全くいい加減にしなさいって言うのよね、まだ半日仕事が残っているでしょうが、あんたら。髪も中途半端な感じでぶらぶらさせて、破棄書類と一緒にシュレッダーに巻き込みそうよ。あ、その方がシャギーが入っておしゃれになるかしら。

「悪いけど、私パス」

 くるっと椅子を戻して、それで終了。ある意味尊敬しちゃうわよ、こっちが絶対に断るって知ってるのに毎度毎度律儀に誘ってくれるんだもの。仲間意識か何か知らないけど、正直迷惑なのよね。

「え〜、何でですか? せっかくのチャンスじゃないですか〜っ、もったいないですよ」

 ―― だから、何って言ってるの!

「……あのねえ」

 ガキ相手に喧嘩しても仕方ないとは思うけど、ホント勘弁して欲しいのよ。馬鹿丸出しの口調でこれ以上話しかけてくるのはやめて欲しい。
  大きく息を吸って、吐いて。いよいよ宣戦布告というタイミングで、敵もようやく気付いたのだろう。三人揃ってざざざっと後ずさりをした。

「わっ、分かりましたぁ〜。今夜はご都合が悪いってことですね? 次、またお誘いしますっ!」

 いいから、もう二度と誘わないで。

 あっという間に給湯コーナーまで立ち退いた背中たちを見ながら大きく溜息を落とす。適材適所がモットーの会社ではあるけど、毎年凝りもせずあの手の女性社員を採用するのはどういう訳かしらね?
 まあ、どうしても男性社員が多くなりがちな職場だし、適当な目の保養は必要だってことでしょうよ。   でも同じだったら、もう少し仕事が出来る人材を選んで欲しいわ。入社して早五年、私の部下と呼べるのは頼りない男どもばっかりだ。

 ウチはそこそこ名の売れた出版社。出版業務と言っても、その仕事は多岐に渡っていて一言では説明できない。社内業務を大きく分けると「編集」「製作」「販売」かな? 我が社の部署もその三つに分かれている。
「編集」はその名前の通り本の内容の詳細を決定するところで、企画から著者とのやりとり、その後の校正までを引き受ける。「製作」もやはり名前の通り、本の装丁とか印刷所への発注とか。
  で、私が配置されているのはもうひとつ残った「販売」、会社によっては「営業」って呼ばれてるところもあってその方が業務内容が分かりやすいかな? 販売ルートの拡大やら、売り込みやら。ひとことでは説明できないけど、とてもやりがいのある仕事だと思う。

「ああ、いたいた。穂高ちゃん、戻ってたんだ」

 ようやく打ち込み作業を再開出来ると思ったそのとき、再び目の前に障害が立ちはだかる。今度はキーの上に指を置いたまま、声のした方向に首を回す。そういう場面でも念入りに結ったシニヨンは全く崩れる気配を見せないのが素晴らしい。

「……うわ、最悪の顔」

 無言のままに睨み付けたら、目の前の男はわざとらしく腰砕けポーズになる。もうちょっとどうにかしなさいよの髪に、絶対に剃った方が似合うからの無精ひげ。きちんと整えればそれなりに見られる存在になりそうな顔のパーツの中で、唯一知的なイメージを保っているのは縁なしの眼鏡くらいだ。
  同期入社の中でも最悪にどうしようもなく見えるコイツが、何故か仲間内で一番の出世頭って言うのが気に入らない。やってる仕事は大して変わらないと思うのに、やっぱ男だからってことで優遇? ウチの会社って変なところで保守的なのかしら、今度上層部と会う機会があったら絶対に抗議してやる。

「何よ、用がないならどっかに消えて。その顔が目障りなの、さっさと次の外回りに行ってくれば?」

 この見てくれでしょ? 絶対に期待できないって思うじゃない。でも営業成績では抜きんでてるし、その内容が確実だから人間って分からないわよね。きっと変な超能力とか持っているんじゃないかしら? 相手を自在にコントロール出来ちゃうとか?

「嫌だなあ、穂高ちゃん。そんなつれないこと言わないでくれよう。俺、今落ち込んでるんだ。今夜の合コン、俺も参加したいって言ったのに断られてさ。せっかくタダ酒行けると思ったのに」

 ……馬鹿か、コイツは。

 でもって、それよりなにより気に入らないのは、コイツが私の本命だとまことしやかに囁かれていることだ。そりゃ、入社以来ずっと腐れ縁だし、結構気も合うし。だけど、絶対に違う。そんなはずないって。

「何言ってんの、あーゆうのは男が払うんでしょ? あんたが女のために財布を開くなんてあり得ない、あの子たちだってそれくらい分かってるわよ」

 まあ、そう言う事実はあっても。女性社員からは結構人気があるんだよね、この男。だからこそ、私が当てこすりみたいに誘われるんじゃないの。目障りな年増女は早々にどっかに行って下さいって魂胆が見え見えなのよ。

「ふうん、だったらタダ酒飲める穂高ちゃんはどうして断っちゃうの? もったいないよー、俺たち実は安月給なんだから。たまには楽して稼いでる金持ちの男どもから巻き上げてきてくれよ、穂高ちゃんだってその気になればイケるって」

 同期の男どもは他にも何人もいるけど、微妙な年齢になった私にここまでストレートに物言いが出来るのはコイツだけだ。そうよ、気がついたら同期の女の子は誰も残ってないの。信じられないわ、入社してたった五年しか経ってないのよ? 何と、一年目でリタイヤした仲間も何人かいるわ。みんな、堪え性がないのよね。

