TopNovelヴィーナス・扉>七夕の恋人・8


それぞれのヴィーナス◇4番目の景子
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「良かった、必ず引き受けてくれると信じていたんだ」

 そう言って、テーブルの上の両手を組み直す。言葉こそは控えめだけど、内心では「ここまで返事を渋るほどのことも無かったでしょう」って決めつけてるのが見え見え。あー、相変わらずの余裕たっぷりな笑顔。この人って今までの人生の中で失敗とか挫折とか人間らしい経験したことがあるのかしら。

「じゃ、本格的に動き出していいかな。今回は色々あって始動までが遅くなってしまったし、善は急げって奴だね。早速社長に伝えて、午後イチで全社員に告知しよう。さあ、これから忙しくなりそうだ」

 何がそんなに楽しいのかしら? 全く、いい大人がどうかしてるわ。ホントのところ速攻で返事をしても良かったんだけど、そうすると何だか物欲しそうな感じがするかなってしばらくは悩んでる振りをしてたのね。その間、私の不快指数は上がりっぱなし。ついでにお肌のコンディションも最悪だ。

「あ、……そうだ」

 やわら立ち上がったあとに、副社長は「今気付いた」って風にこちらに向き直る。オーバーアクションが普通に決まってしまうところがさらに憎らしい。

「穂高さんがヴィーナスだと言うことは今後とも伏せておくことになるから、君も内密に頼むよ。今日の午後からは特休にしよう、美容院でもエステでもマッサージでも何でも行って存分に磨き上げておいで。そう言うのも経費で落ちるから、心配ご無用だよ」

 領収書はちゃんともらってきてね、って……何それ。まあ、企業を挙げてのイベントだから、そういうのもアリなの? でも何だか、絶対におかしいと思うんだけど。

「分かりました、期待しててください」

 何か壊れすぎてるよなあ、自分。今までだったら、こんな馬鹿らしいお祭り騒ぎになんて絶対に関わりたくなかったはずなのに。だけどもう、いろいろ考えるのが面倒になってきたのよね。あちこち行き詰まりっぱなしだし、ここらで一気に弾けてやるのもいいかなとか。……いや、そんなこと言ったって全然盛り上がらないかもしれないけど。

 

 ここ数日、仕事も手つかずのままでぼんやりと過ごしていた訳でしょう。あ、もちろんいつも通りに外回りにも出掛けていたし、社にいるときだってきちんと仕事はこなしていたわ。ただ、ようするにそこに気合いがあるかないかの違いなのね。ま、そんな感じで百パーセント気持ちが仕事に向かってないと、あちこちから雑音がどんどん流れ込んでくるわけ。

  私としては、四年に一度の馬鹿なお祭り騒ぎなんてごくごく一部の人間だけが関わるコアな話だとばかり思っていたわけ。だけど実際には今年の開催を見越して昇進を断った社員までいるらしいし、他企業からの転職組の間にも結構広まっているみたい。と言うか、中には「ヴィーナス」の制度に魅力を感じて我が社を希望した人までいるとかいないとか。何ともはや、ここまで来るとどうにも信じがたい世界ね。
  年度の切り替えで慌ただしく過ごしていた私が全く知らないところで、社内はすでにイベントの話でもちきり。告知が今か今かってそれが気になって仕事に集中出来ない部署もあるらしい。それじゃ、副社長が急ぐのも無理ないわね。社内の士気を高めるのが目的なのに、この状態が長く続いたら全くの逆効果になるじゃない。

 けどなあ、実際のところはどんなもんなんだろ。

 トイレの鏡に映った自分を、改めて見つめてみる。私って、こんなにやつれていたっけ。目の下がくぼんでクマもできてるし、頬の肉もすっかり落ちちゃって。年齢的に不摂生が厳しくなっているのかも。そう言えば以前は徹夜で報告書を書き上げるのなんて簡単だったのに、この頃は朝日が出る前にリタイヤしちゃうっけ。疲れが溜まっているからだと思ってたけど、どうもそれだけじゃないみたい。

―― そんな風に粋がって、何の得になる。少しは頭を使ったらどうだね、その方がずっと楽にやれると思うがな。

 薄暗い表情に、数日前に聞いた台詞が重なっていく。あのとき、奴が見ていたのは私のこんな顔。だとしたら、あれはただ単に私を嘲るためのものだけではなかったのかも。こんな風に不幸の塊のような感じでいたら、あの男じゃなくたってひと言言いたくなってしまうのも無理もない。今となれば、あれは有り難い忠告だったのかもと思える。

 イロコイなんて、全然興味なかった。男という生き物は私にとって天敵以外の何者でもなかったし、奴らを出し抜いて打ち負かすことでだけ最高の喜びが得られると今現在もなお信じている。そして大抵の場合は見た目の結果はどうであれ、心の中では勝利の手応えを感じ取ることが出来た。だけどそれも、そろそろ限界に来ているのだろうか。
  別に男に媚びようと思っている訳じゃない、むしろその逆だ。頭を使えと言うなら使ってやろうじゃないの。そうよ、存分にやらせてもらいましょう。「女なんか」じゃない、「女だから」そうであるからこそ出来ることがあるはず。全世界の半分は男で占められているんだから、彼らと喧嘩したところで得になることなんてなにもないのね。

