人生長くやっていれば、時に有り得ない現実にぶち当たることもある。
よく言うよね、「事実は小説より奇なり」とかなんとか。でも私、残念ながらひどく現実的な思考回路しているし、ちょっとやそっとの場面だったらすぐ冷静に分析を始めてしまう。ぎょっとするような出来事でも、よくよく考えてみれば絶対どこかに原因があるし、つまるところ火のない所に煙は立たないってね。
「……」
半ば強引に降ろされたタクシー。進行方向と逆に振り向くと、先ほどの人影が視界に入った。そんな馬鹿な、絶対にあるわけないよと思うのに、どうしてもそこから目が離せない。しかも呆然と立ちすくむ私の脇ではあっという間に渋滞は解消され、色とりどりの車が元通り勢いよく流れて出した。
―― それにしても、さっきからあまり距離が詰まってないように見えるけど。
言っちゃ悪いとは思う、でもこれは紛れもない事実なの。街灯と車のライトに交互に照らし出されるそれは、ジグザグに蛇行している感じでその大袈裟な動きとは裏腹に全然近づいてこない。その気になれば、ピンヒール履きでも簡単に振り切れるほどの間隔だ。
まあ、もともとそんなに運動神経が良い方ではなかったように記憶しているけどね。仕事が忙しくて体力が落ちてるとは言っても、これはさすがにマズイでしょう。
「……あの、」
声なんか掛ける必要ないよね、だってさっきちゃんと「さよなら」したんだから。私もつくづく馬鹿だよなあ、今更どうして道を引き返しているのよ。
「……」
本当は低い唸り声みたいな声がしたのかも知れない。だけどそんなの車の騒音がひどくて全然聞き取れないし、それでも彼が私の言葉にきちんと反応したのは確かだ。髪も短くしてエステとマッサージで心機一転、すっかり生まれ変わったつもりの私。だけど、結局のとこ変わったのは外見だけだったみたい。
「何、してるの?」
他にもっと訊ね方がありそうなものだけど、残念ながら的確な言葉が思い浮かばない。互いが歩み寄ったお陰で次第に人間の姿になっていく「影」は、私が思い描いていた姿とは全く違うものだった。
―― すごい、よれよれ。
ほんの十分前だっけ、それくらいだよね別れたの。なのに短時間でどうしたらここまで変われるの。背広はボタンをはめたまんまで半分脱げかけて、ネクタイに至っては襟巻きのように首にぐるぐる巻きになっている。スラックスもあちこち汚れていて、どう見てもどこかに引っかけたか転んだりした感じだ。でも、険しい山道ならいざ知らずここは大都会、美しく整備された舗道で足を引っかける場所も見当たらないわ。
SFアクション映画の世界なら、途中で異空間に吸い込まれていたって説明も付くけれど。うーん、現実社会ではそれも有り得ないよなあ。
「……う……」
必死に口を動かしてみせるけど、ほとんど声になってない。ペース配分を間違えたマラソン選手に近い感じかも、と言うことはこの状態は本人にとって滅茶苦茶辛いんじゃない? 顔色もかなり悪いよ。いや、こんな風にじっくり観察しているのもヤバイかな。
とりあえず何か水分をと思ったら、すぐ側に自販機があったりするし。まあそれくらいは世話してやってもいいだろうと、青いパッケージのスポーツ飲料のボタンを押した。手渡してやると、すぐに半分くらい一気に飲み干してそのあと大きく咳き込んでいる。うーん、これって間違いなく「彼」なんだよなあ。背格好は似てるし、と言うか本人そのまんまなんだけど……全然イメージが結びつかない。
「……ご、ごめんっ、そのっ……」
そこまで言い掛けて、ぶるんぶるんと首を左右に振って。何だか、まだ意識が上手く繋がってないみたいだ。このくらいの夜更けになれば上着も欲しくなる季節に、その額からはだらだらと汗が流れ落ちている。
「……だからっ、その……、ええと……」
彼の視線は私の顔と自分の足下を交互に移動している。でも幾度首を横に振ったところで、言い直したところで、私の短い質問に対する答えは見つからない。別に相手をしてやる義理もないかと思ったんだけどね、あまりにも珍しい光景だったこともあり足に根っこが生えちゃったみたいだ。
しばらくの間、お互いに向き合ったまま。時々ふたりを追い越していくスーツ姿に物珍しそうな視線を投げかけられていた。
「別に話すこともないんでしょう、だったら終わりにしない? そっちも仕事、残ってるんでしょ。早く戻れば?」
再びそう問いかけたのは、どれくらいの時間が経過してからだろう。だってもういい加減、このまま無駄に時間を潰すのもどうかと思ったし。
「……い、いや。その……」
また、もごもごと声にならない言葉で口籠もる。
