TopNovelヴィーナス・扉>七夕の恋人・3

それぞれのヴィーナス◇4番目の景子
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「お待たせ」

 あの頃と変わらない笑顔がゆっくりと近づいてくる。最初の待ち合わせ時間を五分ほど過ぎてはいたが、それくらいはお互いの間で許容出来る範囲になっていた。こういう場合、もしも私が遅れる立場だったらわざわざ連絡は入れない。だけど彼は「このままでは無理だな」と気付いた時点で、毎回きちんと伝えてくれる。もちろん今夜もそうだった。

「ううん、私も今来たところだから」

 お陰で空いた時間にメイクを直して髪を整えることが出来た。そうしたところで一日分降り積もった疲れや乱れが大して改まることもないと思うが、とりあえず気分の問題ね。微笑みをかたち作る口元にも余裕が保てる。

「そう、良かった」

 彼の声のトーンはいつも一定だ。嬉しいときも悲しいときも、もしかしたら苛立っているかなというときもほとんど変化が見られない。私はすぐに感情が表に出てしまうタイプだから見習わなくちゃって思っているけど、コレがなかなか上手くいかないのね。

「食事、まだでしょう。まずはどこか入ろうか? ……この辺りだと何がいいかな」

 少し背伸びをして周囲を軽く確認する。そして再び視線が私に戻ってくる頃には彼の中にはもう答えが浮かんでいるのだ。

「中華と和食だったら、どっちがいい? 疲れてるようならさっぱりしている方がいいかな。郷土料理の店なんだ、この通りの先すぐだよ」

 言い方によってはかなり強引とも思える発言。だけど彼に掛かれば、押しつけがましさなど微塵もないあくまでもソフトな「お伺い」の響きになる。

「うん、別に。何が食べたいとか特になかったし」

 こっちの返答だって誉められたものじゃない。投げやりで気のない感じ、それでも彼は笑顔で受け止めてくれる。無理に取り繕ったり飾ったりしなくていいから、とても楽な関係だ。彼は私がどんな気分で連絡を入れたのかちゃんと理解していて、そして必ず肯定で答えられる質問を用意してくれるのだ。
  緩やかに、でも確実にこちらを包み込む様なリードの仕方に納得のいかなかった時期もある。私は何もかもを自分のペースで決めてしまいたい性格だったから、慣れるまでは居心地が悪くて仕方なかった。だけどどんなに足掻いたところで、彼に敵うことなんて有り得ない。そう理解して受け入れるまで、途方もなく長い時間が必要だった。

「景ちゃん、また痩せたみたいだね。あまり食べてないんでしょう?」

 彼の言葉は空気みたいだ。ふわふわと漂って、やがて私の心まで辿り着く。面倒な装飾が一切ない、ストレートな問いかけ。

「うーん、そんなことないと思うけど。ただこの頃はちょっと忙しかったかな?」

 年度末の二月三月は片付けても片付けても新しい仕事が舞い込む感じでキリがない。やはりこの時期にしか売れない書籍もあるし、だからこそライバル社との競争も熾烈になる。ちょっと気を抜いたそのときが命取りになるのだ。

「でも食べないのは良くないよ、景ちゃんはもう少しふっくらしていた方が可愛いと思うな」

 ハッとして振り向いた私の顔は、少し動揺していたかも知れない。だけどそれに対する彼の方は一瞬前の自分の発言なんてすっかり忘れてしまったかのよう。あっさりと次の話題に移っている。

 ―― びっくりした。「可愛い」なんて表現が、自分を形容する言葉として使われるなんて思わなかった。

 きちんと結い上げた髪をほどいたら、背中半分ほどの長さになっている。今夜はその姿を見せるところまで行くのかな、とそのときふと考えた。

 


  泣いて泣いて、もうこれ以上は涙が出てこないと言うところまで来ると、信じられないほど頭がクリアになっていた。あのとき、母親が買い物に出ていて本当に良かったと思う。余計な心配を掛けることなく、私の進むべき方向はしっかりとひとつに決まっていた。

  心にあった一番大きな感情は怒りだったと思う。野上修輔という男が発した許されない言葉が、私のくすぶり続けていた闘志に火を付けたのだ。それまでの数日は参考書やノートを広げたまま向かうことのなかった机にかじりつき、入試本番を迎える朝まで寝る間を惜しんでの奮闘。自分の中にこれだけのものが残っていたのかと驚くほどに必死だった。
  ふと集中力が途切れそうになると、必ず彼の顔が脳裏に浮かんだ。すると瞬く間に疲れなど吹き飛んで、さらなる力が湧いてくる。その頃には周囲の雑音も全く気にならなくなっていた。

 

