予想していた以上に、居心地の良い店だった。
表から見るとどこにでもありそうなコンクリート壁剥き出しのビルなのに、中にはいるとそのイメージが一転する。出迎えてくれたのは年季の入った黒い柱、カウンターもテーブルも素朴な風合いのものでまとめられ、低い天井近くには太い梁が幾重にも渡されていた。聞くところに寄ると、取り壊された古い民家の資材をそのまま内装に使ったのだとか。
まるでタイムマシーンにでも乗り込んで、何十年も過去に遡ってしまったみたいだ。テーブルのひとつひとつに置かれたランプもレトロなデザインでしっとりと時代を感じさせる。大都会のまっただ中にこんな場所があるなんて、誰が想像するだろう。出てきたおしぼりも手ぬぐいを小さくしたもので、何だかとても微笑ましかった。
―― こう言うところを、難なく見つけてしまうんだもんなあ。
これがもし、今風のかしましい男たちだったらどうだろう。まだグルメ雑誌にも取り上げられていない穴場をめざとく発見したことを自慢気に語り出すかも知れない。もしもそれが、どこかで小耳に挟んだ他人の情報だったとしても、自分の手柄のように振る舞いたがる輩は多い。そういうのって上手く取り繕ったつもりでも透けて見えちゃうから。ホント、興ざめだな。
その点、彼なら心配なし。他人が十年かかってもなし得ないような大業をあっという間にこなしてしまったとしても、顔色ひとつ変えずに平然としている男だし。
仕事以外の部分ではどうしようもなくずぼらな私のこともよく分かっていて、待ち合わせのたびに行き先の候補をいくつも考えてきてくれる。今夜みたいに突然会おうと決めたときにもぬかりなく。見た目は堅物で融通が利かなそうだけど、結構使えるんだな。ま、そんな相手じゃなかったら、こんなに長い間付き合っていられないか。
「どうしたの、あまり箸が進んでないみたいだね」
お互いにぽつりぽつりと近況報告などしながら、「本日のおすすめ膳」をつついていた。アルコールを勧められたが、今夜は遠慮する。昨日は遅くまで全然楽しくない接待に付き合わされて、そのときの嫌な余韻がまだ喉の奥に残っているみたいだったから。彼は私の酒好きを知っているだけにちょっと意外な顔をしたが、すぐに自分も一緒に温かいお茶を頼んでくれた。
「あ……そうかな。いろいろ並んでるから、目移りしてるだけ」
適当に言い訳を並べてみたが、本当のところ食事をすること自体が面倒くさくなっている。これは私の悪い癖なのだが、仕事がある一定のレベル以上に忙しくなるとよくある現象だ。ひとり暮らしの部屋はどうにもならない散らかりよう、シンクなんてお湯を沸かす以外に稼働することはない。とりあえず身につけるものや化粧には気を遣うものの、その他のことは全部記憶の彼方に置き去りになってしまう。
食事を忘れてしまうことも日常茶飯事だ。それどころか、自分がその日の昼食を食べたかどうかすら全く覚えていない有様。身体が空腹を感じなくなってしまい、まるで霞を食べて生きている仙人にでもなってしまった気分だ。大学からはこっちだから、当然ひとり暮らし。自己管理もままならないとなれば、何度となく栄養失調で倒れて病院の世話になっているのも仕方ない。
でも、あんまりにも気乗りしない態度でいたら、せっかく選んでくれた今夜の店が気に入らないみたいに見えちゃうかな。そう言うつもりはないんだけど、野菜の煮物を箸の先で弄びながら口に運ぶタイミングを探っている。実のところ、ここの料理はかなり凝っていると思う。ぱっと見は素朴だけど、材料とか厳選してる感じ。外食とレトルトばかりで鈍感になっている舌でもそれくらいは分かる。
「そう、ならいいんだ」
十年前の記憶とたいして変わらない微笑みがテーブルを挟んだ向こうにある。身につけているものも、ブレザーの制服がそのままスーツに替わっただけ。もちろん年齢相応の落ち着きと風格は加わった気もするが、それも彼に関して言えばほんのちょっとの違いでしかない。
こんな風に彼の隣にいることが当然になってからも、何となく落ち着かないまま途方もなく長い時間を過ごしてしまった。そして、十年。さらに、また十年。たとえばふたりが三十八になった時のことを難なく想像することが出来る。きっと今とそれほど変わるところはない。彼にとっても私にとっても、お互いは生活の一部。何となく思い出したときに、とりあえず顔を合わせるみたいな。
