「ええと、……すみませんがもう一度仰っていただけますか?」
やたらとギラギラ眩しいのは、すぐ隣のビルの窓ガラスが太陽光に反射しているせいだ。
何事も合理的に出来ている我が社では、重役のための特別な部屋というものがほとんど存在しない。社長室だけはとりあえず確保してあるものの、そこも半分物置のようになっているらしい。外部からのお客様をお通しする応接室だけが、どうやら見苦しくない内装になっているって話。私もそこには採用内定のときに通されたっきりだけど。
となれば「副社長」という肩書きを持った目の前の人に至っては、総務部の片隅の一角をあてがわれているだけ。それも特別の空間と言うよりは窓際族って感じ、どことなく哀愁が漂っているようにも見える。
「え? 別に聞き直すほどのことじゃないでしょ」
そう言いながら、にっこりと微笑むのが気に入らない。我が社の創設当時のメンバーである今の社長はいかにもベンチャー企業のトップですって感じの人なのだけど、ここにいる副社長は何だか社風からずれまくってる感じなのね。元は敏腕編集者だったって話よ、だけど本当かなあ。全然ガツガツしてなくて、申し訳ないけどかなり胡散臭くも見える。ようするに「いい人」過ぎるってとこかな。
「単刀直入な質問だよ、僕は今現在の君に特別な男性がいるのかどうかを知りたいんだ」
シャープなラインの見るからに上等そうなスーツ。襟元にきっちり結ばれたネクタイもそれを止めるピンも某高級ブランドのものだ。この人、私より十歳近く年上で、今年中学生になったお子さんを筆頭になかなかの子だくさんって話だったよな。今のご時世、ひとりの人間を成人させるまでには途方に暮れるほどのお金が掛かるって言うのに、全然そういうところが見えてこない。
……いやいや、今はそれよりも質問の内容の方が問題だ。私は相手のオーラに飲まれないようにと気持ちを強く持ちながら、しっかりと顔を上げる。
「どうして、そんなご質問に答えなければならないのですか?」
そりゃ、アンタは我が社のナンバー2かも知れないよ? だけど、だからといって社員のプライバシーに土足で踏み込んでいいってことはない。全く、誰に向かって話をしてると思ってるの? 私をナメるんじゃないわよ。
「おや、理由を知りたいのかな?」
だからーっ、そのもったいぶった言い方は止めなさいよね。かしましいお嬢さん方の情報によれば、この人って既婚者にも関わらず社内にファンクラブとかあるっていうじゃない。全く、本人も本人なら取り巻きも取り巻き、揃って頭がどうにかしてるんじゃないの?
だけど、敵も然る者。まるで私の心の中を見透かしたかのように、満面の笑みを浮かべて言った。
「そりゃあ、僕が君にとても興味を持っているからに決まってるじゃないか。社内でも結構な有名人だものね、販売部の穂高女史って言えば普通の男は裸足で逃げ出すって。そう言う女性のハートを射止めたいって言うのは、男にとって永遠の願望だよ」
―― はあ……?
何言ってんのよ、馬鹿かコイツ。前々から信用できない男だと思っていたけど、愛妻家だって言う評判は真っ赤な嘘だったのっ!? そりゃ見た目はまずまず、オシャレなバーでグラスでも傾ければ女が何人も釣れそうよ。でもねえ、だからといって何で私? しかも白昼堂々に社用の振りをして呼び出すか?
「あはは、まさか本気にした? 何だ、鉄の女なんて言われてるけど、案外可愛いところあるんだね。良かった、安心した」
私、一体どんな顔をしていたんだろう。もしかすると不審感アリアリを通り越してグロテスクな生き物でも見ている目つきになってたんじゃないかしら。
「あの、申し訳ございませんが。私、これでもお陰様でとても忙しいんです。そのような趣味の悪い冗談を仰るために呼び出したのだったら、もう終わりにしていただけませんか? ―― 失礼します!」
全く、やってられないわ。今日は朝からついてなくて、飛び込みで入った営業先に立て続けに門前払いを食ってしまったのよ。そう言うときって、どうやっても上手くはいかないのね。だから、気分を変えるために社に戻ってきたら今度はコレよ。緊急呼び出しって言うから来てみたのに、どういうこと? きっと、厄日に違いないわ。
「あ、……悪い悪い。そんな風に怒らないでよ、穂高さん。すぐに本題に入るから、ね、もう一度座って」
言葉こそは柔らかいが、その奥に有無を言わせぬ強いものがある。コイツ、ただの優男じゃないってことよね? ああ、本当にやりにくいったら。心の中ではブツブツ言っても、つまるところ相手は上司。平社員としては黙って従うほかにないわね。まあ、副社長の方も悪ふざけが過ぎたと反省したのだろう。今度は真面目に話をする姿勢を見せてる。