 その日、朝のホームには霧が立ちこめていた。卒業式の翌日だというのに、真冬に後戻りしてしまったかの様な寒さ。やっぱりやせ我慢なんてしないで冬のコートを出して着てくれば良かった。凍えた両手をこすり合わせてみても、気休めにもならない。早く電車が来ないかなとホームの端に目をやったとき、見覚えのある立ち姿を発見した。
  休日の早い時間で、サラリーマンや学生の姿もまばら。平日なら人混みの中で見過ごしてしまえたのにとすごく嫌な気分になる。あいつって、視力どうだったっけ? そんなことを考えているうちに、相手が私に気付いてしまったみたい。迷いのない足取りでこちらに向かってきた。

「おはよう」

 ありきたりの朝の挨拶と共に、白い息が吐き出される。卒業したはずの中学の制服を着込んだ私たちはどこから見ても「知り合い」。だけど、私の方はすぐに挨拶を返すことが出来なかった。

「電車、遅れてるんだって。この霧じゃ仕方ないね」

 晴れの門出にケチを付けたくもないし、出来るだけ感情を押し殺していた。それでも頬の辺りがふて腐れていたであろう私には全然気付いていないのか、彼は当然のように話を続ける。乗るはずの電車がなかなか到着しない場面で見知った顔と出会った、そんな感じで。

「……そう」

 とりあえず口の中でもごもごと返事をしながら、人の都合も考えず勝手に遅れているダイヤを呪っていた。そうか、同じ高校に向かっているんだからね。そこまでの交通手段もひとつとなれば、こうやって遭遇してしまう危険もあり得たのか。あー、早く電車来ないかな? 白い霧の向こうにふたつに光るライトが現れる瞬間を心待ちにしてしまう。

 会いたくなかった、コイツにだけは。

 一般入試の当日までは、疫病神のように私の頭の中に取り憑いていた男。でも全てが終わったあとは、跡形もなく消え失せていた。合格発表までの数日間も、「やるべきことは全てやった、私は全力を出し切った」と思えたから、驚くほどすっきりした気分で過ごせたと思う。悶々として何も手に付かなかった推薦希望入試のときとは大違い。
  実際、発表の日。私の知らせを受けて電話の向こうではしゃぎまくる若い担任を冷静に受け入れることが出来た。絶対にあんたの手柄じゃないんだからと思いつつも、まあそう信じたいならご自由にって感じで。
  私にとっての受験は、まさに長い長いトンネル。暗くてひとりぼっちで始終不安と絶望に押しつぶされそうになって、どろどろした底なし沼に沈まないように必死にもがき続けていた。たくさんのことに悩んだり苦しんだり、答えのでない感情に振り回されていた気がする。本当に辛かった、もう辞めたいと何度も思った。だけどあの日からは―― 全ての迷いを振り切って走り出せたんだ。

 そして、手に入れた合格通知。今日は進学する高校で行われる入学前説明会だ。

 

「はい、これ」

 勝手に回想シーンに入っていた私の目の前に、不意に差し出されたもの。黄色をベースにしたデザインの小振りなそれは、缶入りのレモンティーだった。

「寒いでしょ、手に持ってるとだいぶ違うよ?」

「何よ、これ」って顔してる私に、彼は構わずに話し続ける。ようやくはっきりと視界に納めることに成功したその顔は、いつも通りの穏やかなものだった。

「いいよ、私は別に―― 」

 そんなものいらないから、って続けるつもりだった。だけど彼は私が話し終える前に、強引にそれを手に握らせてしまう。

「大丈夫、もう一本買ってあるから。それは景ちゃんの分だよ」

 そこまで言われたら、受け取るしかないでしょう。何だか相手の意のままに丸め込まれたみたいで面白くなかったけど、それでも缶の表面から伝わってくるぬくもりには抵抗できなかった。その後、私たちのやりとりを終えるのを待っていたかのように電車がホームに滑り込んで来る。行き場のない感情を置き去りにしたまま、それきり会話が途切れた。

 月が改まって憧れの制服に身を包んで登校するようになってからも、かなりの頻度で彼と遭遇した。何故か偶然の一致で乗る電車が同じになってしまうらしい。それが証拠にホームで出迎える彼の表情にも若干の驚きが見える。とくに本数も多い通勤通学時間帯なのに不思議なこともあるものだ。駅を降りてから歩く時間を含めれば一時間弱の道のりになり、気付けば彼は退屈な時間の話し相手になっていた。
  私が部活に入って朝練が始まってからは、さすがに朝は顔を合わせる機会が少なくなった。それでも夕方は図書館で勉強をしているらしく下校時間に鉢合わせることになる。よくよく考えれば、人生のほとんどを同じ場所で過ごしていた私たちなのだ。話題に事欠くこともほとんどなく、実際彼の持ち合わせる知識と過去の記憶は半端なものじゃなかった。

