scene 10 …


 

 もともとは売れないアイドル歌手、しかも一流にはほど遠いその日暮らしの身の上。
  それでもデビュー当時は事務所の後押しもあってバラエティー番組などにも出してもらえた。でもそれはほんのひととき、すぐに後輩に取って代わられてしまう。
  その後に回ってくる仕事と言えば、ポルノと紙一重のグラビア撮影くらい。男が喜ぶようなみだらなポーズで笑顔を作らなくてはならない屈辱はとても言葉で言い表せるものではなかった。
  今日辞めよう、明日は必ず辞めようと心に決めながらも成り行きのままにに流されていた。今更、田舎に戻る訳にもいかない、親に芸能界入りを反対され勘当同然で飛び出してきたのだから。
  仕事のためだからと割り切って、汚い手も使った。逃げるあてもないと思うと、人間は信じられないほど大胆になれるらしい。愛のないセックスも「演技」だと思えばいいのだ、そう難しく考えることはない。
  もう何が起こっても驚かない、どうにでもなれ。全てに投げやりになったそのときに―― 「彼」が現れた。

「その目がいいね、たまらなくそそられるよ?」
  出会いは、場末の酒場。地元の有名代議士と一夜を共にすることを条件に掴み取ったステージの仕事だった。その頃はもう、毎日が同じようなことの繰り返し。支持者たちに囲まれているときには善良そうに見えるその男が、ベッドの上では別人のように凶暴になるのが滑稽だったことだけを覚えている。
「何、あんたも私の身体が欲しいの?」
  悪いけど、そう安くはないわよ―― 品定めをするような目つきににらみ返すと、彼は妙に洒落っぽいスーツのポケットから一枚の名刺を取り出した。
『プロデューサー・水城隆也』
  ヤクザ上がりにも見えるその風貌に、最初は何も期待していなかった。まあ見た目は悪くないし、普段付き合ってる脂ぎったオヤジたちと比べれば幾分マシかも。それくらいの腹づもりだったと思う。
「俺、このまま終わるつもりはないんだよね」
  彼もまた、成功へのレールから外れてしまったひとりだったのだ。ミュージシャンとしてプロデビューしたものの、万人に受け入れられる作風でなかったために上手くいかず、半年足らずでグループは解散。その後は場末のクラブで演奏して日々の糧を得ていた。
「役者? そんなのに興味はないわ。私は歌いたいだけ、それ以外は絶対にやる気はないから」
  彼の提示した夢へのシナリオはあまりに現実とかけ離れていて、全く興味を覚えるものではなかった。暇つぶしに話だけでも聞いてやろうと思っていた私だったが、早々にさじを投げたくなる。
「適当なこと言って騙そうなんて、そうはいきませんからね」
  コイツの言うことは、夢見ごともいいところだ。だいたいずぶの素人がハンディービデオ片手に撮った映像なんて、誰が観てくれるというのだろう。粋がってはいるが、実のところはかなり甘っちょろい奴に違いない。
  そうは思ったが、気がついたら乗せられていた。心のどこかで、さらに挫折して打ちのめされる「彼」の姿が見たいと思ったのも事実。長く続いたどん底生活の中で、私の心はどこまでも醜く歪んでいた。
  しかし、それを知ってか知らずか、彼は自分のやり方でどんどん進めていく。そして仕上がったのは、見る者すべてが思わず息をのむほど幻想的な「作品」だった。
「すごい……何これ」
  目の前で映し出される「奇跡」に、さすがの私も思わず舌を巻いた。でも、驚くのはそれだけじゃない。次の手段として当然考えられる「売り込み」、その方法も私の想像とはまったく異なるものだった。
「今はいろいろな方法があるからね。何も正攻法で行くばかりが能じゃない、まあ見てろって言うんだ」
  初めはレンタルブログを介した情報発信。もちろん、同じような頁はそれこそ何千何万もあるはずで、すぐに埋もれてしまうのが関の山だと考えていた。
  しかし、半月も経たないうちに、私は思いがけない現実と遭遇することとなる。「口コミ」と言う名の巨大な魔物が、私を一躍「時の人」として祭り上げたのだ。当然のことながら、各種メディアからはオファーが殺到。すぐに話題作のヒロインに抜擢され、次はドラマにCMにとこなしきれないほどの仕事が舞い込んできた。
「十二時になっても解けない魔法があるんだよ?」
  プロデューサーとしてあくまでも「裏方」に徹した彼は、私の心強いブレーンだった。以前の仲間のつても辿り、私を一番「魅せる」ことが出来る仕事を間違いなくキャッチしてくれる。
「私、怖いくらい幸せ。手にするものすべてが成功に繋がっていくなんて、本当に夢みたい」
  身につけるものも行動範囲も、一緒に遊ぶ友達の選別までを彼に委ねていた。表も裏も、私のすべてが彼の「作品」。一分の狂いもない「眼」が、私を支配する。それは、ベッドの中でも同じ。すべてに完璧を求める彼が妥協することなどない。
「今日の撮影には、男の心を鷲づかみにする色気がどうしても必要だ。もちろん今のマナミなら俺の目指すものを完璧に演じ切るだろう。……まあ、力みすぎるのも良くない。多少は身体をほぐしておくことも必要だろうな」
  目覚めからまもなくそんな風に求められることも、またとない至福の時間だった。私の悦びは彼の悦び、彼の目指す場所が私の行き着く場所。
「……っ、あぁっ……! 隆也ぁ……!」
  彼の腕の中で燃え尽きるたびに、私はさらに美しく生まれ変わっていった。
  この世の輝きはいずれすべて私たちの手の中に入る。才能も名声もすべてを手に入れた今、恐れるものなど何もない。かつて私を蹴落としてのし上がっていった後輩たちをどんどん押しのけ、名実共に一級品となる。どこへ行っても羨望の眼差しで迎え入れられ、さながら女王の待遇だった。
  彼の色に染まり、彼の意のままに踊り続けること。それこそがいつか私の生き甲斐になっていた。どこまでもいつまでもそんな毎日が続いていく、そう信じて疑うことなどなかったのに――
  でも、ある日。
  突然、彼は新しい「人形」を見つけてしまう。それが、あの「サヤカ」という女。街角モデルとして雑誌の隅に載った一枚の写真が、私から彼のすべてを奪っていった。
『ひと目見たときから自分の理想の全てが宿っていると思った』
  ほどなくして彼がそうインタビューに答えている雑誌の記事を、コンビニで目にすることになる。その頃にはすでに私の居場所は会社にはなく、彼名義で借りていた部屋にも訪れる人が誰もなくなっていた。
  ―― 本当に、呆気ないほど簡単な幕切れだった。

