結局のところ、副社長には何を言っても無駄なのだ。何しろ、彼こそが初代ヴィーナスのハートを射止めたその人なのだから。
伝説とか何とか夢見るお嬢さん方は想像力逞しく物語を創り上げてるみたいだけど、本当のところはどうなのかしらね? ちらと聞いたところによると、お相手は自分の直属の部下だった女性だとか。だったら、丸め込むのも簡単だなと思ってしまうのは私だけ? 社会に出るとほんの一年二年の積み重ねの差がものを言うし、悪知恵の働く奴ならその辺を上手く使うに決まってるもの。
あーっ、もう。本当に、どうにかしてよって感じ。
人の言いなりになって生きる人生なんてまっぴらだと思った。どんなに回りくどくても派手に失敗しちゃっても構わない、己の進む道くらい自力で切り開いてやる。その方がずっと気分がいい。……そんな風に思ったからこそ、今の会社を選んだんじゃないの。
ずらりと軒を並べる大手から比べたら確かに知名度は低いけど、その分好き勝手やらせてもらえる。そりゃ、マニュアルの存在しない現場は想像以上に大変だったわよ。仕事を与えられても一体何処から手を付けていいかも分からないの。困り果てて先輩に聞いても「いいのよ、自分で考えたやり方で」なんて返されて。経験がないのに頭を逆さにしたって何も出てこないって言うの。
入社後しばらくの仕事のことなんて、今更思い出したくもない。いやー、確かにあの頃の自分は馬鹿だったと思うわよ。ちょっと立ち止まって冷静になれば分かりそうなものなのに、何で気付かなかったのかと呆れてしまう。だけど、その恥ずかしい経験を重ねたからこそ現在の自分がいるというのも事実。
ちょっと大袈裟かも知れないけどね、それこそ血を吐くような思いで手に入れた全てを放棄するつもりなんてさらさらない。ここで離脱するなんて最高に馬鹿よね、やっと仕事が面白くなってきたところなのに。
……だけど。
煮えたぎっていた脳みそも、外気に当たった瞬間に冷静に戻る。だから好きなのよ、この仕事。一日中デスクにしがみついてパソコン画面と格闘するなんて、私には絶対に無理。これでもキー入力にはかなりの自信があるし、就職活動時にはそう言う職種も進められはした。だけど「やれる」ことと「やりたい」ことは必ずしも一致するとは限らないでしょ。
スーツのポケットから携帯を出して現在の時刻を確認する。次の約束は二時から。あのへろへろ男とやり合っているのが嫌で早めに出すぎたか。こりゃ、どこかで時間を潰さなくちゃ駄目だな。
目的地に向かって足を進めながら、目に付いた喫茶店を覗いていく。だけど、ちょうどランチタイムのまっただ中、どこもかしこも大入り満員で行列が出来るほど。これじゃ、コーヒー一杯にありつくのにどれくらい掛かるか分からない。
「……ふう」
結局、私を受け入れてくれたのは、コンビニエンスストアの壁際に出来たささやかな日陰だけだった。背中をぴったり寄せないとつま先がはみ出してしまう数十センチの空間、この時期にしては珍しい明るい日差しが容赦なく車道を照らしていく。
目的地は目と鼻の先。開閉の途中で一度フロアマットに引っかかる自動ドアの中に入るには、まだ早すぎる。あと十五分は待たなくちゃ。何とも半端に時間が余ってしまった。
連絡してみようかな―― ふと、そんな考えが頭を過ぎる。だけどそんなことしてどうなるのって、すぐに思い直した。だいたいこんな話、一般人に信じてもらえるわけないじゃない。何馬鹿な冗談を言い出すんだって、呆れられてそれでおしまいよ。
それに彼はきっと、私がまた数ヶ月後に連絡してくるって信じてる。今までそう言うサイクルだったから、今回もそうに決まってるって。私たちは何も変わらない。出会いから変わらず、適当な距離を保ってここまで付き合ってきた。だからそのまま、ずっとそのまま。何も望むことがない男に、こっちが何を望んでも無駄よ。
―― 望むって、私が一体何を……?
