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それぞれのヴィーナス◇4番目の景子
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 野上修輔(のがみ・しゅうすけ)と初めて出会ったのがいつだったのか、実は良く覚えていない。

  同じ教室で机を並べていたのは、小学校に入学してすぐの最初の二年間だけだったと思う。当時から彼はいわゆる「秀才君」タイプであり、クラスメイトであることすら忘れてしまうくらい存在感がなかった。
  仲間たちが競って外に飛び出していく休み時間も、彼は学級文庫の前でひとり静かに読書をしている。だからといって周囲から浮いているという風でもなく、グループ活動などの時には与えられた役割をきちんとこなしていた。今から考えると、色んな意味で大人だったのだと思う。
 てっきり小学校入学が初顔合わせだとばかり思っていたら、幼稚園も一緒だったと言うことが随分あとになってから判明。そんなはずはないと食い下がる私に、彼は間違いないと言い切る。信じられない気持ちで後日自分の卒園アルバムを確認したら、ふたりとも同じページに載っていた。

「やっぱりそうだったでしょう」

 私が決まり悪そうに自分の誤りを認めたとき彼は特に気にする様子もなく、それどころか真実に辿り着いたことを喜んでくれているようにさえ見えた。いつもと変わらない、静かな微笑み。あまりにもあっさりした反応のために時として周囲からあらぬ誤解を受けることもあったが、そう言う場合もひるんだり慌てたり常人が見せるような行動は一度も起こさなかった。

 見れば見るほど、不思議な存在。

 他の同級生とは似ても似つかない彼の全てが、いつの間にかとても気になりだしていた。大勢の中にいても、すぐにその姿を見つけることが出来る。だけど、それは彼が変わった人間だからに違いないとその頃の私は信じていた。彼のことを気にしすぎる自分が恥ずかしくて、周りの友達にも相談できないまま過ごしていく。そしていつの間にか雑多な日常の中に、気持ちだけが取り残されていた。

 小学校低学年以来クラスが一緒にならなかった同級生は、やがて最終学年では当然の様に児童会長となった。私たちの小学校では五年生と六年生の各クラスでひとりずつ代表を選び、その中から教師たちが話し合いで役割を決めていく。その頃には彼が学年で一番の成績だと言うことは誰もが知っていたし、だから当然の成り行きだと納得した。
  だけど、私たちは本当は何も分かっていなかったのである。小学校最後の一年がどうしてあんなに楽しいものであったのかを。確かにクラス担任もやる気のある顔ぶれが揃っていた。だが、昨年まではなかった数々の児童主催の行事のほとんどには児童会長である彼が一枚噛んでいたらしい。
  もちろん全てが彼自身の発案ではなかったが、雑多な希望の中から目新しいものを選び出しきちんとしたかたちにして提示する力が彼にはあった。長いことその実績を自分ひとりの腹の中に隠していたなんて、全く信じられない男である。

 

 彼の存在が私の中で再びクローズアップされることになったのは、高校進学を控えたある日のこと。

「おや、穂高も成上志望か。ウチの中学からは野上ひとりかと思っていたんだが」

 担任教師の何気ないひと言が、私を長い間忘れ去っていた彼へと導いていく。

 三つの小学校から集まったメンバーの中で、彼が選んだのは生徒会副会長のポジションだった。いわば「参謀」というところか。運動部のエースでやたらと目立つ会長を陰から支え、始終サポート役に徹していた。
  テニス部の女子部長として忙しく過ごしていた私はそんな成り行きを全て知っていた訳ではないけど、最後の部活が帰り支度を終えてもなお灯りが消えない生徒会室に彼が残っているのを何度も見かけている。そのたびに、不思議で仕方なかった。
  生徒会なんて頑張って何になるの。そりゃ、多少は内申点が良くなるかも知れないよ? だけど部活動の様に努力に見合った成果が自分に戻ってくる訳じゃない。しかも手柄は全て会長が持っていってしまう。そう思うと、無性に腹が立った。
  単なる「顔なじみ」でしかない私がそんな風に思っていること自体、彼は気付いていなかっただろう。クラスも別、廊下ですれ違っても他人の振りで挨拶すらしない、何ひとつ接点のないふたりなのだから。