  魂の抜けた状態を続ける私は、ただ思い出にすがりながら暮らしている。その気になれば自分が稼いだ取り分を彼に要求することも可能だったが、そんな惨めな姿を晒すのもまっぴら。そこここに彼の形跡が残っているこの部屋に住み続けることも屈辱だったが、他に行くあてもないのだから仕方ない。
「水城社長の過去の女」という新しいレッテルを貼られてしまった私は、以前のドブネズミのような生活に戻ることすら叶わなくなった。どこへ行っても過去の栄光が取りだたされる、あまりに重すぎて身動きが取れない。どんなに落ちぶれてしまっても、世間から後ろ指を指されて笑いものにされることだけは我慢ならなかった。
  今私に残されているのは、ただ命を繋いでいるだけの空虚な毎日。死をもってすべてを終わらせることすら、できなくなっていた。
  そして、いつか彼が再び戻ってきてくれることをまだ夢見ている。
  とてつもなく大きな挫折を味わい、「やはりマナミでなくては駄目なんだ」と泣いてすがってくれる日がそう遠くない未来に必ず訪れるのではないか。
  浮き沈みの激しい世界、昨日の友は今日の敵になる。今は飛ぶ鳥を落とす勢いの彼にも、いつか必ず「陰り」は訪れるのだ。
  待っている、その日をひたすらに待っている。でも、あと一年? それとも十年? もしも一生掛かっても彼が私を選んでくれなかったら、そのときはどうなるのだろう。

「羽未、って名前を考えているんだ」
  男はその二文字に「うみ」という音を乗せた。
「穢れない天使のイメージ、そういうのがアイツの好みだろうから」
  ずいぶんとロマンチックなことを考えるんだなと呆れてしまった。セイジ、と言う名のこの男には、私の愛した「彼」とはまた違うつかみ所のなさが付きまとっている。何が欲しいのか、何を考えているのか、その腹の内が少しも読めない。
「マナミさんの声は、この曲の目指すものにぴったりと当てはまるんだ。だから大丈夫、あとは君の思うとおりに歌ってくれればいいよ」
  セイジの紹介してくれたボイス・トレーニングには二ヶ月も通った。怠け続けた数年のブランクはあまりにも大きい。最初は自分の想像していたものとはまったくかけ離れた実力に呆然とした。
  しかし「見込みはある」という先生の言葉に励まされながら続けていくと、いつの間にか信じられないほどの伸びやかな響きが出せるようになっていく。もしかしたら行けるかも、と思い始めたのもその頃だった。
「小さいけど、きちんとしたスタジオを借りたからね。そこでレコーディングだ」
  再出発に際しての、思いがけない申し出だった。たかだかデモ・テープを作るだけなのに、そこまでのお膳立てをしてくれるなんて。ゴーストライターの真似事のようなことをして生計を立てているセイジに、それほどの余裕があるとは思えない。それなのに、……どうして?
「初めの一歩は確実に踏み出したいんだ。俺たちはアイツに宣戦布告をするんだからね」
  どうしてだろう。わざと悪ぶって笑っているような、その表情が痛々しくてならなかった。
「あの、……セイジ、もしかして」
  だから、つい聞きかけていた。でも、すぐに口をつぐんでしまう。曲のアレンジに夢中になっていたセイジには私の声が届いていなかった。
  ―― 心が、痛い。
  この傷をつけたのはあの男に決まっている。長いこと、そう信じて生きてきた。行き場のない憎しみだけが新たなる力の源となる。すべてが死んでしまったと思っていた感情が、ほんのわずかな働きかけで再び動き出した。
「大丈夫、マナミさんならできるよ」
  彼はピアノとコーラスを担当した。他にも様々な楽器を一通りこなすと言ったが、今回は曲のイメージに一番合うものを選んだらしい。驚くほど繊細な指先は、彼の創り上げた音の世界を完璧に表現した。もしかしたら、本気で取り組めばこの道で立派に仕事していけるのではないか。耳を傾けていると、そんな思いに駆られてしまうほどに。
  柔らかな音色に導かれて、私の想いも溢れ出す。それは、意識して作り出すものではなく、私の内側に最初から宿っているもののように思われた。
  羽未―― 一度は根元から折れてしまった夢が、再び新しい息吹を与えられる。そこは一点の曇りもない、純白の世界だった。

 

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