TopNovelヴィーナス・扉>七夕の恋人・4

それぞれのヴィーナス◇4番目の景子
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 長い夏の日がようやく暮れようとしていた。夕方の七時を過ぎてもまだまだ空が白い色を残したままの今頃は、どうしても帰宅時間が遅くなる。一日分の熱気がこもった部屋に真っ直ぐ戻るよりも、もう少し涼風に吹かれていたい。彼はいつも私のそんな気まぐれに当然のように付き合ってくれていた。

「……ちょっと休んでく?」

 私が普段よりも無口になっていることに気付いていただろうか。ようやく呟いたひとことに、彼は意外そうな顔になる。そりゃそうだ、いつもぶらぶらと遠回りしてそこら中を歩いているだけだったもの。腰を落ち着けて話そうとか、そう言うのは腐れ縁の関係には相応しくない。

「うん、いいけど」

 どう考えても普通じゃないことは分かるんだから、これが別の誰かだったらもう少し質問が多くなっていたと思う。「どうしたの、何かあった?」とか「悩み事でもあるの?」とか。
  こちらを気遣ってくれているのは分かるけど、そういう物言いが私は苦手だった。もちろん、それを態度で示すことはなかったけど。何というかな、自分の中でどうにか帳尻を合わせようとしていることに先回りして手を差し伸べられるのが億劫で。だからそう言う相手だと分かったあとは、出来るだけ感情を抑え込んだ自分で接するようにしていた。
  その点、野上という男はふたりきりでいるとそれなりに口数は多いのだが、その手の心配を一切しなくていいのが良かった。こちらのことをどこまで理解しているのかは知らないが、やたらと世話を焼かれるのなら放って置かれる方がずっといい。

 公園の入り口の自販機でそれぞれに飲み物を購入して、人気のまばらな広場のベンチにふたりで座った。懐かしい風景。自宅からあまり離れていないこの場所は、小さい頃は同級生たちのお気に入りの遊び場だった。こうやってあの頃の目線に戻ると、ずっと忘れていたいろいろな出来事が走馬燈のように浮かんでくる。
  競って登ったジャングルジム、四つしかないブランコはいつも順番待ちだった。低学年の頃は中央部分が高すぎて怖かった山形雲梯(うんてい)にジャンケンゲームが定番だった一本橋。悩み事なんて何もなくて、ただ日が暮れるまで思い切り駆け回れば良かった。あの頃がひどく眩しく思える。それは彼の方も同じだったのだろうか。しばらくはぼんやりとお互い無口で過ごしていた。

 出会った頃は確か私の方がいくらか背が高かった気がする。だけど今は、背丈も肩幅も何もかもが抜かれていた。百七十にほど近い私と比べてもまだ余裕があるのだから、成人男性の平均身長よりも高くなっているのだろう。そう、何もかもがこの男には敵わなくなっているのだ。

 ―― やっぱ、違うよな。

 微動だにしない風景を眺めながら心の中を行き交っていたのは、つい数時間前に耳にした男子部長の言葉だった。彼は私たちの間に一体何を想像したのだろう。そりゃ、端から見れば仲がいいように思えるかも知れないが、勘違いも甚だしい。そう結論づけたとき、安堵とも落胆とも付かない感情がじわりと胸に湧いてきた。

「私たち、付き合ってるのかって。……そんな風に考える人もいるんだな」

 その頃の私は肩の辺りまで伸ばした髪を、後ろでひとつにまとめていた。シニヨンとポニーテールの中間みたいな感じで、癖毛には一番扱いやすいかたち。短くしても長く伸ばしても、どうにも言うことを聞かない髪なのだ。
  頬をくすぐる風が心地よい。それをもっと近くに感じたくて、私は髪を解いた。一昔前のヤンキーみたいなくるくるのウェーブが、頬の周りに落ちてくる。

「そう」

 ちら、と横目で確認した彼の顔には全く変化が見られなかった。そんなこと、ずっと前から分かっているよって言いたげな感じ? それともどうでもいい話題だから軽く受け流してしまおうかってところだろうか。まあ、この冷静さが彼そのものなんだけどね。私だってあれだけ動揺したのに少しは驚いて欲しかったなとか、ちょっと口惜しくなってしまった。

「うん、だって変だよ。ただ性別が違うだけで一緒にいると何か言われるなんて、絶対に間違ってる。どういう関係かってことは、ちょっと注意してみればすぐ分かると思うのに」