「野上君……ですか?」

 定期テストの結果が廊下に張り出されるなんて、今やマンガの中だけの出来事。学年順位ですら、わざわざ担任に聞きに行かなければ教えてもらえない。いくら必死に頑張っても、どうしても私の前には数名の生徒が連なっている。しかしそれが一体誰なのか、結局のところ分からなかった。
  自他共に認める負けず嫌いの私は、そんな状況に甘んじることなんて出来ない。部活に明け暮れくたくたになって家にたどり着いた後も、眠い目をこすって勉強した。努力は重ねた分、必ず結果で戻ってくる。そのことを過去のいろいろな経験で学んでいたし、実際そうすることによってじわりじわりと順位は上がっていった。
  そして、とうとう。日が短くなって部活が控えめになっていた二年後期の中間テストで、得意分野が運良く出題されるという幸運にも恵まれて今までの最高点を叩き出すことが出来た。どの科目もクラストップ、中には学年一番の科目もあった。これは行ける、絶対に取れる。クラスメイト達の手前涼しい顔を装ってはいたものの、私は期待に胸を膨らませていた。
  しかし、意気込んで訊ねに行くと、担任が教えてくれたのは「二位」という順位。あんなに頑張ったのに、それでも敵わない相手がいるのだ。どういうことだ、だけど私は限界なんて認めない。卒業までに絶対に抜いてみせる。誰かに負けたままで終わるなんて、絶対に嫌。
  その後、多少の変動はあったものの、私は常に学年上位の成績をキープし続けた。それでも目の前に立ちはだかる「壁」はついに打ち崩せないまま受験期を迎えてしまう。そして私が出した結論は、毎年学年トップのひとりだけが合格すると言われているこの界隈で一番の難関校を目指すことだった。

 しかし自分でも驚いたことに、担任にその名を告げられるまで私は自分が追いかけていた背中が彼のものであったことに気付かなかった。学年一の秀才と言われている生徒は別にいて、多分そいつが敵だと信じていたから。部活にも所属せずに進学塾の特別コースを受講しているという噂を聞いて、密かに自分の方が勝っていると思っていたのだ。
  学生の本分は勉強であることは分かっている。それを極めることに異を唱えるつもりもない。だが、同級生達は全て自分のライバルで親しくする必要はないと眼鏡のレンズ越しに楽しげな仲間達を見守っている彼はとても哀れに見えた。

「ああ、そうだ。あまり知られてはいないようだが、入学以来トップを独占し続けているからな。どうにかして奴を打ち崩したいとわざと意地の悪い問題を用意する先生もいるとかいないとか。まあ、そういう台所事情はあまり話しちゃ駄目か。そう言えばな……」

 私のことを出来の良い生徒だと信頼していたその若い担任は、こっちが訊ねもしない職員室の内情をあれこれ教えてくれた。だけどそんな話聞いたって、全然面白くない。何よそれ、いい大人がたかだか十四五の若造相手に必死になってどうするの。馬鹿馬鹿しくて聞いていられない。

「まあ、穂高が成上を目指してくれるのは僕としても嬉しいな。精一杯応援させてもらうよ、困ったことがあったら何でも相談してくれ」

 自分の利益しか考えていない大人の見本のような姿に心底失望したものの、私は無言の笑顔でその言葉を見送った。誰があんたになんて世話になるものですか。私が成上を目指すのは自分のためよ、受かったってあんたの手柄じゃないんだからね―― そんな気持ちを全て飲み込んで。

 野上修輔。

 クラスは違うとはいえ、彼が同じ学年に在籍していることには違いない。全く接点のない他人同士ではあっても、常に視界のどこかにその姿を見つけることが出来た。そりゃ、小学校の頃に「神童」とか囁かれていた人間だ、きっとそこそこの成績はキープしていると思っていた。でも……。