「ええと、穂高さんは知ってるよね? 我が社に伝わる『ヴィーナス』の話。まだこれは内々の話なんだけど、今年はそれの開催年になってるんだ。でね、君に折り入ってお願いがあるんだ」
突然、小声になるから、こっちも聞き漏らさないようにと耳をそばだてる。「ヴィーナス」? あ、そうか。そう言えば、そんなのもあったっけ、思い出した。四年前、確か私が入社二年目のことだったと思う。ある日突然、周囲が騒がしくなったのね。そしたら、ひとりの女性社員を巡ってものすごいバトルが繰り広げられたのよ。一体何なんだ、って感じだった。こっちには全く関係ない馬鹿騒ぎだったし。
「またやるんですか? 前回はかなり大変だったって聞きますけど」
きっとここに呼ばれたのが私じゃなくたって、同じ質問してたと思う。一時は仕事が滞るほどになって、挙げ句の果てに成立したカップルが揃って退社しちゃったんじゃなかったっけ。ものすごく後味の悪い結末で、だからもう二度とあんなイベントは開催されないって思っていた。
「当然だよ、何たってこれは我が社の伝統だからね。社長を始め上層部一同やる気満々だ。まあ前回の反省もあるからね、今回は事前準備を念入りってことになったってわけ」
あ、段々話が見えてきた。そうか、そう言うことだったのね。だけど、ちょっとひどすぎる気もするけど。いくら雇用者と従業員の関係とは言っても、人権無視もいいところよ。
「ええと、お断りします」
私が先手を打ってきっぱりと言い切ると、副社長はおやおやとこちらを覗き込んでくる。何よ、そんな風にして煙に巻こうとしたって上手くいかないんだから。いい加減にしなさいよね。
「その、先ほどにも言いましたとおり、私は忙しいんです。これ以上の雑用を押しつけるのは辞めてください。何なら、ウチの部にも暇そうな社員がいますから、そういうことは彼女たちに任せればいいんだわ」
前々から、こう言うのって多かったのね。何でも「ものを頼むなら、忙しい人にしろ」って考え方があるんだって? ようするに、いくつもの仕事を平行して忙しくしている人は手際がいいからあっという間に片付けてくれる。でも、やることもなしにのんべんたらりと過ごしている相手だと、暇そうに見えて仕事の能率が悪く、いつになっても仕上がってこないってことみたい。
だからって言って、こっちが頭が沸騰するくらい忙しくしてるのに次々に厄介な仕事を押しつけてくるのってどうなの。あまりこき使うと今に過労死するからね。そしたら、絶対に化けて出てやるんだから。
「え、ええと……もしかして、僕たちの話はすれ違っていないかな?」
私がガンガン早口でまくし立てたら、さすがの副社長も焦ったみたい。どうにかして話を軌道に戻そうと、相変わらずのやんわり口調で言う。だけど、そんな作戦に引っかかったりしないからね。人を馬鹿にするのもいい加減にしなさいよ。
「大丈夫です。『ヴィーナス』のイベント一切を私に取り仕切れってお話でしょう? ちゃんと伝わってますから。それで、お断りすると申し上げているんです」
あのね、こっちは午後からも外回りがあるの。昼までに報告書をあげて、ついでに調べ物も済ませなくちゃ。全く、ヴィーナスだかボケ茄子だか知らないけど、どっちにせよ私にはどうでもいい話なの。
「その、……そういうことじゃないんだけど」
かなり長い沈黙が続いたあと、副社長が静かに切り出す。その後続いた話は、苛立ちがマックスに入っていた私を一気に氷点下の海に突き落とすのに十分なものだった。
「これは、絶対に口外してはならないんだけど……穂高さん、君が今年のヴィーナス候補に決まったんだよ」
「あんれー、どしたの? 穂高ちゃん」
どよーんと机に突っ伏していた私の背後から、間の抜けた声がする。顔を上げるまでもない、こんな馬鹿っぽいしゃべり方をする男は全宇宙を探してもひとりしかいない。
「あっち、行きなさいよ。今、私最高に不機嫌なんだから」
ああ、口を開くのも面倒。本当に何がどうなってんだか。だけどこうやって追い払う台詞が出るだけまだ救いがあるのかも。と言うより、私ってどん底な気分のときでも結構社会人的なコミュニケーションが取れるんだな。感心しちゃう。
「え〜、そんなこと言わないでよ。今さ、俺暇なんだよね。話し相手になってくれそうなの、穂高ちゃんしかいないし」
背もたれを前にして反対向きに椅子に座ってるから、何とも格好がつかない。その上、安物の回転椅子は彼の動きに合わせてぎしぎしと気色悪い音を立てるから最悪。
「ご指名にあずかり光栄ですが、謹んで辞退申し上げます。さ、行った行った。私はあんたと違って忙しいんだから」
それ見よがしにパソコンを立ち上げてがちゃがちゃと操作してみるけど、気乗りしないままだから上手くいくはずもない。すぐに意味不明のエラーが出て、さらにげっそり。ええい、どうして私が機械に命令されなきゃならないのよっ!
