2010夏 ことば悦覧 in うるとらまんchin々 (仮想領域 大坂・京都) | |
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「たかぎ み江さん エア人生を語る」 全4章 聞き手・文責:佐藤敏宏 第1章 ■ 夕飯 作って食べよう 01 02 03 04 第2章 ■ 生い立ち 01 02 03 04 第3章 ■ 学問卒業後のエア人生 01 02 03 第4章 ■ みやげなら→ 建築模型ケーキを作ろう 01 02 03 04 05 06 |
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第2章 生い立ち 01 | |
■ 右本文 はじめ ■ ぽむ企画 み江さんです 桂さんもおなじみと思います 桂さん ことば悦覧記録へ |
佐藤:今日はたかぎみ江さんとことば悦覧(インタビュー)です。よろしくお願いします |
■ 生い立ち ■ あきる野市の現在 平成22年8月1日 人口 …81,815人 エア建築家が20年ほど前に計画しした焼却灰置き場 (1992年前後あたり制作) 当時は焼却灰置き場の存在を知る人は少なかった、現在でも我がうんこが流れ着く下水の終末処理場の場所をしている人はすくないのではないか。 まして ゴミを燃したあとの焼却灰のありかなど知らないだろう 日向リンガ 参照へ 頁下部にあり 訴状 都土地収用委員会からの審理通知が手元にあるが 平成11年とある1999年前後に裁判が行われていたのだろう 出来上がった処分場 地図・検索エンジンより |
佐藤:ではまず生い立ちから聞かせていただきます み江:東京のねあきる野っていうとです 佐藤:知ってますよ僕は み江:うそ!だいがい言っても通じない (右:都に配ったパンフレット 表紙デザイン黒田征太郎 B5版) 佐藤:何で知っているかた と言うとね、田島 征三(うぃきー)ってやつがいて、あいつが三多摩地域の焼却灰を あきる野や三多摩各地に焼却灰やゴミの貯め置き場を作って 日の出町にもってくるな!と あきる野地続きですけど。 を最終処分場を三多摩各地に作ろうという争いがあったんですよ。都政治と対立し反対運動をこしていたのですよ日の出町に暮らしていた田島さんたちがね。 90年代はじめから都と争い、90年だ末には石原都知事と争っていたわけね。 論争をするためには田島さんが都案にたいして対案を出さなきゃいけないので。俺にだよ それぞれの地域に作れるような ゴミの焼却灰などをストックする方法を 建築的な提案をつくれと。田島さん俺の仕事場にやって来て、無料で作らされたことがあるんですよって。 なかなか良い計画なんですよゴミの在りかが可視化されて。ビオトープの雨水貯水池もあるし リサイクル広場、生ゴミ後の肥料をつかって野菜をつくる段々畑なども備え ふふふふ み江:あはははは、まじすか〜 佐藤:まじすよ〜パンフレットと 模型 訴状・トラスト者名簿など今でも仕事場にありますよ み江:福島から 佐藤:それで あきる野あたりの 現場をみよう 現地に行こうとね。 あきるの界隈をうろうろしたんですよ。 一人車運転して焼却灰置き場作る場所を見に行ったんですよ。見に行ったら老人ホームと焼却灰置き場が山奥に押しやられてあった。 で、田島さんと都政の争いは ゴールデンタイム NHKの7時のニュースも何度も出てたんだけど。繰り出される役人の手法と税金を背景にした持続力で、ついに負けてしまい 田島さんはガンになり、伊豆半島にて療養しました。 焼却灰 争は負けてしまいました。