 個別面談をしていた相談室をあとにして長い廊下を歩きながら、安っぽい担任教師への怒りはますます燃え上がるばかり。そしてそれがやがて、罪もないはずの旧友にまで飛び火した。あんな風に涼しい顔をして何でもそつなくこなして、それで人知れずトップを独走していたなんて性格が悪すぎる。あいつこそが一番だと噂されて皆から注目される「影武者」を彼はどんな気持ちで見守っていたんだろう。
  たくさんの視線に晒されて期待されるということは、一方でたとえようのないプレッシャーにも苦しめられることになる。常に自分に課せられた位置をキープしなければ「それほどの奴じゃなかったのか」と笑いものになることも覚悟しなくてはならない。彼はそんなマイナス要素を他人に押しつけ、のうのうと生きてきたのだ。絶対に、負けたくない。そんな奴は引きずり下ろして私が合格をもぎ取ってやる。

しかし、努力むなしく一般受験に先駆けて行われる推薦希望入試で私は不合格通知を受け取ることになった。まあ受ける前から五分五分のところだと言われていたし、難関校だけあってダメモトで推薦狙いをする受験生も多くちょっとしたミスが命取りとなる。これが最後という訳じゃない、模試の成績を見ても合格の安全圏内には入っているのだ。そうは思っても、やはり不合格のショックは大きい。
  一方、野上修輔が成上に合格したという噂は瞬く間に校内に広がった。もちろん彼が我が校の「ナンバー1」だと知っていた生徒も皆無だったから、その驚きは予想を遙か越えたものとなる。名実ともにトップの座に躍り出た彼を、誰もが羨望の眼差しで見つめた。―― 唯一、私を除いて。

 推薦の合格発表から、一般入試の願書受付期限までたった一週間しかない。その中で志望校を再考する者もあり、そのまま同じ高校を再び目指す者もある。すでに合格が決まっている私立高校に進学することを決める生徒もいた。私学によっては単願に切り替えることで入学金の一部が返還されるシステムがある。生徒の安心と親の懐事情を視野に入れた感じだ。
  そして私も、ふたつにひとつの選択肢の中からどちらに決めるかの最終決断を迫られていた。滑り止めの合格は出ている。その高校も有名大学への進学を売り物にしていた。成上よりは多少落ちるものの、かなり偏差値の高いところである。もちろん担任は、成上を再受験することを勧めてきた。同じ年に我が校からふたり以上の生徒が成上に進学した例はない。是非とも記録を塗り替えたいと言うところなのだろう。
  どういうことよ、私は生体実験で扱われるモルモットじゃないのよ? どうして学校や一教師の名誉のために頑張らなくちゃならないの。そりゃ、学校側としては気が楽でしょうよ。すでにひとりの合格が確定しているんだから。私なんて単なる「おまけ」のようなものでしょ? どっちでもいいと思われてるなんて、ひどすぎる。
  あんなに頑張ったのに、クリスマスも正月も返上して、何もかもを忘れて必死に勉強したのに。あれだけやっても駄目なら、一般で受けたところでまた同じ結果になるんじゃないだろうか。ふたりにひとりしか受からない推薦希望で私同様の生徒はたくさんいた。だけど他の誰よりも自分が不幸だと感じていた気がする。もっとレベルを落としていれば、こんな苦労はすることなかった。何をそんなに必死になっていたんだろう。

 


 願書の受付締め切りがとうとう明日に迫ったその日、私はまだ決断を下すことが出来ずに悩み続けていた。
  下校時刻のギリギリまで図書室にいて、それから帰路につく。早い時刻に自宅に戻れば、心配顔の母親にあれこれ聞かされる羽目になる。自分以上に悲壮な表情を見るたびに、一番辛いのは私自身だと大声で叫びたい衝動に駆られた。それくらい追い詰められているということだろう。
 友達との会話も極端に少なくなった。すでに合格が決まっている子はもちろん、同じ立場で一般受験を目指している子からも遠巻きに見られているという状況。相手を傷つけないようにと余計な気遣いをしながら会話をするのも億劫だったから、むしろそれで良かったのかも知れないけど。
  どこまでもひとりぼっち、世界一の嫌われ者になってしまった気分。この先、自分は一体どうしたらいいのだろう。もしも再び成上を受けて失敗すれば、一生「敗者」のレッテルを貼られることになってしまうのだ。私立は公立の滑り止めという認識が深く根付いた地方都市、近所の評判も気になる。