 そうよそうよ、難しく考えることなんてなかったんだわ。エステ? マッサージ? いいじゃない、やってやりましょう。人手とお金を掛けたからって私が「美の女神」になれるかどうかは謎だけど、そんなことはどうでもいいのよ。

 私、かなり苛ついてる? だったら、それでもいいわ。強い怒りは必ず新たなエネルギーになる、力のかけ方を間違えなければ思いっきり追い風になってくれるはずよ。

 


 時計は午後九時を回ろうとしていた。

 黒い空に向かって伸びている厳つい建物の前で私は立ち止まる。長いこと付き合っていたつもりだったけど、こうして彼の職場までやって来たのは初めての経験だ。別に避けていたつもりはない、何となく気がついたらそんな感じになっていただけ。
  まだ灯りの付いている窓も多い、それでもさすがにこの時間になると通りに人影もないし閑散とした感じ。ここは昼間ならかなり人通りも多くて賑わっているんだろうな。そんな騒がしい日常の中に彼は昨日も今日も、そして明日からも変わらず生きていくんだ。

 ずっと握りしめてた携帯。アドレス帳を開いて、彼のナンバーを選択する。チャンスは一度きりって決めてた。ここで駄目だったら、そこまで。もう永遠に連絡を取ることだってなくなる。短い電子音が続いて、その後呼び出し音に切り替わった。にわかに高鳴り出す鼓動、私はごくりと息を呑んだ。

「……もしもし?」

 普段よりも低い声が聞こえてくる。携帯の液晶画面を確認したなら、相手は私だって分かるよね? それでこの対応、もしかして近くに誰かいるのかな。

「今、下まで来てるの。少し、出てこられない?」

 余計な前置きはいらないって思った。別に電話口で用件を済ませても構わなかったけど、……やっぱりこういうのは相手の顔を見て言わなくちゃ。そうしないと、自分が負けるような気がして嫌だった。
  彼が今現在このビルの中にいるという保証はない、まあそのときはそのとき。それこそ「縁がなかった」ってことね。別に報告するほどのこともないのよ、だからそう気にすることもないって。

「……え?」

 何しろ、ひとつの説明もない訳だからね、そりゃ慌てるでしょう。彼は半分息になった声で短く聞き返してから、いったん言葉を切った。

「その、……このあと会合が入ってるんだ。だから……」

 本当にすぐ側に誰かいるのかも。彼の声の後ろに、何かを打ち合わせるやりとりが通り過ぎていく。そりゃそうだわ、九時五時で終わる職場じゃないんだし、私だってこれくらいの時間に社に残ってることだって少なくない。こういう返答が来ることも予想してた。

「すぐ終わるわ、時間は掛からないから」

 それだけ伝えると、電話を切った。ついでに携帯の電源も落とす。五分だけ、それだけの間だけ待とうと決めた。液晶画面は真っ暗闇だけど、向かい側のビルにデジタル時計が設置されていて時刻を知ることが出来る。彼は来るだろうか、それとも来ないだろうか。いいんだ、そのどちらでも。もうこの先は、二度と野上という男に振り回されることもなくなる。

 だって、おかしいよ。よくよく考えてみれば、私のこの十数年はたったひとりの男の存在に惑わされるばかりで過ぎていった。どうしても打ち崩すことが出来なくて、それでも諦めきれなくて、結果として会うたびにふたりの差を見せつけられる結果になる。もっと早い時期にこんな悪循環は終わりにするべきだったんだ。何でそんな簡単なことに今まで気付かなかったんだろう。
  他の男に乗り換えようとする気も起きなかった。そういう存在が全く現れなかった訳じゃないけど、どんな男も野上と比べれば見劣りしてしまう。あっちが足りないこっちが足りないと思ううちに気持ちが萎えて、どうしてもという気分にまで自分を持っていくことが出来なかった。

 たまに会って、時間があれば身体も重ねる。ただそれだけの関係で、自分たちの間に一体何があると信じていたのだろう。彼から連絡が来ることは少ない、本当にこれだけの長い期間で片手ほどしかなかった気がする。それでも心のどこかで信じていた、また会えると言うことを。だから深追いをすることもなく、日々の忙しさの中に我を忘れることが出来た。
  でも、曖昧な関係が私にもたらしたものは大きい。いつか「おしまい」が来るのではないかと怯え続け、どうしても主導権を握ることが出来なかった。何がそれほどまでに恐ろしかったんだろう、全くもって馬鹿げてる。このまま本当に駄目になってしまう前に、自分の船が進むべき航路を切り替えなくては。

 四分四十五秒、残りあと十五秒。ビルの間を吹き抜ける風に髪を揺らしながら、私は心の中でカウントダウンを始める。そしてそれと同時に、非常口のランプだけが明るく灯るロビーに黒い人影が飛び出してきた。特徴のある体格に、すぐにそれが彼自身であることに気付く。絶対にそうだと確信できる自分自身が、ひどく滑稽に思えた。