「小学校六年生のとき、景ちゃんは応援団で副団長だったでしょう。人間ピラミッドの一番てっぺんから飛び降りるの、かなり危険だなと思っていたんだ。あれ、怖くなかった?」

 組み体操の授業の話が、いつの間にかまた思い出のページをめくっていく。でも、私はそう切り出されても、すぐには記憶に辿り着かなかった。応援団は中学でもやったから、そっちの方が鮮明に思い出される。何もかも良く覚えているものだなと感心するばかり。それを指摘すると彼は少し笑って、当然でしょうと言った。

「景ちゃんはどこにいても目立つからね、忘れるわけないよ」

 もちろん彼は、私のことだけではなく他の同級生のことも驚くほど良く覚えていた。もともと他の生徒達とどこか違うと思っていたが、何かもうあまりにスケールが違いすぎる。誰もが自分のことで手一杯になっている子供時代に、どうしてここまで周囲に目を向けられたのだろう。本当に信じられない。もしかすると私は、とんでもない相手を勝手にライバル視していたのではないだろうか。
  遠足のこと、地域活動のこと、担任の先生に修学旅行、そして宿泊学習。たとえ卒業アルバムを開いても、ここまで懐かしく鮮明に思い起こすことは出来なかったと思う。それに今の高校生活のことや当たり前の日常会話を含めれば、話題は無限に広がっていく。
  彼はいつでも有能な語り手であった。どちらかと言うと無口な方なのかなと思っていたのに、遠慮がちに開く口から飛び出してくる話はどれも面白く興味深い。たとえば映画や小説の話になれば、そのストーリーをこちらが求めている情報を見極めた上でとても分かりやすく伝えてくれる。
  一生懸命説明してくれても全く話の見えない人とか、知りたくもないラストまで教えてくれる興ざめな人とかも多いし、もしかしたら私もどちらかというとそっち側の人間になってしまう様な気がするのに、彼の超人ぶりと言ったら留まるところを知らなかった。

 気の合う仲間として退屈な通学時間を和ませる相手として彼と過ごすうちに、私の中にあった不格好なわだかまりも次第に薄れていった。だいたい彼の方が何も気にしていない風なのに、どうして私ばっかりが苛ついたり腹を立てたりしなくちゃならないの? そんなのって面倒だし、正直時間の無駄だし。何より小さなことにいつまでもこだわっているって、私のプライドが許さない。

  別に何が何でも時間を合わせようとは思わなかったし、互いの姿が見えないときは連絡を取り合うこともなく別々に登下校した。つかず離れずの関係が心地良くて、いつまでもぬるま湯の中に漂っていたいと思っていたのかも知れない。季節は巡り、いつの間にか高校生活も半ばを迎えようとしていた。

 

「穂高って野上と良く一緒にいるけど、付き合っていたりする?」

 放課後の部活メニューをこなし、コート整備をする一年生達を見守っていた。春の大会で先輩である三年生が引退し、自分たちが部活を引っ張っていく立場になっている。何となく中学に引き続き部長の肩書きを背負うことになった私に声を掛けてきたのは、同じくテニス部の男子部長だった。

「え?」

 さり気なく接近されていたことにも驚いたし、彼の発言にはもっと驚かされた。日誌の上を滑っていたシャープペンシルが止まる。

「同中なんだろ? 仲良さそうだからさ」

 先週の地区予選で三位入賞して県大会出場が決まっている彼は、見るからに爽やかテニス・ボーイ。癖毛の私にしてみれば嫌みとしか思えないさらさらストレートで、すらりと長身。でもそこは鍛え抜いたスポーツマンだから適度の筋肉はあるし、日焼けの具合もムラなく最高だ。

 ……でも、何でいきなりこんなこと聞いてくるのよ?

 一年以上、同じコートで汗を流してきた仲だ。テニス部は男子と女子がはっきり分かれていたけど、毎日の様に顔を合わせていればうち解けるなと言う方が難しい。部長同士ともなれば打ち合わせをする機会も増えるし、なおさらだろう。

「ふうん、すぐに返事がないということはちょっとは期待してもいいのかな?」

 鋭角の顎、かたちのいい鼻筋。イマドキのアイドルグループに突っ込んでもそれなりにやっていける様なルックスだ。かなりの野心家で対戦相手の分析も欠かさないという策士な部分もポイント加算の要因だろう。噂では同級生後輩問わず、何度も告られてるって話。

「期待って、何を?」

 あとになって考えると、このときの私の反応ってすごく間抜けだったと思う。結構はっきりと意思表示をされてたのに、どうにも気のない感じで。

 振り返ったその場所に、彼はもういなかった。返事は後日というところか。しかし、風の通り過ぎたあとになお耳に残っていたのは、私の心を強く波打たせた最初の問いかけだけだった。

 

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2008年5月1日更新

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