―― 今まで変わらなかったんだから、これからも絶対に変わらない。
自分たちはその辺に転がっている「普通のカップル」とは訳が違う。端から見たらそう変わらないように映るかも知れないが、ここまでの長い時間を波風立てずにやり過ごして来られたことだけでそれが証明されている気がする。
一緒にいるときのときめきもなければ、離れているときの寂しさも感じない。偶然にもお互いにそれ以上の出会いがなかったから奇跡的に続いているようなもの。今すぐにでもどちらかが終わりを切り出せば、それでジ・エンド。少しの余韻も残さないままで他人に戻れると思う。
それに、この歳になって特定の相手もなくひとりでいると、何かと面倒ごとに巻き込まれるというのも事実。上司から縁談を押しつけられたり、全然タイプじゃない同僚に言い寄られたり。そんなの片っ端から断れば済むと言えばそこまでだけど、やっぱ余計な労力を使わなくちゃならないのは精神的にも負担だし時間ももったいない。
「私、お付き合いしている相手がいますから」―― 表情を変えずにそれだけ言えば万事オッケー。それ以上追求されることもないし、こっちも嘘ついている訳じゃないし。ああ、気楽なもんだなといつも思う。多分それは、彼の方も同じなんだろう。結局はお役所仕事なんだから、ある一定の年齢になればおのずとその手の話が切り出されるはず。やんわりと話を切り上げる姿が目に浮かんでくるようだ。
でも、だからといってその先に進むつもりもないみたい。ふたりともやたらと忙しい職場だし、スケジュールが詰まってくればお互いのことなんてすっかり忘れてしまう。超有名大学からエリートコースまっしぐらの彼は財務省の職員。今は一年の中でも楽な時期みたいだけど、またすぐに職場に缶詰の生活が始まる。本当、午前様とか言うレベルではないんだもの、びっくりだ。
ま、置かれた立場や仕事の内容は違っても、私も似たようなものかな。周期的に感情の振り子が引きちぎれるほどの忙しさに見舞われるけど、それも自らが選んだ道。性別に関係なく、思い切り働ける職場じゃなくちゃ絶対に嫌だった。「女だから」なんて時代錯誤な価値観を持った堅物上司が居座っていたら最悪でしょ? その点、ウチの会社は合格よ。今の状況にはそれなりに満足してる。
そんなこんなで。
久しぶりに顔を合わせてみたものの、今更の間柄を再認識しただけ。もちろん、彼との話は相変わらず面白い。自分とは全然違う世界に生きているから、どれもこれも興味深いものばかりだ。それは彼の方も同じみたい。こんなのつまらないかなと躊躇してしまうような話も目を輝かせて聞いてくれる。
財務省なんてお堅くて威張り腐っててお金の計算ばかりをしているようなイメージがあるけど、実はそうじゃないんだね。平たく言えば「国家の予算の使い道を決める場所」ってことになるわけで、配属された先で担当する省庁の政策と業務を一から勉強していくんだって。まあ、どういう仕事をしているか分からなかったらどれくらいの予算が必要かも見当付かないし。
「学生の頃よりも、今の方がずっと頭を使っている気がするよ」―― というのが彼の口癖。何が正しくて何を優先させなければならないか、交渉は人間相手だし、全体の予算はギリギリのところで決まっているんだから要求を受け入れるばかりじゃ駄目なんだな。
巷で聞こえてくるニュースでは天下りがどうのとかそう言う部分だけだけど、内側のほとんどの人たちは当然のことだけど真面目にやってるんだね。彼が「頭を使っている」って言うんだから、常人じゃ考えられないほどすごい勉強量なんだと思う。一体、どんな人間が集まっているのやら。
もちろん具体的な名称とかは内部機密だし教えてもらえないけど、別にこっちは特ダネ狙いの記者じゃないんだしそこまでの情報は必要ない。難しい用語を並べられても正直よく分からないしね。ああ、お役所仕事っていちいちマニュアルがあって大変だなーとか、そんな風に思うくらい。
彼の方は彼の方で、私の仕事が不思議で仕方ないみたい。昨日決定したことが一夜明けると根本から覆るのも珍しくないし、そんなことにいちいち腹を立てていてもしょうがないでしょ。いつでも「最終的にどこに辿り着きたいか」のビジョンだけ明確にして、あとは行き当たりばったり。適当なところを取り繕って帳尻を合わせるのもいつの間にか得意になった。火事場の何とかで、結構上手くいくもんなんだな。