体調崩しましたんですよ 田島さんは双子の絵描きさん 表現者なんですけどね 征三と征彦っていう人がいてね、なんだか焼却灰置き場の話と あきる野 盛り上がってもしょうがないのでやめるわ。そのとき あきる野 あたりをウロウロしたから知っているんです み江:そうなんだ〜 珍しいですね 佐藤:それも20年ぐらい前の話ですけど。その当時はみ江さんは 小学生だったかもしれないけど。ぼくはあきる野でトウモロコシを買って、立木トラスト運動をやっていた仲間に、お土産として買いました。 川崎にもどりました。現地の事を報告して トウモロコシをあげたんですよ み江:そうですか そうなんですよトウモロコシなんですよあきる野っていうと。 よく知ってますね〜中学がトウモロコシ畑の真ん中に在って、農道通って帰ってましたよ。私。 佐藤:知ってるのは たまたまですよ。 川崎からだと多摩川越えて、立川あたりの 秋川を渡って 高原のようなあきる野 当たりを通過して 行った、当たったどん詰まりの裾ににありました 焼却灰置き場建設予定地 (追記:今は検索マップでも直ぐ分かる巨大な処分場です。福生、あきる野あたりには、見えない焼却灰の粉塵まい 人々は日々吸いまくっているじゃないでしょうかね、と想像しただけでも 怖いわ 隠されたこれからの公害がもしもアウトプットしたらそりゃ激烈だろう) み江:うちは だいぶ山からは離れていた、まだ台地の所ですけど。 佐藤: 川崎の読売ランド当たりから出掛けたんだけど それでも遠かったね み江:川崎からだと遠いと思う、あっこからは だいぶ遠いですよ |
■ 養蚕関係の話 日銀福島支店歴史 web頁より 支店昇格を機に新店舗が大正2年に完成しました。 設計は、当時の建築業界の第一人者として、日本銀行本店や東京駅を担当した辰野金吾博士とその高弟・長野宇平治が共同で行ないました。 レンガ造りの建物は、福島市の明治 洋風建築の代表の一つでした。 日本銀行福島出張所は、明治32年7月15日、東北地方で最初の、日本銀行としては7番目の店舗として 開設されました。店舗は、福島一の糸問屋「万国屋」から購入したもので、二階建・土蔵造りでした 全国的にみても早い時期に当出張所が開設されたのは、当地が当時の重要輸出品であった生糸や米穀の有数の集散地であり、東北の金融の中心であったためです。 出張所開設当日は、「105万円の現金が運ばれてくる」ということで、駅前通りは時ならぬ緊張感がみなぎり、興奮した人垣の中を、赤い旗を立てた十数台の馬車に積まれた現金箱が、物々しい警戒のうちに出張所に運び込まれたといいます。当時、米一升が12銭でした。 杉仁さん著書へ 以下コピーです ■技術と商品と風雅の交流 近世の村は、文化の宝庫である!一七世紀以降、豪農商が生産活動と俳諧・生花・書画・武術・儒学などの文化活動を両立させてきた。 どの村どの地域でも海のように広がり、思わぬ遠い地域とも交流するその現象を「在村文化」とよぶ。 村を超え国を超え、朝鮮・中国まで東アジア普遍の文化情報をも発信した在村文化の力量から、近世社会を射照する 以下図像このサイトより 絹糸を吐くお蚕さん |
佐藤:なんで あき野の人が京都の出町柳あたりに なんで おるんやろう み江:はははは 佐藤:あきる野で生まれたの み江:そうです。先祖代々、たぶん鎌倉時代ぐらいから。 佐藤:そんなに昔から 800年ぐらい住んでいるんだ〜 み江:ずーっとすんでますね 佐藤:たかぎ家は地元の有力者 名家ですか み江:たんに昔から居るだけですよ 佐藤:養蚕やっていたでしょう み江:養蚕はやってましたね、うちね今、実家の建物、築どんくらいか分かんない。たぶん2世紀は経っているような。