 私がそれだけ言い終えてしまうと、また長い沈黙が続いた。こういうことって珍しい、普段ならもしも話題がなくなったと思うときにでも彼の方からすぐに何かを切り出してくれる。今回もそうなるとばかり思っていた。今まで考えたこともなかったことをいきなり指摘されてびっくりして、だからそんな風に勝手にあれこれ考える奴らを可笑しいねって笑い飛ばせると思っていたのに。

 犬を引いた子供が、公園の向こう側をゆっくりと走っていく。赤い帽子が茂みの向こうに消えるまで、ぼんやりとその姿を見送っていた。

「付き合ってるって、具体的にどういうことを言うんだと思う?」

 それは気の遠くなるほどの静寂のあと夕焼け色の風景の中にこぼれた彼の言葉だった。別に何かを含んだ語り口じゃない、ただ淡々とこちらに問いかけるみたいな感じで。
  両手の中でジュースの缶を転がしながら、私はゆっくりと振り返った。彼はまだ自分の手の中を見つめている。小振りなペットボトルの蓋には開けたあとがなかった。そしてさらに言葉を重ねる。

「どうしたら、付き合ってるってことになるんだと思う?」

 彼の視線は動かなかった。まるで私にではなくて、自分の手の中のペットボトルに問いかけているみたいに思える。抑揚がなくて、感情がこもってなくて、だけどやはり彼にしか出せない独特な響き。

「ど、どうしたら、って……」

 いきなり質問されても、何と答えたらいいのか分からない。そもそも、私自身がその事実に対して曖昧な認識しかしていなかったようだ。ええと、その……どうなんだろう。ふたりのどちらかがしっかりと意思表示をして始める関係のこと? ううん、それだけじゃないかも知れないな。だとしたら、どんな風に考えたらいいんだろう。
「色恋」に関することは、私にとって別次元の出来事だった。そりゃ、密かに憧れた相手はいる。小学校の頃には風の様に足の速い男子にほのかな思いを寄せていたし、中学に上がってからも「あ、いいかも」って思う瞬間は確かにあった。だけどその思いはいつも日常の忙しさに紛れてそのうちに忘れてしまう。
  恋愛って言うのは相手がいてこそ出来るものだ、お互いの気持ちがその瞬間に向き合わなければならない。別に男を毛嫌いしていた訳じゃないけど、私にはまだそのチャンスが訪れていないんだと思う。

 自分から切り出した話なのに、適当な答えも思いつかない。やっぱこんなこと言い出すんじゃなかった。今更後悔したところで発言を撤回することなんて出来ないのに、すごく落ち込んでしまう。そうしている間に手の中の缶がしっとりと濡れて、制服のスカートの上に丸くて薄いシミを作った。

 また、長い沈黙が続く。私に言葉を投げかけたまま、彼は感情をどこかに置き忘れた人形のようになってしまった。もともと何を考えているのかさっぱり分からない人ではあったが、ここまでだんまりを決め込まれてしまうとこっちも困ってしまう。まあ、気の利いた答えの出せない私自身に非があるんだと言われればそこまでだけど。

「……そろそろ、帰ろうか? 驚いたな、もうすぐ七時だ」

 再び彼の声が聞こえるまで、またしばらくの時間を過ごした。充電を完了したロボットみたいに、ゆっくりと立ち上がる。彼が腕時計の文字盤に目をやったとき、並木通りの向こうを走る車のライトがキラリと反射した。

「うん、そうだね」

 残らずすっかり吐き出してしまえば跡形もなく消える、他愛のない悩みだと思っていた。それなのに、口に出してしまったことでさらに謎が深まった気がするなんて。こんなことにこだわってるなんて、おかしな奴だと思われたかな。彼にとっては、私以上にどうでもいい話題だったに違いないのに。

 手の中にある半端に残ったジュースみたいに、私の思いは宙ぶらりのまま取り残されてしまった。

 


 きっかけなんて、ほんの些細なことで十分。その日から、私は不思議な物思いに取り憑かれる羽目になる。当たり前のように隣にいる彼の存在が急に気になりだして、それまではどうでも良かったことがひどく重要に感じられるようになった。
  同じ中学出身のたったふたりの同級生、私たちを説明する言葉はそれだけで十分だったはず。それ以上でもそれ以下でもなく、同じ色の思い出を数多く共有する仲間としてお互いに認識し合っていた。