何度も練り直して半年以上掛けて仕上げた企画が不発に終わったり、いきなり空いた穴を埋めるために一夜漬けでかたち作ったものが大当たりしたり。毎日が大ばくち、めまぐるしく変化していく日常。「自分こそがひらめきの達人」と思いこんでいる勘違いな輩ばかりで、真面目に相手をしていると精神的に参ってしまう。
取引先相手はもちろん、同僚にだって愚痴をこぼす訳にはいかない。そんな風にして弱みを握られたっていいことないし。誰も助けてくれないんだったら、自分でどうにかするしかない。
「……ったく腹立つったら。『アンタも一応、女の子なんでしょ? それらしい営業の仕方があるんじゃない?』とか、ミエミエの顔で言うんだよ。もう、一昨日来いって感じ? 人を何だと思ってるの」
断るにしたってもう少しソフトな言い方があるでしょうとか、周囲からたしなめられることもある。だけど、私は私。このキャラでずっとやって来たんだし、それなりの成果を上げていれば回りからとやかく言われる筋合いはないと思う。
「したら、その男はどうしたと思う? その場では何も言わなかったけど、翌朝に出社したら机の上に改稿済みの原稿が届いていたわ。かなり派手にやっちゃったから始末書ものだと思ってたのにびっくりよ。まあ、その次からは担当を他の人に変えられちゃったけどね」
数ヶ月ぶりに会う訳だから、お互いの話はどれも事後報告。渦中にいるときは取り乱してしまうこともあるけれど、あとになって振り返ってみれば冷静に当時を分析することが出来る。失敗なんて、それこそ数え切れないほどしてきた。超大御所レベルの作家を怒らせてしまったときには、もう退社するしかないかと覚悟を決めたっけ。今になれば、それも笑い話だけど。
「景ちゃんは少しも変わらないね」
そして。
お前に言われたくないよと切り返したくなる男が、二言目にはそうのたまう。良くも悪くも代わり映えのしない私たち。自分の長所も短所も分かりすぎていて、それぞれが一番似合った職場を手に入れた。仕事に追い立てられて、二年や三年はあっという間に忘却の彼方に過ぎ去っていく。実際、入社してからこっち、プライベートで達成したことなんて何かあったっけ。
いい感じに仕事に馴染んで、それなりの地位も確立している。何て充実した毎日。だけど……何故だろう、最近ふと自分だけが置き去りになってしまったような気分に陥ることがある。そんなの、本当に時々のことで、通り過ぎてしまえば何てことないんだけど。
そう、たとえば。今夜みたいに、この男の前にいると特に強く感じる虚しさだ。
昔から幾度となく一方通行の戦いを挑み、ことの如く破れ去った相手。いつか打ち負かしてやろうと必死になった頃もあったが、人間どんなに努力しても越えられない壁はあるのだと長い時間を掛けてようやく悟った。決して近づくことのない距離がふたりの間に深く横たわっている。顔を合わせるたびに自分との違いを見せつけられ劣等感に悩まされるばかりなのに、どうして私は離れようとしないのだろう。
柔らかい言葉を紡ぎ出す、その唇の感触を知っている。抱きしめられたときの熱さも、その後に続くひとときの嵐も繰り返し肌に刻みつけてきた。だけどそれだけ、きっとそれだけ。「大人の関係」と言葉にすればとりあえず格好も付くが、だからといって何が楽になる訳でもない。
何となく、テーブルに置いたままの自分の指を見る。最近手入れを怠っていたせいか、塗り替えたばかりのマニキュアがもう剥がれ掛かっていた。
「ねえ、……明日は仕事? 朝、早いの?」
お互い休日出勤もそう珍しくない職場だ。私の方はとりあえず今週大きな山を越えたところだから久しぶりに週末をしっかりと休めることになったが、やはり相手にも予定を訊ねなくてはならない。
「……ああ」
押しつけがましくならないよう探りを入れたつもりだったが、実際はどうだっただろう。彼自身はその質問が出ることを前もって分かっていたようで、構える素振りもない。
「実はね、これからもう一度仕事に戻らなくちゃならないんだ。調べ物がまだ途中でね、この週末で一通りまとめておかないと週明けから動けなくなるから」