古い家ですけど、養蚕農家の作りで、2階が蚕部屋仕様だったです。だったですっていうか今でもそうです 佐藤:福島市周辺は養蚕の生糸生産と生糸の集積の中心地ですからね。 明治に辰野金吾設計の日銀支店が 作られたほど 養蚕・生糸生産と集荷の大中心地でしたから(左記事によると東北の金融の中心地でもあった)身の回りにあった蚕部屋よく知ってます み江:お〜お 佐藤:さっき土産でもってきた桃がとれた場所の伏黒っていう地域の当たりは養蚕の拠点でした、江戸から1930年かなに起きた世界金融恐慌までは 東北の銭の中心地だったんです。伏黒あたりは蚕様の成虫=蛾に卵を産ませて、孵化させて全国、主に八王子周辺あたりまで売り歩いたんですよ。 み江:あ そうなんだ 佐藤:なんで、福島からお蚕さんの幼虫を背負って八王子やらあきる野当たり一帯を売り歩いてた。なんでかっていうと蛾の卵を孵化させて丈夫な蚕さん育てるのには高度な技術が 生物ハイテクが要るんですよ、温度管理と湿度管理がすごく難しんですよね。 み江:ああそう 佐藤: さんとうなにやら さんが 八王子当たりを含めた関東地域を売り歩いてて み江:その人ご先祖ですか 佐藤:違う、地域は接してるけど。福島盆地の人が 蚕さんの幼虫を売り歩いてた。その人が分かっているんです。各地で俳句を詠んいた事実が 残された史料で分かっているんですよ。 ここからは俺の想像ですが 、商売終わった後に買い手と売り手など仲間が二階に上がって夜などの暇な時間に句会をやっていたんですよ。芭蕉もやっていたあの連歌会ですよね、俺風にいえば 江戸時代の文芸的公共圏ですよね カルチャース・フィアーin ポエムですね み江:なかなか風流で 豊ですね。 佐藤:商売後の夜の時間 俳句を関係者で詠い合うんですよ、これも俺の想像です。農家の人も蚕さん育てながらお坊さん名に倣った漢字二文字の俳号を持っていたんですよ。これは俳号のことは事実です み江:かっけー 佐藤:なんで そんなことを知っているかというと杉仁さんという研究者の本を読んだり、 直に講演を聞いて知っていた。 my長男が近世史の研究者なんで史料や本が身近に有るんですよ 暇だから近世史関係の本を手当たり次第 読んでいたんですよ。 杉さんが蚕種商人と地域の句会や句集のことを調べてる。仲間が死んだときに追善句集というのが出ているんですよ。近世の句集。句集から当時の人々のネットワークなどを調べ研究しプロダクトしているんですよ。 み江:へ〜え〜 佐藤:蚕種商売と関東の買い手である農家の人々のネットワークの有り様が手に取るように わかっているんですよ み江:へ〜え。 佐藤:そんなことで、み江さんは福島市の俺たちと同じような暮らしをしてた近世期の人々の末裔なだなと思うんですよ。 それ以上の繋がりがあるかもしれないね。 売り手と買い手が平等にでしょうね、夜になると2階の座敷に上がって、じゃ私発句を詠みますと。下の句あなたみたいに句が廻るんですよ。呑むだけ 何もの残さない今のワイワイ呑み会とは 人々の交流の質も品格も意識のありようもまったく違うんですよ。 彼らは先人たちは 句の記録を作る。 そこで立ち上がった感情の共有の軌跡が句集として残されるんです。文芸に対する意識のレベルが違うんでしょうね。養蚕 百姓と言えども。 暮らし方 仕事と文芸的公共圏の両方を豊かに行き来し 暮らしているんですよね 。 消費するだけ 自分で記録を残さない 上意下達とマスメディアが流す大量のストレートニュースばかりに浸されているんですから アホな俺たちとは質が違うと思いますね。一部の百姓は詩人だった ではないか み江:かっけ〜 佐藤:ここからも想像だけど、連歌っていうのかな。