 彼とはクラスも違えば選択科目も違う。登下校以外の時間には廊下ですれ違う機会も少ないし、時々遠目に見かけても声を掛け合う暇もなく通り過ぎてしまうことも多かった。共通の友達もいないから、外部からもたらされる情報もほぼ皆無に近い。それまで意識してアンテナを張り巡らせることもなかっただけに、曖昧な距離感がとても不安定に感じられる。
  もしも、私の部活が終わるまで彼が待っていてくれなかったら。そのときはただひとつの接点すらなくなってしまうのだ。全ては彼の心次第、そこに私の入り込む術はない。よくよく考えてみれば、思うほどに近い相手ではなかった。そう気付いてしまうと、たまらなく寂しくなってしまう。

「やあ、景ちゃん」―― 彼は私のことを、初めて会った頃と同じように呼んでいた。それが私にはひどく不似合いで子供っぽいことは、彼自身も分かっていたのだろう。顔見知りの多い校舎内や電車の中ではあまり呼びかけられることもなく、適当に使い分けられているようだった。
  対して私は彼のことを「野上」と名字で呼んでいた。他の男子に対してもそうだったし、それ以外には適当な呼び名も思いつかない。そもそも、ふたりきりでいるときに相手の名前を呼ぶ必要もなかったし、「あんたは」とか適当に濁してしまうことも多かった。

 いつの頃からだろう、たまに校舎内で彼の姿を見つけるときに隣に特定の女子が連れ添っていることが多くなった。同じ選抜クラスの子なのだろうか、黒目がちで髪もさらさらのストレート。しかも彼の肩にも届かないほど小柄だった。

「あの子って、去年の準ミス成上だったっけ? すごいねー、あのルックスで成績も常にトップクラス。ウチのクラスの男どもも高嶺の花とか嘆いていたな」

 私の視線に気付いたクラスメイトが、そう説明してくれる。彼女には才色兼備な同級生の隣に誰がいるかなんて全く関係ないらしい。だけど私にはそのことがひどく気になった。おかしなことに気になり出すと、やたらと目に飛び込んでくるようになる。多いときには日に三度も見たくない光景に出会うことになり、そのたびにもやもやと落ち着かない気分になった。
  別に気にすることなんてないのに。彼がどこで誰と一緒にいようが何をしようが、それが私にとって何ら影響を及ぼすこともない。私たちはそれぞれ独立した一個人であり、あれこれ干渉しあう間柄ではないのだ。そんなこと改めて自分に言い聞かせるものでもないのに、どうしたのだろう。何故、私はこんなにも不機嫌になってしまうのか。
「彼女」が彼と同じ英語部のメンバーであることも人づてに知った。そんなこと彼自身に確認すればすぐ分かることなのに、何故か本人を前にすると気後れしてしまう自分がいる。相変わらず私の朝練のない朝と下校時はほとんど一緒に過ごしていたが、それすらも次第に後ろめたい気がしてきた。

 ―― 何だろう、どうして私ばっかり。こんな風にあれこれ悩んだりして、本当に馬鹿みたい。

 先の男子部長は私が曖昧に言葉を濁しているうちに、さっさと後輩に告られて付き合いだしてしまった。そもそもアイツのせいで全てがおかしくなったのにいい気なものである。そんなことで腹を立ててる自分がまた情けなくて、フラストレーションは溜まるばかりだった。
  そうしているうちに季節はあっという間に夏を越えて、秋も深まっていく。その頃には部活を終えて彼と落ち合う時間には、もう遠目には相手の表情もうかがえないほどに薄暗くなっていた。彼の方も小さな大会がいくつか控えていてその準備に忙しいらしく、部活終了が長引くことも多くなる。日によっては待ち合わせ場所にその姿が見つからないこともあり、そのまま歩き出すと後ろから追いかけてくることもあった。

「ごめん、景ちゃん。話し合いがなかなかまとまらなくて」

 彼の口から置いてきぼりにされた恨み言が聞かされることは一度もなかった。もしも私が同じ立場だったら、どうだっただろう。きっと口に出さないまでも、かなりへそを曲げてしまうに違いない。そんな風に想像でしか言えないのは、過去に一度もそんな経験がないからだ。