  とぼとぼとあてどなく回り道を続け、ようやく自宅近くまで戻ってきたのは辺りが薄暗くなった頃だった。何本か向こうの電信柱の影にゆらりと動く人影を見つける。最初はそれをカーブミラーの影かと思った。しかし続いて茶色と黒の縞模様のマフラーを確認した頃、相手も私に気付いて振り向く。

「……あ」

 かすれた吐息、私の周りをふわふわと白い息が縁取った。遠く暗闇に霞んだ山肌、外灯の灯りが徐々に明るさを増していく。

「景ちゃん」

 確かにそんな声を聞いた。当時、周りの友人達からは「景子」と呼ばれていたから、何となく違和感を覚える。そこに立っているのが誰か、すっかり判別できるほど近づいていた。

「お帰り、遅かったね」

 手袋をしていない手がマフラーからはみ出た耳が、赤くなっている。かなり長い間待っていたことが分かった。だけど、何のために? その理由が全く分からない。

「別に。いつものことよ」

 あんたとは立場が違うんだから―― そう続けてやりたかったけど、あまりにも自分が惨めになりすぎると思ってやめた。

「野上こそ、何でこんなところにいるの。あんたの家、もっと先でしょう?」

 私の言葉に、彼は少しだけ驚いた顔になる。でもそれは一瞬のこと、すぐに普段通りの穏やかな表情に戻った。

「うん……」

 目の前に来た私が立ち止まるとでも思っていたのか口を開きかけた彼を、置き去りにして歩き続ける。何よ、いきなり。嫌みのつもりなのかしら? それとも敵情視察? ううん、違うな。別にコイツは私の敵でも何でもないもの。もうとっくに勝敗は付いてる、私の望まなかった結果で。
  数メートル先の家の前までの距離が、途方もなく遠く感じられた。やっと門に手を掛けて、そこで再び振り向く。まだ彼はさっきまでと同じ場所にいた。

「……」

 ちらと視線を泳がせて、そのまま家に入ろうとした。だって、何も話すことないもの。もう何年も口を利いていない相手、どうしてよりによってこんな場面で鉢合わせしなくちゃならないの。

「あ、待って!」

 慌てた足音が追いかけてきたけど、振り向くのは嫌だった。どこにでもあるような建て売り住宅の我が家、数歩進めばすぐに玄関ドアに辿り着く。ドアノブを握ったところで、背後から再び呼びかけられた。

「その、……あの。景ちゃん、一般の願書どうしたのかと思って。それを聞きたかったんだ」

 一体何のために? 別にあんたには関係もないことでしょう。

 怒りに震えた肩先が大きく揺れて、思わず振り返っていた。相手は門の向こうに立ちつくしている。少なくともよその家に無断で押し入ろうとするような礼儀知らずではないらしい。

「……何?」

 私、きっとすごい怖い顔をしていたと思う。それくらい口惜しかったから。さすがの彼も一瞬ひるんだらしい、でもまた元通り物静かないつも通りの彼になった。

「ねえ景ちゃん、一緒に成上に行こう。推薦希望は残念だったけど、今度は絶対に大丈夫だよ」

 その瞬間、手にしていたカバンを思い切り投げつけてやろうかと思った。そうしなかった自分を誉めてやりたい。何、コイツ。人のこと、馬鹿にしているのかしら。自分はさっさと合格したから、余裕に励ましに来たつもり? すっごい失礼だよ、有り得ない。

「うっ、うっさいわ! あんたなんかに偉そうに言われたくないよっ!」

 嫌な奴、もう最低っ。一体、何様のつもりなのかしら。信じられないよ、デリカシーってものがないのかしら、コイツ。

「そっ、……そりゃあそうだけど……」

 泥沼最悪な気分だった、あまりにひどすぎて吐き気までしてくる。

 力任せにドアを閉めて、ようやっと少しだけ正気が戻ってきた。頬を伝うしずくがしょっぱい。私はそのまま大声で泣き崩れていた。

 

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2008年4月16日更新

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