貧乏で力がない農家の人ががぜん その場では先生になっていたなんてこともあったかもです、これは俺の思いこみいかもしれないんですが、インプロビゼーション・ポエムですよね。集いし者どもと、そこでしか立ち上がらない感情の固まりが連歌になって句集になって残っているんですよ み江:へ〜 佐藤:そのようにして農家の人も蚕種商売や卸関係者などは遊んでいたんだよね み江:ほんとうにいい あそびだね〜 佐藤:近世期にあった文芸的公共圏と言ってもいいと思っているんですよ私は。そうとう脱線しましたけど。 み江:いやいや、それは 佳い話でした。 佐藤:あきる野と福島市周辺は昔から生糸生産関係で繋がっていたんですよ み江:そうか なるほどね 佐藤:それらの追善句集の発行に関した人々の末裔がどうなって、今生きているのかは知らないんだけど。あきる野と福島市は近世期には繋がっていました 確実ですよね み江:面白い 佐藤:今冷蔵庫の中にある桃が採れた土地は み江さん祖先関係で儲けさせていただいたお金で 開墾した土地かもしれないんですよね み江:そうかもね〜 佐藤:人々の営みの時間も味わってもらわないと み江:ほんまや〜わ〜 ともに ははははははは み江:あそ〜 佐藤:みんな繋がってしまうからね 面白いんですよね み江:そうか、そんな遠いところから 蚕種を あきる野 農家売りに来てたんですね。 佐藤:温度と湿度の管理が凄く難しんだそうですよ卵から幼虫に育てるのって。下手だと弱い幼虫になりがっちし大きな繭玉をつくる成虫にならないんだそうですよ。福島さとう何やらさんの種は 丈夫な蚕種ということで全国からといっても関東周辺までですけど、注文があり人気が高かったようです。伊達地域でとれた蚕種は人気が高かったようですね み江:へ〜え。多摩地区ってけっこう養蚕してましたよね 佐藤:絹織物とか木綿織物とか作って江戸消費地に出荷してたんだと思います。近世期の福島の絹織物は大阪、京都、江戸で消費されていたんですよ。 み江:なんか桂も蚕の話してなかったですか前のインタビューで 佐藤:話してました み江:ははははは (卵から繭そして卵まで図このサイトより) 佐藤:桂さんは野原から野生の蛾の幼虫を採ってきて、みど色の繭緑色の生糸で絹織物を手に入れた、つくりたかったようですよ。天然緑色の絹織物は超希少価値があり高価でしょうね。桂さんチャレンジしたけど直ぐ死んでしまい、繭つくらせること出来なかったと。み江さんの場合は実家が養蚕を行っていたと み江:私はやってない 佐藤:生糸は、絹は今はほぼ完全に 中国に移転しちゃって 元に戻る状態ですよね み江:たぶん(1930〜1945)戦争まではうちもやっていたんですけど。戦後からたぶんやんなくなった。 佐藤:野菜生産農家に変わったのかな。福島市周辺の農家はみな 養蚕形式の農家建築でした。床は板の間で2階に梁したが2mちょっとで。2階の床板を取り外し 2階まで通しでお蚕さまを飼える養蚕棚がつくられる。総計の高さが4メータチョイですかね、それ以上高くしても 小さな農婦たちは手が届かないので作業できないですからね。実際 養蚕はやたことないのかな み江:私はない。私の爺ちゃんが機織りとかをしてたから、実際に育ててたかな、どうかな〜そこまではわかんなですね。でもそれの関係の産業してましたね。 佐藤:そうなんだ み江:うん |