「……景ちゃん」

 私の姿を見つけても、まだ信じがたいという様子。彼の小さな目が戸惑いながら問いかける。しかしすぐには次の言葉も出てこないようだ。何かを確認するように、ふたつみっつと瞬きをしてる。

「一体どうしたの。その……髪、切っちゃったんだ」

 まあ、気付かない方がおかしいよね。だいぶばっさりいったもの。長いこと手入れのしやすいロングで過ごしていたから、こんなヘアスタイルは久しぶり。美容院に通う機会は増えるけど、まあそういうのもいいかなって。

「うん」

 あっさりと応えるのがいい。だって、本当に未練も何もなかったもの。ほんの少しでも、驚いてくれたらそれでいいと思った。目的が果たせたから、もう怖いものはない。

「あのね、もう会えないから。それだけ伝えようと思って。忙しいのにごめんね」

 短く言葉を切りながら、それでもはっきりと伝えられたと思う。ようやくこれで終わる、もしかしたら私は逃げるのかも知れない。だけど、これより他に道はないから。自分のためにはこうするしかないんだ、そしてきっと彼のためにも。

「―― じゃあこれで、さよなら」

 そう言い終えた刹那、胸が引きちぎられるような痛みが起こった。ああ、とうとう終わるんだ。本当に呆気ない、やってみれば笑っちゃうくらい簡単なことだったんだな。

 あとはただ、振り向きもせず走り去るだけ。角を折れて大通りに出ると、前もって示し合わせたかのように空車のタクシーが止まった。

 

「新宿まで、お願いします」

 うわ、何だかこれってドラマのワンシーンみたいだ。この状況でそんなことに感心している自分に呆れてしまうが、本当にそう。タイミング良く開いたドア、するりと滑り込んだシート。柔らかい革の感触に辿り着いたとき、車は音もなく走り出した。

「この時間だと、途中混むよ? それでもいいかな」

 運転手はバックミラーでちらりと私を確認すると、ぶっきらぼうにそう告げた。そりゃそうだわ、どっから見てもお役人とは思えない風貌の私。しかも無駄にめかし込んだりしてるもんだから、「これからご出勤」だと間違えられても仕方ない。

「構わないわ、お願いします」

 ここでそれ風の女はシガレットケースを取り出したりするのかな。幸い禁煙車じゃないみたいだし、ご親切に灰皿まで準備されてる。しかしまあ、そこは喫煙者じゃないんだし持ち合わせもない訳だから始まらない。本当に自分でもどうしちゃったのかなと思うけど、もうここまで来たらとことん馬鹿になりたくなったみたいよ。
  もう肩肘張って生きるのは止めよう。そんな風に粋がったところで、何にもならないもの。もっと利口にならなくちゃ、せっかく女に生まれたんだからその恩恵には与らなくちゃ損よ。こうなったら思いっきり弾けてみようと思うものの、窓ガラスに映る顔が死人みたいに青ざめてる。

 ―― 彼、少しは驚いてくれたかな。

 その姿を確認しようとしなかったのは私自身なのに、何故か今頃になって不安になる。否、やっぱりそれはないな。もしかしたらしばらくは私の背中を見送ってくれたかも知れないけど、その後は何事もなかったかのように元通り自動ドアに吸い込まれていったはずよ。私の言葉を素直に受け止めて「ああ、そうか」って風にね。このあとにも仕事が控えているんだから、そんなもんだわ。

 終わったんだな―― そう思ったら、ようやく感傷のようなものが胸にこみ上げてきた。当然のように過ごしてきた日々、でもこうして幕切れを迎えたあとに残るものは何もない。やってみれば簡単で、すごく呆気ないものだったんだな。
  ようやく、これで自由になれる。あの男のことを忘れれば、私はもっと楽に生きていけるはずだ。この先、どんな出会いが待っているんだろう。企業を挙げてお膳立てしてくれるのだから、それなりの手応えがあるはず。あとは流されるまま、のんびり進んでみよう。

 

「あーっ、もう詰まってる。参ったな、こうなるとそう簡単には動かないよ」

 乱暴な急ブレーキ。ごちゃごちゃの頭の中を交通整理している最中に、急に割って入ってきた雑音。ハッと我に返ってみれば、右も左も車線変更をするゆとりもないほどにぎっちり車で埋まってる。

「お客さん、どうします? どうもこの先で事故があったみたいだ。このまま待っても埒があかないから、降りて歩けば? そう大した距離じゃないよ」

 話が最後まで終わらないうちに、のろのろと数メートル前に進む。だけどその後はまた、赤いテールランプが延々と続く中に迷い込んでしまった。

「……え、でも」

 いい女を気取ったつもりが、まったく予想外の展開。何てこと、ここから先を歩けっていうの? だって乗車した場所からいくらも進んでないじゃない。

「車脇に寄せてあげるからさ、この先ちょっと歩けば地下鉄の入り口もあるし」

 強引に左車線に割り込むのが、いかにも手慣れている感じ。どうにもこちらの言い分なんて聞きそうにないな。まあ、仕方ないかと顔を上げたときにサイドミラーにちらりと黒い人影が映った。

 

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2008年7月18日更新

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