「そう、別にいいよ」

 謝ってもらう理由なんてない。私は別に彼を待っていた訳じゃないし、ひとりで帰るのだって全然平気。一緒に帰ろうと約束したこともないのに、大袈裟に考える必要はないよ。
  心の中はイガイガしたものでいっぱいになっていた。彼は今までずっと「彼女」と一緒だったんだ、だったら駅までふたりで帰ればいいのに。英語部のみんなはずっと後ろを歩いている。その中からひとりだけ抜け出してくるなんておかしい、私に義理立てをする必要なんてないんだし。
  古なじみの仲なんて、曖昧なものだと思う。何かをきっかけにすぐに壊れるのも当然だし、それを嘆く理由もない。実際、小学校の時仲が良かった友達とも中学に進学して別々の部活に入った時点で自然消滅した。一時はこれ以上の親友はいないとか思っていたのに薄情なものだと思う。期間をおいてから再会するとお互いが別人のように思えるのだからおかしかった。

 そろそろ、潮時なのかなと思う。いつまでも過去を引きずって、お互いが新しい出会いに向かえないのは良くない。確かに彼と一緒に過ごす時間は楽しかった。でもそれは幼なじみとしてのフィルターが関与している部分が大きい。その事実を取り払ってしまったら、最初から出会うこともないふたりだった。
  これ以上、時間を無駄にしない方がいい。残された高校生活はもう一年と少し。お互いが新しい道へと歩き出すにはもう十分な時間を過ごしたと思う。

 


 その日も、普段通りのルートで歩いていた。最寄りの駅を降りたあと、彼はいつも私を家に送り届けてから自宅に戻る。かなり遠回りになってしまうし、申し訳ないなといつも心の隅ではひっかかっていた。だけど尽きない話題を中断するのも辛くて、ついつい厚意に甘えていたところが大きい。丁度人通りの途絶える時間帯であったし、ひとりで歩くにはちょっと怖いなと思っていた。

「あのさ」

 私の家まで、あと三十メートル。話を切り出すなら今しかない。急に立ち止まった私に彼はしばらくしてから気付いたらしく、慌ててこちらを振り向いた。

「付き合ってるっていうの、つまりこういうことだと思うんだ」

 彼の問いかけからは、すでに数ヶ月が経過している。何を今更と思われるかも知れない。でも、何となく彼がずっとこの返事を待っているような気がしていた。投げかけられた言葉の答えを私が告げたとき、確実に何かが変わっていくと言うことも。

「何ていうのかな、ええと……月並みだけど一緒にいるのが嬉しくて、離れなくちゃいけないのが辛くて、お互いがお互いのことしか見えてないっていうか……見えてないで欲しいというか」

 だから、私たちは違うんだよ。そんな言葉を続きに繋げたかった。結論が先で、それを確実なものにするための言い訳をいくつもいくつも探しているみたいに。
  彼はただ、黙って私を見つめていた。何か答えてくれることを期待したけど、それはない。ぼんやりと霞む闇の向こう、その表情もよく確認できなかった。

「その、だから……こういうのはもう止めた方がいいと思う。曖昧なまま、一緒にいるのって良くない。私、別に構わないから、野上は野上のしたいようにすればいいんだよ」

 何でこんなこと、わざわざ言わなくちゃならないのかなと情けなかった。だけど、どちらかが切り出さなかったら、いつまでも変わらない。彼がその役目を引き受けてくれないなら、私がやるしかないんだ。でもどうして、こんなに胸が苦しいんだろう。お互いがお互いを解放するだけなのに、息苦しくて仕方ない。

「……景ちゃん?」

 だけど彼の方は、拍子抜けをするくらいいつも通りだった。私はもういっぱいいっぱいで、これ以上はひとことも言えないくらいなのに。
私は静かに視線を足下に落とした。何かもう、自分が恥ずかしくて情けなくてどうにかなってしまいそう。こっちが必死で考えたことも悩んだことも、彼にとっては少しも重要には思えてなかったんだ。やっぱり私たちふたりでは、考え方も何もかもが違いすぎる。いつでもずっと前を歩いている背中を、必死に追いかけるのはもう辛かった。

「……え……」

 紳士物の革靴が視界に入ってきた次の瞬間、小さな声を上げたのは私の方だった。カバンを持っていない方の右腕を、彼が掴んでいる。それもかなり強い力で。

「じゃあ、こうしたら付き合ってるってことになる?」

 彼の発した言葉の意味が分からずに、私は顔を上げていた。自分がどんな表情をしているのかも分からない。私よりもはるかに上にあるはずの彼の顔は、そのとき驚くほど間近にあった。

 叫び声を上げる間もなかった、一瞬だけ重なり合う唇。口元に残る痺れに、少し遅れて夜風がひやりと通り過ぎた。

 

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2008年5月23日更新

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