競馬の話 競馬場の東側を阿武隈川。 白河〜宮城県荒浜へと北へ向かってむかって流れている 競馬場の北側には厩舎や厩務員や乗り役さんたちが宿泊する施設が並んでいる。一般の人は入れない禁制の領域である 佐藤少年は 現右したに 見える橋が無かったの橋の場所を行き来する 渡し船に乗って競馬場に行ったこともある (真上が北) ■シンザンの話は 度々聞かされた 記憶がある 競馬の思いでは1970以前で停止したままだ 中央競馬の第10回有馬記念が昭和40(1965)年12月26日、千葉県船橋市の中山競馬場で行われ、1番人気のシンザンが優勝した。シンザンはここまでにクラシック3冠(皐月賞、日本ダービー、菊花賞)と天皇賞を勝っており、史上初の「5冠馬」となった このサイトよりコピー ■ 世界大恐慌 1929年10月24〜 28日ブラッマンデーへと 表 林敏彦著 『大恐慌のアメリカ』岩波新書より 株価が回復するのに第二次世界大戦をはさむ20年を要したとある 一昨年のりーまんショック不況はまだ本格的始まってないんだろう |
佐藤:絹織物でも売っていたのかな み江:かもしんないです、私も実はね自分の先祖がなにやっていたかよく分からない 佐藤:日本の義務教育は敗戦によって善し悪しある。 悪しきは 先祖など あらゆるものを否定し 教育してましたからね 大方の人は知らないですよ。まして最近は核家族から中性子家族になっちゃいましたからね。血縁大好きから大嫌いまで ぶれ方が両極にいく、極端ですよね。ふふふふふ、今日ここでインタビューし記録しますからみ江さんのことは子孫の人々に残ります み江:そうですね。私が聞いたのは爺ちゃんの爺ちゃんぐらいの代で 佐藤:80から100年ぐらい前のことだろうね。1900年初頭かも み江:私の爺さんの爺さんぐらいのころに盛大にバクチが流行りまして、それで大らかな時代なんで、田んぼ一反歩(300坪)賭けたりして、バクチをやっていたと。それで だいぶうちの祖先がそれでやられまして。土地が持っていかれたっていうのは聞いてますね 佐藤:バクチ好きだったんだ。 み江:でもバクチで負けているからバクチの才能 ないはずです、なんで私はギャンブルはしない、競馬は好きですけど賭け事だと思ってません。 佐藤:馬券とか買うの み江:買いますよ 佐藤:そうか〜 み江:それは大好きですけど 佐藤:福島市にも競馬場が昔からあってね み江:そうですよね、一度 行ってみたいですよね 佐藤:あほんと!おいでおいで み江:それは行きたいですよ 佐藤:暑いですよ〜おれが幼少のことろは夏競馬。今も福島で競馬開催しているけど 真夏じゃなくなったよね。JRAろくでもないんだけど思い出壊してくれて。だいたい カンカンに暑い 今頃 ばばーんと土日 競馬開催していたはずなんだけど。 み江:今でもやってますよ夏競馬 佐藤:え本当? 興味ないし、永年仕事場に引き籠もって福島の人と交流してないのが デ・タッチメントがバレルね。ふふふふ 小学生のときは夏しょっしゅう 爺ちゃんに連れられて競馬場へ行きます。阿武隈川を渡るのには渡し船に乗ってね、船を下りると目と鼻の先に競馬場が在ったです。今は橋ができたので風情がなくなった、渡し船で競馬場へ行くんですよ。福島にもどって30年ぐらいになるけど 一度も行ってない入場してない み江:近くに在ったんですか 佐藤:直線距離で6kmぐらいかな、うちの先祖は競走馬を飼っていたようです。 み江:なに!!生産してたんですか 佐藤:競馬馬をイギリスから種馬を輸入してね。種付けしているときに、輸入した雄馬におなかを蹴られて 内蔵破裂で爺ちゃんの本家の兄だか・父親かな、なんだか 死んでしまい 没落しましたね。 み江:めちゃブリダーじゃないですか 佐藤:世界大恐慌前の1920代末だと思うんだけど。我が家も百姓ですから、なんでもやって、もちろん競馬の馬そだてて一儲けたくらんだのでしょうね。