あちこちから色んな思考が飛び出してきて、頭の中で前代未聞の交通渋滞を起こしている。おかしい、何で私がこんな風にやりこめられなくちゃならないの。私は今まで、自分の信じた道を思い通りに生きてきた。そう言うやり方が一番似合ってると思っていたし、この先も考えを変えるつもりは毛頭ない。
仕事が楽しい、やりがいがある。だからそれでいいじゃない。余計なものを欲しがったり、身の程に合わない幸運を望んだりしたら今までの全てが駄目になってしまう。だから平気よ、今回だって上手に乗り越えてみせる。
しまった、と思ったときにはもう遅すぎた。ああ、そうだったか。やっぱり、コイツが出てくるんだ。
「やあ、ご苦労さん」
通された応接室。ニヤニヤと相変わらずの下品な笑みを顔に貼り付けた男を見た途端、部屋の隅で黒光りする生き物に遭遇してしまったときのような憎悪が浮かんだ。しかし、相手は一応こちらのお得意様。私は大人だから、感情をそのまま剥き出しにしたりはしない。ええ、いつもの営業スマイル。これでキマリよ。
「お忙しいところ、お手間を取らせてしまって申し訳ございません。―― あの、今日は企画部の小山さんとの打ち合わせだったはずですけど……何か急用でも? でしたら、後日改めて出直させていただきます」
立ち上がって一応の挨拶をしたあとに、意を決して切り出した。だって、おかしいじゃない。別に今日はわざわざこの男が出てくるような場面じゃないはずよ。営業部長って肩書きがあるからって、別部署が担当する仕事にまで首を突っ込んでくることないと思うの。
そりゃ、大手レストランチェーンを全国展開する傍らで出版業界にまで手を広げてくるのは今のご時世、なかなか革新的だと思うのね。若者は愚か中高年層にまで活字離れが進む現代、老舗も次々に業務撤退を余儀なくされているというのに。だからこそ、どんなに嫌な相手がいようとも、繋がりを切ってはならないと分かってる。
「いやいや、君が来ると聞けば放っておけないだろう。小山のような若造では、いいように丸め込まれてしまうのが落ちだからな。さあ、前回の青写真、こちらの要望通りに手直ししてくれたかな」
私はこの男が嫌いだ。初めて会ったときから、それはずっと変わらない。でもだからといって、他の誰かに担当を代わってもらうのも嫌だったし、どうにかして上手くやり過ごそうと頑張ってきた。
こっちがこんなに毛嫌いしているんだもの、向こうだって似たようなものだと思うのね。打ち合わせするたびに双方の会話が食い違ってばかりいるし、だいたい最後には年の功だか何だか知らないけど、偉そうに押し切られておしまい。
会えば嫌な思いをするって分かってるなら、あえて避けるという道をどうして選ばないのかそれが分からない。こっちはそれなりに努力してるよ? 別にいつもお偉いさんが出てくる必要はないだろうし、直接担当部署に掛け合った方がよっぽど話が通りやすいと思うし。なのに、どうして察して貰えないんだろう。もしかしてとんでもないM体質なのか、それともとてつもない無謀なチャレンジャーなのか。
「……はい、こちらが今回の資料になります」
駄目だ、今日はどうにもやる気が出ない。こういう場面に直面してようやく分かる、午前中に訪問先ごとに門前払いばっかり食らっていたのは私にとってとても幸運なことだったのだ。だからといってここまで来て引き下がる訳にはいかない。とりあえずは準備してきた通りに説明しなければ。
そうは思うのだけど、ただでさえ理不尽なことを言われて滅入っているところ。必死に自分を奮い立たせようとしても限度というものがある。下調べは入念に行ったはずなのに、どこかに手落ちがあるのではないかと不安ばかりが先に立つ。目の前の男は、一応のところは大人しくこっちの話を聞いているが、いつ何時化けるか分からないし。