全く、会社は私の戦場だって言うのに。さらに面倒ごとが加わったら、身動きが取れなくなるじゃない。どこをどう考えても有り得ない話でしょ? 何で、私が上層部の暇つぶし企画の餌食にならなくちゃいけないのよ。
―― だいたいね、ちょっと考えたらおかしいことに気付くわよ。
あのイベントについては、私だって一通りの知識はある。四年に一度、オリンピック・イヤーに合わせて開催される我が社のお遊び企画。将来有望な若手社員を対象に、社内にひとりだけ設定された『ヴィーナス』を探し出してモノにするサバイバル耐久レースなの。で、見事『ヴィーナス』のハートを射止めたその人は無条件で昇級が出来るってわけ、しかも本人が希望する 部署でね。
何でも、これって男性社員の士気を高めるために考えられた苦肉の策だとか。ちょっとハードルが高い目標を掲げられると、男なんて単純だからあっという間に燃え上がるらしいのね。しかも対象が役職を与えられていない社員に限定されることから、中だるみになりそうな入社後数年の奴らにはこの上なくいい刺激になるってことみたい。
そう、つまりよ。私は入社六年目、いくら年功序列って決まったわけじゃないとしてもこれくらいの年齢になると同期の男どもの大半は何かしらの肩書きを持っている。今私の隣にいる馬鹿男なんて、こんな風なのに「課長補佐」なんだよ。しかも、そのポストに就いたのが入社した年の暮れだったんだから、よく分からない。一説ではあんまりにも好き放題したから、釘を刺されたって話。
まー、中には探せば年上や同期がいないこともないけど、そこまで来るとさすがにこっちから願い下げってところね。
もちろん、すぐさまそこを指摘したわよ。そしたら、あの副社長は何て言ったと思う?
「そんな心配は無用だよ。幸い、昨年後半から人手が足りないところに中途採用で補充してきたからね。君も直接会えば分かるけど、個性豊かな面々が揃っていると思う。それに穂高さんみたいなタイプだったら、思い切って年下狙いにするのもいいかも知れないな。手前味噌で申し訳ないけど、煮ても焼いても食えないような人材は雇っていないつもりだから。その点は安心して欲しいな」
いやいや、安心とかそう言う問題じゃないから。何かマジでこっちの人格を無視されてません? そもそも「恋愛」なんてね、誰かに強要されるもんじゃないと思う。ええと、これって打診なんだよね? だったらこっちにも断る権利はあるってことで―― 。
「……あ、ちょっと待って」
口を開こうとしたら、タッチの差で制されてしまった。ええ、何度も言いますけど、これでも上司ですから。あまり強く出られないのが辛いところ。
「そりゃあね、いきなりこんな話をされたら戸惑うのも無理はないよ。だけど、これもいい気分転換になると思わない? 最近、いろいろ行き詰まっているみたいじゃない。この辺で肩の力を抜いて楽になることも大切だよ。営業はがむしゃらにやるばかりが能じゃないってことは、君自身が一番よく分かってるはずだ」
あーずるい、痛いところ突いてきたな。ええ、仰る通りです。ここしばらくは何をやっても上手くいかなくて、空振りが続いている。どうにか気持ちを立て直そうといろいろ頑張っているわけだけど、何だかそれも裏目裏目に出てるって感じ。
「―― 穂高さん、」
これが他の人間だったら、はっきり言い返せたんだけどな。自分でも苦手だと認識している相手だと、知らず知らずのうちに避けてしまうみたい。
「結婚に縛られる必要はないんだよ、そんなものは踏み台にしてやればいい。……ま、今日のところは保留ってことで。いい返事を待ってるよ」
よりによって、昨日の今日でしょ。あまりにもタイミングが悪すぎ。
久しぶりに過去の色んなことを思い出したことで、かえって今現在の自分が煮詰まっていることを再認識してしまった。相手の男がそれを察するどころか、全然意識もしていないところがなお気に入らない。そんな苛立ちをぶつけられたところで、目の前の馬鹿男にとってはいい迷惑だろうけど。
「ほっだかちゃ〜ん……」
ああもう、ぎしぎしうるさいんだから! アンタはいいわよ、全然その気もない感じでいながら次々と大口の注文を取って来ちゃって。
「……一昨日来なさい、っての。じゃ、私は出掛けてくるから」
今日は厄日だ、いやそんな生ぬるいものじゃない。きっと天中殺に入ってしまったに違いないわ。だとしたら、イロコイなんてとんでもない。絶対に最悪の事態を招くって言うじゃない。
―― 意中の相手がいないのなら、企画には乗ってもらうよ? そういうことも全部含めて、君は我が社の一員なんだからね。
全く、軍隊じゃあるまいし、上司の命令には絶対服従なんて有り得ない―― そう思いつつも。何故だか心の一部が波打つのを、私は確かに感じていた。