資本は絹糸関係の先物とか手形交換とかで 儲かっていたんでしょう。どちらが先かは分からないが 大恐慌と蹴られ時にでめちゃ 200万だか300万円だかで デカイ〜苦を買ったらしんだけど。 み江:はいはい 佐藤:ここで一儲けと 交尾・交配しようと雌馬にインターコース最中、そこが素人の浅はかさ、交尾最中の雄馬の後ろに立ったらしい、でイクイク気持ちいいのに〜 後ろに立たれ〜怯えた雄馬に 蹴られて内蔵破裂で死んだ、いがいに詰めが甘い配慮がたらない ドジ・間抜け系ですよね み江:ああ 佐藤:大黒柱を死に陥れたんで、縁起が悪いので叩き売ったんでしょうね。借金と未亡人が残されたと爺ちゃんが言ってました。爺ちゃんは悔しいから言わなかったな。親戚のオジサンが俺に告げ口してくれたから知ってたんですふふふ。写真もあり なんで馬なんかの写真があるのか 分からなかったですよ。競馬生産の話は禁止になっていたんでしょう。我が家では禁句状態がながいこと続いていて 血縁者の負の記憶を抹消したかったわけですよ 俺が言い放つているけど、先祖不幸って者ですね 俺は み江:ああ 佐藤:俺の父親が4才ぐらいでしょうね、1930年前ですよ。立派な馬の背に乗せられている写真があるんですよ 何枚もね。今はどうなったか知らないけど。モノクロの黄ばんだ写真アルバムがあったので見てましたからね。なにゃこれ?馬じゃないかと。競馬種馬輸入し死亡事件の話はお爺ちゃんの兄弟の末っ子男の親戚の人に酒の席で聞かされたんですけど。写真を見てたので事実だと思いました。残された借金は2,300万だったそうで、家が完全に傾きましたよね み江:それもバクチですものね 佐藤:全てを賭けた大ばくち 本家本人 大崩壊。いいすね〜。命を賭け家族を賭ける。 ショボ賭け事いかんすよ。 吾がジイチャン血統は馬が好きで、ついでに馬券をかうのが好きだったんですよ。夏競馬の爺ちゃんの買い方は複式一本槍 配当もないときもあった。100円で120円になったら大もうけですよ。たまに単勝かな。連勝1,2番勝ち馬券は一切かわない それ買う奴は、競馬の外道者らしいですよ。 み江:ふふふ 佐藤:馬を育てるのが好きだったんですよ。俺が若いときにはグリーグラスの馬主が福島の人だったな。トウショウボウイとテンポイントと三頭の激レースがあった。 最近競馬 みてないので全く知らないですけど。 福島には馬主が大勢居ますよたぶん今も。福島で一番でかい施設 なんだ?競馬場です。その地位は永遠に変わらないのではないかなふふふふふふ、検索エンジンのマップでみると 俺の千万家と競馬場は分かる。千万家は競馬場から歩いても阿武隈川わたって30分ぐらいですよ み江:もともと馬産地だったんですか 佐藤:軍用馬生産地だって聞いてたたけど 馬スフィアーも調べたことはない全く無知です。1930年以降 軍用馬たくさん必要だったんですよきっと。陸軍部隊には馬だらけですからね自動車は少ない み江:そうですよね 佐藤:南部馬とか岩手にいけばチャグチャグ馬農耕馬でしょうが、うちの先祖が写真を撮っていたのはサラブレットですねどう見ても。デカイもの。競馬馬知ってますよ。美しいし 格好いいですよね あんなに 足くび細くってね〜500kgの体重が駆けてるのを 細い足首 1本 1本で支えてるなんて信じられんわ み江:信じられないですよ 佐藤:パドックで見ると信じられないですよね。こんな細い足で走るのか〜って折れそうだよね み江:折れまくりですよね、実際 佐藤:競馬の話になってしまった。 では水をのんで、み江さんの話にもどして後でしましょう み江:あとでしましょう、なんかきりないですよね、競馬はね 14:10 生い立ち その02へ |