「馬鹿言わないでよ、私はそんな気ないから」

 威嚇がきかない相手って、とにかく面倒。やりにくい顧客にはたくさん出会ってきたけれど、コイツくらい煮ても焼いても食えない人間には出会ったことない。

「あ……それって」

 私の眼差しに、ようやく何かを思い出したのだろう。奴は急に神妙な面持ちになって、さらに周囲に聞こえないほどに声のトーンを落とす。

「もしかして、まだ続いてたりする? へー、そうなんだ」

 もう一度、ちらっと視線を投げかける。でも、そのあとは周囲の全てをシャットダウンした。

 


  穂高景子(ほだか・けいこ)、出版社販売部勤務の28歳。

 入社して最初に配属されたのは編集部だったけど、我が儘が過ぎる作家先生と大喧嘩して追い出された。そんなに口が立つんならそっちで頑張れと回ってきた営業職。取引相手とのやりとりはそれなりに大変だけど、自分が法律と言わんばかりに威張りまくる男どもの機嫌を取るのに比べたら天国よ。

 色んな過去がついて回るから、とにかく尾ひれを付けた噂には事欠かない。上司たちからは煙たがられ、部下たちからは顔色を窺われる。まあ、そんなのもどうでもいいの。自分の手で成果を確実に掴み取ることが出来る今の状況は私に一番似合ってると思うもの。
  一部上場の企業? 若手エリート社員? それが何だって言うのかしら。今のご時世、一寸先は闇だって知ってる? 実際のとこ半年一年後にはどうなってるか分からない業界ってかなりあると思う。見てくれや肩書きに飛びつけば、あとで落胆するのは目に見えてる。私はそんなのは嫌。そもそも人のふんどしで相撲を取るような人生はまっぴらごめんなの。
  でもだからといって、全部自分で何もかも片付けて手柄にしようなんて思ってないわ。見込みのありそうな後輩なら一生懸命育てたいと思うし、ゆくゆくは私と肩を並べてやり合うような相手になって欲しいと願ってる。だけど……それがなかなかにして難しいのよねえ。

 一仕事終えて戻ってくれば、余計な話に邪魔される。この程度の報告書類なら誰にだって作れるから指示を出して任せたっていいと思うのね。でも、自分でやった方がずっと早いし間違いも少ないっていうのも事実。外回りも好きだけど、一般事務だって嫌いじゃないの。タイピングは早いほうだし、データー処理なんかも簡単なものならぱぱぱっと目をつむっていても出来ちゃう。

「穂高ちゃんは人に使われるタイプじゃないよね、なにもかも全部自分でやりたいんだから。一から会社を立ち上げた方がいいと思うなあ、その方がずっと儲かるよ?」

 そんなふざけたことをのたまったのが、さっきも出てきた同期の男。憎たらしいことに榊真之介(さかき・しんのすけ)と言う名のあいつは、私のことをかなり正確に把握していると思う。いつかぎゃふんと言わせてやりたいなと思うけど、そのためにはかなりの準備期間が必要よ。ああ憎たらしいったら、早く尻尾を出しなさいよ。
  イライラが高じてくると、それにつられて後から後から快くない記憶が蘇ってくる。はー、一度狂い出すと厄介なのよね。なっかなかニュートラルに戻らなくなってさ。

 半ばやけっぱちになりながらもどうにか書類を完成させ、何度も読み返して念入りにチェックする。それを課長のアドレスに送っておしまい。今の上司は使える人間で良かったわ、前の人は「何が何でもプリントアウトしろ」ってタイプだったから。その後は机の上を片付けて、関係書類を社名入りの封筒に詰める。こう言うときは気分を切り替えるのが一番、やっぱ今日のうちにもう一件回っちゃおう。

「外回り、行ってきます」

 自分の名前のプレートをひっくり返してから、未だにおしゃべりに興じている彼女たちの背中に声を掛ける。あー、よくもまあそんなに話す内容があるものね。同じ人間のはずなのに、どうして取引先に出向くと貝のように押し黙っちゃうのかしら? 普段通りにまくし立てれば、相手も納得してくれるかも知れないのにね。
  ジャケットのポケットから携帯を取り出して、時間を確認。―― 二時半を少し回ったところ。廊下を歩き出しながらポケットに突っ込みかけたそれを、少し考えてからもう一度取り出した。アドレス帳を開いて目当ての名前を探し出し、短いメールを送信。もしかしたら、運が良ければ、向こうから連絡が来るはず。

 

 五分後、期待通りに呼び出し音が鳴り出す。

 その頃私はエレベーターを降りて、会社のビルの外に出た辺り。周囲に気を遣うことなく通話ボタンを押すことが出来た。

「もしもし、景ちゃん? 久しぶりだね、どうしたの」

 穏やかな声の後ろに行き交う車の音が重なっていく。相手も今、外を歩いているらしい。

「うん、久しぶり。別に大したこともないんだけど」

 いつも思う、もしも彼がとても嬉しそうに電話に出てくれたなら、私の受け答えもちょっとは変わってくるかな、とか。そんなこと、今更期待しても仕方ないけど。

「今夜、会えないかな。忙しい?」

 別に断られてもいいやって感じで切り出す。もしも先約があれば、大抵の場合彼はそっちを優先する。それが分かってるから、押しつけるような口調は出来ない。

「ええと……少し遅くなっていいなら平気だよ。九時でいい?」

 待ち合わせ場所を決めると、もう一度時間を確認してから電話が切れる。四ヶ月ぶりの恋人同士の電話はわずか二分で終わった。

 

 

2008年3月17日更新

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