今回の仕事の概要はね。こちらの社長が自分の半生を綴った自叙伝を発行したいと言い出したことに始まる。まあ、よくある話ではあるわね。一代で財を成した男が、波瀾万丈の人生を語るって昨日や今日始まったことじゃないわ。だけど、それだけなら自費出版でも何でもやってればいいって話。ウチのような出版社でなくても引き受けてくれるところはいくらでもある。
でもそこは、名前の売れている全国チェーン。やるからにはそれが業務拡大にも結びつかないと駄目なのだとか。先方の要望では、内容はもちろんのこと売り出し方にも策を練ってベストセラー入りするものにしてもらいたいとのこと。そんなこと言われてもね、ヒット作なんてそう簡単に生まれないって言うの。
まあ、こういう自分語りにはそれ用のゴーストライターがいるし、ある程度のネタがあればそれなりに書き上げることは出来る。売り出し方だって、ただ書店に並べるだけじゃなくていろいろ方法があるのよね。でも考えることはどこも一緒だし、その中で頭ひとつでも飛び出すのは大変なのよ。
「駄目だな、全然分かってない。アンタ、前回の話をきちんと聞いてないだろう」
やっぱり、始まったか。
最後のページまで、一通りの説明を終えたところで、奴はおもむろに口を開いた。分かっていたのよ、それまでにも血色の悪いたらこ唇がひくひくと動いていたから。どこから突っ込んでやろうかと、小汚く策を練っていたんでしょうよ。
「ウチの社長がお宅を推すから、こうして相手をしてやってんだけどね。正直なところ、他からもいくつもオファーが来てるんだ。もちろん、名前を出せば誰もが納得するような一流のところからだよ。私としてはそっちに鞍替えした方がずっといいと思うんだが、どうかね」
どうかねって聞かれても、何と返答していいのやら。本音としては金輪際この男と関わらなくて済むなら喜んで提案を受け入れたいところだけど、今回のことはあくまでも企業同士のやりとり。個人の感情はこの際脇に置いておかなくちゃならない。
けど……、だからといってこの先延々といつものような嫌みの応酬が続くの?ちょっとそれは遠慮したい。今の精神状態だとどこまで持ちこたえることが出来るか全く分からないもの。
失礼、と断ってから煙草に火を付ける男を見る気もなしに目で追っていた。どうやって話を切り上げようか、そればかりを考えながら。ああ、こんなんじゃ営業職失格だな。
「……アンタって、男に縁がないだろ」
白い煙をぷかーっと吐き出してから、奴は面倒くさそうに口を開いた。普段ならね、ああまたいつものセクハラ発言が始まったかって身構えることも出来たと思う。だけど今は最高に不快指数が上がっているだけに、怒りの感情が隠しきれない。膝の上に置いた手は、幸いなことにテーブルの下に隠れてる。ぎゅーっと握りしめたら、手のひらに爪が食い込んだ。
「ほら、ごらん。図星だろ、分かりやすい顔しちゃってさ。そういやウチの会社にも似たようなのがごろごろいるな、少しぐらい仕事が出来るからっていい気になりやがっている馬鹿な奴らが。勘違いな闘志を剥き出しにされても、こっちはやりにくいばっかなんだよね。同じことだったら、見栄えのいい若いお姉ちゃんでも寄越してよ。そうすりゃ、こっちも少しは考え直してやってもいいんだけど」
―― 何、コイツ。全然的外れなことばっかり言っちゃって。
大声で反論できたらどんなにかすっきりするだろうけど、私は個人的な感情で大切な取引をフイにするほど馬鹿じゃない。身体中の血液が頭に昇って、たまらなく息苦しい。
私が男に縁がないって? 失礼しちゃうわ、冗談じゃない。残念ながらいるんですけど、十年以上恋人やってる相手が。見た目の印象で決めつけないで欲しいのよね、早とちりもいいところだわ。だけどまあ、勘違いをされている分、こっちの方が少しは優位に立ててる気がする。どっちにせよ、気分が悪いには違いないけど。
「そう……ですか。そちらのご要望はよく分かりました。本日のところは一度引き取らせていただいて、社に帰って改めて検討させていただきます」
全く、性格が悪すぎるのよね。私のことが嫌いなら嫌いって、はっきり言えばいいじゃない。どうしてわざわざそこに理由をくっつけたがるのかしら。付き合いきれないわよ。