一体どうしちゃったのかな、全く彼らしくない。この人って見た目の穏やかさとは裏腹に、結構饒舌な一面があるのよね。特に自分の得意分野だと永遠と止まらなくなってしまうことも多々あった。そうじゃないときだって、いつでも私の言葉に間髪入れずに短い返事を返してくれてたはず。
「だから、何?」
こんな冷たい言い方するのもどうかとは思うわ。でも仕方ないじゃない、他にどんなやり方があるというの。私、回りくどいこと嫌いなのよ。
「……その、景ちゃんがもう会えないとか言うから、だから……」
小さな瞳の奥が震えている気がしたのはどうしてだろう。そんなはずはない、この男は何があっても動じたりしないのに。慌てるのはいつも私だけ、ひとりで苛ついたり憤ったりで、そのたびにひどく落ち込んでいた。
「だから?」
言いたいことがあるなら、いい加減はっきりすればいいのに。そう言う思いごと吐き捨てた、短くてきついひと言だった。彼はハッとして、向き直る。
「……だから、その。気がついたら身体が勝手に……ごめん、本当にそれだけなんだ。理由を訊ねられても、答えなんて見つからない。な、何かもう……」
ある場面では執拗に私に触れる手のひらが、今は自分自身の汗ばんだ額を覆う。私は彼以上にその感触を良く知っている、何故かその瞬間にそんな風に思っていた。
「……こんなの、信じられなくて。だから、追いかけなくちゃって……」
違うよ、そんな言葉は聞きたくない。私は心の中で小さく呟くと、きつく唇を噛みしめた。
「追いかけたって、どうなることでもないでしょ? 何考えてるの、馬鹿みたい」
そうだよ、私はタクシーに乗って走り去ったんだよ?
不幸にして途中で降ろされてしまったけど、本当ならあのまま順調に進んで今頃は目的地の駅に到着していたはずだ。そしたらその先は電車だし、絶対に追いつくはずもないじゃない。
「……それはそうなんだけど……」
そこまで来て、彼はようやく自分の目尻をぬぐった。すっかりぐしょぐしょになっちゃって、顔のパーツまで配置が変わってしまったみたい。
「で、こうして追いついた訳なんだけど。それで、この先どうするつもりなの?」
彼の眼差しが再び空を漂って、そのあと躊躇いがちに私の方へと辿り着いた。乱れた前髪が額に掛かって、その表情が上手く読み取れない。
「……どうって……」
そのまんま、しばらく固まって。何かを真剣に考えているのか、それとも完全初期化してしまった頭でぼんやりしているのか。額に置かれた手のひらが輪郭を辿って顎まで辿り着き、乾いた唇を一度ぬぐった。
「……け、景ちゃんがいなくなるのは困るんだ。いつかはきっとこんな日も来るだろうと予想はしていたはずなのに、いざとなると覚悟が決まらなくて……その、何て言ったらいいのか、分からないけど。景ちゃんに会えなくなる人生なんて、どうやっても想像が付かない。だから、その……どこにも行かないで欲しいんだ」
たどたどしい動きと、ぎこちない言葉たち。
今、私の目の前にいるのは、遠い昔に教室の学級文庫の前で静かに佇んでいた気弱な少年だった。昼休みにはクラス全員が外に出るようにと言われて、仕方なく誘いに行ったことがあったっけ。そのときの彼は、何かにひどく怯えた、そんな目をしていた。
「そんな風にお願いされたって、無理だと思うけど。だって、私は私だし、自分の好きなときに好きなところに行きたいし。どうして野上に合わせて行動しなくちゃならないのよ」
あーあ、駄目だ。どうしてこんなに小憎たらしい言い方になっちゃうんだろう。今まで振り回されるばっかりだって思ってたのに、いきなりこちらに主導権を渡されちゃって。もう力の制御が利かなくなってる。
「べ、別に……こっちに合わせてもらう必要は全然ないよ」
相変わらず弱々しいけど、その響きの中にほんの一筋の力が宿っている。きっと彼は、何かをはっきりと掴み取ったに違いない。
「どこに行っても、何をしてても構わない。でも、必ず戻ってきて欲しいんだ。今までがそうだったように、これからもずっと。自分勝手な我が侭なのは分かってる、でもそうしてくれないと駄目なんだ。このままだと自分自身を見失ってしまいそうで」
そんなこと、言ったってさ。私は別にここにいる男が自分を見失おうとどうなろうと関係ないのよね。関係ないとは思うんだけど……何だか、このまま突っぱねちゃうのはさすがに良心が痛む気もする。
「ふうん」
嫌だなあ、偉そうな女で。自分で自分に突っ込みを入れながら、私は出来るだけ効果的な次の言葉を必死で探していた。
「私、そんなに大切に想われていたんだ。……今まで全然気付かなかったけど」
ちょっと思わせぶりに目配せなんてしちゃって、本当どうにでもしなさいって感じだわ。だけど自分自身に呆れていく気持ちとは裏腹に、心は妙にふわふわしてる。だよなあ、こんな話したことなかったし、何だかとても新鮮なのね。