その言葉は、私の驚きをすり抜けてさらりと通り過ぎていった。しばらくは声も出せなくなったとりあえずの恋人に、彼は穏やかに言葉を重ねる。
「申し訳ないね、いつも慌ただしくて。でも今夜は景ちゃんに会えて良かったよ、誘ってくれてありがとう」
そろそろ行こうかと、伝票を手に立ち上がる。その頃には彼の前にあった皿は全て綺麗に片付けられ、磨き込まれた木目にはひとしずくの名残惜しさもなかった。
進学のため上京を決めた折、あまり深く考えず大学にほど近い場所にアパートを借りた。それは彼も同様たったらしい。別々の大学に進んだため、ふたりの生活空間は全く違っていた。新しい生活の中で自然消滅してしまうカップルも多いと聞く。それならそれでいいと考えていたが、どういうわけかそうはならずに適当な間隔を置いて連絡を取り合う関係が続いていた。
日常的に使う路線が異なれば、一緒にいられるタイムリミットも繰り上がる。彼は私のことを心配して毎回「家まで送る」と言ってくれたが、そんなことをしたら今度は自分が戻れなくなってしまう。ああやりにくいなと思ったもののやんわりと断り、どうにかやり過ごしていた。
あれは私の二十歳の誕生日。
その頃からお互い忙しいスケジュールの中で生活していたけど、その日は奇跡的に休みが取れた。とは言っても平日で、日中はそれぞれの大学で講義が詰まっている。ようやく落ち合ったのは日がすっかり暮れてからだった。
二月ほど前の彼の誕生日には前期のテスト中だったこともあり、電話口で「おめでとう」と言っただけ。気の利いたプレゼントをするとか、そう言うのも全然考えていなかった。だから、今回も同じ。一応「おめでとう」の言葉はもらったけど、そこに大きな花束とか月並みなアイテムが付け加えられるはずもなく。当たり前にゴハン食べて、その辺をぶらぶら歩いて。ああ、こんなモンなんだなと納得してた。
「今日は送るよ」
終電ギリギリの時間になったとき、彼はいつになく強い口調でそう言った。私の方も曖昧に頷いただけ、いつものように「そんなこと、いいから」とは言い返さなかった。
最寄りの駅を降りたあと、人気の少ない道をふたりで歩く。静寂が心の中に入り込むような夜だった。朝晩の冷え込みが急に強くなった頃で、何かひと言話すたびに口元で白い息がふわふわと舞い上がる。それでも大切な言葉はどうしても切り出せないまま、気がついたらあっという間にアパートの前まで辿り着いてしまった。
「じゃあ、おやすみ」
そして。いつものように、彼は振り向くとそう告げる。相変わらず、感情の見えない顔。中華料理店で皿洗いのバイトをしているためか少しがさついた指先が、私の顎に触れた。
短い儀式、触れ合うだけの短いキス。
だけど、今夜はそこで終わりに出来ない。ぬくもりを手放した刹那、私は離れていく彼の腕を引き戻していた。
「あ、……明日は朝、早いの?」
もっといろいろ考えていたのに、いざとなるとはっきりとした言葉が出てこない。すごく辛かった、どうして私の方からこんなことを言わなくちゃならないのって、情けなくて情けなくてどうにかなってしまいそうだった。
「ううん、午前中は休講なんだ。だから―― 」
その後、どんな言葉を続けるつもりだったんだろう。だけど会話はそこで途切れた。
身体の関係が出来たからといって、何が変わるわけでもない。
それは初めから分かっていたし、期待なんてしていなかった。ただ、……何というか。ちょっとした好奇心がその頃の私の心の中にはあったのだろうか。忙しいとはいえ、気楽な身分の学生時代。学校仲間の赤裸々なおしゃべりの片隅で、もうこれ以上疎外感を味わうのは嫌だった。
躊躇いもなく私の服に手を掛ける彼を、もうひとりの自分が遠い場所から見つめている。予想していたようなハプニングが起こるわけもなく、だからといって甘い言葉が交わされることもなく行為が進んでいった。彼は「男」だった、そして私は「女」だった。ただ、それを認識するための儀式。火照る身体とは裏腹に、どこまでも冷めた自分に驚いてしまう。
初めての夜、私の胸に残ったのは自分以外の命と触れ合う瞬間の孤独な感情。どこまでもひとつになりきれない身体を持て余したまま、行方も知らず漂い続けていた。