「そちらの資料はお預けしますので、企画部の方に回してください。では、失礼いたします」
ああ、口惜しいったらありゃしない。この手の奴はね、担当が女性だからって言うだけでああでもないこうでもないって難癖を付けてくるもんなのよ。今は平成の世で、男女雇用機会均等法が施行されてからも久しいはず。こういう輩がいるから、やる気のある女性たちが次から次へと哀れに失墜していくんじゃないの。
だけど、私は負けないんだから。この先もどんなに辛い理不尽な想いをするかも知れないけど、最後には威張り腐るばかりの男どもを踏みつけてのし上がってやるわ。
「―― 待ちなさい、話はまだ終わってないよ」
大股でドアの側まで歩いていった私の背中に、嫌み男の声が追いつく。ドアレバーをしっかりと握りしめたまま、振り向いた。そりゃ、ちょっとは大人げなかったと思うよ? でも、これ以上いたら何を言い出すか分からないんだもの、私自身。これはあくまでも自制の行為なのよ。
「そんな風に粋がって、何の得になる。少しは頭を使ったらどうだね、その方がずっと楽にやれると思うがな」
自分の父親とそう歳の変わらない男に頭ごなしに言われたら、やっぱり腹が立つけど言い返せないでしょう。経験上分かってる、この手の人間はこっちがひとつ反論しようものならそれこそ十倍、二十倍にして応酬してくるんだ。年の功とか言う、お得意の印籠を掲げて。
「……仰っている意味が、よく分かりません」
勢いよくドアを開ける。その向こうには丁度お茶を運んできた初々しい女性社員がいた。驚く彼女の脇を足早に通り過ぎる。驚いたその眼差しが、どういう訳か私をあざけ笑っているかのように見えた。
気がつくと、目の前は薄暗くなっている。
あれきり、どこにも行く気にもならず、かといって社に戻る気にもなれず、ぼんやりと過ごしていた。こう言うのって、サボリってことになっちゃうのかな。頭が錆び付いていて、思考回路が働かない。
―― 馬鹿みたい、私って。
自分自身が一番よく分かっている。今日の私は、社会人失格だ。やりにくい相手だって、それなりにやり過ごせなくてどうするの。なのに、ついカッとして打ち合わせの途中で飛び出してしまった。
「アンタって、男に縁がないだろ」―― あの言葉は確かに見当違いなものではあったけど、ある意味正直に私への印象を語っていたのだと思う。事実がどうであれ、そういう風に見えてしまう。それは多分、私自身に原因があるんだ。
そうだ、もしかしたら。
ずっと、長いこと心の中でわだかまっていた想い。自分自身の手で引きずり出すのが怖くて、気付かない振りをしてきた。もうそろそろ、それとはっきり向き合う時期に来ているのかも知れない。今のままでいたら、ますます訳の分からない自分になってしまいそうだ。
―― 野上修輔は、私の恋人なんかじゃない。そういう風に勝手に位置づけていたから、面倒なことになっていたんだ。
一緒にいれば、それなりに楽しい。彼との会話は私の向上心を刺激したし、彼の存在は私に負けるもんかという闘志を焚きつけた。だけどそれって、結局は恋人同士のそれじゃない。言うなれば人生のライバル、アイツだけには負けたくないって言う相手。それこそが野上という男だった。
弱い自分なんて見せたくないと思っていた、いつだって強い自分で彼に対していたかった。彼の方が私に何ひとつ弱みを見せないのに、どうしてこちらから手の内をさらけ出さなくちゃならないの。そんなの絶対におかしいと思った。
どこまでも平行線で歩き続けるふたり、その行く手にはそれぞれ別の未来があるだけ。いつか必ず道を違えるときが来ることを、心のどこかで予感してた。
そして、その現実に耐えられるだけ、私はまだ強くなれない。
誰かの無責任な発言に振り回されるなんてどうかしてる。でもそれこそが、私本来の姿なのだ。このまま足下が不安定な道を歩き続けるのは辛い。だったら、残された答えはひとつだけだ。