「もっ、もちろんだよっ……!」
冷静沈着な優等生で通してきた彼が、ここまでうろたえるのも見物だな。ううん、実際のところ私自身も相当舞い上がってるみたいで普通じゃなくなってるけど。
「ずっとそうだった、自分ひとりじゃ怖くて逃げ出したくなるような時でもどうにか踏ん張れたのは景ちゃんがいたからだよ。絶対に格好悪いところは見せたくなかった、だから必死に踏みとどまったんだ。正直、分からなかったんだ、どこまで頑張れば景ちゃんに認めて貰えるのか。分からないから、目の前のことを確実にこなしていくしかなかった。でも、……本当はいつも不安だったんだ」
いい大人がふたりして、告白大会なんて馬鹿げてる。あまりに情け過ぎて泣けてきそうよ、こうして考えてみれば私、今まで随分と無駄に粋がっていたんだな。少し目線を変えて素直になれば、そこには全く別の世界が広がっていたのに。
そうだな、……言われてみれば私も結構不安だったかも知れない。堂々巡りの毎日が辛くって、この頃ではそこから抜け出すことばかりを考えてた。
「―― いい加減、仕事戻った方がいいよ。ほら、服も整えて。こんな格好してたらどうしたのかと思われちゃう。人前では出来る男でいてくれなくちゃ、私のためにも」
猫背になった肩先に触れて、らしくもない言葉が出てきた。ちょうど顎が乗っかるくらいの高さ、そこが私の指定席だ。
「確か近くに深夜まで営業している喫茶店があったよね。そこで待ってる、だから……今日は一緒に帰ろう?」
彼が驚いた顔で振り返る。そして、一息の間合いを置いてから肩先の私の手をそっと取った。
「……いいの?」
私は黙ったままひとつ頷く。その瞬間、まつげの先を眩しすぎるテールランプが通り過ぎた。
安定と不安定、不安定と安定。
……自分自身がここまで俗っぽい人間だとは驚きだ。今は目の前にもやもやしていたものがすっかりと晴れて、ものすごく見通し良くなっている。お互いの領域を侵略しないように付き合うのって、かなり大変だと思っていたのね。だけど思い切ってやってみると意外とどうにでもなるものみたい。
「待ちくたびれたでしょう、もう少し早く出てこられると思ったんだけど」
洗い立ての気持ちいいシーツの上。こういう風に忙しくても身の回りのことをきちんとしているのが彼っぽい。良かった、私の部屋に誘わなくて。あれじゃ、一晩掃除したって終わらなそうよ。
彼の方はさすがに眠そうだ。過密スケジュールの合間に全速力の疾走までしちゃったんだから仕方ないかな。帰り道もほとんど会話がなかったし、相当疲れているんだろうなと思ってた。
「ううん、だってこれが普通なんでしょう? 別に謝ることもないわ、さすがに閉店まで待って来なかったらヤバイかなと心配になったけど」
あ、それは嘘だな。そうなったらなったで、店の前に出ていればいいのかなと考えてた。何というのかな、焦りとかそういうのが全然なくて、絶対に来るって確信している相手を待つのってとても簡単なことなんだって分かった。
「……そう」
汗ばんだ手のひらが、壊れ物を扱うみたいに私の肩先に触れる。何度も何度もその存在を確認しているみたいに。あのときの惨状は何だったんだろうって思っちゃうくらい、仕事を終えて深夜私の前に再び現れた彼はいつも通りに戻っていた。だけど私は何となく分かった、ああこの人はどんなときも「鎧」を着て歩いているんだなって。
難しく考えることなんて、何もなかったんだ。
一緒にいたいなら、いればいい。もしもふたり顔を合わせる時間が一日のうちのほんのちょっとしかなかったとしても、それが出来るなら難しく考えずに一歩踏み出してみてもいいんじゃないかな。
「明日、いつも通りなんでしょ? もう寝なくちゃ駄目だよ。寝過ごして遅刻なんて、恥ずかしいじゃない」
もう一度始まりそうな指先を制して、私の方が小さなあくびをした。色んなことがありすぎて、すごく疲れたな。でもこんな心地よい疲労感なら、明日は爽快に目覚められそうな気がする。ひとりでは難しいことも、ふたりならどうにかなりそう。今夜の私はどこまでもポジティブだ。
……ま、明朝出社したら一悶着はありそうだけど。それもそれ、雨降って地固まるって奴よ。
ヴィーナスのこととかいろいろ、彼に打ち明けるのはもうちょっとあとでもいいかなって思う。まずは自分たちの足下をきちんと固めていこう。ちょっと前まではどこまでも平行線だと思っていたのに、ちょっと頑張ればどうにかなりそうな気がしている。でもそれだけは、彼の方から言い出して欲しいな。
「大丈夫だよ、朝には強いから。景ちゃんのこともちゃんと起こしてあげる、だからもうこの先目覚まし時計はいらないよ?」
受け取りようによってはかなり意味深なひと言。驚く私に笑顔で応えて、それから彼は短いキスをした。